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2013。。。サヨナラの総括

三年前、2010-12/12のブログに「メルトダウン」というタイトルで、「リーマンショック後の街や職域の状況」について書いている。

部分的に再録してみると・・・・・(前略)・・・・・筑紫野市にある地元の野菜を使って家庭的なイタリアンを提供してくれていたイキツケの「I」は、ファミリー層の固定客をガッチリ掴んでいたように思っていた。ある日ある時「・・・7年間可愛がっていただいてありがとうございます。今月を以って閉店いたします・・・」と、挨拶を受けた。

お気に入りの日田の中華屋「福龍」は超繁盛店なのに、2010年のゴールデンウイーク後に店を畳んだ。いつ行っても行列が溢れていて、左前になったとは信じがたい。そこで日田の知人に聞いたら、「店を出すに当たってした借金を返し終わり、貯えもできた。超多忙だったのでまとまった休みもとれなかったため、年を取り体がしんどくなったので閉店したらしい」と言う事だった。

うきは市にあった羽柄材を作る製材所も「今だったら従業員に退職金を支払える」と言って2008年頃廃業された。天然乾燥材を出す良心的な所で、乾燥計を使って管理されるほど熱心な会社だったが「惜しい」の一言に尽きる。代替の天然乾燥材を出す材木屋が見つかったので、どうやら僕たちも一息つけている。

リフォームの仕事が続いていたので基礎屋を使う機会がなかったが、N邸の物件で暫らくぶりに会ったら常庸の職人がいない。基礎屋の大将に聞くと、「仕事が少なくなったので職人はリストラした」と言う。型枠は型枠大工に外注し、その他の工事だけを彼自身と臨時雇いの左官を使ってやっていると言う。だから彼自身は非常に忙しい。

解体屋もそうだ。以前は現場作業員は全員社員だったが、今は世話役だけが社員であとは仕出し屋と呼ばれる派遣会社から来る作業員で構成されている。N邸は人力解体に慣れた人が来たので助かったが、次の現場は分らない。大工を使うと万全なのだが、コストが掛かるのと撤去した廃棄物の処分に手間がかかる。

僕たちの所も現場監督が定年を迎えて退職したが、後任の補充をしていない。新築を止めR事業に特化しているので夫婦二人で何とか廻っている。夫婦二人でやる小商いの店を「パパママショップ」と呼ぶが、さしずめ僕たちは「ジジババビルダー」といったところだろうか。N邸は規模が大きいので、定年を迎えた彼にしばらくカムバックしてもらうことになった。N邸以降の事は白紙ですが、新しいシステム(大げさです)を考えないといけません。

建築屋ばかりでなく商店街も小商いの店舗も、日本中がメルトダウンしている。メルトダウンとは「炉心溶融」の事を指し、原子力発電所などにおいて原子炉が耐熱限界を上回る高熱により融解・破損する事。ウイキペデイアはそう述べている。

*****

上記のようにしたためたら、15ヶ月後に「原発震災」の本物のメルトダウンが発生しました。そして二週間後に、僕と配偶者は車の「もらい事故」で、イワユル「おかま」を掘られ、僕は腰を、配偶者は首を痛めてしまいました。東日本大震災のあおりを受けて、建築資材が思うように入手できなかったり、仕事の注文がキャンセルになったりで開店休業状態になりました。でも、N邸のリノベが完了できた事とほぼ2011中を充分にリハビリへ費やせたのは、「不幸中の幸い」でした。

2012はニューディールを計り新システム(?)を立ち上げ、リフォーム中心の底々の仕事量をこなしました。しかし、「現場力」というべき職人のアドリブ力が圧倒的に低下してきていて、自分自身の満足のいく「出来形」が仕上げられなくなりました。気の利いた職人は東北の方へ「デカセギ」に出払っていて、今までのような協力会型(ゼネコン型)のシステムでは、しっかりした仕事ができる時代ではないと悟りました。腕のいい職人と多技能工を社員として抱えていないと、リフォームのような仕事はうまく廻っていかないのです。(僕がカーペンター&アーキテクトだったら少し話が違っただろうけど。。。)

それで、戦線を超縮小して、2013からはOBオーナー様だけのメンテナンスおよびそのリフォームを中心に、ほんとうにボチボチ、仕事をやっています。(商売の体をなしてない・・・笑)「母の認知症」「僕の慢性気管支炎」「配偶者の糖尿病」などとうまくオリアイをつけながら、2014以降もOBオーナー様が必要とされる限りは「頑張っていきたい」と思っています。

皆様にとって、新しい年が幸多き年でありますように!
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いやな感じ

いわゆる連合赤軍の幹部として「あさま山荘事件」「連続リンチ殺害事件」で死刑が確定していた、永田洋子氏の病死報道されたのは、東日本大震災前頃の二月末だったろうか?1972年に森恒夫氏と永田氏のグループが起こした一連の事件は、僕が高三の大学受験前に起こり発覚し、悲劇的ななんとも表現しがたい後味の悪さを残して終息した。1970年の「三島由紀夫氏自決」「早大E君内ゲバ殺人」とともに、青春前期の忘れがたい嫌な思い出である。カンボジアで「クメール・ルージュ/ポルポト派」による大量殺戮事件(アムネステイ等によると犠牲者は120万~170万人と言われている)が報道された時も肌にべたつくような「いやな感じ」を受けた。

1960年代末~1970年代初頭の学生運動は、例えば東大では医学部のインターン制度への「異議申し立て」から始まっている。最初は大学の人事制度の封建性に物申す行為が、時代の流れの中で、毛沢東の「銃口から革命へ」のテーゼに封建主義を破壊するカタルシスを感じたり、ベトナム戦争へ加担する事の拒否、戦中派である汚れた親世代の否定などがあいまって、社会主義を指向しながら反米ナショナリズムを主張する「政治運動」に変質していった。またある一面から見ると、学生運動は文化的ムーブメントにも影響を与えファインアートに対してカウンターカルチャーの存在を際立たせた、とも言える。そのような時代的高揚感に一連の連合赤軍事件は冷や水をブッカケタ。

この事件にショックを受けた治安当局や教育界は、根こそぎ政治的な芽を摘み、反動的施策で思考停止教育を強化していった。学生運動が退潮する状況で、僕たちは「政治的関心」や「理想主義」を捨て去る事で生き延び、漠然とした敗北感や自嘲的な思考を身に付け始めた。1953年周辺生まれの世代は「シラケ世代」と呼ばれるようになる。敗北感や停滞感と馴れ合っている内に、僕たちは抽象的な思考の論理化や言語化する能力も失いつつあった。1970年代後半には政治に関心を寄せる事はカッコワルイ事で、若者だった僕たちは「社会改良の意思」を示す事を忌避した。

学生運動は、アメリカでもドイツでもフランスでも、あった。アメリカのベビーブーマーは「ベトナム戦争を止めさせたのは自分達だ」と自信を持っている。クリントン夫妻はその筆頭に挙げられる。旧西ドイツの「元祖・緑の党」は学生運動の活動家が作った。「草の根」からもう一度自分達の暮らしを見直して、民主主義を活性化するために直接政治に訴えかけていこうというものである。「エコロジー」や「福祉」に成果をあげている。

若者だった僕たちが自分自身の「世界観」を以って「社会的理想」に関心を持っていたならば、抽象的な思考と現実を結びつける実行力を獲得しようとする意志を持っていたならば、現在の日本社会の抱えている「解決できない課題」はもう少しどうにかなっていたのではないか、と考えていた。それで「フクシマ-3・11」を機にジジババ連に勃興した「草の根民主主義活動」に参加していたところ、「新帝国時代」の裂け目の時空にフリークが這入り込み復活した。

アベシンゾウ君は1954年生まれの僕とタメ年で、来年、還暦を迎える。2007年に第一次安部内閣が総辞職して以来、雌伏六年ほどの間にアベ君は虎視眈々と再起プランを立てていたみたいだ。東日本大震災・原発震災などの危機的状態を奇貨として、ショックドクトリン=「惨事便乗型資本主義」を策動していた(アベ君を代表とする)勢力ははこれにつけこんで、人々がショック状態や茫然自失状態から自分を取り戻し社会・生活を復興させる前に、TPPなどで過激なまでの「市場原理主義」を導入し、やがて戦争できる体勢をつくろうとしている。一年前の衆院選や夏の参院選では「シルバー民主主義」は歯が立たず、自民党独裁政権のアベ君にフリーハンドを与えてしまった。「特定秘密保護法」は成立させるは。。。なしくずし的に憲法九条をナキモノにしようとする気配はあるは。。。

この年末年始は、物騒な時代の始まりになるかもしれない。。。。おぉ、「いやな感じ」!!!

忘れじの歌姫

昨日は薪ストーブの薪運びに邁進する筈であったが、雪が降ってきて情緒が刺激されたので、「筏場の湯」に温泉三昧と洒落込んだ。始めて訪れた時は雪国に降るような雪が舞っていた。筑後川の支流である玖珠川とR210に挟まれた所に、「筏場の湯」はある。温泉に浸かりながら、山沿いに降りてきて川面に消えていく、牡丹雪や粉雪を見ていた。異次元の世界に飲み込まれそうな気分だった。

☆「雪が降る」 作詞作曲:S.Adamo 日本語詞:浅川マキ

Tombe La Neige あなたが来ない
Tombe La Neige 心は暗い

絶え間なく降り続ける 綿のような白い涙

あなたは来ない

容赦もなく降り注ぐ 黒い絶望
忌まわしい闇と氷 物音もない白い孤独

ラ ララ ラララ・・・・・・・

浅川マキ版の「雪が降る」が口をつく。アダモの歌の趣向と違って、ブルースやファドのような乾いた悲愁を感じる。浅川マキを始めて聞いたのは、1974年の冬。K大映研の友人の下宿で、炬燵に足を突っ込みながら聞いた。1969年に寺山修司プロデユースで催された新宿・蠍座のライブ盤で、演歌のようなブルースのようなゴスペルのようなシャンソンのような、ごった煮の不思議な世界を感じた。一瞬で、浅川マキに噛まれた。

池袋・文芸座でのオールナイトのコンサートに何度か行った覚えがある。1979年までLPを買い続けた。寂しい時孤独を感じた時落ち込んだ時、浅川マキを聞いた。年の離れたお姉さんから「みんなさみしいんだよ」と慰められるような安堵感を与えられた。その浅川マキも2010年1月に亡くなった。21世紀になってからも新宿を離れずに「PIT INN」でライブを行っていたと言う。長い髪は白くなり、煙草は最期まで離さなかったらしい。もう一度ライブで聴きたかった。

藤圭子の死について、五木寛之氏は語った。「浅川マキ、藤圭子。時代のうつり変わりを思わずにはいられない。1970年のデビューアルバムを聞いたときの衝撃は忘れがたい。これは『演歌』でも、『艶歌』でもなく、まちがいなく『怨歌』だと感じた。ブルースも、ファドも『怨歌』である。当時の人びとの心に宿ったルサンチマン(負の心情)から発した歌だ。このような歌をうたう人は、金子みすゞと同じように、生きづらいのではないか。時代の流れは残酷だとしみじみ思う。日本の歌謡史に流星のように光って消えた歌い手だった。その記憶は長く残るだろう」

藤圭子は、今年8月22日午前7時頃東京都新宿区のマンションの前で倒れているのが発見され、搬送先の病院で死亡が確認された。「自死」と報道されている。肉親縁者と確執があり、自分の家族からも孤立して不和状態になる事態に発展し、奇行に走るなど感情を制御することのできないパニック障害に至っていたらしい。・・・御冥福をお祈りしたい。

僕も1986年に東京を引き払って、家業を継ぐつもりで帰郷したら、直ぐに両親との間にトラブルが持ち上がった。トリアエズは別居すればよかったのだが、同居してしまったので「家に入れない、出て行け!」と怒鳴られた。もともと、僕は物心ついた時分から両親とオリアイはよくなかった。「それじゃ、出て行くワ!!」ということで、配偶者とともに「配偶者の親戚(大宰府)」~「親友宅(久留米市内)」~「配偶者の実家(枕崎)」と長い草鞋を履いて、二月ほどサマヨッタのでした。その時々にストレス解消でカラオケを演ると、決まって「京都から博多まで」を絶叫したものでした。

☆「京都から博多まで」 作詞:阿久悠 作曲:猪俣公章

肩につめたい 小雨が重い
思いきれない 未練が重い
鐘が鳴る鳴る 哀れむように
馬鹿な女と 云うように
京都から 博多まで あなたを追って
西へ流れて 行く女

二度も三度も 恋したあげく
やはりあなたと 心にきめた
汽車が行く行く 瀬戸内ぞいに
沈む気持を ふり捨てて
京都から 博多まで あなたを追って
恋をたずねて 行く女

京都育ちが 博多になれて
可愛いなまりも いつしか消えた
ひとりしみじみ 不幸を感じ
ついてないわと 云いながら
京都から 博多まで あなたを追って
今日も逢えずに 泣く女


・・・・・「淺川マキ」と「藤圭子」、忘れようにも忘れられない歌姫だった。

「つなぎ」としての資材性(了)

2)試行としてのN邸リノベーション

N邸リノベーションについての考察の通しタイトルである、「つなぎ」としての資材性、とは「住宅建築 2000年2月号」で中谷礼仁氏が「わが解体ー住宅成立の条件ー」と題されて発表された論文からお借りしています。が、僕の考察は中谷論文から刺激を受けて書いた物で、オリジナルとは関係ありません。「つなぎ」や「資材性」という言葉も、中谷氏の定義とは異なります。高松市在住の建築家・戸塚元雄氏から送って頂いたこの資料がなかったら、こんな文章は書こうとも思わなかったでしょう。この場を借りてお礼を申し上げます。

*****2010~11に於ける試考

「街」というものには、時間が重なり堆積している。現在は過去から連続している物であり、僕たちはその連続性の中に生きている。「街」というものは日々流動し、現在性の象徴のように見える。生きている「街」には過去は介在しないように思えるが、過去の事物の重なりによって「街」は構成されている。

N邸は、シャッター通りと化した旧商店街にある。道路事情が良くなり、車で10~15分圏内の新興住宅地には、ショッピングセンターがいくつもある。K町にある旧来の商業施設は、寂れてしまっている。どこにでもある、新自由主義時代の、地方の風景である。K町の時間は淀んでいる。

時間は淀んでいても、人々は生きている。「出店(でみせ)」ではなく、人々はまだ街に住んでいる。そこには、まだ、コミュニティが残っている。Nさんは、残りの人生をその縁・絆のなかで全うしたい、と願っている。その生活を入れる「器」としての家は、築32年の普通の町屋で、文化的な存在価値は見出せない。しかし、その生活にマコトを込めようとするなら、「器」は用の実質に従ってデザインされなければならない。

デザインという言葉を不用意に使ってしまった。ウィキペディアによると、”「デザイン」とは日本語では「設計」に当たり「形態」「意匠」とも訳されてきたが、目的をもつ人間の行為をよりよい形で適えるための「計画」のことである。”と説明される。

N邸は、Nさんのご主人の知り合いの大工職により、口伝てで間取りが書かれ、口立てで造家が行なわれたらしい。間取りは、当時どこにでもある一般的な店舗つき住宅のものであり、とりたてて可不可を述べる所はない。ヴァナキュラー(土着的な、その土地に根ざした)な住宅そのものであり、アノニマス(匿名性)なデザインと言える。

解体が施されスケルトンになったら、住宅だの店舗だのという建築的意味が消えて、構築物とでも呼びたいような即物的な構造が残る。そこに、耐震性・断熱性などの住宅性能を担保した空間を囲い込む。「リノベーション」のデザインには、生活のアクティビティを空間に落とし込むだけでなく、過去から連続している時間も射程に入れる事が要求される。

僕は、N家の人々の記憶に寄り添い、無意識層の井戸に降りていく。そこには、残された懐かしい過去の生活とこれから展開される希望の生活がある。井戸の中の情報を掻き集め分析し、生活のマコトに適うように計画する。「リノベーション」のデザインの要諦は、そこで、それが叶えば、「器」は用の実質に従う。

そうすると、N家の人々にとって、家は記憶に残る思い出の場所となる。変わるものがあったとしても、変わらないものがあることを発見する。昔の自分を振り返り、思いを巡らしたりする。家の「ありよう」は、そこに住むN家の人々を含む多くの人々の記憶の中に、存在するようになる。”家は個人的財産であり社会的財産だ”と、自覚される。

野球の投手リレーになぞらえれば、先発からセットアッパーへさらにクローザーと投手を繋いで、試合を完遂する。同じように、親世代から子世代へさらに孫世代に引き継がれ、*80年以上の家の寿命=社会的財産を全うする。その価値を作ることが、「リノベーション」という仕事の持つ意義である、と信じたい。

「既存不適格」と呼ばれる建築物を、診断し住宅性能を付加する。同時に、生活について意識されないレベルまで読み取り、デザインと言う行為に反映させる。セコハンな家が、意識されたデザインによって再生され甦る。新築の80%以下のコストで延命処置が施され、寿命を全うし、「つなぎ」の役目を終える。「リノベーション」と言う行為で、セコハンな家が社会的財産に転化する。ボロボロな家は取捨選択されたうえで、取り壊され、駐車場になったり、公園になったり、只のハラッパに戻ったりする。新しい転入者と古くから住んでいる地元民が、混在し生活を築き新しい形のコミュニティを作り上げる。そこに、新しい価値観をベースとした「住宅の再生」とともに「街の再生」の『鍵』があるかもしれない。

*****2013時点での総括

上記のように、肩に力がバリバリ入った状態で「もりの家リノベ」はスタートしたのですが。。。耐震診断を数こなして行くと、公庫融資物件と言えども「これはヒドイ」と言わざるを得ない家と遭遇しだしました。「筋交」が不足している位は序の口で、増改築もしてないのに図面のプランと実際が違っている物件まで。。。イヤハヤナントモ。。。検査体制が不備だったのがその原因と思われますが。。。

ということで、現時点で総括します。新耐震基準以前の建築物で「『つなぎ』としての資材性」が有効なのは、「古民家」と呼ばれるにふさわしい住宅か、「都市中心部」にあり躯体はボロボロでもその場所で商業的価値を発揮し続けられる物件(たとえば1960年代のなんの変哲もない住宅を『昭和レトロ』のカフェにコンバージョンする、、トカ)だけだと思料しました。N邸リノベーションを終えて、他のリノベを経験して考え得た、2013年末に於けるトリアエズの結論です。

友人の建築家・米谷氏は「僕達の世代が高度成長期に建築された建物に手を入れて延命させ、十二分に使って建物の命を全うさせてあげるのだ」と発言し「延命リノベーション」を提示されたが、国土交通省監修の「木造住宅の耐震診断と補強方法」というマニュアルに準拠させ、「既存住宅市場」に載せようとする限りはコストは多大なものになってきます。「延命リノベーション」を『絵に描いた餅』にしないためには、新耐震基準の柔軟な適用が必要となってくると思います。(という事は、「基準の緩和」という意味にしかならない訳で、ソレガイイコトカどうかは判断に苦しむところです)

一世帯あたりの構成人数も減ってきているので、小さな家にして「新築で建替」というのがコスト面からだけ判断すると現実的なのではないか・・・とスクラップ&ビルド時代のような反環境的な所で、僕は立尽くしているところです。

*国産材の杉が丸太として出荷されるまで、およそ80年として、サスティナブルな家造りを担保するには、家の寿命は80年以上保たなければ、環境的経済的社会的連鎖は持続しない。

「つなぎ」としての資材性(4)

4.「つなぎ」としての経済性

1)コストパーフォマンスの検討 : 消費税は別途として検討しています。

@N邸リノベーション工事総計 ;2020万円(冷暖房・照明器具・外構・カーテン・解体工事込)

@N邸を新築した場合の予想総計 ;2627万円(1万円以下は四捨五入)
 内訳を明示してみると
          本体工事 2400万円 =40坪X60万円/坪:もりの家仕様、狭小地考慮
          冷暖房工事  85万円 ;R工事実績から:エアコン4台・FF式ストーブ1台
          照明器具工事  30万円 ;R工事実績から:取り付け工事とも
          外構工事    15万円 ;R工事実績から:コンクリート・土工事他
          カーテン工事  17万円 ;R工事実績から:取り付け工事とも
          解体工事    80万円 =40坪X2万円/坪:機械解体、養生シート架設込

N邸のリノベーション工事の実施総計(N-Rと略す)とN邸の新築工事の予想総計(N-Nと略す)を比較すると
          (N-R)/(N-N)X100=76.9%(<80%)

*****

N邸のリノベーション工事のコストパーフォマンスは、新築工事に対して、76.9%の値を示している。建築家の青木茂氏は「リファイン(≒リノベーション)のコストパーフォマンスは80%以下でなければ意味がない」と発言している。したがって、N邸のリノベーション工事は、実施して「『意味がある』建築行為」だった、と言える。

しかし、コストパーフォマンスの数字をもっと下げるには、”解体・再築の関係性を整理して、大局的な見地から、生かすべきもの/捨てるべきものを大胆にメリハリをつけて選択できる”「能力」が要求される。

例えば、今回の試行では「二階の根太は撤去すべきか、そうでないか」という事が挙げられる。安全面から考えれば残して置いた方がいいし、作業能率から言えば取った方がいい。

今回は解体工が熟練でなかったため、安全面を考えて二階の根太は残した。しかし、棟上等で高所作業に慣れている大工職からは、床の水平を出すのに手間がかかるため、不満が出た。いずれにせよ、管理(監理)者の「能力」が問われる悩ましい問題ではある。          

「つなぎ」としての資材性(3)

2)温熱環境

次世代省エネ基準を満たす厚み以上の断熱材「ポリスチレンフォーム E-3」を、床・天井・外壁に充填しました。

二階は生活の中心なので、天井はロックウールを付加して断熱性能を25%アップさせています。窓には、ペアガラスを装着したアルミサッシュを、新たに取り付けました。

一階の日の当たらない場所にあるユニットバスには、家の躯体断熱に加えて、ユニットバス単体の断熱を施してあります。

冬の暖房設備には、コストパーフォーマンスの高い「FF式ストーブ」を採用しました。これ一台で二階全体を暖めてくれます。これで、暑い夏寒い冬も気持ちよく過ごせて、家の中の極端な温度差も改善されます。Nさんの身体への負担も軽減されるし、お孫さんも喜んで泊まっていかれるのではないでしょうか。

3)劣化度

既存のN邸には、表と裏の二箇所に「ルーフバルコニー」が設置されていました。

「ルーフバルコニー」の下地は鉄骨で作られ、仕上はコンクリートでプールのように端部を立ち上げてありました。排水は、「ドレーン」という金物をコンクリートの中に埋め込んで竪樋に繋ぎ、水を吐かせるやり方です。この方式だと、「ドレーン」部からの「濾水」の可能性が例外なく考えられます。N邸を丸裸状態(スケルトンという)にしてみると、二箇所の「ルーフバルコニー」周辺の構造用木材に、「濾水」の跡が見られ腐朽している部分がありました。

表の「ルーフバルコニー」は撤去して、新たに「店舗つき住宅」から「住宅」へコンバージョンしたシンボルとして、出窓を通りに面して作りました。(これにより、容積率・建蔽率の問題はクリアできました)

裏のそれは物干し場として必要なので、改善することにしました。旧コンクリートをはつり、下地のデッキプレートを取替え、立ち上がりをつけずに鉄筋コンクリートを打ちました。既設の庇には軒樋がなかったので、それを取り付けました。大部分の雨水は、庇から樋を介して排水されます。ごく少量の雨水は、塗膜防水されたスラブを伝って、自由落下して行きます。しかし、躯体の内部まで雨水が浸み込む事はありません。

その他には、浴室がタイル貼りの在来型だったので、土台及び柱・間柱の下部にも同様の状態が見て取れました。どうしても、タイルの目地から水がしみてしまうのです。

腐朽した木材は、丸ごとあるいは部分的に、取り替えて改善します。構造躯体を構成している部材に当たる木材は、重力や地震力に耐えなければならないので、ただ置き換えればいいというものではありません。木材同士が接合する部分(直行方向を「仕口」と呼び、並行方向を「継ぎ手」と呼びます)は、切断した面を突きつけるのではなく、細工して互いの面に凹凸をつくりうまく嵌るようにします。さらに、補強金具でしっかりと止め付けます。箇所によっては、「突きつけ」しかできない場合があります。その時は「アイデア金具」とも呼ぶべき、実用新案的な金具を使用します。金具製品の知識が、必要となります。

4)耐震性

いわゆる新耐震基準とよばれる現行の基準に従い、構造計算をして、地震力に対抗するための「耐震壁」という壁をバランスよく配置します。これを「構造計画」といいますが、人の命に係わる非常に大切な作業です。

N邸は細長い短冊形なので、長手方向は壁がたくさんできるので「構造計画」がしやすいのですが、短手方向の場合はそれとは真逆です。短手方向の壁をなるべく作るため、「構造計画」に沿ったプランが必要になります。一階二階ともに中央部にトイレなどの設備コアがあるので、それに付加して、押入れや収納などの小さな空間を作って短手方向の壁を数多く作りました。

N邸は、1978年の住宅金融公庫の融資基準に則り、新築されています。1978年の構造に関する融資基準で、現行の基準と大きく違う所は、基礎の仕様です。ざっくりいえば、1978年の基礎には鉄筋が入っていなくてコンクリートだけで出来ていますが、現行の基礎には割とたくさん鉄筋が入っています。前者を「無筋」といい、後者を「有筋」といいます。

新旧のギャップを埋めるために、国土交通省監修の「木造住宅の耐震診断と補強方法」というマニュアルが出版されました。この本によると、外周部および耐震壁の既存の無筋基礎に新規の有筋基礎を合体させる、という耐震補強が説明されています。N邸はこの方法に準じて施工しました。

「耐震壁」は、柱・梁・土台・筋交で構成される木造軸組である壁とそれに取り付く基礎が緊結されて、一体の物として働きます。壁の木造軸組も一体の物として効果を上げるために、柱・梁・土台の直交する要素に筋交という斜材を金物で止めてしっかりした三角形を作り上げます。先のマニュアルにはこの考え方に基づいて補強方法が示されていて、正確に施工しました。

このように、「構造計画」と「耐震補強法」の整合した総合的な思考が必要とされます。

「つなぎ」としての資材性(2)

3.N邸に要求されるもの

1)Nさんは70歳なのでこれから加齢により弱っていくと思われる体のことを考慮して、一階部分を改造しバリアフリーにして一階のフロアだけで生活を完結したい。;バリアフリーを加味したプラン

2)とにかく、夏暑くて冬寒い。盆・正月に実家に帰ってきても、泊まっていく気が起きない。;温熱環境

3)雨漏りがした所が何箇所かあるので、木が腐朽していないか見て欲しい。;劣化度

4)玄海沖地震などが頻発しているので、この家で保つのか検討して欲しい。;耐震性

・・・・・・・・・・・・・

1)バリアフリーを加味したプラン

一階のフロアをNさんの生活空間にするのがバリアフリーの基本なのですが、N邸の周辺は建て込んでいて一階全体の日照・通風が確保できません。いくら老後対策といっても、居住環境が悪ければリノベーションする意味がありません。今までも生活の中心は二階で行なわれ、その生活様式を引き継ぐ形でのプランを考えてみました。

N邸は敷地一杯に建っていて、隣地境界線が外壁の外面一杯でクリア=0の部分があるので、これ以上の増築はできません。また、建替となると現行建築基準法が係ってくるので、1F/≒20坪・2F/≒20坪の計40坪の施工床面積が確保できません。既存施工床面積を検討して、都市計画上の容積率・建蔽率の遵守から始めました。。

日照・通風を考えて、「二階リビング」型プランを提案しました。既存の二階プランは1LDKとなっていて、真ん中にDKを置き独立した寝室と和室がそれをサンドイッチする形で、こまぎれに三部屋が並んでいました。

設備コアになるDKの位置はそのままにして、明るい東の表側に居間を取り畳敷きの茶の間風にしてDKとの連続性を意識してみました。居間の東壁には出窓をとり高窓とし、日照・通風を得やすくしています。

裏の旧和室は茶の間・寝室兼用だったようです。そこのタタミをとり杉板を張りベッドを置けるようにして、壁勝ちなので収納をたくさんとりNさん専用の寝室としました。真壁仕様はそのまま活かし、落ち着いた仕上がりになりました。

中心部のDKに天窓から足ざわりの良い杉板を張った床に光を落とし、大工職に杉集製材を使ってパントリー・テーブルなどを造作家具にしてもらいました。テーブルを中心に回遊性のある動線に沿って、什器・調理器具がきちんと整理できるようになり、コンパクトな調理作業ができるようになりました。

N家はどちらかといえば女系が多いので、パウダールームにトイレを併設して広く取り、サニタリー備品の収納がしやすいようにしました。

一階には、たっぷりの収納空間を持ったガレージ・(Nさん御主人愛用品)展示ギャラリー兼用の広い玄関ホール・ピアノコーナー・シューズストックに繋がる玄関・予備室・洗濯室兼用脱衣室・ユニットバス・トイレという諸室を有機的に配置しています。

バリアフリーと言うと、Nさんが身体的にハンデキャップのある人みたいに聞こえるが、そうではありません。70歳であっても元気なNさんには「バリアフリーの家」というより、自分で何でも出来る「セルフサポートの家」の方がふさわしいのです。「自助自立」できる家、といってもいいでしょう。

N邸は一階二階を上下しないと、生活は完結しません。リハビリに階段を使われることが多いのですが、滑り止めや手すりを適切に配置すれば階段はバリアではありません。階段の上り下りは適度な運動になり、アンチエイジング・トレーニングとなります。「病は気から、老いは足から」といわれる所以でもあります。

もしNさんが「要介護・要支援」になったとしても、心配ありません。予備室となっている部屋に休んで頂ければ、多目的流しと洗濯機が付いた脱衣室、バリアフリーのユニットバス、手すりつきトイレがサーキットプランで使いやすいように配置されています。このように、もしも「要介護・要支援」になった時は、一階で最小限の生活は完結できます。

「つなぎ」としての資材性(1)

1.延命リノベーション
N邸は1978年の新築で、2010年には築32年を迎えた物件です。いわゆる新耐震の施行が1981年ですので、現行基準と照らし合わせると「既存不適格」という法律用語が当てはまる家です。この家は文化財でもなく、古民家でもない、ただの一般的な町屋です。

高度成長期には、N邸のような旧住宅金融公庫基準の家が、たくさん建てられました。当時の融資基準に従ってしっかり建てられたのですが、日本の家の平均寿命は30歳代です。日本にたくさん育っている杉の木で家を作る場合、80年生の杉山から曳き出されることが多いです。それから考えると、木を伐って家を作り伐ったあとにまた木を植えるならば、80年の家の寿命がないと具合の良いサイクルは生まれません。日本の家の寿命も人間の寿命と同じ80歳代を目標にして、家が健康に長生きすることで、循環型社会の促進の手助けとなる事ができるはずです。

友人の建築家米谷さんはこんな考え方を教えてくれました。「僕達の世代が高度成長期に建築された建物に手を入れて延命させ、十二分に使って建物の命を全うさせてあげるのだ」これにちなんで、「延命リノベーション」と銘打ってみます。

2.「実家」へのコンバージョン
オーナーであるNさんは70歳の「単身女子」で、家は佐賀県K町の駅前通りにあり、亡くなられたご主人は写真館を営まれていました。いわゆる「店舗つき住宅」というタイプに類別される物件で、敷地は「鰻の寝床」と呼ばれる間口が狭く奥深い形状です。間口は2~2.5間、奥行きは9.5間で、敷地面積はだいたい25坪ぐらいです。

「コンバージョン」とは耳慣れない新しい言葉ですが、建物の用途変更の事を意味します。例えば、オフィスビルをマンシヨンに変更したり倉庫を店舗に変更したりして、建築物を全撤去しないで改善・改造を加え、再生して活用します。

Nさんには長女・次女・長男の順番で子供さんたち(以下敬称略)がいらっしゃいますが、皆結婚されて福岡県内に居住されています。夫々の子供たちには、お孫さんがいらっしゃいます。Nさんのライフスタイルは、ウイークデイは福岡市にいらっしゃるまだ小さい次女のお孫さんのお世話をして、ウイークエンドにはK町に帰ってきてお友達と交流を暖める、という形です。N家の人々には都市と田舎に拠点が夫々あり、「田舎の拠点を再生する」のが今回の案件です。

子供たちにとって、「田舎の拠点」とは「実家」の事を意味します。改めて「実家」という言葉の定義を調べてみました。「デジタル大辞泉」に依ると「1)自分の生まれた家、生家。 2)婚姻または養子縁組によって他家に入った者からみて、その実父母の家。」となっています。2)の定義を考えてみると、お嫁に行った娘さんたちにとって「実家」は大切な物になってきます。

商売屋では「店舗」の方に力点が置かれがちで、「住宅」の方はおろそかにされがちになります。そうなると「実家」で法事や節句の祝い事で皆が集まった時、「店舗つき住宅」では不都合な事が多くなってしまいます。
そこで、「店舗つき住宅」から「住宅」へ、「実家」をコンバージョンする事になりました。

けんちくYAの自己弁護

★2009一杯で新築の仕事を止めた時に、ブログに書いた文章です。現場監督が定年を迎えたこともあり、そのように決断したのでした。「もりの家R」として「大規模リフォーム=リノベーション」を主体として新しく事業を立ち上げようとしていました。

*****(1)

2010から新築はやめました、と宣言したら色々な人から様々な言葉を頂いた。やめる理由は、後継者が居ない事と住宅品確法の十年保証を完遂するため、と言う事に尽きます。

後継者問題は悩ましいものがあり、右肩下がりの業界を生き抜いていくには相当の覚悟と知見とタフさが必要とされ、その様な人材が周りにはいませんでした。なによりも建築や住宅が好きで好きでたまらないという人しか、これからの時代は勤まりません。

いつまでも新築を続けていく事になると、僕が死んだ時(当社は個人事業者)十年保証は誰が担保するの?と言う事に成ります。確かに瑕疵保険があるので保険会社がするのですが、申請手続きが面倒で、素人のオーナーの手に負えないだろうと思われます。

一番最近の新築は2009で十年保証を完遂するのは2019となりますが、その時僕は65歳であります。だから、僕は65歳までは死ねないのです。(笑)

本当に有難い事に「それでもどうにか成らないか・・・」と仰るクライアントは数人いらっしゃいました。今のこういう難しい経済状況の中で、折角のオファーを断るというのは断腸の思いで、天に唾する事ではないかと悩みました。そして「いいよそれじゃ、どこかいい工務店・設計事務所を紹介して・・・」と畳み込まれますと、更に困ってしまいます。

大学時代の友人に同じような依頼を受けて、「ここだったらいいだろう」という所を紹介しました。遠隔地だったのでそのような次第になったのですが、紹介した工務店が「独りよがり」の家作りの所で、仲介に入った責任もあって、往復500kmの距離を何度もいったりきたりしなくてはいけない羽目に陥ったのでした。

そんなこんなで、断ってばかりで申し訳ありません。!!

*****(2)

「新築」というと金額が張るので、利潤が大きいと思われがちですが、そんな事はありません。最終的な純利益率が5%もあれば良い決算の方だと思います。利益率からいえば、リフォームやリノベーションなどR事業の方が良い結果が出やすいです。その代わり、当たり前ですが、売り上げは伸びません。

注文建築の「新築」はリスクが多く、クライアントと良くコミュニケイションを取る事が大切になってきます。その事が、リスクを低下させる事に繋がってゆくからです。しかし、フラット35などのローンが整備され借りやすくなるに従い、新築の客層が若年化しだしました。20代の後半で、結婚と同時に新築する若者も出てきました。

自然素材を使った家作りは、素材の良さも悪さも素直に出てくる場合が多く、素材の性格を知らないとクレームだらけの家作りになりがちです。紙や布はビニールクロスに比べると、メンテナンスがむずかしいかもしれないし、無垢板は複合フローリングに比べると、反ったり床鳴りがしやすかったりする。そんなものを補って余りある長所がたくさんあるのですが、体感的なことなので、心の底からの共感が1970生まれ以降の客層の共感がなかなか得にくいのです。団塊の世代周辺は、木造校舎などで生活体験があるので、好き嫌いについての実感的反応は得やすいのです。

だから、僕は、若年層対象の自然素材を使った注文建築の「新築」には、魅力を感じなくなってしまったのです。さらに住体験が極端に貧しく、注文をつけるからには注文者には素養が求められると思うのですが、知識はあっても文化的素養がない。例えば回転寿司でないすし屋にいくなら、ネタの名前がわからないと注文ができないのと同じです。

とにかく注文建築を建てたらいけない人が建てている、需要と供給のミスマッチです。

「カフェみたいな家がいい」とクライアントはいう。僕は、カフェと住宅とは水と油で性格が違うものなので、ソモソモソウイウモノハ・・・という説明から始めてしまうほどミスマッチなのです。要するに、僕はオールドタイマー、時代遅れ、と言う事です。(それでいい!!) ところがR事業の場合、生活の中で不満足の点や問題点がソリッドに出てきて、流動しない。すでに家という物体は眼前にあるので、チャラチャラした浮ついた議論になりにくい。こういうところがR事業の方がやりやすい。

新築を止めると言う宣言が「西村工務店が左前になっていくんじゃないか」と顧客の皆さんに心配を掛けているみたいなので縷々説明してみました。固定費を少なくし、ケイエイジン(僕と配偶者の事)の生活をつつましいものにして、R事業に特化した方が顧客の皆様との長いお付き合いが可能になるのです。

ウタの慰め

なんか世の中に拗ねて焼酎を呷りたいような気分のとき、自分で適当にアレンジしたエンカを、心の中で思いっきりマイナーに唄ってみる。(畠山みどり「出世街道」の歌詞を恣意的に組み替えて唄っているだけなんだケド・・・)

他人に好かれて いい子になって  
堕ちていくときゃ ひとりじゃないか
俺の墓場は おいらがさがす  
どうせこの世は 『いっぽんどっこ』 ・・・

無頼な一匹狼の心情が心を打つ。流れ者の寂しさが胸にしみる。ニル=アドミラリ・アパテイアの精神・ドライハードネスのココロを見事に表しているように思われ、涙に呉れそうになる。そして、「一人で生まれてきて、一人で死んで逝く」という絶対的な孤愁を再確認できたような気がして、不思議と元気が出てくる。この境地から、精神的な自由や自律というものが生まれてくる、と信じている。自分の生の一回性を自覚し、テメエノコトハテメエデカタヲツケル、という心意気・意気地が大切なのだと感じさせられる。

『いっぽんどっこ』とは星野哲郎・作詞+水前寺清子・唄のタイトルで有名ですが、本来は仏教語である。漢字で記すと「一本独鈷」となり、護身具であり煩悩を打ち砕く法具の事を示し、密教では「雑念を振り払って真直ぐに行く」と言う教義を表す概念を言うらしい。転じて、やくざ者は一本刀を例え、漁師は自分の銛を見立て、芸者は独鈷を帯に染めて「どっこ帯」にした。独鈷型の模様を連ねて織り出したデザインの博多帯が有名になり、この言葉を世間に広めている。

『いっぽんどっこ』で行こうと思っていても、本当にため息が止まらないほど、生きてゆくのが辛い時がある。そんな時は、思いっ切り退嬰的で救いようのない情念の唄を唄うと、不思議なことに「なんとかなりそうな」気持ちになる。

★「無頼」より   人斬り五郎の歌

①、
やくざの胸は 何故に寂しい    流浪の果ての 虫けらに
心を許す ダチ(友達)もなく   黒ドスひとつ 握り締め
男が咲かす 死に花は       花なら赤い  彼岸花

②、
俺しか知らぬ 無頼の心      ドスで刻んだ お前の名
うつろな胸の 片すみに      想いを今も  抱きながら
夕陽の果てに 燃え上がる     明日と呼べる日が いつか来る


・・・・・「ウタの慰め」と八女出身の詩人・松永伍一はウマイコトを言った。
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