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総選挙に寄せて:なぜナチスを阻止できなかったのか

「大義なき解散・総選挙」が始まって、ほぼ10日が経過した。「選挙は終わってみないとどうなるか最後まで分からない」けれども、大手マスコミによれば、目を疑いたくなるような結果となりそうだ。「暗黒社会」へ向かって「迷走」する日本、といったところだろうか。安倍晋三政権の暴走を止めなければ、やがてこの国は取り返しのつかない事態に陥るだろう。

内田樹氏のコラムを四篇連続でアップし、今回の総選挙に於ける問題点のオサライをしてみました。最後に残されたカードを「安倍政権にNOと言う候補」に投じてみよう!

かつて1930年代に、ドイツはワイマール憲法下にナチスによってワイマール体制が急速に骨抜きにされてゆく苦い経験をした。この屈辱に対して嘆き悔やんだマルチン・ニーメラー牧師の言葉を下記に記しておきたい。

・・・・・・・・・なぜナチスを阻止できなかったのか~*マルチン・ニーメラー牧師の告白~

ナチスが共産主義者を攻撃したとき、自分はすこし不安であったが、とにかく自分は共産主義者でなかった。だからなにも行動にでなかった。次にナチスは社会主義者を攻撃した。自分はさらに不安を感じたが、社会主義者でなかったから何も行動にでなかった。

それからナチスは学校、新聞、ユダヤ人等をどんどん攻撃し、自分はそのたびにいつも不安を感じましたが、それでもなお行動にでることはなかった。それからナチスは教会を攻撃した。自分は牧師であった。だからたって行動にでたが、そのときはすでにおそかった。

・・・・・・・・・( 丸山真男 『現代政治の思想と行動』 未来社 )

*マルチン・ニーメラー:ドイツのルター派神学者。第1次世界大戦に従軍し,潜水艦長として活躍。ウェストファリアのミュンスター大学で神学を修め,1924~30年同大学学内伝道にたずさわり,31~39年ベルリン・ダーレムのルター派教会牧師となる。ヒトラーの教会支配に対する抵抗運動の指導者として活躍し,牧師緊急同盟の結成を呼びかけ,告白教会の形成,バルメン宣言の成立にあずかって力があったが,逮捕されて,ダハウの強制収容所に送られる (1937) 。第2次世界大戦後解放されて,平和運動,ドイツ統一運動に尽力。ドイツ福音主義教会評議員,同外務局長。世界教会協議会会員。主著『Uボートから講壇へ』 ,『イエス・キリストは主なり』 。

*「101年目のロバート・キャパ」展

「101年目のロバート・キャパ~戦場に生き、恋に生きた写真家」というタイトルの写真展を、九州芸文館(9/15まで開催)で、観てきた。先ず驚いたのは、『ロバート・キャパ』という名前が「個人」ではなく「チーム」としてのそれであった、ということだった。その事実から、「戦場に生き、恋に生きた」物語が始まるのだった。

***

ロバート・キャパの名前を世界に知らしめたのは、「崩れ落ちる兵士」と呼ばれる1枚だった。スペインで1936年に共和国政府が成立すると、それに反対するフランコ将軍派との間で内戦が起きた。共和国軍の兵士が撃たれた瞬間をとらえ、ニュース誌に幾度となく掲載されたこの写真は、キャパの代表作となった。

しかし、弾が飛び交う戦場で、このような決定的な瞬間を撮れるものだろうか、という疑問がつねにささやかれてきた。

長年この疑惑を追究してきたノンフィクション作家の沢木耕太郎さんは、『文藝春秋』2013年1月号に「キャパの十字架」を発表した。綿密な取材で謎に迫るスリリングな長編ノンフィクションだ。その中に出てくるのが、これは演習中の写真ではないか、撮影者はキャパではなく、同行していた女性写真家ゲルダ・タローではないか、という問いである。

ゲルダ・タロー(本名はゲルダ・ポホイル)はキャパの恋人だった。2人は1934年にパリで出会った。タローはドイツ生まれ、キャパはハンガリー生まれのユダヤ系だったため、ナチスの台頭によって、それぞれフランスへ逃れてきていたのである。

キャパの3歳年上のタローは、美しく魅力的な女性だった。キャパのほうも好男子。2人は恋に落ち、仕事上でもパートナーとなる。キャパの本名はアンドレ・フリードマンだ。移民の二人はフランスの編集者に写真を高く売り込むために、ロバート・キャパ(名前は映画監督のフランク・キャプラにちなんだとされる)という架空のアメリカ人写真家を作り上げた。

(タローという「源氏名」は、アンドレと親交のあった『岡本太郎』に、由来しているらしい。)



スペイン内戦が始まると、キャパはスペイン語のできるタローと戦場に向かった。タローも写真を撮り、自分の名で雑誌に発表するようになる。カメラは、キャパはライカ、タローは正方形の写真が撮れるローライフレックスを主に使っていた。

タローは女性兵士や戦争孤児、農民、犠牲になった遺体にも臆することなくカメラを向けた。写真からは20代のタローが夢中でシャッターを切っている熱が伝わってくる。そのタローがカメラを手に活動したのは、1936年8月~37年7月のわずか1年間だった。

スペイン内戦の取材中に、戦車にひかれて亡くなってしまったからだ。27歳の誕生日の6日前だった。彼女は戦場を取材中に死亡した初めての女性写真家となった。



タローの死はキャパにとって衝撃だったに違いない。彼はその後も熱心に戦争の取材を続けた。ファシズムとデモクラシーの戦いだと言われる第2次世界大戦では、連合国軍の第1陣とともにノルマンディーのオマハ・ビーチに上陸し、命がけで戦争写真の傑作を残した。

大戦後、キャパは女優のイングリッド・バーグマンと恋に落ち、映画出演中の彼女の写真も撮影している。

1954年には毎日新聞社の招きで日本を訪れた。そして『ライフ』誌の要請を受け、東京からバンコク経由でインドシナ戦争の取材に向かう。インドシナ戦争は最後の取材となった。

最期は田んぼを前進するフランス兵を撮ろうとして道からそれ、地雷を踏んで亡くなった。

まだ40歳だった。

***

写真を見て感じられるのは、対象へ注がれる視線の『暖かさ』だ。それを際立たせる、絵画のような『構図』の巧みさ。そしてこの瞬間のショットを伝えたいという強い意志。・・・そのココロは、写真家というよりジャーナリストである。

撮られる対象たちには『貌:かお』がある。男はタバコをふかして、男らしく。女は男を見据えて、女らしく。デモクラシーを留保することなく信じられた時代の『貌』がある。『貌』から発せられる、リアルなニオイが、充満している。キャパとタローは、モノクロームのフイルムの粒子に、そんな時代の気分を定着させた。

現在の報道は客観性が求められるが、ロバート・キャパの写真は主観的なものであった。つまり反フランコ的、反ファシズム的な立場を支持した報道だったと言える。そういう意味では、報道写真の黎明期は彼らにとって幸せな時代だった、と言えるかもしれない。

流氷に閉ざされた『酷愛』:映画「私の男」

★流氷に閉ざされた『酷愛』:日本映画「私の男」

北海道出身の熊切和嘉監督は「海炭市叙景」で函館の寂れた風景を鮮やかに切り取ったが、今回は雪に閉ざされた港町紋別を舞台に、タブーである2人の男女の関係に踏み込んでいく。その愛の深さと熱さを『酷愛』と呼んでみる。『酷愛』を描いて僕の情動を揺さぶった作品群には、「仁義の墓場」「実録・阿部定」「愛のコリーダ」「赤い髪の女」「赤い教室」から始まって、近作には「悪人」「軽蔑」「そこのみにて光輝く」と秀作が並ぶ。

奥尻島の大地震による津波で孤児となった花(山田望叶)を、遠い親戚を名乗る腐野淳悟(浅野忠信)が引き取るまでのエピソードは、記憶の残像のような粒子の荒い16ミリで撮られている。「犯す!」(長谷部安春監督作品)のような、ざらついた画面は心の懊悩を表現して秀逸だ。花と淳悟の孤独な魂が合い寄るような、悲痛な冬の紋別の風景を、名手・近藤龍人のカメラはフレームに落とし込む。山田望叶はNHK「アンと花子」でも達者な演技を魅せているが、この作品では、ノンシャランな天使の顔と、死んだ母親の亡骸の枕元で「オイッ、起きろよ!」とばかりに激しく地を蹴るフリークの顔との、二つの顔の演技は子役のそれを超えている。

高校生になった花(二階堂ふみ)は、無垢と底知れぬ淫蕩さが奇妙に同居する、妖しい少女へと変貌をとげていく。その落差を撫でるように不協和音を内奥に響かせるのは、アヴァンギャルドジャズ・ノイズミュージックなどを手がけるジム・オルークの楽曲である。(若松孝司と「あさま山荘への道」で協働したことがある。)熊切和嘉監督は、花と淳悟の情交を見た大塩(藤竜也)を、寒風吹きすさぶ中、花が暴力的にオホーツクの流氷の方へ流すシーンに、16ミリから35ミリへフィルムを変えて、異様なまでのリアリティを追求する。この場面の藤竜也と二階堂ふみは文字通り『体当たり演技』で、ほんとうにスタッフ・キャストともどもたいへんだったと思う。

花と淳悟は大塩の一件で東京に逃避行するのだが、ドラマが一挙に散漫になってくる。原作はどうだか知らないが、浅野忠信がモロ師岡を刺し殺すシーンで終わった方が、映画的な深みがでてよかったのではないだろうか。養父である淳悟と花のインモラルな結びつきには、冬ざれた港町紋別という風土性がいかに不可欠であるかを物語っている。抜きさしならぬ悲劇の連鎖である本作において、熊切監督は、あたう限り2人の主人公の内面に深く分け入り、血の渇きにも似たグロテスクで官能的な世界を現出させた。その意味では、花が社会人になってから以降の話は、まさに『蛇足』と言ってよい。

モスクワ国際映画祭で最優秀作品賞と最優秀男優賞を獲得したと言う。熊切監督作品としては「海炭市叙景」の方が上出来だと僕は思うが、浅野忠信の演技に対しての賞には「否や」はない。「愛のコリーダ」の藤竜也を髣髴させる、全身全霊を込めた演技だった。特記して賞賛したい。

なお、この「私の男」は初めての大野城イオンシネマで観た。リベルテ(日田)・シエマ(佐賀)・KBCシネマ(福岡)のような名画座ではなく、一般的なシネコンで興行されたことがトテモ嬉しい。

ささやかな「愛の灯火」を、時代の風よ、消さないでおくれ!

呉美保監督の『そこのみにて光輝く』を、日田市の「リベルタ」で観てきた。原作は、1990年に41歳で自死した、村上春樹と同世代の作家、佐藤泰志が遺した唯一の長篇小説である。僕はその小説はまだ読んでませんが、映画『そこのみにて光輝く』は、1970年代の日活ロマンポルノやそれにまつわる記憶を呼び起こさせる不思議な作品だ。

ある過去の事故の記憶にさいなまれ、無為な日々を送る達夫(綾野剛)は、バラックのような拓児(菅田将暉)の家で、姉の千夏(池脇千鶴)と出会い、心を動かされる。千夏は売春で貧しい家の家計を支え、母親のかずこ(伊佐山ひろ子)は、脳梗塞で寝たきりの父親の性欲処理を黙々とこなしている。この荒みきった悲惨な家族の光景は、大阪・西成区釜ヶ崎で生きる売春婦親娘(花柳幻舟と芹明香!)と白痴の弟(夢村四郎)とのよるべない生活を活写した『色情メス市場』(田中登監督)を彷彿とさせる。この原題が『受胎告知』という映画は、近親相姦と近親憎悪という『酷愛の軌跡』を、ドキュメンタリータッチで描かれた、ある意味で、「美しく」昇華されたファンタジーだと言える。

自転車をくねくねと乗り回す拓児や、互いに惹かれあう達夫と千夏が人の気配がない寒々とした砂浜を歩くシーンは、『恋人たちは濡れた』(神代辰巳監督)の大江徹や中川梨絵の抱えていた白々とした虚脱感、『アフリカの光』(同監督・東宝)のショーケンと田中邦衛がアフリカ遠洋漁船を根室で待つ日々の閉塞感とだぶって見えて仕方がなかった。達夫が鼻歌を口ずさみながらふらふらと歩いている姿は、さながら『青春の蹉跌』(同監督・東宝)のショーケンそっくりだ。

絶えず煙草を吸い、とりとめのない怒りや焦燥をもてあます綾野剛。絶望の淵からなんとか外の世界へと視線を投げかけようと身悶える池脇千鶴。ノンシャランな存在感がリアルに迫ってくる菅田将暉。それぞれの演技者がいい仕事をしている。そして、千鶴への身勝手な執着を止められない造園会社の社長役の高橋和也は「浅ましさ」や「女々しさ」を見事に表現していた。

『そこのみにて光輝く』は、2008年の秋葉原殺傷事件以降の酷薄な格差社会の実相をリアルに映し出している。同じ原作者の『海炭市叙景』(2010:熊切和嘉監督)では地方都市に生きる若者の屈折した青春の姿、一筋の光を求めて暮らす家族の再生を描き出していた。しかし、この作品では閉塞感はさらに内向していて、外部からの救いは訪れない。一度人生にしくじったり事故に遭ったりすると、セイフティネットにも引っかからず滑り台の真下までマッサカサマに落ちてしまう。プライドや夢まで、金に置き換えられ押しつぶされてしまう・・・。「出口なし」の状況なのだが、自分たちの意志でもがく達夫と千夏を呉美保監督は掬い上げようとする。画面からにじむような橙色の光が氾濫する海辺のラストシーンに、僕たちはかすかな曙光にも似た希望のようなものを見たと信じたい。

この達夫と千夏のささやかな「愛の灯火」を、時代の風よ、消さないでおくれ!

「フーテンの寅」:昭和の風景が消えていく

BS3で3年前から始まった、火野正平の「日本縦断・こころ旅」が好きで、ほとんど観ている。サイクリングの旅が続くのだが、主要道路であれ堤防上部道路であれ、地域の特徴が反映されず標準化された風景が開けて行く。云うならば、バイパス沿いの退屈な風景と似ている。近世以前から残る木橋・石橋や道端に咲き誇る名もなき花々や人々の手によるアノニマスな構築物に心惹かれても、大部分はドコカで見たような既視感のある平成の風景だ。

山田洋次監督は、自身の著作「映画の中の風景」(1995年)で、こう述べている。
・・・・・寅さんシリーズが始まってもう二十七年(1995年現在)になる。寅さんと共に日本中を旅して歩いて、数だけは随分沢山日本の風景を写してきた。そしてこの国の姿がすさまじい勢いで変わってゆくのを、まるで恐ろしいものを見るように眺め続けてきた。そして今、写したい風景が本当にこの国から消えようとしている。・・・・・

第28作 (1981年12月28日公開)の 『男はつらいよ・寅次郎紙風船』は、マドンナ役が音無美紀子で、 久留米水天宮・秋月・夜明・朝倉・田主丸など地元がロケ地に選ばれている。封切当時、「よくこんな、あばら屋、見つけてきたなー」と小沢昭一が音無美紀子と暮らす秋月の家を見て、僕が独り言を漏らすぐらい「昭和(それも戦前の・・・)」なカンジでした。観光地の朝倉・三連水車は画面に映っていました。しかし、寅さんと岸本加代子が絡むシーンの背景が田主丸のシャッター通りとは、ハテ、如何に?凡庸な監督なら隣町の吉井を使うでしょうが、渋い山田洋次監督には、白壁がギラギラしている吉井の街並は粋ではなかったようです。

封切から33年経過した2014年。久留米水天宮や朝倉・三連水車の風景はあまり変わっていませんが、バブルとデフレの嵐が吹き荒れて昭和の風景や家並は、イナカの田主丸も秋月も夜明も言うに及ばず久留米マチナカも、変わってしまいました。バブルで過大になった装飾的街並がデフレで素寒貧の限界集落と化して。.。。

そんな風景の中で、僕はどんな形で老いさらばえてゆくのだろうか・・・。映画の中の寅さんの姿に己の加齢を重ねて観る時、無邪気に映画の時間を楽しめない。リアルで恐ろしい時間になってくる。渥美清は若い時分『結核』を患い、健康に留意し自分の体を労わりながら、俳優の仕事を丁寧に果たされてきた。その彼も68歳で『肺がん』にて召された。

今年還暦を迎えた僕には、その歳まで10年も残されていない。
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