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刀禰詩織さんの「意見陳述書 」(コピペ)

★意見陳述書 2013年5月31日 於:佐賀地方裁判所 原告:刀禰詩織氏

 1 私は、福岡県の福津市で5才の娘と暮らしています。
東京で3.11をむかえ、実家のある福津市に避難してきてから、早2年の月日が流れました。結婚を機に、それまで勤めていた新聞社を退職し、上京しました。夫は都内の金融機関に勤めており、夫との間には娘にも恵まれました。娘には、好きだったエーリヒ・ケストナーの本から、「点子」と名付けました。夫とは、都内にマンションを購入する話もしていました。

 2 震災の当日、私は西荻窪の自宅にいました。
一番狭い場所がより安全かと思い、風呂場に駆け込むと、風呂場の水が揺れて飛び散り、足にかかりました。床がきしみ、本棚が崩れ、食器が落ちるのが見えました。築50 年以上の、壁にヒビも入ったマンションだったので、倒壊すると思いました。「生かしてください、まだやらなければいけないことがあるんです」と何度も何かにお願いしました。大きな揺れが収まると、保育園に預けていた娘の安否が気になり、余震が続く中、自転車をこぎました。二階建ての保育園にしなければ良かった、つぶれていたらどうしようと、そればかりが心配で、保育園に着き、防災頭巾をかぶって笑っている娘の姿を見たときには、安堵で泣いてしまいました。夫は交通マヒのため深夜まで帰らなかったので、娘を連れて近くの小学校に避難し、そこで一夜を過ごしました。

 3 翌日のニュースでは、津波の影響で、福島第一原発に問題が生じていることを知りましたが、特に気に留めませんでした。けれど3月12日、福島第一原発の1号炉で爆発があり、翌日の新聞から、関東地方にも放射性物質が飛んでくる可能性があることを知ったとき、血の気が引きました。私は、学生時代、チェルノブイリを撮り続けているフォトジャーナリストの広河隆一さんに憧れていて、新聞記者になってからは、チェルノブイリ原発事故で被害にあった子どもたちを支援する団体を取材したこともありました。被ばくした子どもたちが、未だに白血病や甲状腺がん、奇形といった様々な障害に苦しんでいることは、多少なりとも知っていました。

このままでは娘も被ばくしてしまうと思い、夫に、娘を連れて逃げたいと言いました。夫は過剰反応だと言い、たとえ被ばくしても、人は運命を受け入れるべきだと言いました。豊かな都会生活を謳歌してきた自分に関してはそうかもしれないと思いました。でも、生まれてまだ2年の娘もその運命を受け入れさせるべきなのかどうか、私には判断がつきませんでした。3月14日のことでした。勤め先ではみんな、何もしないのも落ち着かないため、とにかく手を動かしているような感じでした。節電のために電気はすべて切り、ラジオだけが流れていました。突然、緊急速報が流れ、「福島第一原子力発電所の3号炉が爆発しました」「福島第一原子力発電所の3号炉が爆発しました」と繰り返されました。誰かが「終わった」と呟きました。

上司は福島出身で、実家とはまだ連絡がとれていませんでした。みんな呆然と宙を見ていたとき突然、その上司が私のほうを向いて言いました。「僕はここに責任があるし、どこにも行くところがないけど、君は、本当にここにいていいのか?」。その一言が、私の背中を押してくれました。「ごめんなさい。やめさせてください」。私は勤め先を飛び出し、娘を迎えに行く途中、夫に電話して「点ちゃんを連れて逃げるから。」と結論だけ伝えました。

保育園に行って、娘に帰り支度をさせていると、ほかの子どもたちがやってきて、不安そうに「どうしてもう帰るの?と聞いてきました。地震の影響で、親御さんたちのお迎えが遅くなったりしていて、子どもたちなりに不安だったと思います。それ以上、不安にさせたくなくて、「用事があるの」と嘘をつきました。ここで生まれ育ち、兄弟のようにして育った子どもたちをここに置いて逃げることは、引き裂かれるような思いでした。本当はみんなを連れて逃げたかったのです、本当に。

娘を自転車に乗せ、一つしかないマスクをつけさせて、自転車をこぎだしました。見慣れた景色が、なんだか別のもののようでした。この空気にももう放射能は混じっているのかなと、そんなことを考えていました。荷造りのため自宅に戻りました。子どもの服を詰めた段ボールをいくつか実家に送り、金魚を近くの池に逃がすと、娘には、ご機嫌で外出してもらえるよう、お気に入りのピンクのドレスを着せました。

中央線で東京駅に向かい、新幹線に飛び乗りました。自由席は埋まっていて、通路には私と同じように大きな荷物を持った子ども連れのお母さんたちが何組か座っていました。お互いに、声をかけることはしませんでしたが、意識はしていたと思います。新幹線の中では、涙がポロポロこぼれました。大切な人間関係すべてを、私は東京に残し、裏切ってしまった、失ってしまったと思いました。大阪駅を過ぎたあたりで、もう大丈夫かもしれないと少し安堵しました。小倉駅から在来線に乗り換え、東福間駅に着いたときには、既に夜10時を回っていました。

駅のホームに降り立つと、改札口の向こうに両親の姿が見えました。母は、私たち親子の姿を見て、戸惑っていたそうです。私の眼鏡のフレームは折れ、娘のピンクのドレスは薄汚れていましたから。私は母の顔を見て、それまで抑えていた感情が一気に溢れ出しました。よくは覚えていないのですが、東福間の駅前で、私は「みんなを捨ててきてしまった!」「友達を捨ててきた!」「保育園の子どもたちを捨てて自分だけ逃げてきた!」と大声で泣き叫んだとのことです。

 4 その翌日(3月15日)、私が東京に残してきた大切な人たちの上に、ヨウ素やセシウムなどの放射性物質が降り注ぎました。特に、半減期が短く、その分、強い放射線を発するヨウ素は、子どもたちの身体に深刻な影響を与えます。しかし、そのような深刻な事態を、国も、マスコミも、全く伝えようとしませんでした。みんなは、何も知らされないまま、大量の放射性物質を浴びたのです。

 5 実家に戻った私は、何かに憑りつかれたようにパソコンにしがみつき、原発の情報を集めました。東京に残してきた夫や友人たち、子どもをもつ多くの人たちに、一日でも早く避難してもらわないといけないと思い、情報を送り、電話しました。東京にいるみんなも、放射能に脅えていました。「もう子ども産めないかも」と言う友達もいました。でも、みんなにはみんなの事情があって、東京から離れられないようでした。避難できないのに、情報だけ伝えても恐怖をあおるだけだとわかり、途中でやめました。

こんな大変なことが起きたのだから、各地で原発反対のデモが起きるだろうと思っていたら、皆無でした。何かしなければと思い立ち、私は「一緒にデモをしませんか?」というビラを作り、福岡市最大の市街地である天神の街頭で、大声で人に呼びかけ、娘と一緒にビラを配りました。それを機に、福岡に母子避難している人たちとの出会いが重なり、『ママは原発いりません』というネットワークも立ち上げました。

福岡には、福島からの避難ママもいましたが、関東からの避難ママのほうが多くいました。福島からの避難ママたちは、実家も親戚も、生まれ育った土地も失い、本当に多くを失い、悲しみと恐怖のどん底にいました。彼らに比べたら私たちなんて、といつも思っていましたが、今思うと私たち関東からの避難組は、彼女たちとは少し違う意味で苦しんでいたかもしれません。

東京から避難してきたと言うと驚かれることも多く、本当に避難するほどのことなのか、どうせ夫と離れたかったからじゃないのかなど、いろいろな目で見られていることは、言動の端々からいつも感じました。そういう人たち自身、東京や東北などで子育てする子どもがいたりして、私の避難を認めてしまうと、自分たちの子どもの判断を否定されてしまうような苦しさがあったのだと思います。だから、地元の人たちとはなるべく会わないようにして、もっぱら避難ママたちと付き合っていました。

また、私の場合は両親からは理解してもらえたことで助かりましたが、夫から仕送りを切られたり、離婚を脅されたりして、危険と思いつつ、泣く泣く関東へ帰っていく避難ママたちもいて、そういう別れにはつらいものがありました。私自身、夫に何度も帰ってくるよう求められました。戻りたい気持ちもありましたが、やはり東北の食材に頼る関東で子育てをする自信がもてないまま一年が過ぎ、とうとう夫から離婚を切り出され、夫にも新しい人生を歩んでもらうべきかと考え、離婚を決断しました。夫は、転職して福岡に来ることもできたのですが、それではキャリアにならないと感じたようです。

夫は仕事を選び、私は娘の健康を選びました。その選択が本当によかったのかどうか、いまだにわかりません。娘が父親に会いたいと泣くたびに、胸がしめつけられます。父親のいない子どもが心にどんな傷を抱えて育つのか、私にはわかりません。その責任を、私は一生、負い続けるのだと思っています。せめて二ヶ月に一度は二人を会わせられるよう、努力を続けています。

 6 起きてしまったことについて、あれこれ言う気持ちはもうありません。今は、仕事を探し、子どもを養い、前を向いて生きていこうとしています。けれど、もうこれ以上逃げる人生は歩みたくありませんし、他の人にも経験してもらいたくありません。何より、福島の子どもたちに甲状腺異常が多発している今、私たちのとる選択は一つしかないと思います。再稼働したくてたまらない経済界、そこに支えられた政界の力は強大です。ですが、どうか法律の世界だけは、彼らの一員ではありませんように。子どもを安全な環境で育てたいという、母親のささやかな願いが受け取ってもらえる場であることを切に祈ります。

以上
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心身ともにボロボロになった避難生活(1)【コピペ】

★心身ともにボロボロになった避難生活(1) by *烏賀陽 弘道氏

3月上旬、半年ぶりにフクシマを取材に訪れた。拙著『原発難民』(PHP新書)で書いた、福島県南相馬市から汚染を避けて避難生活を続ける人々を再訪するためである。福島第一原発事故からちょうど3年目の春を迎えようとしていた。

 気になる知らせがメールで来ていた。3.11の直後、話を聞いた6世帯の家族のうち、最後まで山形県に避難していた2家族が引っ越した、というのだ。「子供の健康を考えると、どうしても帰る気になれない」と言っていた2家族だ。会ってみると、どちらも避難生活のストレスや子供の学校でのことで精神的に消耗し切っていた。吐血や下血などの病気にも見舞われ、身体もボロボロだった。平穏な日常生活を無理矢理奪われた3年は、あまりにも過酷な毎日だった。

@福島駅前のモニタリングポストの数値

 3月1日は、福島県では高校で一斉に卒業式が行われる日だった。夕方だった。式が終わって帰る途中なのだろう。詰め襟やセーラー服姿の若者たちが駅前の通りにあふれていた。きらきらした笑い声がさざめいていた。

 私を乗せたタクシーは、若者たちの間をかき分けるように進んだ。

 「何か、もう、いつもと変わんねえな」

 白髪の運転手さんがひとりごちた。

 何かシュールな映画を見ているようだった。東北新幹線を降りて福島駅西口を出ると、そこに赤いデジタル数字のモニタリングポストがある。フクシマを訪ねるたびに、まずその数字を確かめ、デジカメに収めるのが私の取材の第一歩になっていた。

 さきほど駅から出たとき、赤いデジタル数字が「毎時0.22マイクロシーベルト」を指していた。しかし、そのすぐ前のドーナツ店では女子高生たちがおしゃべりに興じていた。居酒屋やコンビニに人が出入りしていた。線量計さえ見なければ、それはまったく普段どおりの人々の生活だった。

2011年、原発事故直後は、同じモニタリングポストが0.7~0.8マイクロシーベルトを指していた。それに比べると、数字はずいぶん下がった。「よかったなあ」という声と「それでも」という声が同時に心の中で聞こえた。3.11前の被曝許容量「年間1ミリシーベルト」を毎時に直すと「0.114マイクロシーベルト」である。まだずいぶん高い。原発事故前は、0.05~0.1マイクロシーベルトだったはずである。

 3年前、ここから50キロ離れた福島第一原発から噴き出した放射性物質は、まだその存在を消し去ってはいなかった。

@心身ともに疲弊して福島に舞い戻る

 駅から石谷貴弘さん(43)に電話を入れた。今からご自宅に行きます、と言った。

 「えーと、ここ、なんだっけ?」

 石谷さんは自宅の住所を言おうとして詰まった。2013年8月に山形県飯豊町の避難先から福島市のアパートに引っ越した。生まれてからずっと南相馬市で育った石谷さんには、引っ越しそのものが不慣れな体験なのだ。

 駅から15分くらい走っただろうか。カーナビがついていたが、タクシーは道に迷って同じ場所をぐるぐる回った。石谷さんの言った住所が間違っていたのだ。

 田んぼを造成した住宅地をウロウロしていると、2階建てのアパートの前で赤と青のサッカーのユニフォームを着た子供が手を振っていた。石谷さんの三男、流星くんだった。

 見違えた。最初に会ったときには「子ども」だったのに、もう「少年」と言うほうがいいくらい、たくましくなった。

 「あの時は小学校に上がるところだったのに、もう4年生だもんねえ」

 石谷さんはこたつに入るよう勧めてくれた。テレビではアニメ「夏目友人帳」をやっている。流星くんは妖怪ものがお気に入りのようだ。

次男は、地元の高校から避難で転校を強いられた。転入先を探すのに東奔西走した、という話を何度か聞いた。その次男は去年春に卒業して、横浜で働いているという。そういう話を聞くと、あっという間に思えても、確かに「3年」という時間が流れたのだなと実感する。

 石谷さんは南相馬市で鉄鋼材を運ぶトラックの運転手をしている。3年前、福島第一原発の水素爆発を知って家族をクルマに乗せて故郷を脱出した。峠を越えて福島市などの避難所をあちこち回ったが、どこも満員。さらに峠を越えて山形県に入り、空きのある避難所を探してさまよううちに、山間部の飯豊町にたどり着いた。初めて行く場所だった。もちろん知り合いは1人もいない。

 妻の優子さん(46)、次男と流星君と一緒に、仮暮らしの避難所を出て、家を借りた。子ども2人の身体への影響を考えると、心配で南相馬に戻る気になれない。

 しかし避難先では仕事が見つからなかった。あっても、地元に比べるとどうしても条件が下がる。40歳を過ぎ、ようやく運転手から管理職になったのに、また一からスタートするのがためらわれた。

 そうこうするうちに、再開した元の職場から「戻らないか」と言われ、戻ることにした。石谷さん1人南相馬に暮らして、金曜日夜になると片道2時間半運転して山形の家族の元へ行く。月曜日朝また戻る。そんな「単身残留」生活を続けるうちに、大量に吐血して倒れた(「『南相馬に単身残留』で引き裂かれる家族」)

 石谷さんの身体は限界だった。優子さんも心身ともに疲弊していた。山村を出て、山形県内で福島県に近い場所に移りたかった。しかし、南相馬市役所に転居の可能性を尋ねてみたら「借り換えは認められない」「福島県に戻るなら、家賃補助を続けて受け取れる」と言われた。

 (筆者が南相馬市役所に聞いてみると、これは本当だった。県外での避難住宅の転居は認められないと担当者が言った。市役所や県の判断ではなく『災害対策基本法』が避難先住宅を転居するような長期避難を想定していない、と説明した)

@線量計のスイッチを入れることがストレスに

 これまで私は、石谷さんを何度も訪問した。いつもニコニコと愛想が良いのだが、自分からしゃべる人ではない。会話も、いきなり本題には入らない。しばらく雑談をして、馴染んできたら、避難生活のことを聞く。

「こないだの雪はすごかったなあ」

 2月14日の豪雪の話になった。渋滞で、ふだん2時間のいわき市に行くのに片道10時間かかった。月曜日も1メートルの積雪で山道が閉鎖され、仕事に行けなかった。坂道で動けなくなったトラックを押してやった。そんな話が続いた。

 「でもさあ」

 会話が途切れた。石谷さんは何かを思いついたようだ。苦笑いをした。

 「それって、雪の下の(放射)線量とか考えてないよね」

 そういえばそうですね、と私は相づちを打った。

 「でも、なんだか、それどころじゃないって感じでね・・・」

 ここは放射性物質が降った土地なのだ。そちらの方がよほど重篤な災害に思えるのだが、目に見えるわけでも、匂いがするわけでも、誰かが病気になったりしたわけでもない。「今現在の生活」にとっては、豪雪の方がずっと大きな障害なのだ。

 だんだん放射能汚染という「異常」が「日常」になっている。豪雪のほうが「非日常」になっている。

 「もう諦めたというか・・・線量計も最近使っとらんなあ」

@家の外では線量計が警告音を発した

 あれ? 線量計どこだっけ? 優子さんとそんなやりとりがあって、黄色いウクライナ製の線量計を探し出してきた。

 「一度測ったら、くらーい気持ちになっちゃって。スイッチ切ってそのままにしてほっといた。いわゆる『見て見ないふり』だよね」

 スイッチを入れると、室内なのにデジタル数字が毎時0.17マイクロシーベルトを示した。

 外に出てみましょう、と優子さんが席を立った。玄関をあけてアパートの門の前に行くと、線量計がピーと警告音を発した。0.39マイクロシーベルトを指している。警告音は0.35で鳴る。

「あまりピーピー言うからストレスになっちゃって」

 だからスイッチを切りました。優子さんはため息をついた。

 「臭い物にフタをしているだけですよね」

@やっと見つけたアパートだったが・・・

 アパートの駐車場を横切ってみた。隣は果樹畑だ。露地である。どこかにホットスポットがあるらしい。駐車場を歩き回ってみると、場所によっては0.8マイクロシーベルトの数字が出ることもあるという。

 しかし、一番近い公設のモニタリングポストは0.2~0.3マイクロシーベルトを指す。公的には「この近辺の線量は下がった」ということになっている。しかし、アパートの周囲は除染が済んでいない。どこにホットスポットがあるのかもよく分からない。

 「最初引っ越してくるとき、0.6とか0.8とかの数字を見て、ほろほろと泣けてきました」

 原発に近い「浜通り」地方(福島県の太平洋沿岸部)から避難してきた人が集中しているため、福島市や近隣市町村は賃貸住宅が不足している。あちこち回ってやっとアパートを見つけて契約してから、線量が高いことを知ったのだ。がっくりと体から力が抜けた。

 家の前で子どもが水鉄砲をしながらしゃがんで遊んでいるのを見ると「ここ線量高いんだけどなあ。大丈夫かなあ」と思う。しかし叱りつける気にもなれない。

 「・・・じゃあ、山形にいた方がよかったじゃん、となるんですけど・・・」

 優子さんは自分に言い聞かせるように話し続けた。

 「・・・もうしょうがない・・・そんな感じなんです・・・」

 私は驚いた。子どもの被曝を考えるととても戻る気になれない」。かつて優子さんも貴弘さんもきっぱりそう言っていたからだ。

 一体、避難先で何があったのだろう。

 (つづく)

*****「JBpress【ウオッチング・メディア】2014.03.20」より転載

*烏賀陽 弘道(Hiromichi Ugaya):1963年、京都市生まれ。1986年京都大学経済学部卒業。同年、朝日新聞社に入社。三重県津支局、愛知県岡崎支局、名古屋本社社会部を経て91年から2001年まで『アエラ』編集部記者。92年にコロンビア大学修士課程に自費留学。国際安全保障論(核戦略)で修士課程を修了。2003年に退社しフリーランスに。主な著書に『「朝日」ともあろうものが。』『カラオケ秘史』『Jポップとは何か』『Jポップの心象風景』『報道の脳死』などがある。

三菱重工の「商業機密」に迫る!

★【三菱重工の「商業機密」に迫る!~第3回玄海MOX弁論準備手続き報告】

 2014年3月13日、MOX裁判について「裁判所による被告・原告間の争点整理のため質疑会合」が行われました。昨年11月、今年1月に続く3回目の今回で最終回となりました。非公開のやりとりは通算約10時間に及びました。
 この会合では、裁判官の質問に対して原告・被告双方が回答プレゼンを行い、基本的には「裁判官と原告」および「裁判官と被告」が質疑応答をする場であり、原告と被告が互いに反論をしたり意見のやり取りすることはできないことになっています。それでも、両者の直接的やりとりが自然と起こる場面が何度かありました。

 13時30分、今回も被告九電に対する質問への回答から始まりました。説明回答者は前回同様に、九電本部の技術担当課長級の方でした。全員に資料を配布して、且つ、それをスクリーンにも投映しながら説明を続けるのですが、28ページに及ぶ資料「原子燃料の安全性について」を裁判所から指示された図やデータ表などを交えて説明されました。しかし、説明というものの資料に書いてある文をほとんどその通りに、ときに執拗に同じ言葉を繰り返し使い(資料がそのように意識してか書かれている)読み上げていくものでした。
 また、MOX燃料は何といっても最初から安全に作ってあるので、原告が言うような「ギャップ再開⇒メルトダウン⇒蒸気爆発(原子炉容器破壊)⇒被覆管及び燃料溶融⇒水素爆発(格納容器破壊)⇒メルトスルー⇒放射能大量放出」など絶対ありえないと言い切るモノでした。言い換えると、「それは最初から燃料は事故を起こさないように設計し製造しているし、国の厳しい審査をくぐり抜けてきたから証明もされた、この安全性は信じてもらうしかない」と、ただ叫んでいるだけなのです。これまで、その設計と製造と審査(自主検査も含め)の内容を明らかにしろ!と再三再四質問要請されてきたにもかかわらず、相変わらずの回答姿勢が最後まで変わることがなかったのです。裁判官3名もそれが分かっていないはずはないと思いますが、表情や態度は平然としたもので掴むことは出来ませんでした。とにかく、この長い九電の説明は、約75分でした。

 ここで休憩10分を挟んで、次は原告の説明の番で原告補佐人・小山英之さんが、約50分で説明しました。裁判所の双方への質問の要点を示しますと以下の通りです。
1)ギャップ再開が起こると、燃料が溶融し蒸気爆発する危険がある、また燃料が大量に溶けると原子炉容器が破壊、燃料被覆管も溶けて格納容器も水素爆発破壊となる、この過程を説明せよ。(双方に)
2)設置変更許可申請書および輸入燃料体検査申請書において行った燃料棒内圧評価と出力履歴について説明せよ。(被告に)
3)燃料集合体が同時に溶ければ、原子炉容器が確実に破壊される機械エネルギーが生まれるという原告、対して歪エネルギーの値を超えても変形が進むだけで、原子炉容器が破損するわけではないという被告。それぞれ説明せよ。(双方に)
4)MOX燃料の設計製造の安全性について確認十分されているので、ギャップ再開は起こらないというのか?(被告に)
5)使用済み燃料ピットの安全性から、燃料落下や臨界の保全を説明せよ。(被告に)
6)「MOXは使用してはならない」という裁判の中で、使用済み燃料の処分方法・廃棄方法が無いことがどういう位置付けになるのか?説明を。(原告に)

 小山さんの説明は、言葉を分かりやすく挟みながら、裁判官が本当に訊きたい個所とその質問の意味を十分に理解しつつ、その資料から要点を引き出し回答されていました。被告の自分勝手なプレゼンとは全く違って、3回の会合を通じて、決してひいき目ではなく、解りやすさで輝いていました。事実を究明したい、事実を知りたい、また立証したいと願う私たちの姿勢を十分に表して伝えて戴いたのです。小山さんと弁護団の皆さんに感謝の気持ちで一杯です。
 両者の説明が終わってからそれらを対比させて、裁判官から再質問がありました。ここが両者のプレゼンを聴いてどう思ったのかを窺がい知る一番大事なところでしたが、質問は穏やかながら多くの疑問点は被告に向いていたように感じました。

 これらをまとめると、次の一点に行き着きます。
★MOXとウランは、本当に同じ挙動するのか?<原告は「両者には違いがあるのでギャップ再開という危険があるし、炉心溶融事故が起こりうる」と言い、対して被告は「同等であるから、ウランのデータで十分だし、事故はギャップ再開も起きない」と主張している>
☆では、「安全に設計され製造されたという玄海3号MOX燃料の実測データは、ないのですか?」との裁判官の素直な質問に対して⇒被告は「玄海3号のMOXの実測データは、存在しない!」⇒MOXとウランは同等だから、適切なる予測のFINEコードによって検証しているという。
★裁判官の姿勢が端的に出たのが内圧評価値のデータ問題です。本来なら輸入燃料体検査申請書で評価された内圧挙動を用いてギャップ再開を論じるべきところ、その内圧挙動グラフは完全白紙にされています。そのため原告はやむなく、そのことを断った上で設置変更許可申請書のグラフを使わざるを得なかったのです。ところが被告は最新の準備書面13でそのことを批判してきました。今回、裁判官はそこを捉えて、被告がそのように言うのであれば、輸入燃料体検査申請書の内圧グラフを公開できませんか、と尋ねました。被告は数名で長らく鳩首会談をしたあげく、それは企業秘密ですといったんは答え、その後再度鳩首会談をしてようやく「検討させてください」と答えたのです。

 争点整理会合後、佐賀県庁記者室で記者会見を行いましたが、原告弁護団は、3回を終えた感想として、裁判官がプレゼンを取り入れたことなどを評価した上で、以下の三点を挙げました。
1)裁判所は、記録をよく読み込んでいた。
2事案(訴状)の本質を理解した。
3) 異例の非公開~争点整理手続き会合を開催したこと
<★原告としては、裁判所が「輸入燃料体検査申請書にある内圧評価置の挙動データに十分な関心を持った」上で、会合の中で「商業秘密とする被告データを求めた」ことを成果と考えている>

 私たちも原告席から、毎回準備書面のやり取りを聴いてきましたが(途中に裁判所の人事異動で裁判官が交代もありました)、原告弁護団の本気度が伝播して、当初からみると司法側に何か一段の進歩のようなものを感じられるのは、ただ気のせいではないと思うのです。
 次の4月18日は、いよいよ争点と論点の最終整理に入り、付け加える意見があればまたここで提出となります。5月30日までに公判で述べる証人を最終決定して申告します。
 そして、7月18日の証人尋問という最後の舞台を迎えることになり、2010年8月9月に提訴した本裁判は、特に何もなければ9月19日で結審になるでしょう。
 みなさま、これからもご支援ご協力をどうぞよろしくお願いします。


<今後の裁判日程>
4月18日(金) 13時30分 玄海行政訴訟第2回公判
       14時   玄海全基裁判第8回公判
       14時30分 玄海2・3号機仮処分第12回審尋
       15時   MOX弁論準備
5月30日(金) 14~15時 MOX証人申請
       16時~  年次活動報告会
7月18日(金) 10~16時 MOX証人尋問
9月19日(金) 14時   MOX最終陳述、結審(予定)

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◆会費納入とカンパをよろしくお願いいたします◆
会の活動はみなさまからのご支援で成り立っています。
支える会    年会費5000円
サポーター会員 年会費1口1000円~
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           預金種目 当座 口座番号 0136810
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★玄海原発プルサーマルと全基をみんなで止める裁判の会★
〒840-0844 佐賀県佐賀市伊勢町2-14
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イナカのたたみ方(コピペ)

★墓じまい、墓守の後継なく…手続き代行業者も登場

 古里にある先祖代々の墓を撤去し、遺骨を永代供養の合葬墓などに移す「墓じまい」をする人が増えている。

 少子高齢化の時代になり、「墓守の後継ぎがいない」といった事情があるためだ。手続きを代行する業者も出てきた。

 大阪府門真市の男性(66)は昨年5月、兵庫県養父(やぶ)市にあった先祖の墓を撤去した。両親ら7人の遺骨は、同府池田市の霊園「北摂池田メモリアルパーク」の合葬墓に移し、納めた。

 男性は40年前から大阪に住んでいて、養父市の墓へは車で3時間もかかっていた。同居する長女(40)は大阪で生まれ育った。「長女に田舎の墓を守れとは言えず、私の代で墓じまいをしようと思った」と話す。

 墓じまいをするには、墓地埋葬法で定められた手続きが必要だ。古い墓の管理者から「埋蔵証明書」を出してもらい、遺骨を移す先の霊園の「受入証明書」などと一緒に自治体に提出し、許可を得た。

 先祖が入った合葬墓は、霊園が管理する永代供養墓だ。男性も、将来は妻(65)と一緒に霊園内の「夫婦墓」に入り、十三回忌以降は両親らが眠る合葬墓に移される生前契約をしている。

 男性は今回、この霊園を運営する「霊園・墓石のヤシロ」の、墓じまいのサービスを利用した。証明書の提出などの手続きの代行から、古い墓の撤去、合葬墓で遺骨を永代供養する費用などまで含め、遺骨2人分で29万8000円(税抜き)。追加料金は1人分5万円(同)。墓の規模や移動距離によっても変わってくる。

 ヤシロによると、「子どもがおらず、墓守がいなくなる」などの声が増え、2009年に墓じまいのサービスを始めた。09~12年は年間2~9基の撤去だったが、13年は36基の依頼があった。社長の八城勝彦さんは「『無縁墓にならずに良かった』という声が多い。墓じまいの需要は今後も増える」とみる。

 同様のサービスを提供する業者は増えている。

 「やすらか庵」(千葉市)は、墓の撤去後、遺骨を東京湾や千葉県内の森林へ散骨するサービスをしている。霊園・寺院との交渉から改葬許可の手続きや遺骨を取り出す際の供養までを僧侶の清野勉代表(54)が行う。数年前から「先祖の骨を先に散骨して墓を閉じたい」という要望が増え、昨年10月から墓じまいの支援を開始した。2月までに5家族が墓を撤去し、相談も30件以上寄せられた。

 「清蓮」(横浜市)は散骨を契約した客が墓じまいも希望する場合、手続き方法などをアドバイスする。11~13年で約400基の墓が撤去されたという。

 第一生命経済研究所主任研究員の小谷みどりさんは、「少子高齢化で死亡者数が増える反面、墓を継承する人は減り続ける。子孫が墓を継ぐという前提は破綻しつつあり、無縁墓を増やさないために、墓じまいは合理的な方法ともいえる」と話している。

@「先祖代々」断念し合葬へ…トラブル防ぐ事前相談

 「墓じまい」しようとしたところ、檀家(だんか)が減るのを防ぎたい寺院から高額の金銭を要求されるケースもあるという。また、親族が先祖の墓をなくすことに反対してトラブルになることもある。墓じまいを円満に進めるためには、寺や親類への早めの相談、報告が欠かせない。

 「寺から公営墓地に墓を移そうとしたら、100万円もの支払いを求められた」。各地の消費生活センターには近年、「離檀料(りだんりょう)」に関する相談が増えている。

 国民生活センター相談情報部の加藤玲子さんによると、離檀料は、墓を移して菩提(ぼだい)寺から離れる際に支払う金のこと。寺への謝礼として慣習的に支払われている。「相場がいくらかなどを答えることは難しい。寺とよく話し合ってほしい」

 「墓じまいをするなら、早めに寺に相談するのが、トラブル回避の鉄則」。墓や葬儀のコンサルティング業務を行うアルック・葬儀ビジネス研究所(東京)代表の吉川(きっかわ)美津子さんは、コミュニケーション不足が問題をこじらせる最大の原因になると指摘する。

 代々世話になった寺に、いきなり「墓を移したい」と切り出すと心証が悪くなる。書類への署名と引き換えに、高額な離檀料の支払いを要求されるケースもあるという。

 檀家が減って運営が苦しい寺も少なくない。ただ、寺離れが進んだり、墓守がいなくなったりして墓地の管理料すら納めてもらえなくても、無縁墓にしてはいけないとお勤めを続けている住職も多い。

 吉川さんは「後継ぎがいないといった事情を説明し、途中経過を報告するなどこまめな連絡を心がけてほしい。離檀料は1回の法要で寺に支払う金額が目安。実際には数万円~20万円程度が多いようです」と助言する。

 永代供養墓のある寺を紹介するNPO法人永代供養推進協会(東京)代表理事の小原崇裕さんは、「墓を継承する立場でも、親族に知らせず、勝手に墓じまいを進めると身内でトラブルになる場合もある」と注意を呼びかける。墓をなくしたり、遺骨を合祀(ごうし)したりという方法に違和感を持つ人もいるからだ。親族が「なぜ他人の骨と一緒にするのか」などと反発し、関係がこじれることもある。

 小原さんは「たとえば両親の遺骨を移すなら、事前に親のきょうだいと自分のきょうだいには声をかけておくべきだ。疎遠になっている親族にも、墓じまいの契約をしたことを知らせる手紙を送るなどの配慮を」と話している。(妻鹿国和)

*****「読売新聞(ヨミドクター)2014-3/5」より転載

社会人大学生:『5年で一級建築士試験に合格するために』

両親と約束した「5年後に、一級建築士の試験に合格して、帰郷する」には、「一級建築士試験合格までの5年間をどう乗り切るか」という事を考えないといけません。先ず『お金』のことです。生活費は配偶者がコンピューターソフト会社でSEとして働いていたので(女性としては給与は高い)、僕が失業手当・アルバイト給与の一部を補填すればなんとかなりそうでした。

一級建築士の『受験資格』は、「大学(旧制大学を含む)の建築又は土木課程を修了し卒業後2年以上の実務経験」が必要条件です。卒業学科は土木系なのですが、『海洋土木』という特殊な分野なので受験資格の要件を満たすかどうかが心配でした。僕が卒業して数年後に、鹿児島大学・海洋土木工学科は「一級建築士受験資格の『土木課程』」に指定されていました。

次に『実務経験』のことです。下水道コンサルタント会社で「処理場・ポンプ場」など建屋の設計補助を担当していましたが、下水道施設の「建築物」にあたるそうなので、このプロジェクトに従事していた18ヶ月は『実務経験』に算入できるとの事でした。三・四回生の時には建築事務所で昼間アルバイトをするつもりだったので、『実務経験』は最大「3年半」をカウントすることができます。こうして「卒業後2年以上の実務経験」はクリアできました。

最後に「『受験勉強』をどうするか」についてです。大事なのは、なるべく短期間に「一級建築士に合格する」という『ワリキリ』です。そこで、当時建築士受験に於いて抜群の合格率実績を誇っていた「日建学院」の日曜講座に通うことを決めました。四回生時にこの計画を実行するためには、二・三回生時に卒業に必要な単位をできるだけ取得して、アワヨクバ四回生時には「卒業論文(卒業制作)」だけが残っているというのが理想形です。

実際に「理想形」が実現できて、9時~17時:建築事務所のアルバイト、18時~21時:図書館で卒業論文の資料調査or日建学院の夜間講習、日曜日:日建学院日曜講座というタイムスケジュールが半年ほど続きました。大学・日建学院に関わる学費その他は、二回生時の失業手当と下水道コンサルタント会社の退職金で事足りました。下水道コンサルタント会社の基本給は安かったのですが、残業がハンパナク(残業時間は青天井)、100時間/月を下ることがありませんでした。だから、失業手当類は20万円に届かないくらいの額を貰っていました。今から考えると信じられないことですが、右肩上がりの景気のいい時代の話です。

予行演習のつもりで受験した、四回生時の一級建築士試験は『学科試験』に受かりました。3年目でラッキーと言うしかない「僥倖」と出会ったのでした。『設計製図試験』に対しては日建学院の「直前集中講座」に通ったけれど、ドロナワの感は拭い得ず、「手も足も出せず、討死」というのが正直な感想でした。『設計製図試験』は次年度もチャンスがあり、捲土重来を期して、「東京でもう1年ガンバロウ」と気勢を挙げていました。

従属と謝罪について(コピペ)

★従属と謝罪について

東京裁判は戦後日本に対して二つの義務を課した。
一つは、敗戦国として戦勝国アメリカに対して半永久的に「従属」の構えをとること。一つは侵略国としてアジアの隣国(とりわけ中国と韓国)に対して半永久的に「謝罪」の姿勢を示し続けること。従属と謝罪、それが、東京裁判が戦後日本人に課した国民的義務であった。けれども、日本人はそれを「あまりに過大な責務」だと感じた。二つのうちせめて一つに絞って欲しいと(口には出さなかったが)願ってきた。

ある人々は「もし、日本人に対米従属を求めるなら、日本がアジア隣国に対して倫理的疚しさを持ち続ける義務からは解放して欲しい」と思った。別の人々は「もし、東アジアの隣国との信頼と友好を深めることを日本に求めるなら、外交と国防についてはフリーハンドの国家主権を認めて欲しい」と思った。

伝統的に、従属を求めるなら謝罪義務を免除せよと主張するのが右派であり、独自の善隣外交を展開したいので、アメリカへの従属義務を免除して欲しいと主張するのが左派である。そういう二分法はあまり一般化していないが、私はそうだと思う。その結果、戦後の日本外交は「対米従属」に針が振れるとアジア諸国との関係が悪化し、アジア隣国と接近すると「対米自立」機運が高まるという「ゼロサムゲーム」の様相を呈してきた。

具体的に言えば、戦後日本人はまずアメリカへの従属を拒むところから始めた。内灘・砂川の反基地闘争から60年安保闘争、ベトナム反戦運動を経由して、対米自立の運動は1970年代半ばまで続いた。高度成長期の日本企業の精力的な海外進出も対米自立の一つのかたちだと解釈できる。

江藤淳はアメリカ留学中にかつての同級生であるビジネスマンが「今度は経済戦争でアメリカに勝つ」とまなじりを決していた様子を回顧していた。敗軍の兵士であった50~60年代のビジネスマンたちの少なからぬ部分は別のかたちの戦争でアメリカに勝利することで従属から脱出する方位を探っていた。だから、日本国内のベトナム反戦運動の高揚期と日中共同声明が同時であったことは偶然ではない。このとき、アメリカの「許可」を得ないで東アジア外交を主導しようとした田中角栄にアメリカが何をしたのかは私たちの記憶にまだ新しい。

同じロジックで政治家たちの「理解しにくい」ふるまいを説明することもできる。中曾根康弘と小泉純一郎は戦後最も親米的な首相であり、それゆえ長期政権を保つことができたが、ともに靖国参拝で中国韓国を激怒させた経歴を持っている。彼らはおそらく「従属義務」については十分以上のことをしたのだから「謝罪義務」を免ぜられて当然だと思っていたのだ。その裏返しが「村山談話」を発表し、江沢民の反日キャンペーンを黙過した村山富市と東アジア共同体の提唱者であった鳩山由紀夫である。彼らはともに「謝罪義務」の履行には心を砕いたが、アメリカへの「従属義務」履行にはあきらかに不熱心だった。

このようにして、戦後70年、従属義務をてきぱき履行する政権はアジア隣国への謝罪意欲が希薄で、対米自立機運の強い政権は善隣外交を選好するという「ゼロサムゲーム」が繰り返されてきた。このロジックで安倍首相の行動は部分的には説明できる。今回の靖国参拝は普天間基地移転問題でのアメリカへの「従属」のポーズを誇示した直後に行われた。「従属義務は約束通りに果たしたのだから、謝罪義務は免じてもらう」というロジックはどうやら首相の無意識にも深く内面化しているようである。

問題は、アメリカ自身は「従属か謝罪か」の二者択一形式には興味がないということである。彼らが同盟国に求めているのは端的に「アメリカの国益増大に資すること」だけである。「われわれはアメリカに対して卑屈にふるまった分だけ隣国に対して尊大に構える権利がある(その結果アメリカの「仕事」が増えても、その責任は日本に従属を求めたアメリカにある)」という日本人の側のねじくれた理屈に同意してくれる人はホワイトハウスにはたぶん一人もいないだろう。

*****ブログ「内田樹の研究室 2014年01月18日」より転載

薪ストーブを巡る話

「薪ストーブを巡る話」なんぞとタイトルをつけると、TV朝日の「人生の楽園」に出てくるような悠々自適のシルバー世代の話みたいだけれど、サニアラズ。薪にまつわる不器用なジジィの苦労話でアリマス。

弊社の作る建物は木造住宅が100%を占めているので「木材の残材が燃やせる薪ストーブがいいだろう」と、事務所をリノベした時あまり深く考えず採用しました。2011年まで常傭の技能者がいたので、木工事が一段落すると現場の端材を適切な長さに切って揃えてくれていたのです。彼が定年を迎えた、次の年、問題が発覚しました。倉庫には満杯の2tトラック2台分の木材の端材はあるのですが、それを35~50cmに切り揃えなければなりません。
チェーンソウを操り、こ・こ・このブキな僕が、薪を作らないとイケナイノカアァ・・!
オロカニモ、それまでその事を考えていなかったのだ!!

というワケで、ネットで森林組合やメーカーの「チェーンソウ講習会」を検索してみました。直近のメーカーの講習会を選び申し込もうとした時、配偶者が「私も受けてみる」とウキウキワクワク顔で呟いたノデアッタ。僕も相当ブキなのだが、彼女は運転免許証は取得したものの、教習所の教官から「実地では、運転しないように」と言われたくらいの、筋金入りのブキなのでアリマス。それやこれやで、実際チェーンソウを使用しているJ窯のY氏(陶器を焼くのに薪を使っている)に尋ねたところ、「シロートが使うと、ケガするばい」と言われて、チェーンソウからあっさり退散。

ふたたびネットにかじりついて「薪販売」を検索するも、小口の配送便配達か直接引き取りに行かなくてはいけない所ばかりでした。農業用コンテナで11月~翌3月の5ヶ月で、200~250箱分使ってしまうので2t~4tユニックで配達してくれる所を捜し求めました。ネットサーフィンをしていたら、お隣のうきは市の「ファゼンタ(=果樹園という意味)K」のK氏が「薪販売」をなさっている事を知りました。「灯台元暗し」とはこの事でアリマス。K氏のお父様が福岡市西区で建設業のかたわら薪を作っていらっしゃるとの由。

で、倉庫にある木材の端材は、シルバー人材センターに頼んで、カットしてもらうことにしました。あと広葉樹の薪をコンテナで100箱分2tユニックで届けてもらうことが出来ました。「これで大安心。あとは安泰だ・・・」と思って安堵していたら、去年秋に「父が薪を作るのがキツクなったというから、2013年でサイゴになります」と、K氏の弁。・・・トホホ(涙)、というカンジ。

切羽詰って、以前一緒に活動をしていた「NPO法人九州森林ネットワーク」元理事長のSさん(女性)に「コレコレコウユウワケデ『薪販売・配達』してくれる所を紹介してください」と泣きつきました。そうすると、彼女の御主人が代表を司る「NPO全国薪ストーブ普及協会(在:大分県)」を紹介され、その会員のS氏の方から薪を購入(直接我が家へ配達してくれる)できるようになりました。僕も新たに会員となり、「体調が回復したら、いろいろな活動に参加できたらイイナァ」と思いながら、薪ストーブの炎を見つめています。

バイオマスエネルギー指向で薪ストーブマニアでなかったら、ペレットストーブがオススメです。オペレーションがファンヒーター並みに簡便です。燃料のペレットが高くつくけど、薪もそう安くありません。

然と既視感の海を生きる愚衆の海をクロールで泳げ君。(コピペ)

★然と既視感の海を生きる愚衆の海をクロールで泳げ君。

すでに3日前の6日、ある信頼すべき筋から舛添が対細川ダブルスコアで8時には当確を決めるという情報が入っていたが、投票前にこういったマイナス情報を流すのはよろしくないと思い控えていた。



そういう意味で今日の選挙結果は驚くにあたらぬにしても残念であることに変わりはない。

ただしこの都知事選挙の結果を見るに、私たちはすでにそれをケーススタディとする既視感を持っていることに思いが至る。



つまりそれは先の参議院選挙である。



思うに今回の都知事選は景気政策を前面に打ち出して自民党が大勝した参議院選挙からわずか半年しか経っていないのである。



それを支えたマジョリティを占める国民の指向性がわずか半年で変わるとは思えず、ましてや原発問題は時を経れば経るほど忘却され、それを争点とする条件としては半年前の参議院選挙よりも不利ということになる。



その意味で先の参議院選挙の直後にCatwalkトークで書いた私の選挙に関する観測はそのまま、今回の都知事選への観測としてそっくり当てはまるわけであり、今回の都知事選に関する私のコメントは、そのトークを転載することで十分だろう。



ただし、この平成という時代の”愚衆’の海とそれが醸成する強権政治の渦中において私の「メメント・モリ」の結びの言葉を再確認しておきたい。






            「私は決してあきらめない」





付け加えるならこの度の選挙、原発という人類の作り出した罪悪を子孫の世代、あるいは他の動物たちや自然から追放したいとする、自分のみならず他者への存在に思いを及ぼす大乗的と言える運動が負けたわけではない。



そのような人間としてのあるべき想念を持ち得ない自愛的烏合の衆の方が大乗的想念を持つ衆より数が多かったというだけの話だ。



その意味において人間として私たちは永遠に勝ち続けるだろう。




                            
                 ◉
      






「あちら側の神経系とこちら側の神経系はどうやらどこかでぷっつりと切れている公算が大きい」



今年の夏前にいささかショックを覚える出来事があった。



6月のことだが、夏用のカーテンを作るために工務店の業者を呼んだ。



30代半ばの劇作家の三谷幸喜を小振りにしたような、感じのよい営業の青年がやって来た。

仕事もなかなか誠実で、持って来た資料の中に好みのデザインがないと言うと、わずかな賃金の工事のために暑い最中、大きな重い見本帳を何度も持って来てくれた。

そして二週間後に無事取り付けは完了した。



その日、お礼にと、近くのレストランで昼をごちそうし、四方山話をしたのだが、その折にふと原発のことに話を振ってみた。



「ところであなたのような勤め人は原発なんてどのように考えてるのだろうね」



青年は「えっ」と浮かぬ顔をした。



それからちょっと口ごもって言う。



「原発ってどうなってるんですか?」



「あれっ、知らないの?今福島の人が一つの市の人口の6万人くらい家や土地や仕事を失って全国に逃げているんだけど」



「へーっそんなことがあるんですか」



私は呆然とした。

あまりの無知に一瞬この青年はウソをついているのではなかと疑ったが、そのような青年ではない。



彼は中堅の大学も出て、都内各所に店舗を張る中堅どころの工務店の営業マンである。



頭も良いし、人間的にもすこぶる感じが良い。



それだけにこの”おそるべき”と言って差し支えない無知にはいささかショックを覚え、一瞬しばらく会話が途絶えた。



「あのう、たとえば君たち、お勤めをしている仲間で原発問題とかが話題になったりすることはないの?」



私は気を取り直してあたらな質問をした。



「えー、そういうのぜんぜんないですねぇ」



「ぜんぜんって、まったく話題にならないということ?」



「そうですね、これまで一度も話になったことはありませんね」



悪気もなく彼は淡々と答える。



「じゃどういう話をするの?」



「やっぱり仕事の話が多いですね。

あいつが大口の注文を取ったとか、

下請けはあそこがちゃんとした仕事をするとか、

だけどここ数年はどの会社もよくないですから、仕事の話をしていても暗くなることが多いですけど」





                          
                  ◉





その青年と別れてのちもいささかショックは長引いた。



そのショックとは、このような普通に常識的な会話の出来る青年が、人間の生き方の根幹にかかわる原発問題に関してまったく無関心だったということもあるが、それ以上に、そういう信じ難い人たちがこのような状況下の日常に暮らしてるということをまったく知らなかった私自身の無知にもいささかショックを受けていたのである。



思うにこの青年が置かれているポジションはおそらく企業国家日本という国の就労者におけるマジョリティ層を形成しているという見方が出来るだろう。

ということは日本で暮らすマジョリティを形成する人々は原発問題に無関心ということも出来る。

いやというより、何かを無意識に遮断しているのかも知れない。

意識的に、あるいは無意識に”耳を塞ごうとしている”のかも知れない。

「原発」その言葉は最終ステージの不治の癌のという言葉のように、もう”聞きたくもない”忌語であるのかも知れない。



そして何よりもこの青年とその仲間たちにとって彼らの関心は「原発よりメシの種」なのである。



私はその青年に会って以降、原発問題はこの日本においては広がりを見せないだろうと感じていた。

なぜなら青年はマジョリティ層を確実に形成する一人であるからだ。

つまり今回の選挙の争点のトップが雇用や経済で、原発問題が下位に来ていることは普通のことであり、なんら不思議なことではないのである。



かりに山本太郎が杉並区の選挙に出て、28パーセントの得票があったとするなら、案外それは大出来で、件の青年ショックがいまだに気持ちの中にくすぶっている私としては原発問題を、そして福島をわがことして考えているのは10人に1人、つまり10パーセントくらいではなかろうかと思う。



(日本の)世の中とはそういうもの、とたかをくくるつもりはない。

だが自分の隣に普通の生活を営んでいる人間の”神経系”というものは、あんがい神経系の異なる人々のそれとは繋がらず、ぷっつりとどこかで切れているのではないか、との思いを強くする、今回の選挙結果ではあった。


*****「sinnya talk (藤原新也ブログ) 2014-2/16」より転載
     

舛添氏勝利で注目される「脱原発の民意」(コピペ)

★都知事選・舛添氏勝利で注目される「脱原発の民意」

最大27センチの積雪を記録し、45年ぶりの大雪となった東京都。大荒れの天気から一夜明けた9日、東京都知事選の投・開票が行なわれた。投票率は46.14%。前回知事選から16.46ポイントも低い結果となった。都知事選としては、過去3番目に低い投票率である。積雪の影響もあったのだろうが、盛り上がりに欠けた選挙戦だったことは否めない。

午後8時過ぎ、NHKが自民・公明推薦の舛添要一氏に当確を打ち、首都決戦は幕を閉じた。投票率の低さが、固い組織票に支えられた舛添陣営有利に働いたのは間違いない。ただ、「脱原発票が割れた」と評される宇都宮・細川両氏の票を足すと193万票。この意味は大きい。

@勝敗の分かれ目

舛添要一氏は当選のコメントで「他の候補より都市部以外の地域をしっかりまわり、いちばん多くの有権者に対して政策を訴え続けてきた」ことを勝因に挙げた。

 一方、「脱原発」のワンイシュー選挙に持ち込もうとした細川護熙氏は、敗因について「準備期間が短かったことに加え、今回は脱原発が争点にならなかった。むしろ、争点にさせまいという力が働いたことなどが要因だ」と振り返った。

 たしかに、舛添氏が活動を注力した三多摩地域は、都内の約3分の1に当たる400万人以上の人口。選挙期間中、同氏の応援には多くの首長が集い、保守層の厚さを感じさせた。こうした票が見込めない候補が、厳しい戦いを迫られるのは確かだ。

 新聞各紙はどう報じたか。産経・読売はおおむね「舛添氏は過去の行政経験もあり、安定感を評価された」「細川氏は脱原発だけでは都民の共感を得られず、争点化できなかった」とする。

 一方、朝日・毎日・東京は「舛添氏は手堅い組織戦と、『私も脱原発』として一定の脱原発票を獲得した」「細川氏は脱原発の争点化を避けられたが、論戦ができた意義はある」とする。

 細川陣営には問題があった。もともと選挙対策本部の指揮を執っていた元衆院議員の馬渡龍治事務局長らが、選挙開始直後に解任。細川氏を以前支持していた旧日本新党系グループが入ってきたことで、お家騒動がぼっ発し、足並みが乱れたという話が出回った。形の上で「選挙になっていない」(全国紙記者)状態だった。自民・公明の強固な組織に支えられた舛添氏と、見切り発車的に動きだした細川氏とでは、基本的なところで差がついていたと言える。争点云々以前のところに問題があったと見て差し支えあるまい。

@民意無視して後退する脱原発政策
 
 ところで、今回の東京都知事選挙は、本当に民意が反映されていたといえるだろうか。NHKの出口調査によれば、「最も重視した政策は何か」という質問に対し、「景気・雇用対策」と答えた人が最も多く31%、次いで「原発などエネルギー政策」が22%だったという。他社の出口調査では、「福祉」への関心がもっとも高かったという結果が出ている。順番はさておき、原発が争点のひとつになったのは疑う余地がない。

 当初、エネルギー政策に関する都民の関心はそれほど高くはなかった。細川・小泉の元首相コンビが「脱原発」を訴えなければ、争点化することさえなかっただろう。告示前、自民・公明は争点化を避けていたが、細川・小泉連合の登場でようやく話題になった。結果は、原発容認の枡添氏圧勝。だが、各種調査で、7割近くの有権者が原発依存については消極的な意見だったことが分かっている。民意と政策との大きなねじれを感じる。

 東京都のエネルギー政策はどうなるのか。石原、猪瀬都政時代は「脱東電」を目指し、新電力の導入や再生可能エネルギーの普及を都のエネルギー政策に盛り込んでいた。一方で、猪瀬氏は「原発については国がやること」として、政策には明記しなかった。

 そうしたなか、与党は新しいエネルギー基本計画において、昨年12月、「原発はベース電源であり再稼働を推進する」ことを明記する方針を固めた。安倍首相は都知事選への影響を恐れ、閣議決定を先延ばししてきたが、2月中にも決定する見通しだ。間違いなく都のエネルギー政策は脱原発において後退局面に向かうだろう。原発に関する民意は無視されかねない。

 都知事選の選挙結果を受けて、原発再稼働を強行する構えの安倍政権。次に来るのは山口・石川両県の知事選だ。山口では建設計画が頓挫したはずの上関原発の是非、石川では志賀原発の再稼働問題が争点になるだろう。現状では両県における自民、公明の組織は固い。二つの知事選で連勝すれば、安倍政権はますます図に乗るだろう。原発をなくすべきだという民意は、今以上に無視される状況となっていく。しかし、国民の半数以上が、原発再稼働に疑念を抱いているのは確か。都知事選の開票結果が、雄弁にそれを語っていることを忘れてはなるまい。

*****「ニュースサイト・ハンター 2014-2/12」より転載

社会人大学生:『師匠』

僕は「建築」の出発が遅かった。1979年鹿児島大・海洋土木工学科を卒業して、東京・中野にある下水道コンサルタントで働きだして4年目(28歳)に結婚しました。結婚後、両親とシンネリムッツリ話をする中で、課題となっていた「家業の工務店継承」問題が出て来たのでした。それからイロイロドタバタドロドロあって、「5年後に、一級建築士の試験に合格して、帰郷する」という事になりました。働きながら建築の勉強をするには、大学二部に学士入学するのが前大学の履修単位が生きてくるので、一番カシコイ方法ではないかと考えました。勤務先に近い新宿にある工学院大・建築学科二部を選択・受験して、幸いにも、合格することができました。29歳の「大学生」の誕生です。

しかし、大学への編入試験の受験を告げると、イヤミのように、会社から埼玉の事業所へ出向の話が持ち上がりました。学業を優先させたかったので、アッサリ退職することにしました。トリアエズ、失業手当をもらいながら、昼間は亀戸職業訓練校・建築設備科に通う事にしました。(建築家・中村好文氏が品川職業訓練校・木工科に在学していた事が頭の隅にありました)学士入学は二回生に編入されますが、本格的に専門が始まるのが三回生からなので、二回生の一年間は「一級建築士試験合格までの5年間をどう乗り切るか」を考える有意義な助走期間でした。

三回生になると研究室を選ばなければなりません。わが西村工務店は【数奇屋風住宅】の設計施工がウリで、卒業したらすぐ即戦力となることが期待されていました。いわゆる近代数奇屋を勉強したくて「近代建築史」の研究室を選びました。「近代建築史の数奇屋建築の大きな流れが頭に入っていれば、自ずから手本になる建築家が見つかり、おかしなデザインをすることはないだろう」と判断したからです。僕が好きな建築家の石山修武氏(氏の代表作の『幻庵』はW・モリス的数奇屋建築)も建築史研究室の出身だ、という事もありました。

そこで、初めて研究室を持つ事となった初田先生との出会いがあり、初田研究室(二部)は初田先生と僕の二人三脚の「処女飛行」を始めるのでした。僕は初田先生と7歳しか違わないけれど、歳の離れた兄のような先生を『師匠』と思うようになりました。

参考までに、師匠・初田先生の専門領域や来歴を下記の通り示します。

*****第10回建築家フォーラム:「近代和風建築を探る」*初田亨氏・・・2001-12/12

初田氏は1947年生まれで、現在、工学院大学教授だが、工学院大学出身の建築史研究者は初田氏が初めてである。まだ周囲に田園が残っていた葛飾に生まれ、職人だった父親によく夜店に連れていってもらったこと、その楽しさなどが、後日、建築史研究者としてとして都市の繁華街の研究に入っていった動機だそうである。

 15年前、ギリシャのパルテノン近くで交通事故にあい九死に一生をえた。横断中に車にはねられ、そこでは手術できないためチャーター機でパリに運ばれ手術を受けた。その前後はまったく覚えていないという。そんな大病したにもかかわらず、「10年に10冊、それも一流出版社から著作を刊行するという快挙に、研究者仲間は瞠目するばかり」(近江氏)だという。

 初田氏は最初はカフェ、喫茶店、百貨店といった都市を構成する繁華街の研究から入って、職人の世界にいき、最近では近代和風建築が研究テーマとなっている。共通しているのは、ともすると抜け落ちてしまう庶民の視点から都市生活をとらえていることである。

 「近代和風建築は、近代建築研究でぬけていた空白の分野だった。そのために若手研究者と研究会をつくって勉強した。20年前は近代和風建築という用語はなかったが、いまは定着していて和風モダンともいっている」

 「日本の近代を理解する時、近代和風は重要なキーポイントとなる。近代建築はヨーロッパで成立し、それが全世界に広がったが、問題は、それと日本の近代は同じかということである」

 「これからの建築をどうするかといった時、日本やアジアの近代はヨーロッパと同じに歩んできたのかと問うことが大事になってくる。その時、ヨーロッパで影響を受けた日本の近代だけで解明できるかというと、そうではない。日本の伝統を咀嚼しつつ、日本独自の近代をつくった点を明らかにすることである。その意味で、近代和風は日本の近代化とはなにかと問う時、重要なものとなってくる。だから近代和風を、もう一度注目しなくてはならないのである」
こうした視点から初田氏は、近代和風建築の流れを解説した。

 「近代和風建築とは、幕末・明治以降、近代につくられた和風建築のことである。それが伝統的な建築と異なるのは、そこから大きな影響を受けながらも、なんらかの形で江戸時代以前の建築と異なる内容をもっていることである。そこで大事なことは、新たな視点をもつとともに、いかに伝統的なものを伝えてきたかである」

 「和風建築という概念は西洋建築は明治に入ってきて、それまでの建築が相対化、意識化されてからのものである。明治20年代になり、伝統を自覚した和風建築がつくられるようになる。伝統が失われていく危機感からである。

 その方向は2つあった。伝統的建築を継承していくことに価値観を見出していくものと、積極的に新しい様式をつくっていこうとする方向である。前者は伝統建築のもっている枠組みを大切にし、そのなかで新しい要素を取り込もうとしたこと。後者は、それらにこだわることなく、西洋文化を積極的に取り入れ、新しい日本にふさわしい建築様式をつくっていこうというものである」

 「その後、昭和初期になると、合理主義をとなえる建築家によって、新しい和風建築がつくられてくる。意匠も伝統建築の形や要素でなく明快性や単純性、簡素さといった空間概念に通ずる特性に伝統を見出していく」
 
 初田氏は、これたの作品として奈良駅、奈良ホテル、旧奈良県庁、明治神宮宝物館、旧日向邸、八勝館御幸の間、惜檪荘、目黒雅叙園などをあげた。

・・・・・・・・Reported by(忠)

*はつたとおる:1969年、工学院大学工学部2部建築学科を卒業、大学院に進む。研究室はアルヴァ・アアルトに師事した武藤章研究室で設計を学ぶ。1971年-1985年工学院大学助手、1985年-1990年工学院大学講師、工学院大学助教授を経て1994年-2009年工学院大学教授。2003年-2006東京大学大学院非常勤講師。

1997年「東京の繁華街を中心とした近代建築史・都市史に関する一連の研究」により建築史学会賞を受賞。 2001年「職人および都市住民からみた日本の近代建築に関する一連の研究」により日本建築学会賞を受賞。 2005年『繁華街の近代都市・東京の消費空間』により日本都市計画学会賞石川賞を受賞。
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