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20.美術散歩

 秋が深まりつつある。今年の紅葉は期待できそうで、十一月末あたりには、筑後、柳坂の櫨並木でも歩いてみたい。「文化の日」の三日、ひさしぶりに福岡市の須崎公園にある県立美術館へでかけた。県立美術館は以前(昭和39年~昭和59年)は、図書館機能を主体にした県文化会館で、館内の一画で美術展示を行っていた。まだ、久留米に住んでいた頃、見にいった「ツタンカーメン展」の印象は強烈だったことを憶えている。昭和60年、改修され、現在の美術館となった。都心の緑のオアシスではある須崎公園だが、円形と放射状の線形をした園路は、美術館に向かう人のことが考えられておらず、現在もそのままである。(上京を夢見ていた「海援隊」のメンバーが、須崎公園の野外音楽堂で演奏していた時代があったらしい。今は、ホームレスの人達の生活拠点となっている感がある。) この日、見に出かけたのは「エッシャー空間泥棒の挑戦展」(普通に「エッシャー展」で、よさそうなのだが)。滝から流れ落ちた水が水路を上っていったり、地上の畑が空飛ぶ鳥になっていたりする、あの「騙し絵」だ。知らなかったが、ハウステンボス美術館のコレクションから百点ほど選出されたものらしい。作品の脇に、図と地、視覚的な錯覚、二次元と三次元、などの言葉が頻出する説明があるが、説明抜きに愉しめるものばかりだ。なかでも眼を引いたのは、樹の葉の上に乗った水滴の絵である。水を透かして見える葉脈と水に映った周囲の風景が克明に描かれている。水面を見て、同じ視覚体験はしていてもなかなか描けるものでは無い。空想を巡らす才能が、深い観察や的確な描写に裏打ちされていて、「騙し絵」だけではない力量が伝わってくる。もうひとつ気にいったのは、横長い田園風景の上に、左から右へと姿をあらわす鳥が、一番右端では都会の風景へと変化しているものだ。場所や時間、出来事をコラージュして一つの画面に構成する絵を描きたいと思っている自分には、とても興味深いものだった。一階のロビーで、若者たちが企画している展示を、なつかしい気分で見て廻り、すぐそばにある市民会館へ向かった。夕刻から始まる京劇を観るためだ。演目は、西遊記の中のいくつかの場面と覇王別姫の定番となっている場面である。ステージの両脇に翻訳の文字が縦に流れる電光掲示板が準備され、簡単な日本語のナレーションが入るため、とても判りやすい。主役の孫悟空役の卓越した演技が光った。京劇と歌舞伎のつながりは不勉強だが、京劇も見栄を切るところで拍手、ということになっているようだ。覇王別姫は平成6年に観た映画「さらば、わが愛」(香港映画)の印象が強烈だったこともあり、こちらのほうに関心があった。秦朝末期、天下を争っていた項羽は、劉邦の計略で四面楚歌となる。項羽の妾、虞姫は酒宴の際に剣舞を披露し、項羽の心を慰めたあと、自ら命を断つ。ステージの艶やかな剣舞を観ていると、映画で虞姫を演じていた、今は亡きレスリー・チャンや相手役のチャン・フォンイー、コン・リーのもうひとつのドラマが思い出された。終演後、ロビーでサイン会が行われ、中高年のファンが携帯カメラ片手に殺到しているのを横に見ながら、帰途についた次第。折り目正しい「文化の日」の過ごし方も決して悪くないのだった。「エッシャー空間泥棒の挑戦展」は今月末まで。













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19.秋日和

 今日(十月十二日)は、朝から空気も陽差しも気持ちよく、いい日和となる感じがした。調べごとと散策を兼ね、午前中、福岡市動植物園へ出かけてみた。途中、野村望東尼ゆかりの平尾山荘の横を通ると、梅の木やニシキギの枝が伸び放題、園地全体が年々すこしずつ荒れてきているようで気になった。浄水通りにぶつかると、動植物園へ向かうマイカーの渋滞が始まっていて、入口あたりでは、係員がせわしそうに別の駐車場へと誘導していた。チケット売場手前のスロープの脇には、ずいぶん昔から綿菓子やアニメのお面を売る露店があり、今でも営業している。入園料は大人四百円だが、高校生以下は無料、納得のいく設定だ。十月は都市緑化月間らしく、木工教室や茶会などのイベントが紹介されていた。園内に入ると、ほとんどが子供連れの家族で、老年の夫婦や若いカップルの姿は僅かである。色づき始めたナンキンハゼやユリノキの木立の間から、秋の陽がもれている。二十七年ほど昔、海の中道「動物の森」の仕事をしていた頃、当時の福岡市動物園長だったMさんにいろいろと話をうかがったことがある。Mさんは、南公園に動物園を作る話が出たとき、まず樹をたくさん植えることを進言されたらしい。その樹々が現在、高さ15~20mほどの大木になっている。この辺りにみられるシイなどの二次林とともに、植栽した樹木が福岡市の貴重な森を形成している。植物園に向かうルート沿いにオランウータンの動物舎がある。僕は、だいたいここで立ち止まることが多いのだけれど、ユキ(雌)・ミミ(雄)の姿が見えない。新しい動物舎が出来るまで、ユキは多摩動物公園ヘ、ミミは豊橋総合動植物公園ヘ引っ越したらしく、共にここへ戻ってくるかは未定だ。植物園への坂道を左に曲がる手前に、小さなスロープカーができていた。高低差は10mほどなので無駄な整備だと思うのだが、子連れの家族にとってはアトラクションのひとつなのか、行列ができていた。植物園は昭和55年に開園、以前は平尾浄水場だったところだ。福岡市最初の浄水場として大正2年(1913年)に着工、10年後に給水を開始した。配水池点検用通路の入口だった部分が、植物園の入口広場の一角に残されていて、額の銘文に「浄而豊、碧澗聲、讃水徳」と記されている。建設に携わった人たちの願いや思いが込められている。植物園で催されている木工教室の指導員が、受付でこどもたちに参加を促している。テーブルに食用になるシイとマテシイ(マテバシイ)が置いてあるので、食したことのないマテシイをつまんでみた。圧力釜で三十分くらい蒸して、焙烙(ほうろく)で煎るらしい。少し大味だが弾力があって素朴な風味がした。順路の起点になるコーナーにコスモスが咲いていて、アマチュアがカメラを向けている。個人的には、田舎の家の庭先に畑に混じって咲いているような風情が好きだが、絞りの入った珍しい花びらが美しく、興味をひいた。
園の中央にある芝生広場に来ると、おおぜいのピクニック客がシートを敷き、弁当をひろげている。絵に描いたような、正しい公園利用の姿をみるのは本当に何年ぶりだろう。世相を反映して、手頃な行楽にシフトする人たちが増えているのだろうか。植物園のあちこちに、土やチップを敷きつめた路が多く、固い路面に慣らされた足の裏が悦ぶのがわかる。













18.放生会

 先日、仕事の話をいただいたコンサルのYさんの車に同乗し、大分県のN市を訪ねた。工場の増築を機に環境整備を図りたいと思うがどうしたらよいだろうか、という相談で、工場の社長さんと三人で現場を見て回り、打合せをおこなった。夕刻、別の打合せがあるYさんと、最近の仕事の話や雑談をしながら、宗像方面へ戻る。古賀で降ろしてもらい天神行きのバスに乗る。都市高速に入って左手を見ていると、筥崎の浜と鳥居が見えた。宮地嶽神社もそうだが、筥崎神社は本殿から海へ向かって一直線に参道が伸びている。ほんの短い時間だったが、参道の暗くなりかけたクス並木の中に黄色く灯る露店の列が見えた。その日は十二日で、放生会の初日だった。「放生会」は仏教の教え「殺生戒」から来たもので、殺してしまった生き物を慈しむために、鳥や魚などを放つ供養の儀式。各地の八幡で行われる「放生会」はホウジョウエと呼ばれるが、筥崎宮の「放生会」はホウジョウヤと呼ばれている。京都の石清水八幡宮、大分の宇佐八幡宮とともに、筥崎宮は日本三大八幡宮のひとつ。最終日の十八日、「玉割り」で鳩を放つ。筥崎宮の放生会の始まりは延喜十九年(919年)で、山笠やどんたくよりも歴史的に古い。あちこちの放生会には、豊穣祭すなわち収穫を祝う祭の観を呈するようになった例もある。
 二日後の夕方、混雑を避けるため、吉塚から本殿(参道から見ると裏側)のほうへアプローチした。梅雨には紫陽花が咲き誇る園地を左にみて、紅い提灯の下がった門をくぐる。本殿を囲む回廊に展示されている池坊の生け花を、自分流に眺めたあと、少しはずれの店で夕食をとることにした。腹ごしらえをして、参道に向かっていると、新生姜を手にした今風の若いカップルとすれ違う。新生姜は放生会の土産の定番で、博多の秋を彩る風物詩でもある。昔、箱崎の農家では生姜を栽培していて、とれたての生姜を露店に並べていた。博多のごりょんさんは、濃い緑の葉がついた新生姜を放生会の土産に買って帰り、近所に配ったりしたという。そして、もう一つの風物詩、チャンポン。ビードロ細工(ガラス工芸品)の一種であるチャンポンは、昭和四十六年に復活した放生会名物。喜多川歌麿の浮世絵「ビードロを吹く女」に描かれているのがそうだ。中国から伝来し、ビードロ、ポッピンと呼ばれ江戸末期に流行り、放生会で売り出されたらしいが、大正時代にはいったん姿を消した。人集りのなかをゆらゆらと進む。露店で売られているものは、以前よりいくらか安価になっているように思える。例年、古本市がたっている場所まで来るが、見当たらない。係員らしき人にたずねると、やはり出店していないようで、他の人にも訊かれたとのこと。見世物小屋が並ぶ一画に行き、珍しい蟹釣りをみる。川蟹のツガニのようだ。それにしても、金魚、緑亀、ヒヨコ、鰻、蟹と掬ったり、釣ったり、死なせたり、食べたり、捨てたり、これって放生会なんだろうか、と思いつつ、竹細工品などを売っているコーナーへ移動。やはり、以前に比べるとコーナーが極端に小さくなっている。昔、他の店の大将とは風貌や雰囲気がずいぶん異なるおじさんから、手箒などを買ったことがあるが、なかなか造りが良く手頃な値段だった。放生会も少しずつ様変わりしつつあるようだ。












17.草千里

 七月の終わり、阿蘇の草千里へ出かけてみた。博多から熊本まで、列車の車内に置いてある旅の小冊子をめくりながら、ときおり車窓の風景を眺める。JR九州が毎月発行しているこの冊子は、文筆家(現在は伊集院静さん執筆)の随筆や観光地情報、筒井ガンコ堂さんの「食」のエッセイなど、季節にふさわしい題材で小文や情報が紹介されていて、車中、退屈せずにほどよく愉しめる。熊本で豊肥線を走る九州横断特急に乗り換える。車内の内装がとても落ち着いた色調とデザインで感心した。列車はひたすら東へ。大津の杉並木を過ぎると、白川に沿った線路はしだいに勾配がきつくなりだす。スイッチバックで知られる立野駅に近づくと、南側の俵山の中腹に風力発電の巨大な風車がまわっていた。立野から阿蘇の内輪を北上し、かつて坊中と呼ばれた阿蘇駅で下車。この間の車窓の風景が素晴らしい。大きな夏空の下、大観望、阿蘇五岳、田園の緑に包まれている開放感がたまらない。阿蘇駅の隣にある物産販売施設で、昔なつかしい色かたちをしたトマトを見つけ、購入(たいへん、美味であった)。バスで阿蘇山西へ向かうと、二年前の夏と同じように、ハナウドやしぼみかけたユウスゲが群生していた。ものの本によると、阿蘇の草原には六百種の植物が生育しているという。ついでだが、阿蘇地方では「盆花採り」といって、盂蘭盆に祖先の墓前に野の花を手向ける風習がある。盆の初日前の朝、草原に野の花(カワラナデシコ、オミナエシ、コオニユリ、アサノコギリソウ、ヒゴタイ、タムラソウ…)を摘みにいく。しかしながら近年はその風習も薄れつつある。バスの同乗者には、韓国、中国人観光客が多く、ユースホステルから乗り込んだヨーロッパからの旅行者もいた。運転手のはからいで眺望のよいポイントでバスを降りると、思っていた以上に涼しい。平地よりも恐らく6℃以上は低いようで、風が吹いているので、体感的にはさらに涼しく感じる。草千里のバス停で下車すると、やはり、韓国、中国からの団体客が多い。土産物店の外で休んでいると、珍しい蝶、アサギマダラを見つけた。アサギマダラは本来、台湾や沖縄などに分布するものだが、近年は福岡市内でも見ることがある。それにしても阿蘇の高原にまで生息域を広げるとは。この日は自転車レースのイベントがあっているようで、前の道路を、力のある者たちが風を切って次々と走り抜ける。観光用の乗馬コースを横切って、草千里を一望できる丘へ上がる。人だかりから離れると、さらに涼しさが増す。浅い池のふちにたたずむ黒い牛たち、草原をゆっくりとあゆむ雲の影、こころくつろぐ風景の中で、しばし時を過ごす。あたりの山かげに、蜩の涼しい声がこだましている。あまり、期待はしていなかったが、ここへ来てよかったとおおいに満足したのだった。市ノ川駅の前にある郷土料理の店「あそ路」で、たかなめし、モツ煮込み、ご汁などを食べる。ご汁は特に味わいがある。福岡以上に暑い熊本市内に寄ると、美術館でシャガール展が開催されていた。二十歳ぐらいの時に描いた絵に、すでに心理的遠近法と呼ばれる表現がみられ、キュービズムなどの勉強をしていたことがわかる作品もあって、なかなか興味深かった。



























16.夏の花

 北部九州は、平年より二週間ほど早く梅雨があけ、連日30℃を越す暑さだ。昨年八月に日本の観測史上最高となる40.9℃を記録した埼玉県熊谷市にくらべれば、たいしたことはないのだろうが、やはり涼を求めたくなる。
 佐世保の鯨瀬からフェリーで二時間半、上五島の北端に宇久島はある。何度か行ったことがあるが、春のサイクリングや夏場の海水浴・キャンプには、うってつけの島である。周回道路は約20㎞、小学校の正門前にある横断歩道以外、信号が無い。もっとも、教育上、設置したらしい。標高200㍍程度の丘陵地形をなしているけれど、全体的には壱岐の島を小さくしたような平たい島で、平港の東側の大浜、西側のはずれにある汐出浜が美しく、サンドベージュの砂浜、ターコイズブルーの海が広がっている。ふだんは釣人が訪れる島で、あまり知られていないせいか、人も少なく、プライベートビーチのようにゆっくりと海水浴が愉しめる。民宿を利用するなら、事前に頼んでおくと、とびきり新鮮な魚をたべることができる。以前、五月の終わりにサイクリングにでかけた時は、とれたての甘鯛の刺身を食し、その甘い肉質に名の由来を教わったのだった。変化に富む海岸の背後には岬や草原が拡がり、佐賀牛の種牛になる牛が放牧され、のんびりとアザミを食べている。風車がまわる草原や静かな漁村集落、棚田と、穏やかで変化に富む風景が島のあちこちに見られる。(島の人たちは、いつもきれいに掃除をしていて訪問者に親切だが、若者の流出が多く、島の将来を気にかけている。)海岸線の近くには、アコウの樹が多い。アコウはクワ科イチジク属の常緑高木。暖地の沿海地に生え、幹から気根を出し、大きいものは高さ20㍍になる。天草や玄海町でも見たことがあるが、沖縄や八重山諸島などでよく見るガジュマルに近い。五島列島の遠い南西に、同じ東シナ海に弧を描く沖縄、八重山があるのだが、エキゾチックな夏の花、ブーゲンビレアが五月ころから咲き始める。別名、イカダカズラといい、南米原産の常緑蔓性中低木(落葉蔓性との説もある)。花に見えるのは実は三つの苞が集まったもので、赤・桃・橙・黄・白色があるが、なんといっても鮮やかなマゼンタ色がよく知られている。このマゼンタ色は、沖縄、八重山の海の色に絶妙に調和していて、花と海の配色として僕たちには刷り込まれている。ずっと前から続いている沖縄ブームの表れか、福岡でも住宅の門柱にシーサーを置く人がいるが、最近は、庭先にブーゲンビレアをよく見かける。北部九州あたりでは、露地で越冬するのは困難だろうと思っていたが、温暖化のせいだろう。「Botanica」という分厚い図鑑(洋書)には、世界で用いられる10000種以上の庭木が掲載され、巻頭に、世界を対象とした生育可能圏域(Hardiness zone )が示されている(生育可能圏域は、年平均最低気温をもとに作成されている)。これによると、ブーゲンビレアの生育可能圏域は亜熱帯~熱帯にかけてで、日本では愛知~関東の太平洋側と示されている。幼い頃からよく目にした夏の花には、カンナ、ダリア、ザクロ、オシロイバナなどがあるが、ピンク色のオシロイバナは他の花と違った雰囲気があった。ブーゲンビレアは、じつはオシロイバナ科の植物。7月20日の誕生花で、花言葉は「あなたは魅力に満ちている」というらしい。
 






15.船のある風景

 少し遅れて北部九州も梅雨に入り、朝倉市の黒川集落あたりでは蛍が舞い始めているらしい。前回書いた地行の仕事はひとまず落ち着いたが、まだ身体の芯に疲れが残っている。五月が終わろうとする頃、その仕事先の人達に誘われて、日田の「川開き」祭りに出かけた。老舗旅館が並ぶ三隈川沿いに、たくさんの屋形船が繋がれていて、陽が沈むころになると川の沖合いに出て、並んで錨をおろす。料理をつつきながら花火が揚がるのを待っていると、(観光用の)鵜飼舟や祇園囃子の船が、そばまで廻ってきた。少し年配の者はこういう時、お祝儀を渡す。横笛を吹いている奏者が目で礼を言う。二十年ほど前、原鶴温泉あたりで鵜飼を愉しんだことがあるが、聞いた話では、鵜飼漁で生計を立てているプロは一人しかいないという事だった。その時代の原鶴の素朴な風情もよかったが、天領日田の優雅な舟遊びもいい。特に、祇園囃子の音色は味わい深い。まもなく花火が打ち上げられ、川岸から喚声があがり始める。嵯峨菊のようなかたちをしたプラチナ色の花火が、計算された間隔で、バチバチと次々に重なっていくのが特に印象に残った。
 梅雨どき、川の匂いが濃くなると思い出すのが、むかし観た映画「泥の河」である。1981年、宮本輝原作、小栗康平監督の作品。廓船に住む少年、姉と友達とのひと夏の出会いと別れが白黒の端正な画像の中に描かれている。登場するランニングシャツ姿の少年たちや田村高廣、加賀まりこの演技が昭和三十年代の空気をよく伝えていて、懐かしく、切ない。学生時代に雑誌で見た「伊根の舟屋」にしろ、香港で見た水上レストラン(屋形船)にしろ、船で暮らす人たちの風景には、どこか惹きつけるものがある。三年ほど前、福岡市の博物館で催された企画に「ドンザ展」があった。漁師や農民が着る刺子の野良着のことを「ドンザ」と呼ぶが、その民俗学的な解説やデザインのバリエーションがとても興味深かった。瀬戸内海の淡路島や小豆島では、次第に洗練されたデザインのものが増えていったようで、実用というより美術工芸的な価値へと変化している。瀬戸内海の漁師のなかには、噂を聞いて家族で五島列島へ向かい、そこで鯛漁をするものもいたという。五島に移り住んだ漁師の妻たちは、五島の妻たちと刺し子の意匠を競いあったらしく、また、遭難した時の身元判別の意味からも、符号となる模様をいれていたという。そのあたりの話は、フィッシャーマンズ・セーターにも通じている。岩波書店から出ている「水辺の生活誌 船に住む漁民たち」を、最近読んでいる。昭和三十年ごろの尾道、吉和漁港を基点に、漁をしながら一年の大半を海上で過ごす家族の姿が、豊富な写真とともに記録されていて、読み応えがある。



14.大濠公園周辺

 福岡市の都心に位置する公園の一つ、大濠公園は福岡に住むようになってから、何度となく訪れる緑のオアシスである。最近、仕事でその大濠公園の北西、地行にある現場へ自転車で通うことが多い。平和町から地行まで、はじめは小笹、笹丘、輝国、六本松、鳥飼、今川を経由する坂道と車の多いルートを走っていたが、そのうち、平坦で、緑が連続する快適な順路を見つけ、切り替えた。減量には負荷を与えるほうがいいことは判っているのだけれど、緑の効用のほうをつい選択してしまう。平尾山荘通り、浄水通り、南薬院、赤坂けやき通り、護国神社、そして大濠公園の中を走っていくルートは、じつに気持ちが良い。閑静な住宅地の庭木や瀟洒な店舗が並ぶ通りの街路樹を縫ってけやき通りに出ると、自分と同じように自転車に乗ったサラリーマンや高校生達が、道を急いでいる。活気のある朝の空気を吸いながら、護国神社辺りまで来ると、自転車を降りて少し歩いてみる。ここは昔から好きな都会の森で、分厚い照葉樹林で囲われた境内には、みごとな大楠が何本も立っている。桜の季節が過ぎると、楠の朱みを帯びた新芽がすこしずつ、まばゆい淡黄緑色へ変化する。コルク質の幹に身体ごと触れると暖かく、樟脳のにおいもどこか懐かしい。まがい物でない照葉(てりは)の樹々が外周を覆っている。横を歩いていると、ひんやりしたものが落ちてきて、顔にふれた。晴れているのに何なのだろう。目立たない椎や樫の花穂か、吸い上げる樹液の滴なのか、旺盛に葉を吹かせる季節の現象のようだ。美術館の褐色の壁と茶室・庭園の白い築地塀を見ながら公園に入ると、朝から池まわりのジョギングコースを走る人、犬の散歩をする人、ウォーキングに励んでいる人の姿が見える。部屋にいても、水泳のクロールスタイルで三十回ほど手を動かすとダイエット効果があると最近聞いたことがあったが、なんとこの運動をしながら歩いている人がいて、苦笑してしまう。現場での監理の仕事を終えると、夕刻また同じようなコースを通って帰る。作業の手伝いも請け負っていて、結構、体力を使った時は、公園で休むこともある。今の季節、南の池岸にハリエンジュが白い花を咲かせている。一週間ほど前だったか、そのあたりで休憩していると、外国人の家族が池岸に近寄ってきた。すると、最初に池をのぞきこんだ小学生くらいの男の子が、大きな声をあげて驚いた。九十cmほどの大きな緋鯉がよほど珍しかったようで、彼に続いて家族の皆も目を丸くして驚いている。鯉を鑑賞の対象とするのは、日本だけのものだろうか。池といえば、昔、中ノ島の小径を歩いていると、水鳥にパンのきれはしを与えている小母さんがいた。たくさんの水鳥が小母さんの近くに群がっていたが、さっきから遠くを見ていた小母さん、突然、「なっちゃーん」と叫んで、手を振りはじめた。誰か知り合いの親しい子でも見つけたのかと思っていると、池の向こうからガチョウの「なっちゃん」が、他の水鳥とはひとあじ違う歓声をあげながらやって来た。小母さんは、うれしそうな顔をして、別の袋を取り出し、豪勢な別メニューの餌を「なっちゃん」に振舞うのだった。公園敷地の東側には、ボタン・芍薬園があって、今ならまだ芍薬は鑑賞できるかも知れない。













13.春愁

 季節が一巡し、今年も花の季節を迎えました。拙文ながら、また一年間おつきあい下さい。よろしくお願いします。
 先月から慌しい日々が続いているが、それでも、ちょっとした時間のすきまを縫って花を見に出かけたりはする。四月はじめの午後、自転車に乗って、博多部の御供所町へ。百年橋にさしかかると、那珂川をのぞきこむ初老の男性がいて、つられて目をやった。潮が引いた浅い川に入って、二人の男が蜆を採っている。水は澄んでいて、籠いっぱいになった蜆が見えた。まだ肌寒い風が川面に映った空を揺らす。橋を過ぎるとき振り返ると、対岸の橋脚の辺りにブルーシートのかかった(住まい)が見えた。櫛田神社の横を通って冷泉公園に出ると、子連れの若い母親たちや夜会の準備を命じられた新入社員たちで賑わっていた。大博通りをわたって聖福寺の山門をくぐると、塀沿いの細い路が続き、塔頭が並ぶ。歩いている人は少ないが、あちこちの塔頭の庭に、椿や雲安黄梅、雪柳、木蓮の花がひっそりと、だが艶やかに咲いているのを見てまわるのは気分がよい。聖福寺の墓地に立つ椋や榎の大木も繊細な梢に薄みどりの芽を吹かせている。瓦屋根とよく調和したソメイヨシノを見ていると、同じように自転車に乗った小母さんが、「東長寺の桜がすばらしいですよ」と、教えてくれる。西門蒲鉾店で珍しい天麩羅や蒲鉾を買って、東長寺へ。大博通り沿いにある大きな寺で、密教系の由緒あるお寺のようだ。確かに枝を大きく張った一本桜は見事だが、周囲の景色がよくない。「福岡大仏」という木彫の大仏があり、迫力がある。高さ十六メートル(だったと思う)の像は集成材のようにして彫られている。大仏の横に地獄極楽の道と書かれた入口があり、入ってみることに。火炎地獄やおどろおどろしいさまざまな地獄の模型が展示された暗い通路の奥は、真っ暗な闇となっていた。目を空けているだけに、ものの気配をいっさい感じない闇をしばらく歩いていると、怖くなって来る。眼が闇に馴れていないせいかも知れないが、無明というのはこういうものなのだろうか、とふと思う。まあ、面白い体験ではあった。それから四、五日して、高校の同級生からの誘いで、久留米へ出向いた。見せたい桜があるということで、彼の運転で一路、杷木へ向かう。総勢五名。うららかな日和で、筑後川の菜の花や芽吹いた柳を見ていると、よく遊んだ昔の情景が浮かんだ。着いたのは夕月神社。丘陵の尾根に、頂のお社に向かって桜並木が続いている。周辺の耕作地にところどころ、桃の花や諸葛草の紫の花が咲き、桃源郷といった風情だ。以前、灯明が置かれた夕暮れの桜並木を、上空からテレビ中継していたのを思い出したが、観光化されておらず、いい花見処である。小倉百人一首や短歌などが、同級生の口からついて出たのも悪くなかった。そこから移動し、浮羽の流川へ。桃、菜の花とともに土手沿いに桜のトンネルが2kmほど続く。耳納山系に寄り添う田園の中に、よく映える。久留米に永く住んではいたが、どちらも初めて訪れた、桜の名所。これから次々と花が咲く季節。人の「気」もどこか植物のエネルギーに吸い取られるのか、愁いを感じる時節でもある。

 




12.福島~東京みてある記(続)

 Nさんと入った向島百花園についてもう少し説明を加えておくと、この施設は江戸の町人文化が花開いた文化・文政期(1804~1830)に、佐原某という骨董商が、交遊のあった文人墨客の協力を得て開園したものらしく、当初は梅が主体だったらしい。昭和13年に東京市に寄付され、翌年より有料公開されるようになった。昭和53(1978)年、文化財保護法により、国の名勝・史跡に指定されている。僕は仕事の関係もあって、植物園などは福岡にかぎらず、あちこち出かけた先でよく訪ねてみるほうだが、この百花園には珍しいものがいくつかある。例えばクズ、ミツバアケビの棚。クズは確かに秋の七草ではあるが、繁茂する力が強く迷惑がられる風潮がある。一方、アケビは山に行かない見られないものだ。身近な植物、珍しい植物が花を愛でるという同じ視点から、同列に選ばれているのがよい。四季折々の催しもさかんなようで、隅田川七福神めぐりのコースに入っていたり、大輪朝顔展、虫ききの会、月見の会、お茶会など風流な催しも多い。
 地元、京島育ちのK子さんに道案内をお願いして、下町散策が始まった。前回も書いたように、墨田のまちづくりセンターで手に入れたロジコミ京島というマップには、楽しいイラスト入りで長屋、路地、商店街などが紹介されていて、外から訪れる人にもわかりやすい。Nさんに聞くところによると、こうした京島や葛飾あたりというのは、正しくは「川向こう」とでも呼ぶべき地域で、本来の下町とは違うらしい。しかしながら、時代と共に姿を変えていく東京の中にあって、これらの地域に下町的な情緒が残されていることは紛れもない事実である。マップには、こんなことが書かれている。「明治から大正にかけ、京島のまちは、押上方面の生活関連諸工業の発展とともに徐々に形成され、関東大震災前後の時期に最も急激に長屋建てのまちがかたちづくられていった。そのため水路や農道跡のギザギザなかたちのまま路地が形成された。大正12年の南葛飾郡誌には、〈東京市はその北部郊外、西部郊外のいずれよりも、その隣接せる本所、深川区を通じてここに工業の発展地を求めたのである。工場の建設は多数労働者の移住を伴うから労働者の居住地がここに現出する。(中略)斯くて大きな工業と小さな商業と低い生活とは、ここに入り乱れて存しているのである。此地域は従前は東京郊外の農村で、殊に水田が大部分を占めて居ったのであるが、今は此等の田は漸次埋め立てられて大部分工業敷地に変換せられた。〉」
 僕たちは、京島地区の骨格をつくっている二つの通り、「たから通り商店街」と「キラキラ橘銀座商店街」を歩いてみることにした。前者は昭和23年、後者は昭和2年に設立されている。商店街から脇へ入ると、たくさんの路地が複雑に入り組み、地の人でなければ迷ってしまいそうだ。面白いものを見つけては闇雲にカメラにおさめながら、二人についていったせいか、あとでデジカメの画面を振り返っても、どこのあたりか判別できないでいるが、印象に残ったものや風景をいくつかあげてみる。最初に見つけたのは銭湯の煙突。少し離れて二つの銭湯がある。曳舟湯という旅館の造りに似た、築地塀付き、数寄屋風建築の銭湯は、なかなか渋い。こういう銭湯にいつか、入ってみたい。もう一つの銭湯は電気湯。僕が幼少期に入っていた久留米の電気湯は、脱衣場の照明が明るかったが、名前の由来はそういうところかと、二人に話すとウケる。昭和二十年、住民の必死の消火活動で延焼を免れたのか、今も現役の木造二階建の長屋があちこちに残る。物干しやプランターの緑が、古びてはいるが、活力のある街並みに似合っている。路地のかどかどには、今も手漕ぎポンプの井戸が残っていて、住民の憩いの場となっている。こういう場所を見ていると、記憶の中にある風景が立ち上がってくる。密集した居住地の壁にバケツがいくつも掛けられており、Nさんが「今でも主婦達が中心になって消火訓練をしていますよ」と、教えてくれた。京島には惣菜屋さんが多く、たくさんの、安くておいしそうなお惣菜が、通りに張り出した台やケースに並べられる。野菜もとにかく安い。ドロネギ大束百円というのには驚いてしまった。手作りカステラを売っている店の看板の絵も手作りだ。挿絵画家、沢野ひとしのようなヘタウマっぽい絵が、界隈のあちこちに姿を見せる。銭湯の帰りに、立ち寄って焼き鳥を買う人、小分けした刺身を買うお年寄り、こどもたちの歓声。そのうち、日本のあちこちの町で消えていきそうな昭和のまちのたたずまい。この夜、僕は二人の仲間達と再会し、下町への思いを肴に食事を楽しんだのだった。
 









11.福島~東京みてある記

 一月十五日から十九日まで、福島、東京へ出かけた。高校の修学旅行で日光を訪ねて以来、それより北上したことが無く、仕事とはいえ南東北へ出かけるのは楽しみであった。
仕事依頼先への秘守義務があるため、あまり具体的な内容は書けないが、見て歩いた先での印象などを、かいつまんで書いてみることにする。
 初日、福岡空港を発って東京上野から東北新幹線で新白河へ向かった。二階建ての新幹線車両を見るのは久しぶりだったが、そのあとに入ってきた普通の車両に乗り込む。まもなく都会の密集地を抜けると、関東平野の中に入った。しばらく外をながめていると、集落に付随する屋敷林のいろあいが福岡とは違うことに気がついた。裸になった落葉樹に寄り添うように立っているのは、たいてい濃緑の針葉樹である。時たま照葉樹も見かけるが、量的なバランスからみるとかなり少ない。照葉樹を見慣れている九州の僕からすると、何かうすら寂しい風景だ。本を読んだりうたたねをしているうちに、だいぶ北上したらしく、外に眼をやると、遠方に白く雪をかぶった山並みが見えた。上野から一時間半で新白河着。白河に圃場を所有している某親方の車に乗せてもらって、山間部へ移動。親方が、福島ははじめての僕に、「福島は会津、中通り、浜通りの三つの地域に分かれています」と、親切に教えてくれる。小一時間ほど走ると、薄く雪をかぶった雑木林のような広大な圃場へ入った。土づくりや樹勢回復技術の面でも活躍されておられる親方が、飽きの来ない興味深い話を次々としてくれ、有益な情報を得ることができた。僕たちがよく使用する本に緑化樹木のガイドブックがあり、生育可能な圏域が樹種ごとに日本地図のなかに記されている。福島県というのは、照葉樹とも呼ばれる常緑広葉樹が生育できる北限になっていることが多く、ここから北には落葉広葉樹や針葉樹が多く見られるようになる。いわば、植生が変化するエリアである。新幹線の中から見た光景は、このことを反映していたことになる。親方は、一つ一つの樹種について、「あなたの考えている地域では使えるよ」「関東までは大丈夫だが、そこでは無理だよ」と教示してくれた。樵小屋のような事務所?で温かいお茶をいただいたあと、山越えして、宿泊するホテルまで送ってくださった。ホテルでテレビをつけると、明日の浜通りの気温は6℃~-3℃と告げている。夕食をとりに外に出ると、夜の街は乾いた冷気に包まれていた。太平洋側の小名浜沖は暖流と寒流がぶつかる好漁場で、新鮮で豊富な種類の魚が揚がるというので、小料理屋に入ってみた。土地のものを食べながら(めひかりの一夜干しやイカの沖漬けは最高に美味だった)、朴訥で実直そうな主人とおっとりとした女将の話を楽しんだ。
 二日目は終日、現地調査を行い、空っ風の中を動き回った。三日目、映画「フラガール」の舞台の一つになった施設「スパリゾート・ハワイアンズ」を訪ねた。ホームに足湯のある温泉駅から送迎バスが出ている。建設当時からはずいぶん拡張したらしく、温浴施設、ホテル、記念館などの施設を併せた巨大な複合施設となっているが、賑わっている。外国人の利用客も多く、サービスも親しみをおぼえ、スマートである。僕が幼い頃に行ったことのある別府の温泉施設のように懐かしくなる雰囲気があり、一日楽しめそうな気がした。映画「フラガール」のなかで、植木屋がオープンに間に合うように、亜熱帯の樹を植え付けるために、ストーブを借りてまわるシーンがあったが、前庭には当時植えられたと思われる樹が、ちゃんと根を張って大きく育っていた。冬を越すために藁巻きがなされている樹も多かったが、それなりに土地の風景となっていた。夕刻、上野に着く。昔の職場の先輩と会うことになっていて、大門から大江戸線に乗り、六本木で下車。陽が落ちた都会の建物や通りは、溢れんばかりの光りで照らされている。六本木ヒルズの中にある店で、先輩と共通の知り合い(僕の通った大学の後輩)も一緒に、夕食となったが、仕事上のアドバイスを受けるタイミングを失い、二日後に再度、六本木で会うことにした。
 東京に寄る機会に会いたい仲間がいて、彼らとは二年ぶりである。リーダー格のNさん以外は、Nさんのホームページを介して知り合うようになったのだが、みな良友である。博多から来るというので、夜は江戸の蕎麦を食べてもらい、次に下町の居酒屋へ案内するという趣向で、もてなしていただくことになっているらしい。朝、仲間の二人が住む四ツ木で、Nさんと待ち合わせた。電車が荒川を渡ると、福岡の井尻や高宮あたりに似た町の稜線が姿をあらわし、ホッとする。Nさんに案内していただいて、曳舟や京島あたりを散策することになった。向島と呼ばれる地区一帯は、戦災に遭わなかったところで、下町の情緒が色濃く残っている。まず、向島百花園に寄る。町中の小さなオアシスで、福岡の友泉亭をもっとこぢんまりとしたような庭園である。Nさんに習って、ワンカップ酒をしのばせて逍遙する。初めて見る露地琴(ろじきん)が珍しい。水琴窟をそのまま地上にあげて楽しむような施設で、瓶から付きだした竹筒に耳を持っていき音を愛でる。あとで歩いた商店通りの一画にも、この露地琴が置かれていた。ロウバイがゆかしく香っている庭のあちこちに歌碑が建てられ、都々逸や俳句が刻まれている。芭蕉の句〈蒟蒻(こんにゃく)の刺身も些(すこ)し 梅の花〉はさすがだが、流麗すぎる字が読めないのは凡人のあわれ。藤棚の下にある縁台で、茹で落花生をつまみにして、二人で呑んでいると、強力な道先案内人K子さんが登場した。K子さんは地元、京島育ちのかたである。御主人の仕事の関係で福岡と京島を行ったり来たりされているらしい。三人で、下町散策が始まった。Nさんのすすめで購入しておいたロジコミ京島のマップには、楽しいイラストで長屋、路地、商店街、史跡などが紹介され、まちの形成史が書かれている。それによると、戦災に遭わなかったというより、「地域住民の必死の努力により、奇跡的に消失をまぬがれた」のだそうだ。この続きは、次回に。
 
 









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