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23.雪月花

 北国では雪はやっかいなもので、永く重たい冬に閉じこめられる人たちは、雪かきや雪おろしといった辛い作業と闘いながら遠い春を待つ。僕のように雪国で生活をしたことのない者にはそういう苦労が実感としては理解できていない。テレビ番組の取材でいきなり北国を訪ねるレポーターと同じように、きっと駅舎を出た途端にスッテンコロリンと転倒するのが落ちであろう。とは言っても、年のうち二、三度くらいしか積雪を経験しない土地で育ったせいもあり、幼年の頃から雪景色への憧れは強く今でもそれは変わらない。一昨年の暮れだったか、あの時の寒波には久しぶりに震えあがったが、近年はずーっと暖冬続きである。昭和三十年代の終わり頃は、久留米でも軒下に氷柱(つらら)が下がることがよくあった。舗装のされていない路の窪みに張った薄い氷を、靴のかかとでバキバキと踏んづけ、家並みの途中に置かれたコンクリート製の防火水槽の氷を割ったりして学校へ通ったものだ。当時の小、中学校では雪が積もると授業をやめて、校庭で雪合戦をすることがあった。
 さて、この前の二月二日、福岡はかなり冷え込んだ。野暮用があって、いつもより早く起き、電車で都府楼に出かけることになった。僕の住む平和町の坂の頂きからは夕焼けが見えたりするのだけれど、この日の朝は明けやらぬ西の空にオレンジ色の円い月が低くとどまっていた。電車に乗り込むと、高校受験の日のようで、停車するたびに受験生が乗り込んできた。さすがにこういう日は若い人たちもおとなしく、じっと参考書を見つめていた。都府楼で下車し用を済ませると、空にはもう明るい陽があがっていた。昼まで自由になる時間があるので政庁跡から太宰府天満宮までの路を歩いてみることにした。政庁跡の山手の路はほとんど車に出会うことなく散策でき、ほどなく観世音寺に着いた。天平の頃、八十年以上の歳月をかけて建立されたという。講堂の北側にパンパスグラスが植えられているのが大陸とのつながりを感じさせて面白い。境内に入り隣の戒壇院へ向かっていると、梵鐘のあたりで女性が枯れ落ちた枝を集めているのが見えた。観世音寺の戒壇院は奈良東大寺、下野薬師寺に置かれた戒壇院と共に天下三戒壇と呼ばれ、特に戒律が厳しい。山門の脇に、「酒」・「肉」・「韮」を持ち込むことを禁ずる石柱が立っている。764年に建立し、現在の本堂は1680年に再建された。本堂と山門を結ぶ軸線上のアプローチは畦のようになっていて、こちらから見た土塀、山門、本堂の甍、楠、背景の山からなるファサードは絵になっている。本堂の中には、両掌で輪を作った珍しいポーズの盧舎那仏(るしゃなぶつ)がおさめられていて、昼間は外光が本尊には届かないのだが、この時は朝日が射し込んで優しい表情が見て取れた。戒壇院の庭の一画に、一本の菩提樹(シナノキ科、中国原産)が植えられている。以前、梅雨のころだったか、淡い黄色の花が咲いていて、お香のような匂いがしていたことを思い出した。引き返して、田んぼや畑の多い閑静な「まほろば」の路を歩く。山裾にある家々の庭先にはロウバイや水仙の花が咲き、畑の野菜はうっすらと雪化粧をしている。路の曲がり角に土地の人が大切にしている祠があり、祀られた小さな仏の表情が何とも素朴で愛らしい。まもなく、昔、藍染川とか白川と呼ばれた御笠川の上流に出た。コンクリートブロックで固められた護岸は無粋だが、自然に土砂が堆積してできた州に茅が繁って、野鴨の営巣地になっている。川べりの駐車場も住宅も、さっきまで歩いてきた道筋の風景とはまったく繋がりが無く、途切れてしまっている。天満宮へ着いた頃から空が暗くなりはじめた。拝殿の右側にある飛梅は丁寧な枝づくりがなされていて、まだこれからという小さな蕾を結んでいた。茶店の並ぶ参道との境にある鳥居のそばに、筑豊の炭坑王と呼ばれた伊藤伝右衛門(歌人柳原白蓮の夫でもあった)の銘が入った石塔が立っている。ここを曲がって光明禅寺に寄ることにする。古びた廊下の奥にある畳の間に入って胡座をかいた。他に参観者は一人しかいないようだ。新緑でも紅葉でもない冬の枯山水を見るのは初めてかも知れない。しばらく座っていると、雪が降り始めた。本堂の甍を越えて舞い上がった雪は庭に接する山の斜面に跳ね返されるようにして、静かに庭に落ちていく。少しずつモミジの枝や地面の苔に雪が被り、庭が明るくなっていく。降り始めた雪はとどまる気配もなく、二十分ほどそうやって開け放たれた空間に対峙していると、良寛が詠んだある情景が思い起こされた。
   あわ雪のなかに顕(た)ちたる三千大千世界(みちおほち)
                       またその中に沫(あわ)雪ぞ降る
 このあたりのことは、中野孝次著「ひとり遊び」の中の「雪国今昔」に詳しい。少しずつ雪景色に変わっていく時間に出会った幸運に感謝し、帰りに熱い蕎麦を食べて太宰府をあとにしたのだった。











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22.教会のある風景

 元旦の朝、実家の庭木の手入れをしていると、落葉樹を止まり木にして辺りを窺(うかが)っている百舌(モズ)と目が合った。それほど警戒している様子でもなく、少し近づいても逃げようとしない。粗末な庭だが、背景になっている中学校の林からは(名前は知らないけれど)いろいろな野鳥の囀(さえず)りが聞こえ、気分がいい。今年は屠蘇の配合の加減が良かったようで、雑煮を食べながら何杯もお代わりをした。翌日、福岡に戻ると暮れからの仕事が控えていて、賀状の返事を出すのが遅れてしまった。ようやく成人の日、連れだって薬院にある小烏(こがらす)神社まで歩くことにした。浄水通と御所ヶ谷に挟まれた坂道沿いには教会や女学園があって、坂の向こうに白い空と陽に照らされた雲が見える。半時ほど歩いて薬院の閑静な住宅地の路地に入ると、姿のいい小烏神社の石の鳥居があった。石段をあがると小さな広場と緩い傾斜地に建てられた拝殿があり、木立を通して冬の陽が射している。歴史が古い社らしく御利益があると知人に聞いたことがある。太宰府天満宮や筥崎宮とちがって、近所の人たちが普段参ったり夏祭りをしたりする小さな神社も、またいい。参拝をして石段を下りていると、正面の木造家屋の(一階屋根の上に造られている)物干場で丁寧に洗濯物を干している初老の男の姿が見えた。周囲がほとんど高層ビルやマンションに埋め尽くされている都会の一隅に、懐かしいまちの情景を見つけたように思えた。バスで移動し、上川端の櫛田神社と天神の水鏡天満宮を参り、書店で「古地図の中の福岡・博多」を買って帰った。現在と昔の地図を頭の中で重ねながら普段出かける場所の履歴を調べてみるのも、なかなか面白いものだ。夜、宗教的な建築や風景に想いを巡らせていて、ふと教会のある風景のことを思った。別にクリスチャンでは無いけれど、以前から教会がランドマークとなっている風景や、教会の内部空間には惹かれるものがある。大刀洗にある今村の教会は田園地帯の散村集落の中に立っていて、北野のコスモス祭の頃よく自転車で訪ねるのだが、距離が近づくにつれて尖塔が見え隠れする。鉄川与助の手になる今村教会の外観は平戸の田平教会(鉄川与助の設計施工)や五島の堂崎天主堂(鉄川与助の師であった野原与吉施工)にもよく似ている。内部は円形アーチのリブ・ヴォールト天井や柱頭飾りの付いた柱が特徴だが、ステンドグラスの色光が暗く沈んだ床や椅子に降り注いで美しい。信者ならずとも自ずと敬虔な気持ちに導かれてしまう。もう十年も前のことだが、暮れから正月にかけて天草を訪れたことがある。三池港から島原外港へ渡って島原鉄道で口之津へ向かい、早崎瀬戸を越えて鬼の池港に上陸した。島原地方の子守歌に歌われている鬼の池は本当に小さな港だった。ここからタクシーで苓北町の富岡に向かい、富岡城に近い宿に投宿。林芙美子が取材で泊まったというこの宿の横には、亜熱帯の地に見られるアコウの樹があった。上手なもてなし方と元旦の朝に食べた伊勢エビの味噌汁がとても気に入ったのを憶えている(この頃は贅沢だったなあ)。富岡城は天草灘に対して南北に突き出た陸繋砂嘴の先端にあり、宿から少し歩いた浜では初日の出も日の入りも見ることができた。頼山陽の有名な「泊天草洋」という漢詩があるが、東シナ海に続く天草灘に沈む落日を見れば、なるほどと頷ける。富岡から向かったのは、天草下島の西海岸を南下した地方にある大江天主堂と崎津天主堂である。この地方は江戸期、隠れ切支丹が多かった処で、キリスト教は崎津天主堂を中心に天草全域に伝わったらしい。蛇行する海沿いの道を、丘陵を縫いながら南下すると、丘の上に立つ白い大江天主堂があらわれた。昭和8年に建てられた八角ドームを持つこの教会は、フランスから赴任したガルニエ神父が私財を投じ、鉄川与助の手でつくられた。南側斜面にある石垣の横に洞窟があって、その入口に立つ手を合わせた白いマリア像が印象に残っている。彫刻家の佐藤忠良や船越保武の作品には「祈りの造形」と呼ぶにふさわしいフォルムのものが多いが、特に長崎にある二十六聖人記念碑の彫刻(船越保武作)には胸を打たれる。ふたたびバスに乗って河浦町の崎津へ向かいしばらくすると、高台から入江になった羊角湾と崎津漁港の小さな集落が見えた。そのひっそりとした集落の中に天主堂が立っている。「丘の教会」大江天主堂に対し、崎津天主堂は「海の教会」と呼ばれている。明治4年まで踏み絵が行われていた庄屋屋敷跡を昭和2年に赴任してきたハルブ神父が買い取り、昭和9年にやはり鉄川与助の設計によって建てられたゴシック風の木造教会である。踏み絵が行われた場所に祭壇がつくられ(すごい執念だ)、内部は畳敷きとなっていて、受難と信仰の歴史を辿る展示コーナーがある。羊角湾はチヌ釣りの好漁場としても有名である。訪ねた頃には埋立の話が持ち上がっていたが、反対の声が上がって事なきを得た。こんな所に、と思わせるような奥地にある港の集落に立つ天主堂の尖塔はまさに、信仰深い人々の心のランドマークとなっているように思えた。司馬遼太郎は「街道をゆく17」の中で、崎津を次のように描いている。「町のにおいは、……長崎にどこか似ている。というより長崎を圧縮して、暮らしのにおいでよごしたような町で、その狭く深い水面が、濃すぎるほどの青さでもって、町の色彩の無秩序さを力づよく浄化しているといっていい。」

21.博多部めぐり

 僕の仕事場のある平和町から天神、博多駅、六本松あたりまでは、自転車でゆっくり走っても20~25分もあればアクセスできる。天気が良ければ、仕事の打合せでなくてもカメラをリュックに入れ、ふらっと自転車でまちなかを巡ることがあるが、旧博多部やその周辺には興味を惹かれる場所が多い。旧博多部は概略、那珂川と御笠川(旧称は石堂川)に挟まれた博多駅から築港までのエリアで、聖福寺のある御供所町、櫛田神社のある上川端町、博多座のある下川端町、数年前に統合された博多小学校のある奈良屋町などは良く知るところである。福岡の町にくらべ博多の歴史はずっと古く、魏志倭人伝の時代にも遡る。中世、貿易港として栄えた博多が戦国時代の戦乱で荒廃したのち、豪商神屋宗湛たちの願いで秀吉が復興を司令し、石田三成らが奉行になって町割りが行われた。仏教思想に基づく都市計画は町を七条の袈裟に見立てたもので、七流れ(「流れ」は街路であり連合町内会である。)は江戸時代から敗戦の日まで博多の町割りの基本骨格となった。昭和二十年六月十九日夜の空襲で、旧い博多は焼け、わずかに御供所町から石堂川沿いの聖福寺近辺が残った。現在、博多駅から北西(築港)に延びる幹線道路「大博通り」沿いには、銀行や保険などの高層の業務ビル等が建ち並んでいる。それでも、この通りに直角に交わる幹線道路(北から那の津通り、昭和通り、明治通り、国体道路)によって囲まれた街区の内側には表通りとは違った博多らしいまちの表情がまだまだ残されている。僕が自転車に乗ったり降りたりして散策するのは、そういうまちの内側にある路地などである。聖福寺境内の廻りには、保育園や小さな禅寺などが並んでいて、普段歩いている人は少ない。境内の楠は戦後植えられ、間伐されなかったため、ひょろっとしているのが残念だ。以前は風化した聖福寺の土塀の風合いが心地よく、また四季折々の庭木が楽しめた。原種の木蓮や山吹が見事な花を咲かせる西光寺、かつて座禅道場となっていたらしい一朝軒、上呉服町との境界にある石の山門もよく辿るコースだ。山門のあるあたりは旧いたたずまいを残していて、昔は下普賢堂町と呼ばれた。昨年の雪のちらつく日、連れとここを歩いていると、自転車に乗ったお爺さんが路上に倒れていて、近所の店の小母さんと世話をしたことがあった。好きな酒が辞められなかったらしい。最近、買うことがなくなった祝時の極彩色の蒲鉾をつくっている店があったり、懐かしい木賃アパートなども見かけるし、山笠の季節に訪ねると狭い路地に思いがけなく子供御輿の姿を見つけたりする。聖福寺の東を流れる御笠川河畔はこの辺りだけは蛇行した州浜が残り、濃い寺の緑とあいまって心地よい風景をつくっている。橋を東に渡ると千代町に入る。ここにも国道3号線沿いの造り酒屋、「せんしょう」(旧大津町商店街の店が移転した先か?)、崇福寺など散策のポイントがある。造り酒屋では、毎年二月十一日、新酒を披露する蔵開きがあり、打ち立ての蕎麦と升酒を楽しむ人たちで賑わう。「せんしょう」は、三年ほど前、知り合いの建築家に教えてもらったのだが、韓国料理の食材が揃っている店が二店あって、これからの季節、チャンジャや牡蠣キムチなどを求めて鍋に加えると旨い。鮮魚店も多く、とても安価で新鮮、一人暮らしの高齢者などでも求めやすいように店主が考えてくれている。崇福寺は黒田家や頭山満などの墓がまつられている。別に展墓趣味(亡き文人たちの墓を訪ね歩き、その作品や人となりを静かに偲ぶ。)があるわけでは無いが、墓碑や庭のデザインに興味があって墓地や寺を歩くことがある。ここには、或る写真家の墓碑があって印象に残っている。昨年春の福岡地震のあと訪ねてみると、あちこちの墓碑が倒れていたが、さすがに黒田家などの大きな碑はびくともしていなかった。千代町から、昭和通りを通って西へ戻ると下川端の博多座と接する綱場町に出る。ここは仕事の関係で比較的最近、訪ねるようになった。地域計画コンサルタントのオフィスがこの一画のビル最上階にあり、楽しくお付き合いをさせてもらっている。ある日オフィスでの打合せが終わって、Tさんと階段踊り場に出て、煙草を一服しながら、ビルの谷間にある旧い低層の建物群を俯瞰した。紙や服地の問屋や昔から営んでいる酒屋、居酒屋などが寄り集まった街区の内側には、建築が大型化、高層化してきた表通りとは異なる時間が流れているようだ。仕事を終えると、Tさんとたまに、その中の角打や居酒屋で一杯やることがある。角打のおばさんも居酒屋の大女将もかなりの高齢だが元気がよく、こちらが訊ねると昔の町の様子などを話してくれる。客層は中高年が多いが、大将の腕が冴えていて、暖かい雰囲気の居心地の良い店である。近くには博多で一番旧いと言われるクラシック喫茶もあって、お洒落な年輩者のサロンともなっている。都心で働くサラリーマンや地元の人たちのくつろぎの場となっているビルの谷間、ここにも佳き時代の博多が息づいている。



20.唐津のこと

 福岡天神から市営地下鉄(姪浜でJR筑肥線に接続)に乗って一路、西へ進む。地上へ出て筑前深江を過ぎたあたりから、二丈の海が断続的に見え出す。やがてサーファー好みの白い波が寄せる鹿家(しかか)の静かな砂浜があらわれると、もう唐津湾域である。虹の松原の東端、玉島川河口に位置する浜玉町を初めて訪れたのは今から七年前の晩秋の頃だった。JR筑肥線の浜崎駅で下車し、海の方へ少し進むと唐津街道に出る。街道沿いの或るお寺の移転跡地を広場にする仕事で、設計工期が短く何度か徹夜を余儀なくされた。大きなクスノキや山門を残して地元の曳き山廻しの拠点ともなる広場が完成して一年近く経った頃、思いたって虹ノ松原の浜を唐津へ向かって歩いてみることにした。幅400~1000メートル、約100万本と言われる黒松が5㎞程続くこの松林は、江戸時代に藩主寺沢広高が防風林として植えさせたものである。夏場は一部がキャンプサイトとなっているが、浜は傾斜があって海に沿っては歩きづらい。ただ、人の少ない荒涼とした風景がアンドリュー・ワイエスの絵のようで、惹きつけられたのだった。右肩下がりの姿勢で長く歩くのはつらく、時々後ろ向きに歩いたり、流木に腰掛けて休んだりした。足元の砂浜に千鳥の細い足跡や波の引いた痕跡があった。松原は松浦川の河口近くまで続き、橋を渡って唐津に入った。唐津湾にせり出した小高い地に唐津城の天守閣が建っていて、ランドマークになっている。ここから眺めると、唐津湾-虹の松原-鏡山-松浦川-市街地がパノラマで見渡せる。唐津を訪れていつも感心するのは、町の存立基盤となっている自然地形や地理的条件がはっきりとしていて、歴史的な背景が息づいていることだ。唐津城周辺部の景観地区は旧い屋敷や石垣、珍しい笹垣といった街並みだけでなく、文化施設が充実し、案内サインが整っていて、よく考えられた街づくりがなされている。唐津市役所・バスセンターとJR唐津駅を結ぶ一帯に中心市街が形成され、鮮魚店や鮨屋、唐津焼きの店、川蟹の炊き込み飯を売っている店など魅力のある店が多い。鮮魚店がいくつか集まるマーケットがあるが、扱っている魚介の種類が豊富で、飛びきり鮮度が良く、しかも、安価である。買いに来るのも一般家庭の主婦が多いと聞いた。生鯨のうねやボラのへそ等は博多では手に入らないかも知れない。また、唐津焼きを扱っている店が並ぶ商店街の中には、陶芸教室があったりする。場所は松浦川東側になるが、旅館洋々閣のギャラリーには隆太窯の箸置きや湯呑みなど、求めやすいものが並んでいる。隆太窯のモダンな感覚が好きで僕も愛用している。 
 毎年、文化の日前後の三日間、町は「唐津くんち」で賑わう。初日の宵山に始まり、お旅所神事、町廻りと続くこの祭りは十六世紀末の発祥だが、現在のような「曳山」(ひきやま)は江戸後期に始まったらしい。墓地公園を設計する仕事で唐津にはずっと昔からよく出かけていたが、「くんち」を見に出かけたのは六年前のことだ。唐津出身の建築家、辰野金吾の業績を紹介する展示の仕事に参画することになった関係で、建築設計事務所のKさんに誘われて出かけた。坊主町の辺りだったろうか、午後、市役所に勤めてある方のお宅を訪ねると、玄関先の作業場で女性達が忙しそうに料理を作っておられた。二階に上がって窓から屋根の上に出ると、路地のように狭い道沿いの家々の屋根や窓辺に、同じようにたくさんの人たちが今か今かと曳山を待つ姿が見えた。その中にひとりポツンと路地へ目をやっているお爺さんの姿があり、印象に残った。やがて、囃子の音や「エンヤ、エンヤ」という掛け声とともに、数トンもある曳山が近づいてきた。和紙と漆の一閑張り(いっかんばり)という手法で作られた勇壮、華麗な「獅子」、「兜」、「飛龍」などのヤマが目の前の家並みに曳き込まれ、リズムを速める曳山囃子が曳き子の気迫を後押しする。黒い股引と腹掛姿の男達が何ともいなせだ。江戸時代からの町名をそのまま残す唐津の町で繰り広げられる伝統の祭り、俯瞰する家並みに曳山の漆の色がよく似合っていた。喚声が静まって階下に降りると、豪快なアラの丸煮や大皿に盛られた刺身をはじめとする自慢のくんち料理で宴会が始まった。そのうち曳き子たちも集まって大いに盛り上がり、この夜は唐津泊まりになったのだった。












19.瀬の本高原

 十月初旬、仕事で瀬の本高原を訪ねた。博多から日田、日田から杖立へと乗り継ぎ、迎えに来て下さった相手先の車で小国を経由し、瀬の本へ向かう。なだらかにうねった高原は薄(ススキ)に覆われ、他の樹木に先駆けてドウダンツツジが鮮やかな紅葉を見せ始めている。薄の原というと不毛の地を意味するように思われがちだが、薄は牧草や茅葺き屋根の材料となる有用植物で、久住や阿蘇では太古の時代から定期的に草刈りがおこなわれ維持されてきた風土景観であり、観光資源ともなっている。これから穂が膨らみ銀色に輝くようになると、山肌も深くあたたかな色に染まりはじめる。遠くに白い煙が見えるので尋ねてみると、来年の春先おこなう野焼きの準備のために周縁部を焼いているのだと教えて下さった。まもなく赤い屋根の三愛レストハウスが見え、車はここから少し上った「やまなみハイウェイ」と筋湯温泉方面へ向かう道路の分岐点(「筋湯温泉口」)に着いた。標高1050~1100m程のこの場所から眺める阿蘇五岳や瀬の本高原は、東から南、西へと展開し、ため息が出るほどだ(近くに、絶景を詠んだ与謝野鉄幹・晶子夫妻の歌碑が建っている)。国立公園区域内にあるこのエリアでは、一定条件のもとに特別に事業地としての整備が許可され、二年前からひとつの「ヴィラージュ」(むら)が建設されている。僕がこのプロジェクトにランドスケープデザインの立場から参画することになったのは建設が始まる一年前だった。植生や地形、景観についての調査、「ヴィラージュ」全体の構想、誘致施設の配置計画、外部空間の設計監理と関わることになり、現在オープンしているケーキショップ、ホテル、温浴施設、エステ、陶芸工房、美術館、旅館の利用者も多いようだ。「ヴィラージュ」建設のディベロッパーでもある相手先の子会社が経営する温浴施設に二泊して、隣接地に誘致予定の施設の配置プランを作成するのが、今回の仕事である。この温浴施設は、ラウンジと雑木を中心とした中庭、離れ形式の家族湯(源泉かけ流し)から構成されていて、広さや仕様の異なるどの離れからも阿蘇や雑木林の風景が楽しめる。今回の打合せを済ませたあと、スタッフの人たちに中庭の修景の仕方について実地指導をおこなった。陽が落ちると、山は冷え込む。食事を済ませ、用意してもらった離れに入り、風呂に浸かった。無色透明でなめらかな湯質で切傷に効能があるらしい。早めに床についたせいか夜中に眼が覚め、デッキテラスに出てみると黒い天蓋に大粒の星が輝いていた。朝湯に入るとガラスの向こうに雲海に浮かぶ涅槃のような阿蘇五岳が見えた。ちょうど二年前の今頃、僕はケーキショップの庭づくりの監理をするために、近くのユースホステルに連泊していた。開店の日が迫る中、颱風が次々と襲来し、雨や霧の日が続いて現場の作業は難航した。颱風の猛烈な風で地上の小石が巻き上げられ飛んでくる。建設中の建物のガラス面をベニヤ板で養生し、颱風が過ぎるのを待つ。現場の火山灰土が霧でぬかるみ、石積みや植栽は手間取り、苦労した。なんとか工事が終わり、福岡に帰る夜、現場監督が熊本まで送って下さった。深い霧の中を、道を熟知している監督は普段の速さで車を走らせた。突然ブレーキを踏んだ車の前方に、二頭の大きな鹿の姿が見え、すぐに見えなくなった。生まれて初めて見る野生の鹿だった。開発されていく森から餌を探しに移動していたのかも知れない。湯船に浸かって眼をつぶっていると、そんなことが思い出された。朝食の前に附近を歩いてみると、夜露に濡れた草むらにシオンやアキノキリンソウ、ミズヒキ、オオマツヨイグサなどが可憐な花を付けていた。こういう場所での花のガーデニングは都会とはちがって、土地に見られる野の花などを主体にして考えるべきだと思う。三種類ぐらいの野草を手折ってラウンジの女性に渡すと、適当な花器に生けて飾ってくれ、その気持ちのよい対応が僕は気に入った。二日目は昨晩考えた配置プランを清書し、現場でイメージスケッチを起こすことにした。思い描く建築や庭が、現場の風景の中でどのように見え隠れするか、隣接する空間とどのように繋がっていくかを考えてみる。平面図では把握できない風景を現場で捉えることは大切なことで、作業自体も大変愉しいものである。うららかな日和にこういう場所で好きな仕事ができることに深謝。テラスから東の方に見える久住へ続く山塊は、紅葉が進むにつれ、その夕景が美しい。「季節や日、天候によって様々に変化する風景に飽きることがないですよ」と、スタッフの人たちは口を揃える。五月連休頃の新緑、冬のモノトーンの世界もまた魅力的である。黒川や湯布院とは違った、スケール感のある風景に対峙し包まれる開放感が瀬の本にはある。広大な風景の中に溶け込み、眺望を満喫できるゆったりとした空間づくりはもう少し続きそうだ。みなさんも、ドライブの途中ぜひ立ち寄ってみてはいかがですか。








18.風景と記憶

 いつも歩く道の端にツユクサ(露草)の花が咲いている。日本的な何とも言えない冴えた青色をしていて、染料にも使われるらしい。傍らにはネコジャラシの群れが風に揺れ、すっかり秋のけはいを感じるようになった。久しぶりに書店に出かけてみると、女優、檀ふみさんのエッセイ集「父の縁側、私の書斎」(文庫本)が新刊コーナーに並んでいた。装幀の表に父、檀一雄さんと並んで縁側に佇んでいる(若い頃の)ふみさんの写真が使われていて、檀一雄が晩年(一年間)移り住んだ能古島の家「月壺洞」のことが始めの方に書かれている。今年の五月、初めて能古島の家を訪ねたとき強い印象を受けたこともあって、迷わず購入した。檀一雄が能古島を療養の地と決めたときの話や、ふみさんの父や能古島に対する想いがしるされている〈……いつか能古島に、月の光がいっぱい入るような家を建てよう。大きな窓にもたれて、父の好きだった音楽を聴きながら、静かにお酒を飲もう。そのとき、きっと父は私のかたわらにいる。なんだかそんな気がしてならない(抜粋)〉。「月壺洞」だけでなく、ふみさんや家族が暮らした家での生活風景が、縁側や土間、インテリア、庭とさまざまなモチーフの中で生き生きと描かれていて、興味深い。

 僕の仕事場のある平和町は坂や緑の多い少し山手の住宅地だが、近年、少しずつ戸建住宅や庭の緑が減り、高層マンションが増えはじめている。平尾界隈になるとそれ以上に、買収→駐車場化→ビル建設の動きが激しく、以前のまちかどの風景が思い出せなくなることがある。まちがキレイに整えられていく一方で、路地や草地のような「裏」、「すきま」の空間のもつ生きた表情が失なわれていくような気がする。今回は造景茶話の初回に書いた久留米の生家のこと(続き)やその周辺のことにふれてみたい。
 盆に久留米に帰省した折り、生まれ住んだ荘島町の家の周辺を歩いてみた。生家が解かれてから十七年ぐらいになる。感傷的な気分も手伝って、長い間、僕は近くに立ち寄らなかった。久しぶりに訪ねた生家跡には二階建ての住宅が建っていて、以前よりも間口が狭いように思われたが、隣や向かい隣は昔と変わらなかった。月極で借りていた近くの駐車場には、父の手書きのネームプレートがのまま残っていてトマソン物件になっていた。僕たちの住んでいた家は、奥行きのある四十坪の敷地に「まちや」風の構えをした平屋建で、右端に簡素な玄関があった。玄関を入るとすぐ半間幅の土間(通路)となっていて、自転車が二台置かれていた。近所の人たちや父の絵の仲間たちは、この狭い通路をかいくぐるようにして出入りしていた。道に近いほうから、貸事務所、畳の間、板の間と続き、中庭を介してアトリエがあった。通路はクランクして畳の間に上がるところで一間幅の土間になっており、ずっと昔はそこに副業の一つだった製麺の機械を置いていたが、暮らし向きが幾らか良くなって台所に変わった。製麺機があった頃、モルタルの壁には仕入材料の数や電話番号などがチョークで書かれていた。兄や僕が遣いにやらされる時、父は土間の床にチョークで地図を書くのだった。軽い用があって訪ねて来る人たちは、映画「男はつらいよ」のタコ社長のような感じで、たいてい畳の間の縁に腰を掛けて話をして行った。親しい人たちが来ると、掘り炬燵のある板の間にあがってもらい、食事をしながらの団欒が始まった。聴力を失った絵描きさんでマリーローランサンのような叙情的な絵を描く人がいて、よく我が家に遊びに来られた。障子戸をいつも開けていたため、板の間からその人の姿が見えると、僕たちは一段高い畳の間のテレビの上に置いてあるメモ紙と鉛筆を取ってきて父に渡した。筆談で始まる会話も、お酒が入ると父は自分の掌をその人に向け、指で文字を書いた。どちらも声が大きく、遅くまで賑やかな絵画論が続いた。千本杉にあるその絵描きさんの家の庭に柿の木があって、僕と兄は柿ちぎりに行った。竹で作られた道具を使って採った柿はとても甘かった。
 小学生の頃、家には未だ風呂がなく、金盥(かなだらい)での行水か銭湯通いだった。我が家が利用する銭湯は二箇所あって、その一つは新大工町にあった(今は荘島町の一部)。家の南にある銭湯まで歩いて十分ほどの路地には、木の電柱が所々に建っているだけで、暗い路と電球のそばに張り付いているヤモリが恐かった。銭湯のそばに氷屋や駄菓子屋、貸マンガ本屋があって楽しみはあったが、その銭湯は照明が暗く、お湯がやたらと熱かった。この辺りも今はすっかりと様変わりしているが、まだ面影を留めている新大工町の一画に青木繁の生家(と言われている)があり、五、六年ほど前に復元整備されて記念館となっている。久留米市は近代洋画の巨頭、青木繁や坂本繁二郎だけでなく、森三美、古賀春江、松田諦晶をはじめとして数多くの画壇が輩出している地である。今年の六月、水天宮に近い京町にある坂本繁二郎の生家が特別公開された時も、やはり訪ねてみた。一時期、青木も滞在していたらしい。前庭を通って玄関をあがると、天井の低い畳の間が続き、そこに絵画や年譜、書簡などが陳列され、来訪者や市の職員、新聞記者、関係者などでにぎわっていた。これから三年ほどかけて調査、解体、復元整備し、やはり記念館とする意向らしい。廊下の横に中庭があって、その辺りだけがほんのりと明るい。僕が庭を眺めていると、腰の曲がった高齢のお婆さんが廊下を歩いて来られ、「庭は昔はこうだった」、「庭も昔のように残してほしい」と誰にともなく語られた。何か坂本繁二郎と縁のありそうな女性に思えた。石橋文化センターにある美術館横の庭園の一画には、八女にあった坂本繁二郎のアトリエが移築されている。画家らしく北側の吹き抜け空間に光を取り入れるように作られている。八女にあった頃は、アトリエの周りには草が生い茂り、坂本繁二郎はその生い茂る様を愛していたらしい。移築先の周辺環境は、そのあたりまでは考えられていないようだ。画壇の作品や生涯については、多くの研究者が著作として記しているが、あまり知られていないエピソードや見方もあるだろう(例えば、青木繁は激しい気性という側面ばかりが誇張されがちだが、デッサンの中には優しさや叙情性が伺えるものが多い)。あまり知られていないエピソードの中に作品や人物像をとらえ直す新しいヒントが隠されているかも知れない。手がかりを知る人たちも随分と高齢化している。綿密なヒアリングなども記念館建設と平行して行うべき急務だと思われる。














17.蝉しぐれ

 梅雨が明けると一転、真夏日が三週間を越す酷暑である。僕が小学生の頃(昭和三十年代後半)、夏休みに昆虫採集をする友だちがいて(僕はお手軽な植物採集派だった)、蝉の仲間だけでもニイニイゼミ、アブラゼミ、クマゼミ、ツクツクボウシの他にミンミンゼミやヒグラシ、そしてどこでどうして手に入れたのか、珍しいものまで標本にして来る者がいた。まちなかで普通に見かける前の四種にくらべ、ミンミンゼミやヒグラシは山や高原に行かないと声を聴くことができなかった。その頃、杖立温泉にある従妹(いとこ)の家に泊まりがけで遊びに行くのが楽しみだった。杖立川で素潜りをしたり、木舟を竹竿で操って遊んでいると、ヒグラシの「カナカナカナ…」という音色や岩陰に棲むカジカ(蛙の仲間)の声が涼しげで、別天地にいるようだった。最近、ニイニイゼミは見かけることが無く、アブラゼミの数も減ってきているように思える。仕事の縁でときどき出かける福岡の生松台辺りでは七月からヒグラシの声を聴くが、都心はクマゼミの蝉しぐれ一色である。蝉しぐれをうるさく思うか、瞑想的な静かなものとして感じるかは人それぞれであろう。今年の夏は友人の手伝いで庭の手入れに何度か出かけている。繁った庭木の剪定で落とされた枝葉を集めたり除草をしていると、蝉の這い出た穴や抜け殻をよく見つける。彼らも地上でのわずかな期間を懸命に生きているのかも知れない。今回は日帰りの旅の風景を少し。

 柳川の有明海に面した干拓地(橋本町)に四十万本の向日葵(ひまわり)が咲いていると聞いて、八月初めに電車に乗って出かけた。柳川駅から市の送迎バス(ワゴン車一台のみ、無料)が出ていて、十数名がいっせいに乗り込んだ。スタート地点で満杯になったまま、中継地点で待っていた人を乗せられずに、時間調整だけする対応ぶりがまずいなと思っていると、運転手をつとめる市職員男性が申し訳なさそうに弁解した。六㎞程走ると、以前、仕事で来たことのある干拓地に「柳川ひまわり園」があった。目線より少し低い背丈のロシア向日葵だ。鮮やかな花の群れが一様に太陽の方を向いて立っている。少し高い視点から俯瞰できるように物見台が作られていたようだが、地上からは全体としての迫力が感じられなかった。四十万本と聞いて、もっと大型のロシア向日葵が延々と広がる情景を僕はイメージしていて、高校時代に観た映画「ひまわり」(ソフィア・ローレン主演の名画)のシーンを勝手にダブらせていたのだった。運転手にたずねると、「昨年は背丈のあるものを植えていましたが、地上からは遠景の向日葵が見えないと言われ、少し小ぶりなものに替えました」という説明だった。本来のロシア向日葵に戻して、水平方向に長く植え、遠景の有明海と共に一望できる高さのある物見台を設けてはどうかと思いつつ、早々に引き揚げ、帰りに沖ノ端に寄ってみた。川岸に停泊している漁船の姿はあったが、コンクリート護岸や無粋な遊歩道が設けられ、昔見た絵になる風景とは違っていた。どんこ舟乗り場のある堀端近くに鮮魚店があり、覗いてみると有明固有の魚貝が並んでいた。クッゾコ(クチゾコ、舌びらめの一種)が笊(ざる)に盛られて破格の値で売られている。手長エビや赤貝も懐かしいし、グチやコノシロも跳びきり新鮮だ。こうした新鮮な有明の魚を安く食べさせてくれる店がそばにあったが、ソーラーボート大会と重なったせいか休みだった。ならば、ということで「御花」のレストランに入ると、奥の方がガラス張りとなっていて、庭園と堀割の緑が見えた。僕は堀割の見える席を選んで、ビールとワケノシンノス(いそぎんちゃく)の味噌煮、定食を頼んだ。コリコリとした歯ごたえと滋味を楽しみながら外を眺めると、堀割の水面を照らしてはねかえった光の輪が手前に立つ大きな落葉樹の葉陰の中で揺れていた。水と緑と光の創りだす自然のディテールがとても美しく見とれていたら、どんこ舟がゆっくりと通りすぎて行った。柳川の堀割を巡ると、そのような「水の構図」があちこちに散見でき、造景のヒントを得ることがある。
 別の日、連れだって阿蘇の草千里を見に出かけた。早朝に博多を出発、熊本で豊肥線に乗り換える。肥後大津を過ぎたあたりから沿線に杉の並木が現れはじめ、ここが大津街道であることに気づいた。勾配が急になり始める立野駅で列車はスイッチバックを行った。駅の近く、南側の俵山の方向に風力発電の巨大な羽がまわっているのが見えた。田園の緑、淡い山稜、水色の空、入道雲が車窓に映っていて、乗客も子供や学生達が目立つ。夏休みの風景である。左手に大観峰の平たい稜線が見え始め、まもなく阿蘇駅で下車。そばにある道の駅でカシワ飯、高菜漬けなどを買って、バスに乗り込む。登山道路の高度が上がるとユニークな形をした米塚(標高954m)が見えてくる。周囲の高原に淡く黄色い野の花が群生している。夕暮れに咲き、朝日が高くのぼる頃にしおれてしまうというユウスゲの花だろうか、話には聞いていたが実際に見るのは初めてだった。杵島岳(標高1321m)の横を過ぎた処でバスを降りると草千里が拡がっていた。福岡や久留米の街にくらべ10度は低いようだ。うねった地形の中にわずかな水を湛えた二つの池があり、放牧された牛馬たちの水場になっている。白く光る池の縁だけが黒い土塊で、周りは緑である。米粒のように見える牛の群れがときどき移動する。変わりやすい雲の動きや陽射しの強弱によって、草千里の風景は絶えず変化している。せめて、骨格だけでも描いてみようと僕たちは一時間ほど鉛筆でデッサンをすることにした。坂本繁二郎の描いた一枚の牛の絵があり、夏目漱石は考える牛だと評したらしいが、草千里の牛の姿を見ていると、僕たちなりに考えさせられることがある。静かな時間を過ごして後ろを振り向くと、ドライブインの建物や車が草千里という場所性にそぐわない異質なモノに見えたのだった。自己主張せず、風景の中に埋まって見えなくなるような造成計画やデザインがあってもよいように思えるのである。





















16.海の日

 七月に入り、高温多湿の日が続いている。福岡の都心部のように舗装され尽くした過密地帯では、少し歩いただけでも汗ばんでくるが、海の近くに行けばいくらか涼しく感じられる。先日、調べものがあって百道の総合図書館に出かけた帰り、久しぶりに西新の街を歩いてみた。リヤカー部隊や昔からの鮮魚店、八百屋、乾物店、惣菜屋、路地市場、大衆食堂や居酒屋、蕎麦屋に中華料理店、とさまざまな店が軒を連ね、買い物や散歩を楽しむ人たちも老若男女、幅が広い。店主の愉快な口上に乗せられて、思わぬものを買ったりすることもあるが、顔の見える客とのやりとりには活気と暖かみがあって、界隈のそうしたにぎやかさが僕は好きだ。鬱陶しいこの季節、旬の食材は楽しみをともなった別の季節感を教えてくれ、気分が明るくなる。特に鮮魚店には自然と足が向いてしまうところがあり、この日、立ち寄った店には、アジ、イサキ、セイゴ、チヌ、クロ、マダイ、キス、コチ、アラカブ、メバル、カツオ、カワハギ、ウナギ(天然)、タコ(手長ダコ)、イカ、ホウジョ(細長く小さい巻き貝)、トコロテン(突いていない四角いもの)等が並んでいた。近海ものが多く新鮮で価格も安い。夕餉の材料にセイゴ、タコ、ホウジョを買って帰り、塩茹でしたホウジョを酒肴に、酒蒸しやタコ飯などを楽しんだ。店主がタコとホウジョの茹で方の違いを丁寧に教えてくれたのも嬉しかったし、小さな青果店で買った格安の枇杷もいいデザートとなった。

 博多山笠が終わって梅雨があけると、青い空に夏雲が立ちはじめる。「海の日」がやって来ると、僕たちは待ちかねたように海水浴に出かける。海水浴は昔、湯治のような療養を目的として行われたらしいと何かの本で読んだことがあるが、実際、体調がすぐれない時など、浜辺をしばらく散歩すればずいぶん恢復することを僕は何度も経験している。潮風に含まれるミネラルや潮騒とか風景の持つ浄化作用のためかも知れない。時間やカネがあれば沖縄や八重山諸島のような遠くの美しい海や島へ出かけられるが、そうでない場合でも、近場にそれなりの佳いところはあるものだ。二つほど紹介したい。
 今は福津市となった津屋崎「恋の浦」の東側には、弓状に広がる松林と砂浜があって、一画が「白石浜海水浴場」として夏場だけ開放されている。車を浜辺に進入させずに、仮設の有料駐車場で止め、地元の人たちが管理している。この人たちの清掃のお陰で海開きの頃の浜辺はゴミひとつ無く、とても美しい。昔懐かしい木造の「海の家」が、松林の中にそっと収まっているのも好感が持てる。海の透明度は高く、風の無い晴れの日が続けば、ラムネ色の海の底を泳ぐキスやエイ(稚魚)の姿をはっきりと見ることができる。数年前にハンマーヘッドシャーク(しゅもく鮫)が少し沖を泳いでいて騒がれたことがあるので、心配な人は事前に確認するとよいだろう。浜辺の南西に岩場があり、けがをしないように磯靴を履いて干潮時の潮だまりを探索すれば、親子で海の生き物たちを楽しむことができる(以前ここで釣りをしていて、タコが掛かったことがある)。白石浜に続く一帯には「白砂青松」の自然海浜が残されていて、砂浜のどこかにはウミガメが産卵に来るとも聞く。ゴミや喧噪を持ち込まないことが、この美しい浜を楽しむ基本である。帰りに津屋崎の海辺にある温浴施設で、疲れた躰をほぐして休んでいくのも悪くない。
 西鉄宮地岳線に乗って新宮駅で下車すると、線路の西側に小さな道がある。野菜畑の横を通ってガーデニングの上手な住宅群の脇を進むと、草地と松林が現れる。松葉の積もった薄暗い林を抜けて浜へ出ると、低い砂丘の向こうに遠浅の海が広がっていて、感動的でさえある。新宮浜は夕日の美しいスポットなのだが、浜辺へのアクセスの良さがあだとなって海水浴シーズンはたいてい混雑している。その上、日焼け止めクリームが遠浅の海に溶け込んで気分のいいものではない(少し早めに出かけることをおすすめする)。という訳で、僕たちは向こうに浮かぶ相ノ島ヘ渡ることが多い。浜辺を三十分ほど歩き、新宮港から船に乗る。相ノ島はクロワッサンのような形をしていて、港から歩いて島を周回するだけでも磯浜や断崖、丘陵、耕作地、集落と変化に富む地形と風景を楽しめる。また、海上交通の拠点としての島の歴史を紐解くのも興味深い。昼前に島に着けば、港の購買部でソーセージやパン、飲み物を買ってもいいし、小綺麗な食堂でサザエ丼などを食べるのもよい。時計と逆回りのルートの場合、小学校の上の坂道を歩いて行く。道端の畑には朱や黄色のカンナの花が咲き、夏休みの校庭にはヒマワリの花が咲き始める。真夏の頃ならば蝉時雨の降る木立を縫って三十分程歩くと黒い磯浜に出る(入口が少しわかりにくい)。島の人ぐらいしか来ないこの磯で、僕たちは素潜りをしてよく遊ぶ。大きな浮き袋を用意し、水温の変化と潮の動きに注意して海中の魚(ベラ、アラカブ、クロ等)を見たりするのだが充分楽しめる。冷えた躰を磯の石で暖めて着替えたら、平たく円い小石を探して水切りをして遊ぶ。石はどれも黒くて丸くすべすべしていて、掌に握ると気持ち良い。島には砂浜が無いため、ここで採れたサザエは砂を食(は)んでいず、ツノがまた美味しい。帰りの船の時間を考えて島を回ったり、港に引き返したりするのだが、毛並みのよい猫をたくさん見かける。いつだったか、帰りの船を待っていると、小さな漁船が船溜まりに帰ってきた。船の上で魚を捌(さば)いていた漁師がヤズか何かの頭を岸壁へボーンと放つと、先程から様子をうかがっていた猫たちがいっせいに凄いスピードで飛びついた。長閑な光景であった。懐かしい風景に出会ったり、素朴な遊びに興じたり、新鮮な魚介を食したりと、旅人の目から見た相ノ島の魅力も尽きないが、網の手入れをする老漁師、船の荷を運ぶ女性たち、角打に集まる男達など、島の生活風景の一端に触れるのも楽しみのひとつであろう。




























































15.佐賀小景

 忙しい日が続いていたので、何処かに息抜きに行こうと、六月はじめの夜、連れだって福岡市の南西部にある脇山に螢を観に出かけた。脇山は室見川支流の上流域にあり、6㎞ほど上りつめればもう佐賀県の背振である。西新からバスで一時間、終点の脇山小学校前に着いたのは九時近くだった。小学校の横に幅一間くらいの石積護岸の水路があり、水のせせらぐ音がした。それほど蒸し暑くは無かったが、水路の脇に繁っている灌木や喬木(きょうぼく)には三十ばかり、黄緑味を帯びた螢の光が明滅している。子供達が川の掃除などをして螢の誘致や保護につとめている旨の立て札があった。僕たちの他に観に来ている人はいず、学校の体育館の照明が灯り、地域の人たちがバレーボールをしているらしかった。特別な螢の名所では無いためか、却って車のライトや人だかりもなく、昔ならどこにでもあったような懐かしい身近さを感じた。夜の田んぼに薄い月明かりが写り、久しぶりに聞く蛙の合唱に耳をすました。気持ちのいい里山の空気を吸いながら、帰りのバスのない道をしばらく歩いていると、横を流れる川土手の暗がりに螢を探している一家族の姿が見えた。
 それから十日ほど経って、佐賀のまちづくりに関するイメージスケッチを十枚ほど描く仕事が終わり、スケッチを届けたあと、一人で佐賀城内周辺を歩いてみた。仕事先の人に教えられ、県庁の最上階にあるレストランで昼食をとることにした。遠景は白く霞(かす)んでいたが、佐賀らしい大地の広がりがあり、手前の方にクスの緑やクリークが見えた。食事をしながら、僕は柳川のように木舟が浮かんでいる情景を思い浮かべた。県庁を出て、南へ向かっている石畳の道を歩くと、濠に出た。近くに復元した佐賀城本丸の城垣があって、技量を感じさせる石垣とお粗末な石垣が並んでいる。石垣の積み方にはたくさんの種類があるが、それらの技術を発揮できる職人さんの活躍の場が減り、また後継者もなかなか育たないようだ。最近よく見かける石垣には特に間詰(まづ)め石の意味をはき違えているものが多い。右廻りに濠端の散策路を歩くと魚影が見えたが、ブルーギルのような外来種ばかりで在来種は駆逐(くちく)されているようだった。枯色をした蓮の茎が、まだ葉をつける様子もなく立っていた。記憶を辿って、西側にある与賀神社あたりまで来ると、多布施川から導水しているらしいクリークがあった。水深は浅く、よく澄んでいて、ベージュ色の砂地の底が見える。ハヤ、ウグイの他にカマツカが泳いでいる。少年時代の筑後川でよく見ていたカマツカは、最近なかなか見かけることが無く、佐賀のクリークの豊かさを感じた。梅花藻(バイカモ)の房が横になって揺れ、小さな白い花を付け始めている。佐賀の方言でいう「エンブ」(トンボのこと)が、その梅花藻のあたりを水面すれすれに飛んでいる。夏の終わり頃だったと思うが、幼い頃、久留米の生家では、佐賀から来た行商の小母さんからヒシを買って食べるのが楽しみだった。ヒシは流水には生息しないらしく、クワイなどに似た土の味がした。国道207号線を渡り、護国神社あたりから多布施川の方へ歩いて行くと、水量はさらに増え、流れも少し速くなった。随所に川池棚が残っていて水が綺麗だ。今では洗い場にはなっていないかも知れないが、子供達のいい遊び場になったりするのかも知れない。クリーク沿いの土手に、センダンが大きな枝を水面まで伸ばし、その横にはザクロの朱い花が咲き、はやくも夏を感じさせる。水の流れにつられて歩いていると、一軒の古い木造家屋が目にとまった。護岸の上のわずかなスペースに繁った樹木の影に、紫陽花やビョウヤナギの花がひかえめに咲いて、書斎らしい部屋の窓に本が並んでいるのが見えた。室内からの眺めを想像し、その住まい方がうらやましく感じられた。
 方角を東に変え、長崎街道を歩いてみる。黒っぽい安山岩の石で作られた江戸時代の「えびす」が残されていて、きちんと花が供えられている。しばらく歩くと鍵状街路の脇に駐車場になっている空地があった。向こうに黒漆喰の長屋門が見えるので入っていくと、けたたましい声で二匹の犬が吠えたてた。空地のどん詰まりに幅一間ほどの水路が通っていて飛び越えようかどうか迷ったが、引き返して向こうの道にまわることにした。長屋門は県(だったか)重要文化財に指定されていて、画家岡田三郎助の生誕の地でもある。近くに久米桂一郎の生家跡もあり、二人は黒田清輝などと同じ近代絵画の流れを汲む白馬会の創設に関わっている。二時間ほど歩いて随分と汗をかき、何処かで休もうと佐賀駅へ向かう大通りに出ると、ちょうど目の前に喫茶店があった。外から様子を伺うと、平日の昼間だというのに客で一杯だったが、後ろから人の善さそうなマスターが「奥にも席がありますよ、どうぞ」と言って声をかけてくれた。カウンターには高齢の客ばかりが並んでいて、マスターの孫娘のような女性と談笑していた。奥の席に座ってダッジコーヒーを注文すると、ピーナツを添えてマスターが熱々のコーヒーをいれてくれた。久しぶりに歩いた佐賀のクリーク沿いの風景を思い描きながら、コーヒーの冷めるのを僕は待った。

14.薫風

博多では「どんたくには雨が降る」というジンクスがあるが、今年の五月連休はよく晴れ渡っていた。全国各地から観光客が集まって来る「どんたく」の頃になると、僕は入れ替わるように博多を離れたくなる。今年は珍しく一人遊びということになり、長府の町と能古の島をそれぞれ日帰りで訪れてみた。
 初日は長府行。博多を出て門司港駅へ着くとすぐに、イベントの準備が始まった駅前広場を抜けて渡船場に向かった。連絡船で関門橋の優美なシルエットを見ながら潮の速い海峡を渡る(以前、下関のある店で「昔の男は海峡を泳いで渡ったよ」という噺(はなし)を聞いたことがある!?)。大型船舶や対岸の火の山、港の建物たちがゆっくりと動いていく。今の季節ならアイナメを狙っているのか、小さな帆を揚げた釣船が幾つも浮かんでいる。わずか五分ほどだが海峡の景色を楽しんでいるうちに下船となった。午前十時をまわった頃、唐戸市場はもう大勢の観光客で賑わっていた。市場の中にある鮮魚店が新鮮で豊富なネタの鮨を並べ、あちこちのテーブルでは客達が旨そうに鮨を頬張っている。そんなに腹は空いていないが、つられて僕も幾つか買って食べることにした。たいてい安価であるが、ミンク鯨のうね等は唐津の商店街の方が安いようだ。市場横のウッドデッキに出ると、青く澄んだ海面に浮かぶ筏(いかだ)の枠にワカメが揺れていた。饒舌(じょうぜつ)な車内放送をするバスに乗り、下関市立美術館を過ぎ、長府で下車。ときどき骨董市が立つ忌宮神社を左に曲がって、土塀沿いを歩く。古江小路という石畳の路地に白い暖簾(のれん)の下がった食事処があり、打ち水のなされた前庭に惹かれたが、入るのは次の機会にした。歴史的な街並景観の保護という立場からみると、このあたりの土塀の色や風合い、仕上がりなどは申し分ないと思うが、白御影切石の石畳はいただけない。町の履歴にそぐわないのである。以前、立ち寄ったことのある画廊喫茶に入る。ダークグレーの板張りの外壁、建築の外観、庭の木々を眺められる店内、蓮をモチーフにした暖簾など、デザイナーのセンスが光っていて、上手に街並みにおさまっている。街並みのラインに合わせてシンプルな門を造り、建築を少しバックさせて木立に隠れるように配慮されているのも良いと思う。居心地のよい空間で飲むコーヒーが美味い。店を出て少し歩くと旧毛利邸の高い石垣があらわれた。門を潜(くぐ)った左側の薄暗い空間に巨きな台杉が立っている。ひんやりとした地面に細長い木洩れ日がわずかに落ちていて、築地塀が水平に走っている。右隣にある土のひろばにある楠の大木を眺めていると(このひろばにあるトイレのデザインがまた良くできている)、突然、仕事先の知人から声をかけられた。下関出身のその人に数日前、彼がまだ訪れたことのない毛利邸のことを教えたばかりだった。息子さんとお嬢さんも一緒だったようで、会釈を交わした。しばらく話をして分かれ、旧毛利邸へ向かった。前庭には自然樹形の堂々としたイヌマキがあり、手入れが行き届いているのがわかる。玄関をあがると、淡い赤紫色の筒状の花が生けられていた。受付の女性に尋ねてみると、「桐の花です」と言われた。花札の絵柄としてか遠巻きにしか見たことがなく、こんなに間近で見るのは初めてだった。近所の庭で剪定されることになったものを、この女性が聞きつけて貰って来たらしい。順路の最初にある六帖ぐらいの畳の間には、子供の背丈ほどもありそうなハクサンボクがすごい迫力で生けられていて、毛利家の気風や邸という場に適っているような気がした。庭の見える奥の間はガラス戸が開け放たれ、書院形式の平庭の方から時折さわやかな風が入ってくる。連休のわりには、人はそれ程多くはなかった。座って庭をみていると、目立たないシイの花が小さな光りの塵になって苔の上に落ちて行くのが見えた。小鳥の囀り(さえずり)に混じって庭の池からなのか、雨蛙の声も聞こえて来て、季節が動いている気がした。ここには、いつまでも離れたくなくなる心落ち着く時間が流れている。縁側の沓脱石のある位置に、さっきから一人の若い女性が座ってじっと庭に見入っている。その姿が、庭の石組みと呼応した添景物のように見えた。池泉回遊式の庭になっている外へ出た。常緑の林を背景に、イロハモミジの若葉が逆光に透けて葉陰をつくっている。煙草を一服吹かした後、先程の奥の間に戻り、置いてある短冊に駄句を一つ。 〈 毛利邸 明け放たれて 風光る  寛 〉 
 
 翌日は、能古の島に渡ってみた。昨日よりさらに陽射しが強くヤブツバキやタブなどの照葉樹がその名の通り輝いている。ふだん僕は、家族で島のいただきにある能古アイランドパークに向かうか山道を歩いたりするのだが、今回は一人でもあり港の西にある居酒屋風の食堂に直行した。この店は、新鮮な旬の魚や珍しい魚がとても美味しく料理されて出てくる。気さくな女将(おかみ)さんの持つ和やかな雰囲気も僕は好きで、入るのは三度目となる。開店前だったが快く入らせてもらい、カウンターでビールを頼んだ。茹(ゆ)でた大ぶりのシャコ、メゴチの天麩羅、ツメタ貝の煮付け、蕗や竹の子の炊き合わせを肴にする。家庭の味でありながら、酒がすすむ味である。蕗の歯触りと香りに野性味がある。丸い饅頭のような形をした巻き貝、ツメタ貝はめったに食べられるものではない。女将さんの話では七輪でゆっくり煮るらしく、そうするとやわらかく仕上がるらしい。作家の檀一雄さんが晩年住んだ家のことを聞き始めると、女将さんは、近く解かれて建て替えられ、息子の太郎さんが住まわれるらしく、建築家に設計を依頼されているらしいと話してくれた。まだ訪ねてみたことが無かったので、食事をしたあと見に出かけることにした。自転車に乗った地元の小父さんに道を教えてもらい、二、三分ほど坂道を上ると、小さな木製の誘導案内が出ていて、袋がけのされた枇杷畑の近くに住まいがあった。東西に横長い敷地に木造平屋の住居、アプローチ、海の見える南の庭が配置されている。ヤマモモ、カイヅカイブキ、ウメ、ミカンなどの暖かい島の樹木や果樹が植えられ、サクランボの木には朱色の実が稔っていた。雨戸で閉ざされた家の居間とおぼしき場所に立つと、幹や枝がうねった力強いヤマモモの樹を前景にして、向こうに海と福岡~糸島の街が見えた。どこからかナワシログミの花のような甘い匂いが流れてきた。建築そのものよりも、風土やロケーション、佇まいを重視したと思われる文士の住まい方に僕は共感を覚えたのだった。









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