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「国民をバカにするひどさは安倍政権で底が抜けた」

★直木賞作家・*中島京子「国民をバカにするひどさは安倍政権で底が抜けた」
***〈週刊朝日〉10/25(水) 7:00配信

 血税635億円もかけた衆院選は自民党が283議席(追加公認含む)と大勝、公明党とあわせて全議席の3分の2を上回る勢力となり、憲法改正の発議が可能となった与党。“加計疑惑ロンダリング”と化した総選挙に直木賞作家の中島京子氏が怒りの声をあげた。

*  *  *
 
今回の選挙でつくづく、永田町政治は国民をバカにしていると感じました。臨時国会で自身の疑惑の説明責任を果たさずに冒頭解散した首相に、風を吹かせたもん勝ちと考えた見極めの甘い希望の党。もちろん政権はつど選択できたほうがいいけれど、政策も考え方も似たような党が2つあればいいってもんじゃない。訴える内容も、とってつけたような教育無償化、ひどいものでは花粉症ゼロなど、「国民はバカだから、選挙の時だけ耳あたりのいいことを言っておけ」という意図が透けて見えます。「朝三暮四」という故事成語がありますね。春秋時代に宋の国でサルを飼っていた狙公がえさのどんぐりを減らす際、目先の利益をちらつかせてサルを口車に乗せて納得させた話からできた言葉です。政治家は、私たちのことをサルだと思ってるの? と腹立たしくなってきます。

 国民をバカにする政治のひどさは、第2次安倍政権で底が抜けた気がします。メディアへ圧力をかけ、議会や憲法をないがしろにする。強行採決や冒頭解散など、安倍政権は「禁じ手」をいくつも使ってきました。私が一番恐れているのは、「緊急事態条項」を憲法に加え、内閣が「戒厳令」のようなものを出して議員任期を延長できるようにすることです。政権が選挙をしない権限まで手に入れるということですからね。
 政治に失望している中で、立憲民主党の誕生だけはうれしく思っています。枝野さんが「下から押し上げる政治」と表現していますが、震災や安保法制のときに生まれた市民の声、そしてその後の野党共闘の流れをきちんとくんでいる。枝野さんの結党会見を見た時、これまでフラストレーションがたまっていた理由が分かった気がしました。安倍首相や菅さん、「私はAI」の小池さんなど、論点ずらしで質問に答えていない会見ばかり見てきたけれど、枝野さんは記者の質問に「答えて」いた。国民をごまかそうとはしていないと感じました。

 震災前後の時期、日本人は自信を失ったと思うんです。デフレが続き、GDPは中国に抜かれ世界3位になった。福島第一原発事故で日本の技術への神話も崩れました。そんな時に、「日本はすごい。強い日本を取り戻す」と掲げる安倍さんの言葉は心地よかったのかも。そして、それが日本全体を覆う空気になってしまった。政権発足前後から、近隣諸国へのヘイトスピーチも激化しました。日本人は震災前後に持った劣等感や不安がぬぐいきれず、今でも過剰な自己肯定や他国批判を続けている。それが政権支持にもつながっているのでは。

 いつまでも風や空気で政治をさせていてはいけません。バカをだます政治は、もう終わりにしなくてはいけないんです。だから、私たち国民も「だまされるバカ」で居続けてはいけないと強く思います。(構成/本誌・直木詩帆)

※週刊朝日 2017年11月3日号より加筆

*中島京子(なかじま・きょうこ)/1964年生まれ。出版社勤務などを経て作家に。2010年、『小さいおうち』で第143回直木賞。近著に『ゴースト』(朝日新聞出版刊)
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「愛国的リバタリアン」という怪物

★「愛国的リバタリアン」という怪物
***「内田樹の研究室 2017-6/12」より転載

金滿里さんが主宰する劇団「態変」の出している『イマージュ』という媒体が「相模原事件」を特集した。そこに事件についてのコメントを寄稿した。なかなか手に取ることのない媒体なので、ブログに採録しておく。
相模原の大量殺人事件のもたらした最大の衝撃は、植松聖容疑者が事前に安倍晋三首相宛てと大島理森衆院議長宛てに犯行を予告する内容の書簡を届けていたことにある。それは単に権力者を挑発するための犯行予告ではなく、自分の行為が政権と国会多数派には「好ましい」ものとして受け止められ、権力からの同意と保護を得られるだろうという期待をこめたものだった。逮捕後も容疑者は「権力者に守られているので、自分は死刑にはならない」という趣旨の発言をしている。
もちろん、これは容疑者の妄想に過ぎない。けれども、何の現実的根拠もない妄想ではない。彼の妄想形成を強化するような現実が今の日本社会内部にはたしかに存在しているからである。
アナウンサーの長谷川豊は事件の直後の2016年9月に自身のブログに「自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担にさせよ!無理だと泣くならそのまま殺せ!今のシステムは日本を亡ぼすだけだ!!」というタイトルの記事を投稿した。これには批判が殺到し、専門医からも事実誤認が指摘されたが、この人物を日本維新の会は千葉一区から衆院の立候補者として擁立するということが先日発表された。
重篤な病人や障害者に対する公然たる差別発言にはまだ一定の社会的な規制が働いており、有名人の場合には、それなりの批判を受けて、社会的制裁が課されているが、在日コリアン、生活保護受給者やLGBTなどの社会的弱者に対する差別や攻撃の発言はほとんど何のペナルティもないままに垂れ流しされている。
際立つのが片山さつき議員で、生活保護受給者は「実質年収4百万円」の生活をしているという無根拠な都市伝説の流布に加担して、生活保護叩き発言を繰り返してきたが、最近も捏造投稿に基づいてNHKのニュース内容にクレームをつけて、生活保護受給者が社会福祉の「フリーライダー」だという世論の喚起に励んでいる。もちろん、本人がそう「信じている」という信憑の問題もあるのだろうが、「そういうこと」を公言すると選挙で票が集まるという現実的な打算も同時に働いているはずである。
アメリカではドナルド・トランプ大統領が「弱者叩き」の代表格である。「ラストベルト」のプア・ホワイトたちの輿望を担って登場したはずのトランプだが、就任後実施された政策は富裕層への厚遇措置ばかりで、移民排斥や、海外企業の国内移転への圧力などの「雇用対策」は今ここにいる社会的弱者のためには何の利益ももたらしてはいない。選挙公約だったオバマケアの廃止は、それによって2400万人が医療保険を失うという予測が公表されて、さすがに与党共和党も加担できず、改廃法案を撤回するという騒ぎになった。アメリカの有権者はそのような人物を大統領に選んだのである。
これはおそらく全世界的な傾向である。社会的弱者たちは、自己責任で弱者になったわけであり、いわばそういう生き方を選択したのだから、政府や自治体が、公金を投じて彼らを支援することは「フェアではない」というロジックは目新しいものではない。これはアメリカ社会においては「リバタリアニズム(libertarianism)」というかたちで、建国当初からつねに伏流していた考え方である。アメリカが世界に冠絶する覇権国家となり、その国の作法や価値観が「グローバル化」したことによって、アメリカ的な「リバタリアニズム」もまたグローバル化したということだと私は理解している。
「セルフメイドマン(self made man)」というのは建国以来、理想とされてきたアメリカ市民像だが、要するに誰にも頼らず独立独行で自己実現を遂げることである。「リバタリアン(libertarian)」というのは、その過激化したかたちである。
リバタリアンは、人間は自分の運命の完全な支配者であるべきであり、他者であれ公共機関であれ、いかなるものも自分の運命に介入する権利はないと考える。だから、リバタリアンは政府による徴税にも、徴兵制にも反対する。当然ながら、社会福祉のための原資の提供にも反対する。
ドナルド・トランプが徴税と社会福祉制度につよい嫌悪感を示すのは、彼がリバタリアンの伝統に連なっていることを示している。トランプは選挙期間中に対立候補から連邦税を納めていないことを指摘されて、「すべてのアメリカ人は納税額を最小化するために日々知恵を絞っている。私が連邦税を払っていないのは私が賢いからである」と述べて支持者の喝采を浴びた。これは別に露悪的な発言をしたわけではなく、ほんとうにそう思っているからそう言ったのである。彼に喝采を送ったプア・ホワイトたちは、自分たちとは桁が違う大富豪であるトランプの「納税したくない」というリバタリアン気質が「自分と同じだ」と思って、その発言に賛意を評したのである。
トランプは軍務の経験も、行政の経験もないはじめての大統領だが、それは軍務に就くことも、公共機関で働くことも、どちらもリバタリアンとしては「やらないにこしたことはない」仕事だからである。アメリカの有権者たちは彼の「公的権力を用いて私利私欲を満たすが、公益のためには何もしない」という態度がたいそう気に入ったのである。
今の日本で起きている「弱者叩き」はアメリカ原産のリバタリアニズムが日本に漂着し、日本独特の陰湿なしかたで退廃したものだと私は理解している。トランプのリバタリアニズムはこう言ってよければ「あっけらかん」としている。ロシアとの内通疑惑が暴かれたことによって、彼が「愛国者」であるかどうかについてはアメリカ人の多くが疑問を抱いているだろう。けれども、リバタリアンにおいて、愛国者であることは「アメリカ人的であること」のための必要条件ではない。国家や政府などというものは「ない方がいい」というのが正統的なリバタリアンの立場だからである。
けれども、日本では公的立場にある人間は「国よりも自分が大事」というようなことを(心で思っていても)口には出さない。仮に、安倍晋三が所得税を払っていなかったことが発覚したとしても、彼は「私は賢いから税金を払わずに済ませた」という言い訳をしないだろうし、その言い訳に喝采を送る有権者も日本にはいないはずである。日本ではリバタリアンも愛国的なポーズをすることを強いられる。
だから、日本では「リバタリアンでありながら、かつ愛国的」という奇妙な生き物が生まれてくる。現代日本に跋扈しているのは、この「愛国的リバタリアン」という(「肉好きのベジタリアン」とか「気前のいい吝嗇漢」というような)形容矛盾的存在である。
一方において、彼らは自分が獲得したものはすべて「自己努力によって獲得されたもの」だから、100%自分の所有に属し、誰とも分かち合う気がないと断言する。同じ理屈で、貧困や疾病や障害や不運などによって社会的弱者になった者たちについても「すべて自己責任で失ったもの」であるので、そのための支援を公的機関に求めるのは筋違いであると主張する。
ここまではリバタリアン的主張であるが、日本の「愛国的リバタリアン」はこれに愛国主義(というより排外主義、外国人嫌い(ゼノフォビア))をぱらぱらとまぶして、社会的弱者というのは実は「外国人」であるという奇妙な社会理論を創り出す。ここが日本のリバタリアニズムの独特の歪みである。
日本型リバタリアンによると、社会的弱者やあるいは社会的弱者を支援する人たちは「外国人」なのである。仮に血統的には日本人であったにせよ、外国渡来のイデオロギーや理説に「感染」したせいで、「外側は日本人だが、中身は外国人」になっているのである。
だから、社会福祉や教育や医療などの活動に公的な支援を求める組織や運動は本質的には「日本の国益よりも、彼らが忠誠を誓っている外国の利益に奉仕するもの」なのだという妄説が出来上がる。生活保護の受給者は多くが在日コリアンであるとか、日教組の背後にはコミンテルンがいるとか、朝日新聞は反日であるとか、沖縄県知事は中国に操られているといった類のネトウヨ的妄説はその典型的なものである。
語っている本人もさすがにほんとうだと思ってそう言っているわけではいないだろうが、それにもかかわらず、彼らが「反政府的な人間=外国人」というスキームに固執するのは、彼らにリバタリアンに徹底する覚悟がないからである。
リバタリアンであれば、話はすっきりしている。貧乏なのも、病気なのも、障害者であるのも、すべては自己責任である。だから、それについては他者からの同情や公的支援を当てにしてはならない。医療保険制度はいらない(医療は「サービス」なのだから金を出して買え。金がないやつは死ね)。公立学校も要らない(教育は「サービス」なのだから、金を出して買え。金がないやつは働いて学費を稼ぐか、有利子で借りろ)。社会福祉制度はいらない(他人の施しがないと生きていけないやつは死ね)と、ずいぶん非人情ではあるけれど、バケツの底が抜けたように「あっけらかん」としている。
しかし、さすがに日本では(心ではそう思っていても)そこまでは言い切れない。居酒屋のカウンターで酔余の勢いで口走ることはあるだろうが、公的な立場ではなかなか口にはできない。
その不徹底をとりつくろうために、日本的リバタリアンは「排外主義」的イデオロギーを装飾的に身にまとう。そして、貧乏人も、病人も、障害者も、生活保護受給者も、みな本質的には「外国人」であるという摩訶不思議な理説を噛ませることで、話のつじつまを合わせようとするのである。
相模原事件の植松容疑者はその意味では障害者支援をめぐる問題の本質をよく見抜いていたというべきだろうと思う。彼自身は生活保護の受給者であったが、その事実は「わずかな賃金を得るために、他人に顎で使われて、自分の貴重な人生を空費したくない」という彼のリバタリアン的な気質と齟齬するものではなかった。けれども、自分以外の生活保護受給者や障害者は彼の目には許し難い社会的寄生者に見えた。この矛盾を彼はどう解決したのだろうか。自分には公的支援を受けることを許すが、他人には許さないという身勝手な識別を可能にする境界線として最終的に彼が思いついたのは「私は日本人として日本の国益を優先的に配慮しているが、彼らはしていない」という「日本人/非日本人」スキームであった。
だから、植松容疑者がこれは「日本のために」したのだとか、「社会が賛同するはずだった」とかいう自己弁明を繰り返し、「国益を害するものたち」を「処分」する「官許」を首相や衆院議長に申請したことには論理的には必然性があったのである。彼は自分が「愛国的リバタリアン」という政治的奇形物であり、現在の日本の政界の指導者たちの多くが程度の差はあれ自分の「同類」だと直感していたのである。

「こんな人たちに、私たちは負けるわけにはいかないんです」

★「こんな人たち」発言にみる安倍自民の本当の敗因
***江川紹子  | ジャーナリスト 2017-7/3(月) 23:18

@「こんな人たちに、私たちは負けるわけにはいかないんです」
今回の都議選の最中に、閣僚や自民党幹部から出た様々な発言の中で、安倍首相が発したこの言葉が、私にとっては最もインパクトがあった。
最終日、秋葉原で初めて街頭に立った安倍首相に対して、今回の政権を批判する人たちから発せられた「安部やめろ」コールに怒り、「憎悪や誹謗中傷からは、何も生まれない!」と語気を強め、声のするとおぼしき方向を指さして、冒頭の言葉を言い放ったのだった。
それで思い出すのは、俳優のアーノルド・シュワルツェネッガー氏が、カリフォルニア州知事に立候補し、選挙運動中に、演説会場で反対派から生卵をぶつけられた一件。彼は、そうした行為も「表現の自由」の一環だと述べ、「ついでにベーコンもくれよ」と笑い飛ばした。
そんな風にユーモアで切り返すのは無理でも、「批判を謙虚に受け止め」と大人の対応をするか、あえて知らん顔で主張を述べ続ける冷静さを見せて欲しかった、日本国の総理大臣なら。
安倍シンパたちは、「やめろ」コールをしていたのは一部の過激な集団と決めつけているが、現場の状況を、客観的にレポートしていると思われる記事を読むと、こんな記述があった。
〈中心となっていたのは一部の集団だったようだが、街宣が始まるとともにコールは広がりを見せ、通行用のスペースを隔てた場所で演説を見ていた人まで「安倍やめろ」と口ずさむ有様だった〉(東洋経済オンライン「都議選の『安倍やめろ!』は尋常ではなかった
選挙戦最終日、安倍首相の目の前で大逆風」より)
言い始めたのは一部の集団でも、それに多くの人がそれに呼応した、という現象に、本当は深刻さを感じなければならないところだったろう。ところが、安倍さんの対応は違った。

@総理大臣という立場
内閣総理大臣は、安倍さんの考えに共鳴する人たちだけでなく、反対する人々を含めた、すべての国民に責任を負う立場だろう。仲間や支持者だけではなく、批判勢力を含めた、あらゆる国民の命や生活を預かっている。なのに安倍さんは、自分を非難する人々を「こんな人たち」という言葉でくくってしまい、それに「私たち」という言葉を対抗させたのである。「こんな人たちに、私たちは負けるわけにはいかない」と。
都議選の応援は、自民党総裁という立場で行ったものだろうが、安倍さんを紹介する垂れ幕には、しっかり「内閣総理大臣」と書かれ、司会の石原伸晃議員も「ただいま、安倍総理が到着しました」と紹介していた。
小泉内閣の総理秘書官だった小野次郎・元参議院議員は、ツイッターで次のように書いている。
〈この方は、自分に反対の考えを持つ人々は国民ではないと思ってる。総理になって何年も経つのに、この方は全国民のために選ばれた職にある自覚は持ち合わせない、遺憾ながら。〉
同感である。

@「みんなの大統領になる」
2008年の米大統領選で、共和党のマケイン候補と激しい選挙戦を戦った民主党オバマ候補は、勝利が決まった後の演説で、マケイン氏を称え、こう語った。
〈私がまだ支持を得られていない皆さんにも申し上げたい。今夜は皆さんの票を得られなかったかもしれませんが、私には、皆さんの声も聞こえています。私は、皆さんの助けが必要なのです。私はみなさんの大統領にも、なるつもりです〉(加藤祐子訳)
韓国の文大統領も、5月の就任宣誓で「私を支持しなかった国民一人ひとりも国民」とし、その国民に奉仕することを約し、「皆の大統領になる」と強調した。
国会で多数派の中から選ばれる議院内閣制の首相は、国民から直接選ばれる大統領とは選ばれ方や権限などに違いはあっても、政権を率いるリーダーであり、人々を代表する国の顔でもある。
「私たち」と「こんな人たち」を対決させる政治
常日頃から安倍さんは、「敵」、すなわち「こんな人たち」認定した者に対しては、やたらと攻撃的だ。それは、首相でありながら、国会で民進党の議員の質問にヤジを飛ばして、委員長から注意をされる場面からも見て取れる。野党の議員の後ろにも、たくさんの国民がいるということを理解していたら、こういう態度はとれないだろう。安倍さんにとっては、野党議員に投票するような人たちは、自分が奉仕すべき国民というより、「こんな人たち」程度の存在なのではないか。
その一方で、彼は「私たち」の中に入る身内や仲間をとても大切にする。第一次政権では、仲間を大事にしすぎて「お友だち内閣」との批判を浴びた。稲田防衛相への対応などを見ていると、その教訓は未だ生かされていないようだ。仲間を大事にするのは、1人の人として見れば美徳だが、特区制度を利用した獣医学部新設をめぐっては「腹心の友」とまで呼ぶ親友を特別扱いしたのではないかとの疑念を生む一因にもなっているように思う。
敵を作り、それと「私たち」を対峙させることで、存在価値をアピールする。敵を批判し、嘲笑し、数の力で圧倒して、自らの強さと実行力を見せつける。そんな対決型の姿勢を、「決める政治」や「歯切れのよさ」「スピード感」として評価する人たちがいる一方、無視され、軽んじられてきたられた人々の不満はたまりにたまっていた。
そして、対決型を推し進めることで、政治はますます粗雑になり、できるだけ広範な人たちの合意を得ていくという地道な努力をしなくなっていった。これには、長年自民党を支えてきた保守層の中にも違和感を覚えた人が少なくなかったろう。
そこに森友・加計問題が持ち上がり、財務省の木で鼻をくくったような対応があり、文科省の前事務次官の証言があり、共謀罪審議での強引な採決があり、豊田議員の暴言があり、稲田防衛相の失言があり、二階幹事長の「落とすなら落としてみろ」発言が重なった。安倍首相の「こんな人たち」発言は、最後のだめ押しであると同時に、首相自身の個性に由来する、安倍政権の体質を、ものの見事に可視化してしまった。
安倍首相は、今回の敗因を、「政権の緩みに対する有権者の厳しい批判」と述べた。長期政権ゆえの「緩み」は、確かにあるのだろう。だが、本当の敗因はもっと根が深く、安倍さん自身のことさらな対決姿勢や粗雑な政治もその1つではないだろうか。
また、菅官房長官は、記者会見でこの発言について問われ、「きわめて常識的な発言」と述べたという。官房長官の立場で、これが「問題がある」とは言えないだろうが、政権トップの発言として「常識的」だと言ってのけてしまうところに、「分かってないなあ」と思ってしまったのである。

共謀罪成立 「私」への侵入を恐れる

★共謀罪成立 「私」への侵入を恐れる
・・・「東京新聞 2017年6月16日社説」より転載
 
 「共謀罪」が与党の数の力で成立した。日本の刑事法の原則が覆る。まるで人の心の中を取り締まるようだ。「私」の領域への「公」の侵入を恐れる。
 心の中で犯罪を考える-。これは倫理的にはよくない。不道徳である。でも何を考えても自由である。大金を盗んでやりたい。殴ってやりたい-。
 もちろん空想の世界で殺人犯であろうと大泥棒であろうと、罪に問われることはありえない。それは誰がどんな空想をしているか、わからないから。空想を他人に話しても、犯罪行為が存在しないから処罰するのは不可能である。
◆犯罪の「行為」がないと
 心の中で犯罪を考えただけでは処罰されないのは、根本的な人権である「思想・良心の自由」からもいえる。何といっても行為が必要であり、そこには罪を犯す意思が潜んでいなければならない。刑法三八条にはこう定めている。
 <罪を犯す意思がない行為は、罰しない>
 そして、刑罰法規では犯罪となる内容や、その刑罰も明示しておかねばならない。刑事法のルールである。では、どんな「行為」まで含むのであろうか。
 例えばこんなケースがある。暴力団の組長が「目配せ」をした。組員はそれが「拳銃を持て」というサインだとわかった。同じ目の動きでも「まばたき」はたんなる生理現象にすぎないが、「目配せ」は「拳銃を持て」という意思の伝達行為である。
 目の動きが「行為」にあたるわけだ。実際にあった事件で最高裁でも有罪になっている。「黙示の共謀」とも呼ばれている。ただ、この場合は拳銃所持という「既遂」の犯罪行為である。
 そもそも日本では「既遂」が基本で「未遂」は例外。犯罪の着手前にあたる「予備」はさらに例外になる。もっと前段階の「共謀」は例外中の例外である。
◆市民活動が萎縮する
 だから「共謀罪」は刑事法の原則を変えるのだ。
 「共謀(計画)」と「準備行為」で逮捕できるということは、何の事件も起きていないという意味である。つまり「既遂」にあたる行為がないのだ。今までの事件のイメージはまるで変わる。
 金田勝年法相は「保安林でキノコを採ったらテロ組織の資金に想定される」との趣旨を述べた。キノコ採りは盗みと同時に共謀罪の準備行為となりうる。こんな共謀罪の対象犯罪は実に二百七十七もある。全国の警察が共謀罪を武器にして誰かを、どの団体かをマークして捜査をし始めると、果たしてブレーキは利くのだろうか。暴走し始めないだろうか。
 身に覚えのないことで警察に呼ばれたり、家宅捜索を受けたり、事情聴取を受けたり…。そのような不審な出来事が起きはしないだろうか。冤罪(えんざい)が起きはしないだろうか。そんな社会になってしまわないか。それを危ぶむ。何しろ犯罪の実行行為がないのだから…。
 準備行為の判断基準については、金田法相はこうも述べた。
 「花見であればビールや弁当を持っているのに対し、(犯行場所の)下見であれば地図や双眼鏡、メモ帳などを持っているという外形的事情がありうる」
 スマートフォンの機能には地図もカメラのズームもメモ帳もある。つまりは取り調べで「内心の自由」に踏み込むしかないのだ。警察の恣意(しい)的判断がいくらでも入り込むということだ。
 だから、反政府活動も判断次第でテロの準備行為とみなされる余地が出てくる。市民活動の萎縮を招くだろう。こんな法律を強引に成立させたのだ。廃止を求めるが、乱用をチェックするために運用状況を政府・警察は逐一、国民に報告すべきである。
 ロシアに亡命中の米中央情報局(CIA)のエドワード・スノーデン氏が共同通信と会見し、米国家安全保障局(NSA)が極秘の情報監視システムを日本側に供与していたと証言した。これは日本政府が個人のメールや通話などの大量監視を可能にする状態にあることを指摘するものだ。「共謀罪」についても「個人情報の大規模収集を公認することになる」と警鐘を鳴らした。「日本にこれまで存在していなかった監視文化が日常のものになる」とも。
 大量監視の始まりなら、憲法の保障する通信の秘密の壁は打ち破られ、「私」の領域に「公」が侵入してくることを意味する。
◆異変は気づかぬうちに?
 そうなると、変化が起きる。プライバシーを握られた「私」は、「公」の支配を受ける関係になるのである。監視社会とは国家による国民支配の方法なのだ。おそらく国民には日常生活に異変は感じられないかもしれない。だが気付かぬうちに、個人の自由は着実に侵食されていく恐れはある。

没後8年、今こそ清志郎ソング

★没後8年、今こそ清志郎ソング 反戦反核「予言」リアルに
***毎日新聞2017年5月10日 東京夕刊紙面掲載記事

季節が巡ると、あの歌声が聴きたくなる。日本ロック界のカリスマ、忌野清志郎さんが亡くなったのは8年前の5月2日だった。反原発ソングだけではない。反戦反核の詞は、北朝鮮が挑発を続ける現代と重なる。今だから言いたい。あなたは「予言者」だったのか、と。【鈴木梢】



 まるで「戦争前夜」のような重苦しい空気が、この世界を包む。その一角。日本のコンサート会場で聴衆の耳をつんざいたのは、核戦争の恐怖を描いた反戦歌「明日なき世界」だった。
 <東の空が燃えてるぜ 大砲の弾が破裂してるぜ><世界が破滅するなんて嘘だろ>
 4月末、宮城県川崎町で開かれたライブイベント「カバーズ2017」に出かけた。東北の地はまだサクラが咲いて華やいでいるのに、世界にはきな臭さが漂う。北朝鮮は核・ミサイル開発を諦めず、米トランプ政権は「力による平和」を押し出している。
 清志郎さんが率いたロックバンド「RCサクセション」は1988年、洋楽のヒットナンバーをカバーして意訳し、反戦、反核、反原発のメッセージを込めたアルバム「カバーズ」を発表している。この日のライブではアルバムに収録された全11曲が披露された。1曲目が「明日なき世界」だ。
 ライブには、RCのギタリストだった盟友「チャボ」こと仲井戸麗市さんや、清志郎さんの告別式で弔辞を読んだ甲本ヒロトさんら、当時のバンドメンバーや影響を受けた音楽家が集まった。仲井戸さんはステージ上で語った。「この2017年にこの作品をやる意味合いを感じている。清志郎君は言葉の自由をたくさん探した。唇の自由をだれも奪えないんだ」
 「カバーズ2017」は、01年に始まったロックフェスティバル「アラバキ」の目玉イベント。清志郎さんは喉頭がんの闘病から復活した08年、このフェスティバルに参加した。09年に58歳で亡くなり、一周忌の命日には清志郎さんの名曲選が演奏された。翌11年、宮城県など東北の沿岸部を東日本大震災の津波が襲い、東京電力福島第1原発事故が起きた。
 清志郎さんによって「明日なき世界」がカバーされたのは、米ソの冷戦期だった。それが今になって、現実味を増している。新潟市から伊藤旺佑ちゃん(4)を連れてきた母いづみさん(34)は「この子は4歳にして、テレビでこの曲を知り、気に入って歌っている。今聴く意義を感じるし、子供の世代にこそ大切な歌です」と話した。会場のスクリーンには、こんな問いが映し出された。
 <アルバムの作者であるその男が今ここにいたら、何と歌うのだろう>
 作家の吉本ばななさんは、この問いに答える。「早すぎたあのアルバムと同じことを歌われるのではないかと思います。逆に言うと、もう十分遺(のこ)してくださっているのです」。吉本さんは清志郎さんの大ファン。評論家の父隆明さんとも一緒に清志郎さんのライブに通った。
 反原発ソング「サマータイム・ブルース」が収録されているカバーズは、東芝EMIから発売予定だったが、中止された。親会社の東芝が原子炉を製造していたのが理由とされ、アルバムは別会社からリリースされた。20年以上たった東日本大震災で原発の安全神話は崩れ去り、この歌は「警告」として再評価される。
 そして今、その東芝は米原発建設などで債務超過に陥り、存続の危機にさらされている。著書「耳をふさいで、歌を聴く」の中で「清志郎論」を展開した文芸評論家、加藤典洋さんは「まさにアリの一穴です」と切り出した。
 「東芝崩壊への最初の一歩が、あの発売中止だったと思う。健全な批判を受け入れられない企業文化に対し、清志郎はユーモアを持ち合わせた本物の抵抗者だった。権力や金だけでなく、世間一般のいわゆる『善き価値観』も軽々と笑い飛ばしました」
 カバーズだけではない。清志郎さんは「君が代」を派手なパンクにして歌い、「あこがれの北朝鮮」という曲では「北朝鮮で遊ぼう」と皮肉ってタブーを排した。歌以外に今注目されているのが、00年に清志郎さんが書いたメッセージ。今読み返すと、思わず息をのむ。
 <地震の後には戦争がやってくる。軍隊を持ちたい政治家がTVででかい事を言い始めてる。国民をバカにして戦争にかり立てる>
 この文章は、音楽への愛や社会への怒りを語った自著「瀕死の双六問屋」に収められ、ファンの間では「予言」とも受け止められている。「こんな時代になるとは、だれも思っていなかったでしょうね。だからこそ、今、清志郎の得難さをありありと感じる」。加藤さんはそう嘆き、米社会と日本を比べる。
 「アメリカではボブ・ディランがノーベル文学賞をもらい、ほどなくしてトランプ政権が誕生した。片やトランプ、こなたディランだから、均衡が取れてまだ安心なんです。でも、日本には安倍(晋三)首相の対極に、もう清志郎にあたる存在がいないんですよ」
 だが、清志郎さんの歌は生きている。吉本さんはそこに希望を見いだす。「ひとりの人が一生を通じていい音楽を創った。それは残ってしかるべきものだと思うし、これから生まれる世代にも聴き継がれていきます。清志郎さんは考えていることをそのまま生きるということを見せてくれた人です。私は少し歳(とし)が下なので、彼の後を継いでいかなくてはいけない、同じように若い人たちに『こういう大人もいる』ということを見せ続けなければいけないな、と思います」
 <天国は無い ただ空があるだけ 国境も無い ただ地球があるだけ>
 東北のライブはジョン・レノンの「イマジン」で締めくくられた。舞台に立ってマイクを並べたのは、いずれも広島県出身の奥田民生さんと吉川晃司さん。カバーズは当初、広島に原爆が投下された8月6日に発売されるはずだった。清志郎さんはイマジンに独自の歌詞を付け加えている。
 <ぼくらは薄着で笑っちゃう ああ 笑っちゃう>
 憲法で戦争放棄を掲げる日本の軽武装を<薄着>と表現し、軽やかに笑おうと呼びかけるのが清志郎さんらしい。会場は大合唱。全ての演奏が終わり、スクリーンに映し出されたのは清志郎さんのピースサインだった。改めて、清志郎さんが00年に発した「予言」の続きをかみ締めた。
 <この国の憲法第9条はまるでジョン・レノンの考え方みたいじゃないか? 戦争を放棄して世界の平和のためにがんばるって言ってるんだぜ。俺達はジョン・レノンみたいじゃないか。戦争はやめよう。平和に生きよう。そしてみんな平等に暮らそう。きっと幸せになれるよ>
 清志郎さんの命日の翌3日は憲法記念日。この日、安倍首相は「20年を新しい憲法が施行される年にしたい」と述べた。再び東京で五輪が開催される前に、憲法を改めるかどうか<僕ら>が決めることになるのかもしれない。
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