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23.雪月花

 北国では雪はやっかいなもので、永く重たい冬に閉じこめられる人たちは、雪かきや雪おろしといった辛い作業と闘いながら遠い春を待つ。僕のように雪国で生活をしたことのない者にはそういう苦労が実感としては理解できていない。テレビ番組の取材でいきなり北国を訪ねるレポーターと同じように、きっと駅舎を出た途端にスッテンコロリンと転倒するのが落ちであろう。とは言っても、年のうち二、三度くらいしか積雪を経験しない土地で育ったせいもあり、幼年の頃から雪景色への憧れは強く今でもそれは変わらない。一昨年の暮れだったか、あの時の寒波には久しぶりに震えあがったが、近年はずーっと暖冬続きである。昭和三十年代の終わり頃は、久留米でも軒下に氷柱(つらら)が下がることがよくあった。舗装のされていない路の窪みに張った薄い氷を、靴のかかとでバキバキと踏んづけ、家並みの途中に置かれたコンクリート製の防火水槽の氷を割ったりして学校へ通ったものだ。当時の小、中学校では雪が積もると授業をやめて、校庭で雪合戦をすることがあった。
 さて、この前の二月二日、福岡はかなり冷え込んだ。野暮用があって、いつもより早く起き、電車で都府楼に出かけることになった。僕の住む平和町の坂の頂きからは夕焼けが見えたりするのだけれど、この日の朝は明けやらぬ西の空にオレンジ色の円い月が低くとどまっていた。電車に乗り込むと、高校受験の日のようで、停車するたびに受験生が乗り込んできた。さすがにこういう日は若い人たちもおとなしく、じっと参考書を見つめていた。都府楼で下車し用を済ませると、空にはもう明るい陽があがっていた。昼まで自由になる時間があるので政庁跡から太宰府天満宮までの路を歩いてみることにした。政庁跡の山手の路はほとんど車に出会うことなく散策でき、ほどなく観世音寺に着いた。天平の頃、八十年以上の歳月をかけて建立されたという。講堂の北側にパンパスグラスが植えられているのが大陸とのつながりを感じさせて面白い。境内に入り隣の戒壇院へ向かっていると、梵鐘のあたりで女性が枯れ落ちた枝を集めているのが見えた。観世音寺の戒壇院は奈良東大寺、下野薬師寺に置かれた戒壇院と共に天下三戒壇と呼ばれ、特に戒律が厳しい。山門の脇に、「酒」・「肉」・「韮」を持ち込むことを禁ずる石柱が立っている。764年に建立し、現在の本堂は1680年に再建された。本堂と山門を結ぶ軸線上のアプローチは畦のようになっていて、こちらから見た土塀、山門、本堂の甍、楠、背景の山からなるファサードは絵になっている。本堂の中には、両掌で輪を作った珍しいポーズの盧舎那仏(るしゃなぶつ)がおさめられていて、昼間は外光が本尊には届かないのだが、この時は朝日が射し込んで優しい表情が見て取れた。戒壇院の庭の一画に、一本の菩提樹(シナノキ科、中国原産)が植えられている。以前、梅雨のころだったか、淡い黄色の花が咲いていて、お香のような匂いがしていたことを思い出した。引き返して、田んぼや畑の多い閑静な「まほろば」の路を歩く。山裾にある家々の庭先にはロウバイや水仙の花が咲き、畑の野菜はうっすらと雪化粧をしている。路の曲がり角に土地の人が大切にしている祠があり、祀られた小さな仏の表情が何とも素朴で愛らしい。まもなく、昔、藍染川とか白川と呼ばれた御笠川の上流に出た。コンクリートブロックで固められた護岸は無粋だが、自然に土砂が堆積してできた州に茅が繁って、野鴨の営巣地になっている。川べりの駐車場も住宅も、さっきまで歩いてきた道筋の風景とはまったく繋がりが無く、途切れてしまっている。天満宮へ着いた頃から空が暗くなりはじめた。拝殿の右側にある飛梅は丁寧な枝づくりがなされていて、まだこれからという小さな蕾を結んでいた。茶店の並ぶ参道との境にある鳥居のそばに、筑豊の炭坑王と呼ばれた伊藤伝右衛門(歌人柳原白蓮の夫でもあった)の銘が入った石塔が立っている。ここを曲がって光明禅寺に寄ることにする。古びた廊下の奥にある畳の間に入って胡座をかいた。他に参観者は一人しかいないようだ。新緑でも紅葉でもない冬の枯山水を見るのは初めてかも知れない。しばらく座っていると、雪が降り始めた。本堂の甍を越えて舞い上がった雪は庭に接する山の斜面に跳ね返されるようにして、静かに庭に落ちていく。少しずつモミジの枝や地面の苔に雪が被り、庭が明るくなっていく。降り始めた雪はとどまる気配もなく、二十分ほどそうやって開け放たれた空間に対峙していると、良寛が詠んだある情景が思い起こされた。
   あわ雪のなかに顕(た)ちたる三千大千世界(みちおほち)
                       またその中に沫(あわ)雪ぞ降る
 このあたりのことは、中野孝次著「ひとり遊び」の中の「雪国今昔」に詳しい。少しずつ雪景色に変わっていく時間に出会った幸運に感謝し、帰りに熱い蕎麦を食べて太宰府をあとにしたのだった。











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22.教会のある風景

 元旦の朝、実家の庭木の手入れをしていると、落葉樹を止まり木にして辺りを窺(うかが)っている百舌(モズ)と目が合った。それほど警戒している様子でもなく、少し近づいても逃げようとしない。粗末な庭だが、背景になっている中学校の林からは(名前は知らないけれど)いろいろな野鳥の囀(さえず)りが聞こえ、気分がいい。今年は屠蘇の配合の加減が良かったようで、雑煮を食べながら何杯もお代わりをした。翌日、福岡に戻ると暮れからの仕事が控えていて、賀状の返事を出すのが遅れてしまった。ようやく成人の日、連れだって薬院にある小烏(こがらす)神社まで歩くことにした。浄水通と御所ヶ谷に挟まれた坂道沿いには教会や女学園があって、坂の向こうに白い空と陽に照らされた雲が見える。半時ほど歩いて薬院の閑静な住宅地の路地に入ると、姿のいい小烏神社の石の鳥居があった。石段をあがると小さな広場と緩い傾斜地に建てられた拝殿があり、木立を通して冬の陽が射している。歴史が古い社らしく御利益があると知人に聞いたことがある。太宰府天満宮や筥崎宮とちがって、近所の人たちが普段参ったり夏祭りをしたりする小さな神社も、またいい。参拝をして石段を下りていると、正面の木造家屋の(一階屋根の上に造られている)物干場で丁寧に洗濯物を干している初老の男の姿が見えた。周囲がほとんど高層ビルやマンションに埋め尽くされている都会の一隅に、懐かしいまちの情景を見つけたように思えた。バスで移動し、上川端の櫛田神社と天神の水鏡天満宮を参り、書店で「古地図の中の福岡・博多」を買って帰った。現在と昔の地図を頭の中で重ねながら普段出かける場所の履歴を調べてみるのも、なかなか面白いものだ。夜、宗教的な建築や風景に想いを巡らせていて、ふと教会のある風景のことを思った。別にクリスチャンでは無いけれど、以前から教会がランドマークとなっている風景や、教会の内部空間には惹かれるものがある。大刀洗にある今村の教会は田園地帯の散村集落の中に立っていて、北野のコスモス祭の頃よく自転車で訪ねるのだが、距離が近づくにつれて尖塔が見え隠れする。鉄川与助の手になる今村教会の外観は平戸の田平教会(鉄川与助の設計施工)や五島の堂崎天主堂(鉄川与助の師であった野原与吉施工)にもよく似ている。内部は円形アーチのリブ・ヴォールト天井や柱頭飾りの付いた柱が特徴だが、ステンドグラスの色光が暗く沈んだ床や椅子に降り注いで美しい。信者ならずとも自ずと敬虔な気持ちに導かれてしまう。もう十年も前のことだが、暮れから正月にかけて天草を訪れたことがある。三池港から島原外港へ渡って島原鉄道で口之津へ向かい、早崎瀬戸を越えて鬼の池港に上陸した。島原地方の子守歌に歌われている鬼の池は本当に小さな港だった。ここからタクシーで苓北町の富岡に向かい、富岡城に近い宿に投宿。林芙美子が取材で泊まったというこの宿の横には、亜熱帯の地に見られるアコウの樹があった。上手なもてなし方と元旦の朝に食べた伊勢エビの味噌汁がとても気に入ったのを憶えている(この頃は贅沢だったなあ)。富岡城は天草灘に対して南北に突き出た陸繋砂嘴の先端にあり、宿から少し歩いた浜では初日の出も日の入りも見ることができた。頼山陽の有名な「泊天草洋」という漢詩があるが、東シナ海に続く天草灘に沈む落日を見れば、なるほどと頷ける。富岡から向かったのは、天草下島の西海岸を南下した地方にある大江天主堂と崎津天主堂である。この地方は江戸期、隠れ切支丹が多かった処で、キリスト教は崎津天主堂を中心に天草全域に伝わったらしい。蛇行する海沿いの道を、丘陵を縫いながら南下すると、丘の上に立つ白い大江天主堂があらわれた。昭和8年に建てられた八角ドームを持つこの教会は、フランスから赴任したガルニエ神父が私財を投じ、鉄川与助の手でつくられた。南側斜面にある石垣の横に洞窟があって、その入口に立つ手を合わせた白いマリア像が印象に残っている。彫刻家の佐藤忠良や船越保武の作品には「祈りの造形」と呼ぶにふさわしいフォルムのものが多いが、特に長崎にある二十六聖人記念碑の彫刻(船越保武作)には胸を打たれる。ふたたびバスに乗って河浦町の崎津へ向かいしばらくすると、高台から入江になった羊角湾と崎津漁港の小さな集落が見えた。そのひっそりとした集落の中に天主堂が立っている。「丘の教会」大江天主堂に対し、崎津天主堂は「海の教会」と呼ばれている。明治4年まで踏み絵が行われていた庄屋屋敷跡を昭和2年に赴任してきたハルブ神父が買い取り、昭和9年にやはり鉄川与助の設計によって建てられたゴシック風の木造教会である。踏み絵が行われた場所に祭壇がつくられ(すごい執念だ)、内部は畳敷きとなっていて、受難と信仰の歴史を辿る展示コーナーがある。羊角湾はチヌ釣りの好漁場としても有名である。訪ねた頃には埋立の話が持ち上がっていたが、反対の声が上がって事なきを得た。こんな所に、と思わせるような奥地にある港の集落に立つ天主堂の尖塔はまさに、信仰深い人々の心のランドマークとなっているように思えた。司馬遼太郎は「街道をゆく17」の中で、崎津を次のように描いている。「町のにおいは、……長崎にどこか似ている。というより長崎を圧縮して、暮らしのにおいでよごしたような町で、その狭く深い水面が、濃すぎるほどの青さでもって、町の色彩の無秩序さを力づよく浄化しているといっていい。」

21.博多部めぐり

 僕の仕事場のある平和町から天神、博多駅、六本松あたりまでは、自転車でゆっくり走っても20~25分もあればアクセスできる。天気が良ければ、仕事の打合せでなくてもカメラをリュックに入れ、ふらっと自転車でまちなかを巡ることがあるが、旧博多部やその周辺には興味を惹かれる場所が多い。旧博多部は概略、那珂川と御笠川(旧称は石堂川)に挟まれた博多駅から築港までのエリアで、聖福寺のある御供所町、櫛田神社のある上川端町、博多座のある下川端町、数年前に統合された博多小学校のある奈良屋町などは良く知るところである。福岡の町にくらべ博多の歴史はずっと古く、魏志倭人伝の時代にも遡る。中世、貿易港として栄えた博多が戦国時代の戦乱で荒廃したのち、豪商神屋宗湛たちの願いで秀吉が復興を司令し、石田三成らが奉行になって町割りが行われた。仏教思想に基づく都市計画は町を七条の袈裟に見立てたもので、七流れ(「流れ」は街路であり連合町内会である。)は江戸時代から敗戦の日まで博多の町割りの基本骨格となった。昭和二十年六月十九日夜の空襲で、旧い博多は焼け、わずかに御供所町から石堂川沿いの聖福寺近辺が残った。現在、博多駅から北西(築港)に延びる幹線道路「大博通り」沿いには、銀行や保険などの高層の業務ビル等が建ち並んでいる。それでも、この通りに直角に交わる幹線道路(北から那の津通り、昭和通り、明治通り、国体道路)によって囲まれた街区の内側には表通りとは違った博多らしいまちの表情がまだまだ残されている。僕が自転車に乗ったり降りたりして散策するのは、そういうまちの内側にある路地などである。聖福寺境内の廻りには、保育園や小さな禅寺などが並んでいて、普段歩いている人は少ない。境内の楠は戦後植えられ、間伐されなかったため、ひょろっとしているのが残念だ。以前は風化した聖福寺の土塀の風合いが心地よく、また四季折々の庭木が楽しめた。原種の木蓮や山吹が見事な花を咲かせる西光寺、かつて座禅道場となっていたらしい一朝軒、上呉服町との境界にある石の山門もよく辿るコースだ。山門のあるあたりは旧いたたずまいを残していて、昔は下普賢堂町と呼ばれた。昨年の雪のちらつく日、連れとここを歩いていると、自転車に乗ったお爺さんが路上に倒れていて、近所の店の小母さんと世話をしたことがあった。好きな酒が辞められなかったらしい。最近、買うことがなくなった祝時の極彩色の蒲鉾をつくっている店があったり、懐かしい木賃アパートなども見かけるし、山笠の季節に訪ねると狭い路地に思いがけなく子供御輿の姿を見つけたりする。聖福寺の東を流れる御笠川河畔はこの辺りだけは蛇行した州浜が残り、濃い寺の緑とあいまって心地よい風景をつくっている。橋を東に渡ると千代町に入る。ここにも国道3号線沿いの造り酒屋、「せんしょう」(旧大津町商店街の店が移転した先か?)、崇福寺など散策のポイントがある。造り酒屋では、毎年二月十一日、新酒を披露する蔵開きがあり、打ち立ての蕎麦と升酒を楽しむ人たちで賑わう。「せんしょう」は、三年ほど前、知り合いの建築家に教えてもらったのだが、韓国料理の食材が揃っている店が二店あって、これからの季節、チャンジャや牡蠣キムチなどを求めて鍋に加えると旨い。鮮魚店も多く、とても安価で新鮮、一人暮らしの高齢者などでも求めやすいように店主が考えてくれている。崇福寺は黒田家や頭山満などの墓がまつられている。別に展墓趣味(亡き文人たちの墓を訪ね歩き、その作品や人となりを静かに偲ぶ。)があるわけでは無いが、墓碑や庭のデザインに興味があって墓地や寺を歩くことがある。ここには、或る写真家の墓碑があって印象に残っている。昨年春の福岡地震のあと訪ねてみると、あちこちの墓碑が倒れていたが、さすがに黒田家などの大きな碑はびくともしていなかった。千代町から、昭和通りを通って西へ戻ると下川端の博多座と接する綱場町に出る。ここは仕事の関係で比較的最近、訪ねるようになった。地域計画コンサルタントのオフィスがこの一画のビル最上階にあり、楽しくお付き合いをさせてもらっている。ある日オフィスでの打合せが終わって、Tさんと階段踊り場に出て、煙草を一服しながら、ビルの谷間にある旧い低層の建物群を俯瞰した。紙や服地の問屋や昔から営んでいる酒屋、居酒屋などが寄り集まった街区の内側には、建築が大型化、高層化してきた表通りとは異なる時間が流れているようだ。仕事を終えると、Tさんとたまに、その中の角打や居酒屋で一杯やることがある。角打のおばさんも居酒屋の大女将もかなりの高齢だが元気がよく、こちらが訊ねると昔の町の様子などを話してくれる。客層は中高年が多いが、大将の腕が冴えていて、暖かい雰囲気の居心地の良い店である。近くには博多で一番旧いと言われるクラシック喫茶もあって、お洒落な年輩者のサロンともなっている。都心で働くサラリーマンや地元の人たちのくつろぎの場となっているビルの谷間、ここにも佳き時代の博多が息づいている。



20.唐津のこと

 福岡天神から市営地下鉄(姪浜でJR筑肥線に接続)に乗って一路、西へ進む。地上へ出て筑前深江を過ぎたあたりから、二丈の海が断続的に見え出す。やがてサーファー好みの白い波が寄せる鹿家(しかか)の静かな砂浜があらわれると、もう唐津湾域である。虹の松原の東端、玉島川河口に位置する浜玉町を初めて訪れたのは今から七年前の晩秋の頃だった。JR筑肥線の浜崎駅で下車し、海の方へ少し進むと唐津街道に出る。街道沿いの或るお寺の移転跡地を広場にする仕事で、設計工期が短く何度か徹夜を余儀なくされた。大きなクスノキや山門を残して地元の曳き山廻しの拠点ともなる広場が完成して一年近く経った頃、思いたって虹ノ松原の浜を唐津へ向かって歩いてみることにした。幅400~1000メートル、約100万本と言われる黒松が5㎞程続くこの松林は、江戸時代に藩主寺沢広高が防風林として植えさせたものである。夏場は一部がキャンプサイトとなっているが、浜は傾斜があって海に沿っては歩きづらい。ただ、人の少ない荒涼とした風景がアンドリュー・ワイエスの絵のようで、惹きつけられたのだった。右肩下がりの姿勢で長く歩くのはつらく、時々後ろ向きに歩いたり、流木に腰掛けて休んだりした。足元の砂浜に千鳥の細い足跡や波の引いた痕跡があった。松原は松浦川の河口近くまで続き、橋を渡って唐津に入った。唐津湾にせり出した小高い地に唐津城の天守閣が建っていて、ランドマークになっている。ここから眺めると、唐津湾-虹の松原-鏡山-松浦川-市街地がパノラマで見渡せる。唐津を訪れていつも感心するのは、町の存立基盤となっている自然地形や地理的条件がはっきりとしていて、歴史的な背景が息づいていることだ。唐津城周辺部の景観地区は旧い屋敷や石垣、珍しい笹垣といった街並みだけでなく、文化施設が充実し、案内サインが整っていて、よく考えられた街づくりがなされている。唐津市役所・バスセンターとJR唐津駅を結ぶ一帯に中心市街が形成され、鮮魚店や鮨屋、唐津焼きの店、川蟹の炊き込み飯を売っている店など魅力のある店が多い。鮮魚店がいくつか集まるマーケットがあるが、扱っている魚介の種類が豊富で、飛びきり鮮度が良く、しかも、安価である。買いに来るのも一般家庭の主婦が多いと聞いた。生鯨のうねやボラのへそ等は博多では手に入らないかも知れない。また、唐津焼きを扱っている店が並ぶ商店街の中には、陶芸教室があったりする。場所は松浦川東側になるが、旅館洋々閣のギャラリーには隆太窯の箸置きや湯呑みなど、求めやすいものが並んでいる。隆太窯のモダンな感覚が好きで僕も愛用している。 
 毎年、文化の日前後の三日間、町は「唐津くんち」で賑わう。初日の宵山に始まり、お旅所神事、町廻りと続くこの祭りは十六世紀末の発祥だが、現在のような「曳山」(ひきやま)は江戸後期に始まったらしい。墓地公園を設計する仕事で唐津にはずっと昔からよく出かけていたが、「くんち」を見に出かけたのは六年前のことだ。唐津出身の建築家、辰野金吾の業績を紹介する展示の仕事に参画することになった関係で、建築設計事務所のKさんに誘われて出かけた。坊主町の辺りだったろうか、午後、市役所に勤めてある方のお宅を訪ねると、玄関先の作業場で女性達が忙しそうに料理を作っておられた。二階に上がって窓から屋根の上に出ると、路地のように狭い道沿いの家々の屋根や窓辺に、同じようにたくさんの人たちが今か今かと曳山を待つ姿が見えた。その中にひとりポツンと路地へ目をやっているお爺さんの姿があり、印象に残った。やがて、囃子の音や「エンヤ、エンヤ」という掛け声とともに、数トンもある曳山が近づいてきた。和紙と漆の一閑張り(いっかんばり)という手法で作られた勇壮、華麗な「獅子」、「兜」、「飛龍」などのヤマが目の前の家並みに曳き込まれ、リズムを速める曳山囃子が曳き子の気迫を後押しする。黒い股引と腹掛姿の男達が何ともいなせだ。江戸時代からの町名をそのまま残す唐津の町で繰り広げられる伝統の祭り、俯瞰する家並みに曳山の漆の色がよく似合っていた。喚声が静まって階下に降りると、豪快なアラの丸煮や大皿に盛られた刺身をはじめとする自慢のくんち料理で宴会が始まった。そのうち曳き子たちも集まって大いに盛り上がり、この夜は唐津泊まりになったのだった。












19.瀬の本高原

 十月初旬、仕事で瀬の本高原を訪ねた。博多から日田、日田から杖立へと乗り継ぎ、迎えに来て下さった相手先の車で小国を経由し、瀬の本へ向かう。なだらかにうねった高原は薄(ススキ)に覆われ、他の樹木に先駆けてドウダンツツジが鮮やかな紅葉を見せ始めている。薄の原というと不毛の地を意味するように思われがちだが、薄は牧草や茅葺き屋根の材料となる有用植物で、久住や阿蘇では太古の時代から定期的に草刈りがおこなわれ維持されてきた風土景観であり、観光資源ともなっている。これから穂が膨らみ銀色に輝くようになると、山肌も深くあたたかな色に染まりはじめる。遠くに白い煙が見えるので尋ねてみると、来年の春先おこなう野焼きの準備のために周縁部を焼いているのだと教えて下さった。まもなく赤い屋根の三愛レストハウスが見え、車はここから少し上った「やまなみハイウェイ」と筋湯温泉方面へ向かう道路の分岐点(「筋湯温泉口」)に着いた。標高1050~1100m程のこの場所から眺める阿蘇五岳や瀬の本高原は、東から南、西へと展開し、ため息が出るほどだ(近くに、絶景を詠んだ与謝野鉄幹・晶子夫妻の歌碑が建っている)。国立公園区域内にあるこのエリアでは、一定条件のもとに特別に事業地としての整備が許可され、二年前からひとつの「ヴィラージュ」(むら)が建設されている。僕がこのプロジェクトにランドスケープデザインの立場から参画することになったのは建設が始まる一年前だった。植生や地形、景観についての調査、「ヴィラージュ」全体の構想、誘致施設の配置計画、外部空間の設計監理と関わることになり、現在オープンしているケーキショップ、ホテル、温浴施設、エステ、陶芸工房、美術館、旅館の利用者も多いようだ。「ヴィラージュ」建設のディベロッパーでもある相手先の子会社が経営する温浴施設に二泊して、隣接地に誘致予定の施設の配置プランを作成するのが、今回の仕事である。この温浴施設は、ラウンジと雑木を中心とした中庭、離れ形式の家族湯(源泉かけ流し)から構成されていて、広さや仕様の異なるどの離れからも阿蘇や雑木林の風景が楽しめる。今回の打合せを済ませたあと、スタッフの人たちに中庭の修景の仕方について実地指導をおこなった。陽が落ちると、山は冷え込む。食事を済ませ、用意してもらった離れに入り、風呂に浸かった。無色透明でなめらかな湯質で切傷に効能があるらしい。早めに床についたせいか夜中に眼が覚め、デッキテラスに出てみると黒い天蓋に大粒の星が輝いていた。朝湯に入るとガラスの向こうに雲海に浮かぶ涅槃のような阿蘇五岳が見えた。ちょうど二年前の今頃、僕はケーキショップの庭づくりの監理をするために、近くのユースホステルに連泊していた。開店の日が迫る中、颱風が次々と襲来し、雨や霧の日が続いて現場の作業は難航した。颱風の猛烈な風で地上の小石が巻き上げられ飛んでくる。建設中の建物のガラス面をベニヤ板で養生し、颱風が過ぎるのを待つ。現場の火山灰土が霧でぬかるみ、石積みや植栽は手間取り、苦労した。なんとか工事が終わり、福岡に帰る夜、現場監督が熊本まで送って下さった。深い霧の中を、道を熟知している監督は普段の速さで車を走らせた。突然ブレーキを踏んだ車の前方に、二頭の大きな鹿の姿が見え、すぐに見えなくなった。生まれて初めて見る野生の鹿だった。開発されていく森から餌を探しに移動していたのかも知れない。湯船に浸かって眼をつぶっていると、そんなことが思い出された。朝食の前に附近を歩いてみると、夜露に濡れた草むらにシオンやアキノキリンソウ、ミズヒキ、オオマツヨイグサなどが可憐な花を付けていた。こういう場所での花のガーデニングは都会とはちがって、土地に見られる野の花などを主体にして考えるべきだと思う。三種類ぐらいの野草を手折ってラウンジの女性に渡すと、適当な花器に生けて飾ってくれ、その気持ちのよい対応が僕は気に入った。二日目は昨晩考えた配置プランを清書し、現場でイメージスケッチを起こすことにした。思い描く建築や庭が、現場の風景の中でどのように見え隠れするか、隣接する空間とどのように繋がっていくかを考えてみる。平面図では把握できない風景を現場で捉えることは大切なことで、作業自体も大変愉しいものである。うららかな日和にこういう場所で好きな仕事ができることに深謝。テラスから東の方に見える久住へ続く山塊は、紅葉が進むにつれ、その夕景が美しい。「季節や日、天候によって様々に変化する風景に飽きることがないですよ」と、スタッフの人たちは口を揃える。五月連休頃の新緑、冬のモノトーンの世界もまた魅力的である。黒川や湯布院とは違った、スケール感のある風景に対峙し包まれる開放感が瀬の本にはある。広大な風景の中に溶け込み、眺望を満喫できるゆったりとした空間づくりはもう少し続きそうだ。みなさんも、ドライブの途中ぜひ立ち寄ってみてはいかがですか。








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