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34.途上

 昨年と同じように雪となった正月元旦、故郷(久留米)で質素ながら楽しみにしているおせちや雑煮、屠蘇を戴いた。最近の時勢を思うと余りおめでたい気分でもないが、春を待つ自然に倣い、芽出たいという願望に置き換えてみる。三日、久しぶりに青空がひろがり、宗像大社に詣る。本殿横から入る「鎮守の杜の道」を進み石段を上ると、照葉樹林に囲われた「高宮祭場」があった。宗像天神降臨の地と伝えられる古代祭場で、実にシンプル、祭儀の原型を見た気がした。お年玉がわりに、新年にふさわしい情報を二つ。七日、福岡天神アクロスの二階ギャラリーで田井裕さんの写真展「京の華 舞妓・芸妓」が開かれていた。京都に五ヶ所あるという花街の舞妓さん、芸妓さんたちを撮ったもので、茶屋の佇まいを背景に、艶やかな美しさが作品から匂い立ってくる。黒(髪、衣装)と白(白粉)を基調とした色面に、紅(口紅)が絶妙である。田井さんによると、特に宮川町に美人が多いとのこと。調べてみると、宮川町界隈は古くから芸人の集まる花街で、格式を重んじる祇園とは違い、粋人が好む自由で気さくな雰囲気があるらしい。ホームページがあり、写真展の中のいくつかの作品を見ることができる。もう一つは、筥崎宮花庭園の冬牡丹。十三日のテレビで紹介されていたが、雪の中、藁帽子の中に咲く淡紅色の牡丹がいい。雪の降る日に愛でるのがポイントだろう。しばらくは花庭園で楽しめそうだ。
 さて、皆さんに五年近く読んでいただいた本欄も今回でお開きとなる。少し振り返りながら、言い足りなかったこと、仕事への自分の思いなどを語ってみたい。書き始めの頃は、自己紹介ということでランドスケープを考える原点になった生家や幼少期の思い出、大学や勤めていた設計事務所のことを話題に挙げたが、ダラダラと散漫な文脈となってしまった。季節に合わせたつもりの挨拶も、皆さんの目に触れる頃には気候がすっかり変わっていたりして、紋切り型の導入も難しいと思った次第。話のテーマは、ランドスケープデザインの技術やプロセスについて正面から論述するのは力量不足で苦手なので、旅や散策といった個人的な体験の中に、住まい(の外部空間)づくりのヒントとなっているものを織り込んで、叙景文(西村さん曰く)としてつづることが多かったようだ。ただ自分としては、皆さんに紹介した旅先や街角の風景には、住まいや暮らしを楽しく豊かにする手がかりが潜んでいるものと信じている。フェリーの通わない島には、手つかずの豊かな自然や、肩を寄せ合って暮らす島民の生活が感じ取れる風土景観があちこちに見られるし、福岡西新や若松、小倉、島原と都市の規模に関係なく、古くからある市場や商店街には対面販売のあたたかな雰囲気が感じ取れる。クリークや堀割のある町では、水辺を取り込んだ住宅のたたずまいや趣のある川船の姿を見かけるし、珍しい海産物にも出会ったりする。久住や阿蘇には、山並みや高原の雄大な眺めが楽しめるポイントや施設も多い。外部空間は、歩き訪ね、遊び、楽しみ、味わい、学ぶことのできる、優れた教材でもある。もう一度読み返し、主旨をくみ取っていただければ幸いである。
 自分の仕事への取り組みは、住まい(の外部空間)づくりに関して言えば、生活の拠点としての住まいを内に閉じるのではなく、庭や庭の向こうに見える風景や街並みへと続き、繋がるように、外へと広げていく空間づくりを、そしてロケーションや住み手の嗜好を踏まえた屋外空間の活用法を提案するもので、これからも続けていきたいと思っている。先の見えにくい、地図のない旅の途上にあるようにも思えるが、鹿児島ヤネダンの人たちのような自立の精神を大切にして、歩んでいこう。
 西村(工務店)さん、読んでいただいた皆さんに、深い感謝の意を表します。本当に、長い間、ありがとうございました。
                               造景工房 中山 寛

 





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33.くすり

 先日、まちづくり関連の調査で天神に出た。一緒に仕事をする旧知のメンバー二人とほぼ終日の作業を終え、三人共通の友人も誘って、軽く一杯ということになった。久しぶりに顔を合わせたこともあり、それぞれの近況報告から始まり、健康の話題に転じた。五十代、六十代が集まると、たいてい健康の話になる。皆に共通するのは高血圧で、私以外は降圧剤の世話になっている。髪質が柔らかくなり、ボリュームが減ったというDさんは、前立腺肥大や帯状疱疹で病院にかかり、いろいろと薬を服用しているらしく、「医療費も大変だよ」とため息まじりだ。「副作用は無いのですか?」心配になって訊ねると、問題ないとのこと。最近、所長の役職を部下につないだTさんも、昔から難病を抱えているが傍目にはわからない。高血圧には煙草は悪いと決まっているけれど、「医者の見立てではその難病にはむしろ煙草はいいらしい」などとうそぶいて、なかなか煙草と縁を切れないでいる私を悪友に仕立て、くゆらしている。Sさんは、このところ早朝散歩を続けているようで血色が良い。私は、と言えば、たまに胃薬か風邪薬の世話になる程度で済んでいる。ただ、夏、庭の手入れ(の手伝い)を続けたせいか、あせも?ができやすくなった。まあ、そうはいいつつ、その夜は楽しくアルコールを服用したのだった。 
 さて、あしかけ三年近く関わってきた、F大学の薬用植物園整備の仕事が先月末、終了した。大学時代の級友からの依頼で、最初に現場に赴いたのが2007年の春。薬学部棟の拡張にともなって、研究施設のひとつである既存の薬草園を新棟に隣接するスペースに移設して、学部の研究、学生の講義だけでなく、一般に開放するガーデンとして修景的に整備するものだった。既存の薬草園は二箇所に設けられていて、先生の指導のもとに作業スタッフが栽培、育成し、やはり一般公開されていた。現況調査に何度も出向いたが、季節毎に開花している薬草園はその都度、美しかった。ただ、庭木などはある程度知っているつもりだが、薬木、薬草は半分以上、名前も知らないものだ。薬草名と配置を調査し、専門的な図鑑とインターネットを使って、植物の特徴や効能をリスト化することから、作業を始めた。一般によく知られているものや庭木として用いられているものは結構多い。薬効・症状別にいくつか紹介すると、滋養強壮〈ヤマノイモ、オニグルミ、ハス、ハマナス、ユスラウメ、ビワ、ユズ、ナツメ、ヤブツバキ、ネズミモチ、ニラ、セージ、ゴマ〉生活習慣病予防〈ドクダミ、アマチャ、チャノキ、アシタバ、オリーブ、カキ、クコ、ヒマワリ、シイタケ、ニンニク、ラッカセイ、カボチャ〉ストレス〈ショウブ、ノカンゾウ、キンモクセイ、タマネギ、ナツメ〉消化器〈ウコン、キダチアロエ、ヤマモモ、イチジク、ギシギシ、イタドリ、ニッケイ、ノイバラ、フジ、ゲンノショウコ、サンショウ、ダイダイ、ナツミカン、トチノキ、ムクゲ、セリ、ハッカ、フキ、ツワブキ、ミョウガ、ショウガ、ダイコン、セロリ、パセリ、ゴボウ〉と続き、循環器・呼吸器・目鼻耳口・関節筋肉・泌尿器・解熱鎮痛・皮膚外傷・婦人病に効く薬木、薬草など多彩。詳しく知りたい方には、「薬になる植物図鑑」〈柏書房〉、「花図鑑ハーブ+薬用植物」〈草土出版〉などをお奨めする。調査と平行してプランを練るのだが、事例研究のため鳥栖市田代にある「くすり博物館」にも出かけた。この施設は何度か訪ねたことがあるが、ヨーロッパや日本における薬研究の歴史や、薬屋・薬局の民俗学的な資料が展示、解説されていて面白い。施設の裏側のスペースに薬用植物園がある。余談になるが、「くすり博物館」の向かい隣に、庭の眺めがよい佐賀牛の旨いレストランもあるので、半日は楽しめる。F大学の薬用植物園も何とか完成した(正確には、来春でないと植え付けられないものが残っている)。来春の花の季節になったら、落葉樹の葉も伸び始め、全体の様子が分かりやすくなると思うので、また赴いてみたい。
 ところで、お知らせです。五年近くお話させていただいた〈造景茶話〉〈かんかんがくがく〉ですが、次回をもって終わりとなります。ランドスケープデザインにまつわる話を皆さんに紹介する場を提供していただいた西村(工務店)さんには、庭づくりの実務の面でも大変、深切にしていただき感謝いたします。そして、長くお付き合いいただいた皆さん、ありがとうございました。次回のコラムまで、よろしくおつきあい下さい。新型インフルエンザなどかからぬよう留意して、健やかな年末年始を迎えられることを祈っています。
















32.風景と建築

 私の仕事場の作業机は東向きの出窓に接した位置にあって、机の面より少し高い出窓の棚に、ときおり読みたくなる本を並べている。その中に、中村好文さんの「意中の建築(上・下)」がある。氏が取材した世界、日本の建築や土木構造物などが周囲の風景などと共に、紹介、解説されている。ランドスケープデザインを考える上でのヒントとしたり、また肩の凝らない読み物として、よく手にする本である。学生のころから、建築単体よりも建築の配置されるロケーションや建築を含めた風景を考えることに興味があった私は、まもなく、アスプルンドの設計した「森の火葬場」を知ることになった。その「森の火葬場」が「意中の建築(下)」に取り上げられている。建築やデザインに関わっていない人たちにもぜひ、一読をお奨めしたい。「森の火葬場」はスウェーデン、ストックホルム郊外にある市営の墓地で、75ヘクタールの敷地に、火葬施設、礼拝堂、墓域が、周囲の自然に溶け込むように配されている。設計者は、エリック・グンナール・アスプルンド(1885~1940)。設計から25年後に完成、アスプルンドの墓もここにある。1994年、世界遺産に登録。氏も語っているように、葬礼施設というより「葬儀の場所、あるいは風景」としての印象を強く与えるように配置計画がなされ、個々がデザインされている。入口から林を抜けると、木立と低い塀に沿った長い長い石畳の坂道がまっすぐに伸びる。前方から右手に広がる草原と空、礼拝堂の手前にある石の十字架。これらの風景を一つのシーンに収めた写真は、実際たずねたことはないが、昔から私の脳裏に長く焼き付いている。昨日テレビを見ていると、デザイン墓石の話が流れていた。二、三十代の若い人たちにオリジナルデザインによる墓石への関心が高まっているらしい。個人レベルで思いつきそうな話で、わからなくも無いが、アスプルンドの「森の火葬場」を利用できるストックホルムの人たちが羨ましくなる。設計事務所に勤めていたころ、唐津墓地公園の設計にたずさわったことがある。眺望の効く郊外の丘陵の尾根に、墓域や、広場、管理事務所、駐車場、園地、樹林などを配置したのだが、ここで考えたのは、眺望の効く場所で、墓石が緑に隠れて見えないようにすることだった。墓石を低く、形状を小さく規格化し、墓域を低い生垣で区切って、水場などにまとまった木立を設けた。六、七年ほど前の春、唐津に出かけた折りに寄ってみると、墓域へ向かう入口の広場に、たくさんのコブシが清楚な白い花を咲かせ、墓域はきちんと手入れされていて、茶畑のように見えた。設計をしたころ、頭の片隅にアスプルンドの「森の火葬場」がチラチラしていたことを思い出す。


















31.コスモス

 十月に入り、運動会や物産市をはじめとする様々なイベントが、あちこちで催されている。気持ちのよい天候に恵まれた連休の日曜日〈11日〉、海の中道海浜公園を訪ねた。朝、少し早く自転車で築港へ向う。かつて賑わいを見せた博多の港の拠点施設ベイサイドプレイスも、開発前のように渡船やフェリーの発着所に戻ったようだ。自転車を近くの駐輪場に置き、志賀島行きの船に乗って十五分、西戸崎に着く。ここ数年、西戸崎に行くことは無かったのだが、渡船場のすぐ隣は乗馬クラブになり、その横に大規模な高層マンションが建っていた。ホテル海の中道ができた時代のような景観への配慮もまったく感じられず、陳腐な建物だ。海岸線も人工的な石積の護岸に変わってしまった。落胆しながら、公園の西口まで歩く。駐車場の脇を通り、サイクリングセンターのゲートに着くと、開園前にもかかわらず、すごい人だかり、その日は入園無料だった。たいてい、レンタサイクルで園内を廻るのだが、今回は徒歩で移動することに。かつて設計に携わった動物の森へ直行する。広大な芝生の中を歩くのは快適だ。子供連れの三十代ぐらいのファミリーが圧倒的に多い。動物の森入口にあるカンガルーエリアの近くに、カツラの林がある。カツラは本来、深山の渓流沿いなどに自生する落葉樹だが、分厚いクロマツ林のおかげで、冬の季節風や潮風の影響を受けにくいのだろう、活着してよく育ち、黄色く色づいている。ついでだが、クロマツは分布する位置により樹形が異なる。玄海灘に面する臨海部の最前線では、いつも強風に煽られ、陸側にかしいでいるが、ホテル海の中道周辺などの博多湾に面する場所では、幹はまっすぐ上へ伸び穏やかな姿をしている。動物の森には、カンガルーのほかカピバラ、マーラ、リスザル、フサオマキザル、ラマ、ポニー、ウサギなどが飼われている。柵越しに眺めるのでなく、柵のない空間で観察できるよう工夫を凝らしていて、好評らしい。飼育スタッフに話を聞くと、動物たちの餌になる果樹や草も、あるていど園内で育てているらしく、ラマやポニーを放す丘にも菜の花などの草が、残されていた。ペレットなどの人工飼料にくらべ、動物たちはじつに旨そうに食べるらしい。エリアを出て、海の見えるシオヤ岬まで歩く。あいにくレストランは閉まっていたが、結婚式のパーテイ―会場として使うのか、中で打合せが行われているようだった。海浜への立入りは禁止されていて、おかげで美しい風景が保たれている。腹がへるとさすがに疲れるもので、園内を周回するバスを待った。本場とは異なる佐世保バーガーを食べて、午後、フラワーミュージアムを探索する。いわゆるイングリッシュガーデンのスタイルで創られていて、女性達で賑わっている。一巡したが、配植密度、維持管理の面で問題があるように思えた。この手の庭は、どうしてもオープン時に照準を合わせて創られることが多いようで、あれもこれもと、盛だくさんになる。数年経つと、それぞれの植物が生長して過密化し、ブッシュ状態になりがちである。感覚的ではあるが、初期植栽は半分はどにして維持管理に金をかけてほしいと思う。庭は生長を予測した配植、除草や間引き、剪定、補植などで、ずっと美しくなるものである。フラワーミュージアムを離れると、丘の斜面にコスモスがびっしりと植えられ、風にゆれていた。一般的なコスモスはもとはオオハルシャギクと言い、白、桃、赤〈ピンク〉の花を咲かせる。原産地はメキシコの高原地帯で、18世紀末、スペイン、マドリードの植物園に送られ、コスモスの呼称がついた。日本には明治20年ころに渡来。コスモスには、普通メルヘンチックな印象がついてまわるが、新しい品種であるチョコレートコスモスやレッドベルサイユなどを白花に加え、桃色を除外すると、また違った表現が可能と思う。風にゆれるコスモスだけでなく、なぎ倒されたコスモスやエノコログサに混じって咲くコスモスなども風情がある。








30.秋空

 西村(工務店)さんからの依頼でお手伝いさせていただいている庭づくりの仕事で、このところ三潴の方へ出かけている。今回の庭は、二期に分けて整備を行っている。一期工事を始めた7月上旬、現場の周辺は、まだ田植えが始まった頃だった。それが今では、稲穂が色づき始め、すっかり秋らしい田園風景となっている。昨日、現場へ赴くと、付近を流れる水路の脇に、彼岸花が咲いていた。よく晴れて、陽射しが強く、昼休みに職人さんと建物の陰に入ると、田んぼを渡ってくる風が心地よかった。広い空には夏と違った群れ雲が浮かんでいた。世間では、今日(19日)から五連休で、シルバーウィークらしい。自分は今年は仕事が詰まっているが、できれば見晴らしのよい場所へ出かけてみたい。
 糸島のほうに、今の季節なら最高と思える穴場がある。本当は、あまり教えたくないのだが、ご紹介しよう。糸島の芥屋漁港南西の海そばに、立石山という小さな山がある。今は廃墟になっている宿泊施設の横から登っていく、自然遊歩道の入口がある。傾斜が比較的きつく、その名のとおり岩があちこちに露出している。それでも、脚が弱くなければ、30分程度で見晴らしのよい位置まで到達できる。頂上まで登らなくても、ある程度の高さまで登れば、玄界灘に沿った海浜、唐津方面の浜や島、糸島の山並みや集落、遠くは福岡市の市街がパノラマとなって見渡せる。二度、行ったことがあるが、最高の気分に浸れる場所だ。時間をたっぷりとって、付近の漁港や桜井神社、小富士などをまわるのもよい。春先なら小富士は梅や八朔、漁港では牡蠣などが楽しめる。少し東には野北があり、彦山の裾にある海の見える道も壮大である。西に足を延ばすなら、浜玉がお奨めである。唐津市まで続く虹ノ松原の東の端にあたる。潮湯の温浴施設や、魚の旨い店もあるし、町の探索も悪くない。時間さえあれば、体力や予算にあわせ、変化に富んだ「散歩」が楽しめる。少なくとも、エクササイズウォーキングよりも内容の濃いものになることは間違いない。























29.帰省

 例年にくらべ、今年は梅雨明けが異常に遅かった。夏の気分を味わいたくなって、八月はじめ、海の中道の東側にある奈多の浜へ出かけた。JR博多から香椎を経由し、すぐに奈多駅到着、料金は片道270円。駅からしばらく北へ歩き、ハマユウの咲く防風林を抜けると、奈多の船溜に着く。ここから西側は、延々と志賀島まで続く砂浜で、途中まで、なんどか歩いたことがある。海風に吹き上げられた砂がうずたかく積もり、砂丘の蔭がシュールで面白い。今回は、船溜のすぐ東側の浜に入った。白波が立つほどの風があったが、砂浜は意外と海水浴客でにぎわっていた。二人の若者が、カイトサーフィンを操って、波の上を疾走している。人だかりから離れた処で着替え、海に入ると、ちょうどいい水温だ。つぎつぎと波が打ち寄せるので、浅い汀で横になってみると、気持ちがよい。一応、泳げるが、その日は泳がずに松林を眺める姿勢で、海水に浸って一時間ほど、のんびりした。海水浴はもともと、保養や療養を目的としていたと聞く。疲れない程度に波と戯れるのも、決して悪くはないのだった。
 盆の初日、急ぎの仕事を片付け、翌日、久留米へ帰省。お寺での読経が夕刻なので、時間つぶしに石橋文化センターへ寄ってみた。ブリヂストンの創始者である石橋正二郎氏が、昭和31年4月、久留米市に寄贈、オープンした複合文化施設で、全国でも珍しいものだった。久留米大学医学部付近にあったブリヂストンの社宅は、石橋正二郎氏が昔、訪欧したときに見たバルビゾン村などの風景を参考にしたらしいと、聞いたことがある。レンガの舗道に沿って、敷地をゆったりとり、大木になるケヤキが植えられた。民有地の緑が公有の街路空間に潤いを与えている。話を戻す。石橋文化センターは、幼いころからスケッチをしたり、遊んだりした想い出ふかい処である。現在の図書館は以前は体育館、美術館分館はプールだった。美術館本館はレンガ張りではなく、1階をピロテイにした軽快な打ち放しの建築で、設計をした菊竹清訓も久留米出身である。園内の樹々の蔭にはいると涼しい。パラソルのある屋外テーブルで、水彩の風景画を描いている三十がらみの女性を見かける。美術館の西にある花壇に、盆らしくモミジバアオイの朱い花が咲いていた。 
   紅蜀葵(こうしょくき) 肱(ひじ)まだとがり 乙女達  〈久保田万太郎〉
 西鉄久留米駅のほうへ戻り、アーケード街を歩くが、かつての賑わいも感じられず気が沈む。久留米市では毎年、八月三,四、五日と夏祭り(水の祭典)が行われている。いろいろな事情があるのかも知れないが、第一金,土,日曜日に催すほうが、経済効果はあるのでは、と思ってしまう。夕刻、寺町へ向う。江戸時代、久留米城護衛の一環としてここに寺が集められた。画家、青木繁の師だった森三美、久留米絣の創始者である井上伝、普請奉行だった丹羽頼母、高山彦九郎などの墓がある。供養をしてもらう寺で、墓参りをし、本堂へあがった。私とほぼ同年の住職と、住職の息子さんが読経をあげられたが、若住職はなかなかの声量であった。蝉時雨のなか、移り行く時代を想う。







 
 





28.声

 二ヶ月ほど前、ミツバチ関連の文献を借りるために、百道にある福岡市総合図書館に出かけた。その折り、ついでに借りた洋画のビデオが「いつも心に太陽を」(原題To Sir, with Love)だった。ジェームズ・クラベル監督、シドニー・ポワチエ主演の学園ドラマで、1968年の作。調子が少し甘い気もするが、ポワチエの地位を固めた映画である。映画にも出演していたルル(当時の女性歌手)のチャーミングな歌声や、当時の音楽、ファッション、サブカルチャーが懐かしい。シドニー・ポワチエ演じる先生が女学生と踊るシーンがある。手脚が長く、踊るときの振りも今に比べればずっと控えめである。このシーンを見ていて、レコードジャケットにあったオーテイス・レデイングのことを思った。
 高校三年の卒業まぢかの頃だった。クラスメートのM君の家に遊びに行って、聴かせてもらったのがオーテイス・レデイングの「ドッグ・オブ・ザ・ベイ」。その時の印象が忘れられず、大学に入ってまもなくヨーロッパでのライブ盤(LPレコード)を買った。「ソウルの王」と呼ばれたオーテイス・レデイング(Otis Redding)は1941年アメリカ南部のジョージア州ドーソンに生まれた。ジョージア州はレイ・チャールズが生まれ、ジェイムズ・ブラウンが育った場所でもある。ロックンローラーとしてステージをこなし、サム・クックら先輩たちの歌を聞き、影響を受けながら、腕を磨いた。1962年、メンフィス、同郷のミュージシャンのレコーデイングに運転手として同行したスタックスレコードで、彼は空き時間に歌わせて欲しいと申し出る。自作の「ジーズ・アームズ・オブ・マイン」はスタジオ中を驚かせ、80万枚のヒットとなった。〈…この私の腕が、君を求めている。この腕が寂しい。この腕が燃えている。…〉正面を向いて語りかけるその歌い口には、二十歳そこいらの青年とは思えない成熟したメッセージと情熱があった。ドラマチックなラブ・バラード「この強き愛」(64年)、苦渋に満ちた愛の告白「愛しすぎて」(65年)といったスロウ・ナンバーは現在の音楽のように、小細工がなく、歌に気持ちが充分に乗っている。オーテイスは1967年12月飛行機事故で、26年の短い生涯を終える。「ドッグ・オブ・ザ・ベイ」は、彼のラストソング。熱唱型からガラリと姿を変えたこの歌は、死後、最大のヒットとなった。日永、海を見つめる男の歌だが、難解な問いがあるようだ。
 最近、オーテイス・レデイングを深く敬愛する、日本のソウル・ミュージシャン、忌野清志郎が亡くなった。「スロー・バラード」やいくつかの曲を聴いていると、影響を受けつつも、自身の音楽を刻んできたことがよくわかる。一週間ほど前だった。めずらしく人の少ない雨の天神を歩いていると、ビルに取付けられた巨大ビジョンから、聞いたことのある声が流れてきた。忌野清志郎の遺作となった「オー、ラデイオ」の詞とメロデイ―が、メッセージのように都会のビルに響いた。












27.傘日和

 福岡地方が梅雨入りした日の翌日(十日)は、久しぶりの雨となった。近所にある渡辺邸の森〈福岡市の保全緑地となっている〉の横を通っていると、付近の人が植えていた紫陽花が、淡い色にほんのり染まって、雨にうたれていた。行橋のほうではダムの水が大幅に減っているらしい。木々にも人間にも恵みの雨となってほしいものである。さて、雨といえば思い浮ぶのは傘だ。一時期、お洒落な洋傘に凝っていたことがあるが、たびたび紛失し、結局は、安物の折りたたみ傘やコンビニにあるようなビニール傘に落着いた。長い間、粋で美しいなあと思っていて、ずっと憧れている傘がある。和傘だ。昭和三十年代の中頃、筑後の某所だったと思うが、ヘルニアで入院していた兄を見舞いに行くバスの車窓から、たくさんの和傘が干してある田園風景を見た憶えがある。それから、どこかの旅館で借りたことはあるが、今日まで和傘を買ったり使ったことは無く、ふだん目にすることもなかった。ところが、去年二月、城島の酒蔵祭りの会場で和傘を目にした。城島町では、和傘つくりが四百年以上も続いているという。保存会の努力で蛇の目傘や日傘、番傘などが現在も作られており、久留米の地場産センターで、展示販売されているらしい。あの美しい和傘はどのようにして作られるのだろう。最近、「Dash村」というテレビ番組で、そのプロセスが紹介されていた。和傘は竹、和紙、糊、柿渋、油といった自然素材だけで作られ、百を超える行程を踏むという。少し長くなるが、主要な作業の流れを記してみたい。まず、骨組みを作る。まっすぐな真竹を選んで伐採し、必要な長さに切って、加工しやすいように水につけておく。一週間後、竹が柔らかくなってから、骨づくりにとりかかる。和傘は長短二種類の竹の骨(親骨、小骨)をつないで作られている。番傘の場合、それぞれ48本で、計96本の骨が必要だ。和紙を貼る部分は糊が付くように竹の皮を削る。親骨は全面に和紙を貼るため、専用のカンナで、皮の部分をすべて削る。次に削った竹に傷をつける。それから竹を細く割って骨にするのだが、あとで傘を閉じた時、元の竹のようにきれいな筒となるように親骨の配列を決めるためである。印をつけた竹をナタで割り、細かく削る。親骨の幅は3ミリ、小骨はもっと細い。このように、骨づくりだけでも骨の折れるデリケートな作業だ。行程は、骨を放射状につなぐ「ロクロ」と呼ばれる部品づくりに移る。ロクロには通常、エゴノキが用いられ、頭と手元に2個必要になる。ロクロに骨を入れる溝を作り、糸を通すための穴を空けるのだが、とても難しい作業だ。次に、和紙の紙漉き→傘を開いたときにロクロを柄に固定する「ハジキ」づくり→ロクロと骨をつなぐ作業→親骨と小骨をつないで骨組みが完成する。骨組みのゆがみを直し、広げて丸みを帯びたきれいなラインを確かめると、「張り」の行程に入る。親骨の間隔を整え、軒紙張り、補強の中置き紙張りを行った後、本体の天井張りとなる。紙張りの糊には、わらび粉を炊いたものなどが用いられる。最後に手元紙というものを張り、乾燥させる。きれいなたたみ癖をつける「たたみ」の行程を経て、骨頂部を強化し、渋引き、油引きを行って、一週間、天日干しをするとやっと完成だ。熟練の技術を要する和傘、いつか手にしたいものだ。民俗研究にも造詣のある遠藤ケイさんは、著書「日本の知恵」の中で、次のように記している。〈…和傘は雨の古い家並みに似合う。暗く沈んだ通りに大輪の花が咲いた艶やかさがある。油をひいた傘を打つ雨音を聞きながらの一人傘もよし。肩が触れ合う相合傘とくれば、雨よ止まずにいておくれと祈りたくなる。男女の別なく、傘を差しかける姿のよさ、畳んだ傘の頭を持ち、一振り、二振りして水を払う仕草には色気がある。…〉

26.おとなの遠足

 大阪で地域計画関係の仕事をしているO君が福岡に帰省したというので、五月四日、共通の友人M君と三人、能古島へ出かけた。二人とも大学時代のクラスメートで、O君の実家は姪浜にある。建築設計の仕事をしているM君は山梨出身だが、ずっと筑紫野市に住んでいる。M君とはずいぶん前、宝満山に登ったことがあり、今回も彼は宝満登山を提案していたが、O君の希望にそって能古島行となった。能古島へは姪浜の渡船場から十分たらず、船を利用しての通勤、通学など、島と陸(福岡市域)相互の利便性は高い。不景気な時勢のせいか、安・近・短と三拍子そろった行楽地へ向う家族連れや若者で、フェリーはすぐに満杯となった。たいていの行楽客は島へ渡ると、北端の高台にあるアイランドパークへ送迎バスで直行するのだが、自然探索派の我々のコースは異なる。港の売店でアサリめし弁当(タケノコめしも入って七百円)とお茶を買い、周回道路を東へ向ってスタート。すぐに左手の郵便局を指してO君が、「(井上)陽水の〈心もよう〉のプロモーションビデオに使われていたよ」と教えてくれる。そういえば、「能古島の片想い」というのがあったなあ。海岸沿いのゆるい坂道を進んでいくと、背丈ほどの藪の切れ間から薄曇りの博多湾と福岡の市街地が見えた。「どんたくには雨が降る」ジンクスどおり?雨になるけはいがある。そのせいか、蜜柑やトベラの花の匂いも濃厚な気がする。能古島の夏みかんは甘くてみずみずしく、よく知られているが、海へ下る斜面の蜜柑畑は放置され、蔓がからまっていた。さらに進むと、崖下がキャンプ場となっている見晴らしのよい場所に、洒落たウッドデッキと四畳半ほどの広さの小屋があった。食っていければ、島にこのような小さな小屋を建てて住むのもいいなあ、と三人。キャンプ場に植えられたヤシの木の間から島では数少ない砂浜が見える。海水浴場になっているらしい。ただ、バンガローのような施設がものすごく高密度に建っていて興醒めである。八月、ここを会場にして国内最大級のラテンフェステイバルが行われているらしい。しかし、普段はひとけの無い浜に建つ施設の群れは異様でさえある。M君が、ぼそっと呟いた。「ハワイの収容所だな」、同感。このあたりから島の北側へ廻り込むのだが、雨がぱらつき始める。アイランドパーク直下の道をのぼって行くと、そのゲートの前に出た。ちょうど正午、一時間あまり歩いたことになる。防風生垣のすきまから見えるアイランドパークの花壇が、きわめて単調に思える。ゲート近くの明るい園地に行くと、広くて立派な休憩所があり、ここで昼食。アサリもタケノコも旬でなかなかの味だった。雨はしばらく上がりそうもない。園地の木立の向こうに、南側へ伸びる起伏が見える。白く煙っているためか、遠く感じる。三人とも、久しぶりの再会だからといって、ベラベラ喋りはしない。長くつきあっていると、自然とそうなる。午後は港まで二時間ほどの行程と思われる。タブやシイの林の中にある檀一雄の歌碑に寄る。西にひろがる海原と糸島半島が見える。晴れた日なら、波光きらめく、といった形容がピッタリだが、雨の半島はミルクの中に浮いているようだった。引き返して、周回路を南へ歩く。鬱蒼とした樹林の林床に、マムシグサが群生し、次第に、マダケが目立ちはじめた。樹林保全の立場からは、竹の侵入は実にやっかいであるが、やはり温暖化によるものだろう。タブの大木の周りに、すきまなくマダケが繁っているのを見たときは、唖然となった。3kmほど歩いたろうか、まもなく樹林を抜け、海岸線が見えた。O君が、能古島には学生時代に講義を受けた先生の設計した住宅が三戸ある、と教えてくれる。その先生は亡くなられたが、しばらく歩くとその一つである先生の自邸が見えた。博多湾を望むように建てられた家の庭にロープの長いブランコがあり、小学生の女の子が空へ飛び出すみたいに漕いでいるのがわかった。海岸沿いの道へ出ると、コナラの林と別荘らしき建物があった。以前、建築雑誌に掲載された写真家の別荘らしい。能古島を訪れ、島の自然や食材、住民、利便性などに惹かれてのことだろう。でも、なぜコナラの林なのだろうか、読者にはおわかりだろう。我々は渡船場の店に入り、生ビールとたこ焼きで乾杯した。姪浜港へ着き、O君の実家へ寄ることになった。埋立て・移転に伴って建てられた地元漁師たちの新居が建つエリアの奥に、昔の漁港が残っている。昭和三十年代、姪浜港には鯨や海豚が入ってきて捕獲したらしく、その海豚碑が建っていた。O君は最近、ものがたり観光行動学会設立に向けて、忙しい。これについては、また機会を見つけて書いてみたい。


 




25.相島

 年が巡って四月となりました。あいも変わらぬ拙文ですが、また一年よろしくお付き合いください。

 アメリカハナミズキの花が先週(六日の週)あたりから咲き始め、このごろは、春というより初夏の感がある。青く晴れわたった十二日の日曜、久しぶりに相島(あいのしま)へ行ってみた。福岡近郊では特に気に入っている島なので、出かけることも多く、本欄でも何度か紹介したことがある。二年前に宮地岳線が短縮され、終点となった西鉄新宮駅から浜へ出て、港まで歩く。新宮浜の砂は粒子がきめ細かく、掌に掬うと砂時計のように流れ落ちる。十分ほど歩いて新宮港へ着く。船溜りや突堤では、たくさんの太公望が糸を垂らしている。海は凪いでいたが、出航すると甲板に気持ちのいい風が流れはじめた。赤潮が発生しているのか、海面のところどころにピンク色の帯が漂っている。島に近づき、寄り集まった漁村集落の瓦屋根が見えてくる。(小学校以外の建物のほとんどが瓦屋根である。)渡船はフェリーではなく、島民以外の車が入らないので、いたって静かである。正午近くなので食堂に入ると、大きな舟盛が三つテーブルに置かれていた。どこかの家で、法事が執り行われるらしい。娘さん、そのお母さん、お祖母さんのように見える三人で食堂を切り盛りしているようだ。旬の魚の刺身も手ごろな値段で、サザエ飯といっしょに注文した(観光で訪ねる者にはありがたい食事処ではあるけれど、港近くの民宿や旅館にとってはどうなのだろうか)。江戸時代、鎖国政策をとる中で唯一国交を結んでいた朝鮮からの「朝鮮通信使」を接待し、文化交流の舞台となったのが、相島である。クロワッサンの形をした相島には5.4kmの周回道路がまわっている。いつものように時計と逆廻りに歩くことにする。漁協近くの自販機で飲物を買っていると、横の舟溜に漁を終えた船が入ってきた。まだ若い漁師が、船底の生簀から甲イカとタコを掬って海中の魚篭に移し始め、手際よく作業を終えると陸へあがった。若い後継者がいるのが、うれしく思えた。ゆるい坂を上って行くと、相島小学校だ。数年前から埋立造成をしていた校庭もだいぶ落ち着いたようで、周囲に植えた樹木が育っていた。休日の校庭に子供たちの姿は無く、島の人とも思えぬ中年男がゴルフの練習をしていて、場違いな印象を受けた。樹林の繁る傾斜地を削って作られた畑の一角に、カンナがはやばやと朱い花を咲かせている。すぐ近くに島の水瓶となっている貯水池があった(島内には、二箇所の貯水池がある)。周回道路から外れて、東に突き出た半島の方へ進むと、磯浜に出る。近年になって相島では真珠の養殖が始められ、この磯浜の近い海上に養殖の筏が組まれていた。そういえば、島へのアコヤ貝の持ちこみを厳しく禁じる立札が港のあたりに立っていたようだ。南の磯浜からはすぐに北側の長井浜に出ることができる。古墳時代の積石塚が一帯に広がり、平成十三年に国指定史跡となっているらしいが、曇った日に訪ねるとちょっと不気味である。あたりにはハマウドが群生していて、セロリに似た切ない匂いが漂っていた。周回道路に引き返したところで、大仰なカメラを抱えた男性グループとすれ違った。相島は渡り鳥の中継地や野鳥の宝庫らしく、この一行もバードウォッチングに来たのかも知れない。周回道路はここから西へ折れ、島の北側を歩くことになる。右手は断崖が連なっていて、樹林の切れ間から磯まで降りて行くことが出きるのだが、今回は見送ることにした。照葉樹に混じる落葉樹の新芽が、陽を浴びてきらきらと光っている。アケビに似た植物に薄い紫の花が咲いている。ムベだ。芳しい匂いにあたりを見ると、はたして青紫色の山藤が樹に絡んでいた。断崖に沿った道を歩いていると、向こうの路上に烏がいる。近づくと、さっと飛び立ったが、道の上に何か散乱している。よく見ると、カタツムリの殻である。フランス料理のエスカルゴは、僕は食べたことは無いが、よほど美味しいとみえて、すごい数の残骸だった。バードウォッチングのグループとすれ違ってから、誰にも会わない。ウグイスのさえずりを真似て西へ進むと、小さな火葬場のそばを通った。港に近づいたようだ。色の薄れた漁師小屋の辺りに、たくさんの猫たちが寛いでいる。栄養が行き届いているのか、毛並みがよく穏やかな表情をしている。帰りの船の時刻が気になりだし、裏路地に目をやりながら少し早足で歩く。若宮神社の鳥居のそばで、歳の違う四、五人の女の子たちが遊んでいるのが見えた。船に乗り、初夏の陽射しで火照った顔と腕を、海の風で冷ましながら、福岡空港のことを改めて考えてみたのだった。











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