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ささやかな「愛の灯火」を、時代の風よ、消さないでおくれ!

呉美保監督の『そこのみにて光輝く』を、日田市の「リベルタ」で観てきた。原作は、1990年に41歳で自死した、村上春樹と同世代の作家、佐藤泰志が遺した唯一の長篇小説である。僕はその小説はまだ読んでませんが、映画『そこのみにて光輝く』は、1970年代の日活ロマンポルノやそれにまつわる記憶を呼び起こさせる不思議な作品だ。

ある過去の事故の記憶にさいなまれ、無為な日々を送る達夫(綾野剛)は、バラックのような拓児(菅田将暉)の家で、姉の千夏(池脇千鶴)と出会い、心を動かされる。千夏は売春で貧しい家の家計を支え、母親のかずこ(伊佐山ひろ子)は、脳梗塞で寝たきりの父親の性欲処理を黙々とこなしている。この荒みきった悲惨な家族の光景は、大阪・西成区釜ヶ崎で生きる売春婦親娘(花柳幻舟と芹明香!)と白痴の弟(夢村四郎)とのよるべない生活を活写した『色情メス市場』(田中登監督)を彷彿とさせる。この原題が『受胎告知』という映画は、近親相姦と近親憎悪という『酷愛の軌跡』を、ドキュメンタリータッチで描かれた、ある意味で、「美しく」昇華されたファンタジーだと言える。

自転車をくねくねと乗り回す拓児や、互いに惹かれあう達夫と千夏が人の気配がない寒々とした砂浜を歩くシーンは、『恋人たちは濡れた』(神代辰巳監督)の大江徹や中川梨絵の抱えていた白々とした虚脱感、『アフリカの光』(同監督・東宝)のショーケンと田中邦衛がアフリカ遠洋漁船を根室で待つ日々の閉塞感とだぶって見えて仕方がなかった。達夫が鼻歌を口ずさみながらふらふらと歩いている姿は、さながら『青春の蹉跌』(同監督・東宝)のショーケンそっくりだ。

絶えず煙草を吸い、とりとめのない怒りや焦燥をもてあます綾野剛。絶望の淵からなんとか外の世界へと視線を投げかけようと身悶える池脇千鶴。ノンシャランな存在感がリアルに迫ってくる菅田将暉。それぞれの演技者がいい仕事をしている。そして、千鶴への身勝手な執着を止められない造園会社の社長役の高橋和也は「浅ましさ」や「女々しさ」を見事に表現していた。

『そこのみにて光輝く』は、2008年の秋葉原殺傷事件以降の酷薄な格差社会の実相をリアルに映し出している。同じ原作者の『海炭市叙景』(2010:熊切和嘉監督)では地方都市に生きる若者の屈折した青春の姿、一筋の光を求めて暮らす家族の再生を描き出していた。しかし、この作品では閉塞感はさらに内向していて、外部からの救いは訪れない。一度人生にしくじったり事故に遭ったりすると、セイフティネットにも引っかからず滑り台の真下までマッサカサマに落ちてしまう。プライドや夢まで、金に置き換えられ押しつぶされてしまう・・・。「出口なし」の状況なのだが、自分たちの意志でもがく達夫と千夏を呉美保監督は掬い上げようとする。画面からにじむような橙色の光が氾濫する海辺のラストシーンに、僕たちはかすかな曙光にも似た希望のようなものを見たと信じたい。

この達夫と千夏のささやかな「愛の灯火」を、時代の風よ、消さないでおくれ!
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全町避難の富岡町を訪れる(その2)

★全町避難の富岡町を訪れる(その2):「夜ノ森」駅で咲き乱れていたツツジ
     *****「JBpress 『ウオッチングメディア』-2014.06.26  烏賀陽 弘道氏」より転載

フクシマからの報告を続ける。前回に続いて、福島第一原発の南側10~20キロにある福島県富岡町を訪問した報告をする。

 2011年3月11日に地震と津波で破壊された翌日、原発事故の放射能汚染のために町民約1万4000人が避難、今もほぼ全域が無人になったままの町である。前回報告したように、富岡町は原発事故直後に町全体が半径20キロの「警戒区域」にすっぽりと入ってしまったため、津波や地震で破壊された街が3年3カ月経った今もそのままになっている。

 前回は津波が破壊したままになっているJR富岡駅とその駅前商店街の現状を報告した。今回は2回に分けて、2014年5月中旬、同町内のもう1つのJR駅である常磐線「夜ノ森(よのもり)」駅とその周辺の住宅街を訪ねた報告をする。桜のトンネルで有名なこのあたりの住宅街は、今も立ち入り禁止の「帰還困難区域」の境界線が真ん中を通り、無残にぶった切られていた。

@ここにもあった放射性ごみの黒いビニール袋

 高速道路(常磐道)を終点「常磐富岡」インターで降りた。夜ノ森駅へは信号を左に1度曲がるだけだ。信号は動いていた。ハンドルに手を置いたまま赤信号が変わるのを待つ。

 富岡町の中がどうなっているのか、予備知識はほとんどなかった。原発の北側の南相馬市や飯舘村を主に取材してきた私は、南側はより復興が早く進んでいるのではないかと根拠のない期待を抱いていた。一番深刻な汚染をもたらした2011年3月15日のプルーム(放射性物質を帯びたチリの雲)が北西方向に流れたことが頭にあったからだ。高濃度の土壌汚染や空間線量を示す赤や黄色のマップ記号が、いつも左上方向に赤い舌のように伸びていることも先入観になっていた。

 しかし、信号が青になってハンドルを左に切ったとたん、私はそれが甘い期待だったことを思い知らされた。飯舘村や浪江町で見たのと同じ、除染で出た放射性ごみを包む黒いビニール袋(フレキシブルコンテナパック=通称「フレコン」)が積み上げられ、あちこち丘のように盛り上がっていたからだ。道沿いにずらずらと並んでいる。飯舘村や浪江町ではパックが積み上がってピラミッドのようになっていた。こちらは城壁のようだ。

 道端にプレハブ物置がいくつも並んでいるのは何だろうと思ったら「スクリーニング会場」と立て看板に読めた。2012年7月、双葉町に取材で入った時のことを思い出した。町に入るとき「スクリーニング会場」で防護服と線量計のセットをくれた。「5時間で戻ってください」と言われた。出るとき、線量計を渡すと総被曝量を教えてくれた。私は8マイクロSvだった。双葉町内にいた5時間の延べ被曝量だった。

 「義務なのか? 入らなくちゃいけないのか?」と一瞬焦った。しかし前を走っていた除染作業のトラックは、減速もせずに走り抜けた。誰も私の車を止めなかった。

 どうやら、スクリーニングは義務ではなく、任意らしい。

 ほっとすると同時に思った。いいのか? 原発から10キロ前後しか離れていない場所への出入りがこんなに緩くて、いいのか?

 ルームミラーに映ったスクリーニング会場のプレハブは、あっという間に小さくなり見えなくなった。

 夜ノ森駅を訪ねてみようと思ったきっかけの1つは、福島の県紙「福島民報」の小さな記事をウェブ版で見たことだ。

 「富岡町のJR常磐線夜ノ森駅の土手で、赤や紫、白など約6000株のツツジがほころび始めた」

 「夜の森」。何とロマンティックな駅名だと思った。そこにツツジの花が咲き乱れているという。原発事故前、毎年5月中旬の満開の時期には、特急列車が徐行して、乗客にツツジを楽しんでもらった、というではないか。

 駅とツツジは、地元の人の誇りでもあっただろう。

 行ってみたい。そこはどんな街なのだろう。

 この付近のJR常磐線は今も不通のままである。夜ノ森駅も当然立入禁止だろう、私のようなフリー記者が申請しても入れてくれないだろうと思い込んでいた。

 しかし記事の末尾にはこうあった。

「ホームの東側に位置する駅舎と遊歩道は東京電力福島第一原発事故に伴う『帰還困難区域』で立ち入りできないが、西側の遊歩道は『居住制限区域』にあり、日中は自由に散策できる」

 不思議な話だった。線路を挟んで、東側は立ち入り禁止。西側は散歩していいという。壁やバリアがあるわけでなし、線路一本で放射線量の何が変わるというのだろう。

@土手を彩っていた赤と白のツツジ

 「常磐富岡」インターから東に向かって駅を目指してまっすぐに走った。風景が田園から住宅街に変わってきた。と思うと、道がいきなり突き当たった。おかしい。信号交差点なのに、黄色のまま点滅して前方の道路に壁ができている。

 近づいて分かった。道路をふさいでいる壁は鋼鉄製のフレームゲートだった。黄色字に赤い文字が告げていた。

 「通行制限中 この先 帰還困難区域につき通行止め」

 車を降りてゲートに近づいた。そこは橋だった。橋の下を線路がくぐっているらしい。

 なるほど新聞の言う通りだった。線路が立ち入り禁止区域の境界線なのだ。

 鉄柵越しに3年3カ月立ち入り禁止の街が見える。工務店の看板やガソリンスタンドのオレンジのロゴが見えた。しばらくじっと見つめた。誰もいなかった。望遠レンズをカメラにつけてファインダーをにらんだ。道路はひび割れ、波打ち、割れ目から雑草が生えていた。植木が水を吸った紙のように膨らんでいた。生活の痕跡を探した。しかし人の気配すらしない。

 切り通しの下にある線路は見えない。駅も見えない。線路脇の土手に沿って歩く。美容室やたばこ屋、アパート、企業の寮が並んでいる。なるほど駅前だなあと思うのだが、どこかおかしい。ブロック塀が割れて倒れている。それが雑草と枯れ草に包まれて文字通り草むしている。家の門と玄関の間の通路は雑草が生い茂って草原になっている。縁側に残った新聞は風雨に打たれてパルプ状に溶けていた。

 海岸線から500メートルくらいの至近距離にあった南隣のJR富岡駅は津波の直撃を受けた。夜ノ森駅は海岸から約4キロ離れている。だから駅そのものが無事だ。しかし3.11以来電車は通っていない。駅も封鎖され草むしている。

 駅前の住宅街には誰もいなかった。真夏のような太陽が真上から照りつけていた。汗をかきながらアスファルトの道を歩いた。

 桜並木が切れた。ホームが見えた。「夜ノ森」。青いプラスティックのベンチが見える。屋根もない簡素なホームだった。

 駅の向こう側の土手が見えた。赤や白のツツジが埋めていた。緑と赤と白。美しい帯のように土手が彩られていた。

 よかった。人がいなくなっても、無事にツツジは咲いていた。うれしかった。

 しかし、やはり3年間無人のまま放置されているのだ。ツツジは文字通り野放図に生い茂り、乱れ髪のように枝を伸ばしている。

@線路脇で出会った町民の怒り

 自動車のエンジン音がした。銀色の乗用車が止まった。

 中年のメガネの男性が降りてきた。私の方へつかつかと歩み寄った。

 また不審者と怪しまれたか、と私は身構えた。カメラを前に出して説明しようとした瞬間、男性が口を切った。

 「今年も咲きましたね」

 目を上げると、男性はサクラの切れ目からツツジを見つめていた。

 「わ、私は東京から取材に来た記者です」

 私はもぐもぐと不細工に言葉を発した。しかし男性はまったく聞こえないようだった。

 並んで独り言のように話し続けた。

 「ここは去年まで警戒区域(立ち入り禁止)でした」

 ため息をつき、言葉を継いだ。

 「やっと、入れるようになりました」

 ご近所にお住まいですか、と私は聞いた。男性は黙って頷いた。この人も、地震の翌日に大混乱の中避難した1万4000人の町民の1人なのだ。

 沈黙が降りてきた。私たちは並んで咲き乱れるツツジを見つめた。

 「このまま自然に帰っていくんでしょうか」

 伸び放題のツツジを見ていたら、そんな言葉が私の口からこぼれた。

 そこで初めて、男性は振り向いて私の目を見つめた。銀縁の眼鏡越しに悲しそうな目が見えた。潤んでいるようにも見えた。

 しまった、と思った。いけないことを言ってしまったと思った。いつか必ず元の生活に戻れますよ。そんな気の利いたことを言うべきだったのだ。

 男性は視線を落とした。

 「(避難中に)泥棒が入りました」

 言葉が見つからなかった。

 「本当にロクでもない」

 声が怒気を含んでいた。物腰は穏やかだが、男性は怒っていた。激しく怒っていた。

 自分が責められているようで、私は身が縮まる思いだった。

 男性は黙礼すると、また自動車に乗って去っていった。

 線量計を出して気付いた。毎時3.18マイクロシーベルト。ここは除染がまだ済んでいないのだ。

 いつか本格的に除染作業が始まれば、このツツジも全部刈り取られてしまうのだ。

安倍、デモクラシーをハイジャック、憲法を空洞化。

★安倍、デモクラシーをハイジャック、憲法を空洞化。
               *****「Japan Times JEFF KINGSTON氏 の記事」から転載

民主的プロセスを簡略化することで、安倍晋三首相は有権者からの負託を濫用している。憲法九条の解釈変更によって日本の軍事行動への制約を解除し、集団的自衛権を容認しようとする彼の動きは安倍が日本のデモクラシーを破壊しつつあることの直近の実例である。

日米両国における彼と彼の支持者たちは、憲法九条は時代遅れであり、増大しつつある地域の脅威に対処すべく、日本はより断固とした軍事的役割を果すことが重要であると主張している。日本が安全保障においてよりマッチョな役割を演ずべきだと主張しているこれらの人々は、日本は危険な隣国に囲まれており、日本の軍事的行動への制約が日米同盟を傷つけていると指摘する。

それゆえ、日本は集団的自衛権を含む軍事行動に参加する喫緊の必要性があるというのが彼らの所見である。なるほど。だが、ほんとうに安倍がそう確信しているなら、あらゆる手段を使ってでも憲法の改定を進めるべきではないか。憲法改定の手続きは憲法に規定してある。両院の三分の二以上の賛成と国民投票での過半数の支持である。このようにハードルが高く設定されているのは、日本のデモクラシー・システムの基幹的なルールが不当に政治問題化されたり、恣意的に変更されたりすることがないようにするためである。

改憲というのは重い仕事なのだ。

そこで改憲に代えて、安倍は憲法の解釈変更で乗り切ろうとした。これは法律と憲法のルールを歪めるものであり、夜陰に乗じて盗賊が裏口から忍び込むようなやりかたであり、憲法についての正当な手続きを回避し、憲法を愚弄する危険な前例を作る、非民主的なふるまいである。

安倍は自民党の歴代内閣が30年間にわたって維持してきた「憲法九条は集団的自衛権を認めていない」という解釈を覆そうとしている。安倍と彼の支持者たちは目的は手段を正当化すると考えており、改憲のための時間のかかる手続きを回避する方法を探している。

彼らは憲法を出し抜くための怪しげな理屈を考え出した。それはアメリカの責任ある同盟国であるためにという名目のもとに憲法の意味をねじまげるトリックである。逆説的なことだが、安倍はアメリカが起草した憲法は日本を弱小な従属国たらしめるためのものだと久しく主張し、改憲をめざしてきた。

ではなぜ彼は、高い支持率に支えられ、自民党が国会を支配している今改憲を企てないのか。それは安倍が国民投票におそらくは敗れると思っているからである。だが、これは彼が自分の信念を守る勇気があるなら、回避してはならない戦いである。

当初安倍は反対派をなぎたおすようなことをせず、さまざまな勢力と忍耐づよく合意形成をはかっているかのようにふるまってきた。 彼は彼の賛同者たちだけを並べた有識者会議なるものを指名した。驚くべきことに、この有識者会議が用意したサプライズは自衛隊の制約を解除する安倍の計画を支持する勧告を行うことだった。

政治ショーの舞台はそのあとワシントンに移る。安倍が派遣した国会議員は、このプログラムに日本を巻き込むことを長く画策してきたワシントンのインサイダーたちと談合し、彼らは全員集団的自衛権について安倍を支持していると恭しく報告したのである。かくして安倍はすでに彼に賛同していたすべての人々の承認を獲得した。

しかし有権者はこの笑劇を受け入れておらず、彼の手品まがいの憲法解釈変更につよく反対している。自民党内部でも、岐阜県連は安倍の性急なやりかたや党内議論の欠如に対して苦情を申し立てた。この批判は安倍の支持基盤も一枚岩ではないことを示している。

「チーム安倍」はまた連立与党のパートナーである公明党とも合意のためにあれこれ努力しているふりをしている。公明党は参院での多数派形成に必要だからである。この見え透いた政治ショーにおいて、意外にも公明党は集団的自衛権の必要性のために挙げられたあれこれのシナリオについて疑念を表明することで安倍の性急な動きを牽制しようとしている。

この政治ショーを通じて、国民は自衛隊の活動を抑制するルールについて、自民党が説明を二転三転している様を見つめてきた。公明党の支持母体である宗教組織創価学会は、安倍に憲法を尊重し、解釈変更によってすり抜けるのではなく、むしろ改憲をめざすように進言している。

しかし、公明党がこの「論争」の最初から、この問題で連立政権から離脱することはないと明言している以上、公明党がはじめから譲歩するつもりでいることはあきらかだ。安倍の側近の一人飯島勲は、ワシントンで、創価学会と公明党の関係は政教分離を定めた憲法20条に違反しないとしたこれまでの裁定について内閣法制局に再調査させる必要があると述べて公明党を恫喝した。 彼は安倍のアジェンダとその不正な手続きに同意しないという理由で安倍の足をひっぱっている政党に恫喝を加えているのであろうか。

しかし、これはデモクラシーのやり方ではない。それにいつから内閣法制局は身元の疑わしいラフプレイヤーからの作業命令に従う組織になったのであろうか。安倍は法律の合憲性を決定する内閣法制局を取り込むために、去年その長官のポストに彼の支持者である大使を任命した。しかし、この長官が健康上の理由で退職したために局内の繰り上げ人事を行わざるを得なかった。法制局はその独立性を重んじており、前例をときの首相の恣意によって覆すことに懸念を抱いている。

安倍はここに来て集団的自衛権についての閣議決定を急いでいるが、それは彼がメディアと国民の間に彼の計画に対する敵意が急激に高まっていることを感知しているからである。そして、次の国会における増税議論が始まる前に問題を片付けたいと思っている。それに11月には沖縄知事選があり、その前にこの問題についての怒りを鎮める必要もある。集団的自衛権をめぐる論争は世論に再び火を点け、反基地候補に有利に働くことが見込まれているからである。

憲法を事実上改定しながら国民投票は回避するという術策をめぐらせることで、安倍は2013年末に特定秘密保護法を通したときと同じく、国民を信じていないということを明らかにしている。安倍のデモクラシーの「ダウンサイジング」は、また米軍基地に対する沖縄県民の感情を無視し、原発再稼働に対する国民的反対を踏みにじることをも意味している。

権力者たちに対してある程度の臆病なご機嫌取りはあろうとはいえ、嫌がらせを受けているような気持ちにさせる最近の国際的なジャーナリストたちの安倍に対するすり寄るような働きぶりは、その程度の低さにおいて最低記録を更新している。安倍の断固たる政治姿勢についてこれまでうれしげに報道してきた記者たちは、そうすることで安倍の反民主的な手法と実現されることのない誓言と約束の山から眼を逸らそうとしているのだ。

佐藤祐禎歌集『青白き光』紹介

★福島原発の地で詠った佐藤祐禎歌集『青白き光』の原発短歌を読む
  *****「日刊ベリタ 2012年03月23日掲載 【核を詠う】(35) 山崎芳彦記者」より転載

佐藤祐禎(福島県双葉郡大熊町に在住されていたが、現在は原発事故に追われて、いわき市に居住)さんの歌集『青白き光』の中の原発にかかわる作品を読んできたが、今回で読み終えることになる。平成十六年に初出版の歌集に、ほぼ5年後の福島原発事故を予感させる、あるいは事故を招きかねない電力企業の実態と、その背景にある国策に対する憤りを短歌作品としながら(これは、たたかいだ)、その地で生き、しかし、ついには怖れていた原発事故によって「運命に翻弄され」「明日をも知れない浪々の身」となり、なおも詠い続けている歌人は、同歌集が昨年末に、いりの舎により文庫版として再刊されたのち、「『青白き光』を読んでくださる皆様へ」と題する一文を書いている。(いりの舎と、東京・世田谷のせたがや地域共生ネットワークの共催で、去る2月23日~26日に東京・下北沢で開催された「福島に寄せる短歌と写真展」―福島県双葉郡と歌集『青白き光』の世界~失われつつある故郷を想い続けるために~を訪れた際に、いりの舎社長・玉城入野氏から戴いた。会場には、被災した福島の写真と、佐藤さんの短歌、福島・浪江町出身の歌人である三原由紀子さんの作品が展示されていた。)

 佐藤さんの文章を抜粋させていただく。

 「私共の町は新聞テレビで、十分世にまた世界にフクシマの名で知れ渡ってしまいましたが、福島県のチベットと蔑まれて来ました海岸の一寒村でした。完全なる農村でして・・・米作りの純農村故に収入が少なく、農閑期には多くの農民が出稼ぎに出て生活費を得た状態でした。そこへ天から降って来たような感じで原子力発電所が来ると知らされたのです。この寒村に日本最大の大企業が来れば、一気に個人の収入も増え当然町も豊になるだろうと多くの人は両手を挙げて賛成しました。」「用地ですがここには宇都宮航空隊の分教場があったのです。敗戦となり、飛行場が撤収された跡には面積九十二万坪つまり三百ヘクタールの荒地が残っていました。それが地元民の知らない内に三分の二が堤財閥の名義になっていました。・・・当時の衆議院議長は西武財閥の祖堤康次郎であったことを考えると自ずから分かる気が致します。・・・当時東京電力の社長木川田は福島県出身であり、建設省に絶大なる影響力を持っていた衆議院議員天野は、ここ大熊町のとなりの双葉町の出身だったのです。」

「立地条件として第一に相当広い土地、第二に一キロ以内に人家が全くないこと、第三に海水が充分確保出来ること、第四に土地取得に障害がないこと、これらの条件が全て解決出来るところが双葉郡大熊町夫沢地区だったのです。東電の意志が県に伝えられ双葉郡そしてわが大熊町に伝えられ、とんとん拍子にことが運んだようです。土地の価格が驚くなかれ一反歩『三百坪』当時で五万円、地上の樹木五万円併せて十万円だったのです。白河以北一山百文といわれた東北でしたから・・・地権者は喜んで手放しました。びっくりしたのは東電だったようで買収予算の四分の一で済んだとのことでした。後に大きな増設問題が出ました七号炉、八号炉の建設予定地となった厖大な土地を余った予算で買ったということです。」

 こうして原発建設の工事がスタートした以後の様子について、佐藤さんは、大工事で数千人の作業員が入り、労賃も小さい土木会社の数倍に跳ね上がり、農家の人たちが我がちに作業員として働きはじめ、年間収入が飛躍的に増加したため「原発さまさま」になる一方、従来の地域民の共同、助け合いがなくなり、「町は富めども心貧しき」と詠ったと述懐している。人口一万弱の町に三十軒以上の飲み屋、バーがあったという。

 更に、原発に関する優遇税、原発に従事する人達の所得税の増加、施設を作るたびに原発からの多額の寄付金、これは、大熊町だけでなく周辺の地域にも広がり、「蓋し、原発銀座といわれる所以はここにある」と佐藤さんは書いている。ここで生み出される電力は全て首都圏に送られ、地元では東北電力の電気を使ってきたことを、東京の人たちには理解して欲しいとも言う。

 佐藤さんの反原発の芽生えは、一号炉建設の際、好奇心を持って少しの間働いた時の経験にあることを書いている。「あるとき東芝の社員のかたがこういったのを今でも覚えています。地元の皆さんはこんな危険なものをよく認めましたねと言う言葉でした。」という。そして、小さいけれども工事の杜撰さ、誤魔化し、「それらが末端の下請け会社の利を生むこの世界の常識だったらしいのですが、・・・核と言う正体のわからない魔物を扱う施設としてはどんなに小さい傷でも大きな命とりになるはず」と、次第に疑念を持ち始めた佐藤さんは物理の本を読み、短歌に詠み始めたと言う。

「一号炉が運転するにつれて小さい事故が次々と出はじめ」、そのつど所長などが町や県に行き謝罪したが、事故はやまない。「彼らの謝罪はただ形ばかり・・・背後に国益を掲げた経済産業省そして国があるからです。」

 その怒り、憤りから、佐藤さんは反原発の歌を作り続けた。そして、歌集『青白き光』(短歌新聞社刊)が編まれたのが、平成十六年のことであった。いまも佐藤さんは詠い続けている。

 長くなったが、佐藤さんが書かれた文章から抜粋をさせていただいたが、充分意を尽くした要約になっていないとすれば、お詫びするしかない。

 『青白き光』の原発にかかわる作品を読む上で、佐藤さんの思いを知る上で、役にたてばというのが筆者の思いであり、佐藤さんの作品への共感を深く持ち、今後の御健詠とご健勝を願う一人である。

・・・・・・・・・・・・・

@鱸は泳ぎ鯔は跳ぶ
松食虫など入らしめざらむ原発の森深々と緑たたふる

山脈を挟むる様に立ち並ぶ原発六基の送電塔が

波立たぬ原発港内群なして鱸(すずき)は泳ぎ鯔しきり跳ぬ

増え続くる低レベル放射能廃棄物人間の住む地に運ばむとする

低レベルと謂へど放射能廃棄物二十余万本積む町に住む

夕潮が差し来たるらし原発の港のブイの灯が揺れはじむ

核のゴミ千年保証といふ記事を疑ひつつ読む原発の町に住み

原発事故テレビに答へしわれの批判没になりたる経緯は知らず

原発の百二十米の排気筒夜空に赤く灯の点滅す

青栄丸の舫ひ綱曳くいくたりの中にわが知る顔も見えたり


@窓のなき廊
原発に勤むる一人また逝きぬ病名今度も不明なるまま

下血を下痢と信じて死に行けり原発病患者輸血受けつけず

原発の窓なき廊を歩みつつここにて病を得し友思ふ


@六ヶ所村
立場ある吾は人目を避くるごと脱原発の会の末席に坐す

廃棄物をよこしてくれるなと泣き出しぬ六ヶ所村より来れる女は

核のゴミ搬入に六ヶ所村の攻防を語るがごとき警棒の跡


@被曝認定
原発はつひに被曝を認めたり三十一歳にて逝きたる人に

原発に富めるわが町国道に都会凌がむ地下歩道峻る

原発の管理区域に働ける人らは痩せて眼のみ光れる


@増える使用済み核燃料
置場なくなり乾式貯蔵庫建つるとぞ使用済核燃料ふえ続く町

原発に自治体などは眼にあらず国との癒着あからさまにて

原発に怒りを持たぬ町に住む主張さへなき若者見つつ

紅と白に染めし煙突高々と原発の在り処遠く知らしむ

チェルノブイリの惨あらはなる映像に恐れ新たなり原発の町に

なべての役町に返上せしわれは恣に詠まむ反原発の歌

炉心溶融の新聞記事を惧れつつ原子炉六基持つ町に住む

底ごもる唸りに圧さるる思ひにて窓無き原発の建屋を歩む

原発の展望台より丘越えてわが家の高き杉の秀の見ゆ


@紅白の排気筒
使ひ切れぬプルトニウムが溢れゆく国をアジアは恐怖してゐる

原発と町との共同看板がスピード出すなと立つ通学路

地震には絶対強しとふチラシ入る不安を見透かすごと原発は

サッカーのトレセン建設を撒餌とし原発二期の増設図る

わが町は稲あり魚あり果樹多し雪は降らねどああ原発がある

枝打ちせし檜林透して原発の紅白の排気筒間近くに見ゆ


@危険区域に勤めて
自が身より他人愛せし人の死を悲しめり原発ひた憎みつつ

危険なる場所にしか金は無いのだと原発管理区域に入りて死にたり

子の学費のために原発管理区域に永く勤めて友は逝きにき


@「偶成」より二首
戦闘的になりしと妻はわれを言へど自説枉げざる己れを信ず

さし出されし町長の手をも拒みたりこの頑なを身上として


@百万キロの原路子炉の上に立つ
原子炉を冷やし出で来る排水の勢ふ流れ波押し返す

展望台に望めば千鳥も海猫も飛ぶ原発六基並べる浜に

六基なる原子炉冷やしし排水の轟きて入る荒ぶる海へ

声にいへど原発建屋めぐりつついつしか我ら侏儒(しゅじゅ)のごときか

足元に微動感じつつわれは立つ出力百万キロの原子炉の上

断層帯に火発原発犇き合ひチェルノブイリのよそごとならず

百万ボルトの高圧線の害知らざりき建設は予定のごとく進まむ

町議二人社員より出しし原発の発言いよよ強くならむか


@富と引き換への危険
鼠通る如き道さへ舗装され富む原発の町心貧しき

海沿ひに火発原発ひしめき合ひ富と引き換へに負ふこの危険

声を大に言はねばならぬを原発に勤むる人の多きこの町

原発を本音で言ふはいくたりかうからやからを質にとられて

原発を言へば共産党かと疎まるる町に住みつつ怯まずに言ふ
プルサーマル

憚らず言ひ得る時代に生き遭ひて科技庁の原発容認批判す

わが問ひにのらりくらりとかはしゆくすでに帰趨を知る原発は

抑へむとしつついつしか昂りゆく原発の説明の矛盾を突きて

原発の差入れのジュースわれ飲まず話す課長に視線を据ゑて

原子炉の建屋映して邃く澄む港の水の不気味なまでに

原発があるから何でも出来るといふ一つ言葉は町を支配す

原発に海売りて富めりし人の家とき経ていたく寂しく見ゆる

ウランさへ信じられぬをプルサーマルこの老朽炉に使はむとする

原発がある故出稼ぎ無き町と批判者われを咎むる眼あり

住民の負担の上に国策がありてならぬをありて悲しむ

微量とはいか程のものかいつにても漏れたるときの彼らの言葉

自然界になかりしプルトニウム作りたる人間は死もて償はされむ


@かりそめの富に
うからやから質に取られて原発に物言へぬ人増えてゆく町

原発に縋りて生くる町となり燻る声も育つことなし

繁栄の後は思はず束の間の富に酔ひ痴るる原発の町

政官財の癒着もわれには何せむに農の滅びむ予感に怯ゆ


@山脈へ伸びる送電線
プルサーマル容認の報に肩落とす君も反対の一人なりしか

泊つるものなき原発の港内に潮満つるらしブイ揺れはじむ

いつはりの富に満ち足るこの町にプルサーマルを言ふは少なし

原発の被曝者ひたすら隠されてひそかに伝ふ少なからぬを

向き変へて伸びゆく原発の送電線遠山脈の上に落ち合ふ


 以上で佐藤祐禎歌集『青白き光』(いりの舎刊)に収録の原発短歌を読み終えた(歌集最後の連の「東電の組織的隠蔽」は、本連載(33)に掲載している。)

 佐藤さんと直接お目にかかっていないが剛直な農民歌人との印象がある。現状を思うと、作品に深い感慨を覚えると同時に、後進の詠うものの一人として、先の東海正史さん、そして佐藤さんの貴重な歌集を筆者なりに精読しえたことを、今後の糧としたいと思っている。

 「核を詠う」作品を更に読みつづけ、記録していきたいと考えている。原爆短歌を読み、原発短歌を読んできたが、非力に怯じずさらに続けたい。

・・・・・・・・・・・・・

*震災から2年が経った2013年3月12日、大熊町で農のかたわら、長年、反原発の歌を詠ってきた佐藤祐禎さんがお亡くなりになりました。八十三歳。原発事故避難中のご逝去でした。

鬱病で半年間寝たきりだった僕が、PC1台で世界を飛び回るようになった話

★鬱病で半年間寝たきりだった僕が、PC1台で世界を飛び回るようになった話
          *****「STORYS.JP 6月11日(水) (文=編集部・川延幸紀氏)」より転載

鬱病は現代社会が抱える大きな問題の一つだ。豊かさの陰で、多くの人がこの病気で苦しんでいる。STORYS.JPユーザーにも、23歳で鬱病、寝たきりとなり、企業で働けなくなった一人の男性がいる。この男性には、世界を自由に旅するという夢があった。一度全てを失った彼は、その夢を叶えるため0から行動し、2年後PC一台で世界を旅しながら仕事をするというライフスタイルを確立した。そんな彼の生き方を綴ったストーリーが、「鬱病で半年間寝たきりだった僕が、PC一台で世界を飛び回るようになった話」というタイトルで先日書籍化された。ここでは、この書籍の元となった一つのストーリーを紹介したい。鬱病で寝たきりだった彼が、一人でも働いていけるよう、3畳一間のアパートで0からWEBの仕事を始めた頃に出会った一人の「元ヤクザ」との物語である。

--以下本文転載(一部修正)--

当時、僕は1泊1200円・三畳一間のカビ臭い部屋に籠城しながら、延々とWEBサイトを作り続ける生活を送っていました。
机もなかったので、BOOK-OFFで買ってきた本を積み重ねて台座とし、そのうえにノートパソコンを広げての仕事。当然ながら、稼ぎも0に等しくて、もう自分がほんとうにどうしようもないクズ人間に思えてきて仕方がない。

アパートの風呂は共同で、17時から23時までの間に、好き勝手入っていいのですが、一度、人が多い8時くらいに行ったとき、般若や鬼や孔雀や、今からどこ飛んでくの?ってくらい立派な翼や、そんな禍々しい刺青のおっちゃんらに囲まれたときはもう喰われるかと思った。駄目だろ、ここ。

なので僕はいつも、みんなが上がった後、風呂が閉まるギリギリの23時近くにやってきて、シャワーだけ浴びてさっさと部屋に引き上げる、借りぐらしのアリエッティのような生活を続けていた。

でもここはジブリの世界じゃない。
僕が出会ったのは、元ヤクザの豪傑幹部・中條さん(仮名)だった。

@ある日、やたら元気なおっちゃんが風呂場に飛び込んできた。

「おう兄ちゃん、元気か?」

やたら元気なおっちゃんが、風呂場に飛び込んできた。

風呂場が割れるようなバカでかい声で挨拶された僕は、一瞬、「俺か、俺に話しかけてるのか!?」と度肝を抜かれて固まった。こんなことなら湯船になんて入らず、さっさと上がっておけばよかった、、、なんて思う間もなく、おっちゃんは身体も洗わず、バシャバシャと湯船に入ってきて逃げられなくなった。

おっちゃん「おう兄ちゃん、見かけない顔やな!悪さでもしたか!?」
僕「い、いや、してないですよ!まだ!」
おっちゃん「そうか? ここに来る若い奴なんて人生にやらかしたような奴しかおらんからな。ガハハ!」
おっちゃん「いつから来たんや?」
僕「2ヶ月くらい前からです。」
おっちゃん「そうやな、2ヶ月くらい前から、おるよな!」

あーやっぱり見られてるんだな、と思ったのだけど、不思議と嫌ではなかった。

おっちゃんは30代の半ばくらいで、筋肉質で背が低く、地黒で、顔は景気が良さそうにテカテカしている。
労働者っぽく見えるけど、アパートに住む他の労働者のような陰気な感じがない。ってか、笑い方が豪快すぎる。明らかに只者じゃないオーラが漂っていた。

おっちゃん「いやな、若いにいちゃんが来たけど、何しとるんかなあってみんな話しとったんよ!」
僕「やっぱり、思われてたんですね(笑」
おっちゃん「そりゃな。にいちゃんみたいのが住む場所じゃないからな。自分でもわかるやろ?」
僕「ええ、まあ。」
おっちゃん「ここにおる若いのは、職人か、薬中か、ヤクザか、どれかや。にいちゃんみたいのは歩いてるだけで目立つ、気いつけぇ。で、ここで何してるん?」

この人には隠し事は通用しないなと思った僕は、思い切って、全部話してみることにした。

去年、鬱病になって仕事をやめたこと。
企業ではもう働けないと思ったから、自分でもできるビジネスを立ち上げようと思ったこと。
誰にも頼らず、0から這い上がるためにここに来たこと。
お金はまだ全然稼げていないが、近い将来は海外で生活をしたいこと。

そんなことをぜんぶ話してみた。

おっちゃんは楽しそうに僕の話を聞いて、ガハハ!と野太い声で笑った。そうかそうか、そりゃ頑張りや。最初は誰でも失敗するし、金も回らん。そこを乗り越えて一人前になるんやで。ここに来て、はじめて聞いた優しい言葉に、なんだか泣きそうになった。

@風呂場で「人生」について教わる日々。

おっちゃんのは中條さんといって、半年前からこのアパートに越して仕事をしていると言った。

中條さん「それまでは神奈川におったんや!」
僕「あ、そうなんですか。僕は生まれは横浜ですよ!

共通点があったよ!

僕「神奈川でどんなお仕事されてたんです?」
中條さん 「ヤクザや! 」
僕「.....え?」
中條さん 「暴力団や!幹部だったんや! 」

共通点などなかった。

ってかあっさり、そんなドヤ顔で言っていいものなの?
自分のヤクザのイメージはテレビで見るようなものしかなかった。
中條さん、ぜんぜん違うじゃん。刺青だってひとつもないし、草野球でもやってそうなその辺にいる体育会系のおっちゃんじゃん。でも、だからこそ妙なリアリティがあった。

それに、出てくる話すべてが、突拍子もなかった。

たとえば、裏社会のビジネス。

「悪徳出会い系を運営して、月600万を荒稼ぎする方法!」
とか。
「パチンコ店を半年間で乗っ取って、8億円の利益を上げるビジネスモデル!」
とか。

ヤクザの仕事についても色々教わった。

僕「ヤクザって、辞めるときに色々あったりしなかったんですか? テレビみたいに小指差し出したり。」
中條さん 「俺は実績上げてたからな。そうゆうのはなかったわ!そう簡単に小指なんて差し出したら、何本あっても足りんわ。 」
僕「へー。でも実績上げてると、逆に抜けづらくなかったりしませんでした?」
中條さん 「そりゃ引き止められたわ! 親分ともずいぶんもめてな。でも最後にはうまく、納得してもらったわ。大変やったで!」
僕「それでも、堅気に戻りたかったんですね。」
中條さん 「まともな仕事しようと思ったら、暴力団におったってどうしょうもない。ほんとになあ、暴力団なんてクズやで! あんなとこ、いつまでもおったらあかん!」

他にも、

僕「中條さん、ヤクザにいたときはどんなお仕事されてたんですか?」
中條さん 「俺はな、渉外担当や! 」
僕「渉外担当?」
中條さん 「そう。何か外との揉め事があったときに、まず最初に乗り込んでいくのが仕事やな!」
僕「それ……めっちゃ危険じゃないですか!?」
中條さん 「そうや。まあ、誰かが行かんと収まりつかんからな!行って話をして、こちらが悪ければ、まあ着地点を探すけど、向こうが悪かったら一歩も引かん。おかげでだいぶ危ない目にもおうたわ!」
僕「命を狙われたりとかは?」
中條さん 「そりゃあ、あるで!一般道走ってる時に、横の車からいきなり発砲されたりな。頭にきて追いかけようとしたけど、アクセルに力はいらんねん。なんでかなーと思ったら、右足から血ぃ吹き出しとってな!新聞にも何度か乗ったで!!」

奇天烈な大仕事の話から裏社会の仕組みまで、中條さんの話はいつも刺激的で面白かった。

もちろんそれは中條さんの一面にすぎない。僕に話していない、嫌悪込み上げる悪行も散々やったろう。鬼畜の所業も山ほど積み重ねたのだろう。でも、そんなことはどうでもよかった。

僕はこの土地には友達もいなかったし、鬱病になって携帯を壊してしまってから、気軽に話せるような人が誰もいなかった。中條さんはそんな生活の中で、唯一の話し相手になってくれた人だった。

@にいちゃん、初詣に行くで!

このアパートに住み着いてからあっという間に4ヶ月が経ち、2012年の1月。

そのときにはもう、僕もすっかりアパートに馴染んでいて、住民とは挨拶や世間をふつうに交わせるようになっていた。夜、ロビーの人たちに新年の挨拶にいこうとすると、ロビーはガラガラ。

うろうろしていると、たまたま中條さんが部屋から顔を出してきて、「にいちゃん、これから初詣行くで!」と言ってきた。

中條さん 「初詣まだやろ。これから◯◯大社行くで!」
僕「いいんですか一緒に行って。 」
中條さん 「ええよ。ここにおっても誰もおらんやろ!」
僕「みなさん、どこに行ったんですか? 」
中條さん 「仕事や。お正月は稼ぎどきやからな。みんな◯◯大社で店出しとるわ!」

中條さんの車で◯◯大社へ向かうと、境内はすごい人で賑わっていた。

なるほど、現場で働いているけれど、正月の仕事がないときは、アパートのみんなで露天を出して、荒稼ぎしてるのだとか。こうゆう人たちが祭りの屋台を出していたのかと、はじめて知った。

境内を歩いていると、色んな人が中條さんに声をかけてくる。また中條さんも、テキ屋の皆さんには顔が効くらしく、10mおきに誰かしらと楽しそうに談笑していた。

僕「随分知り合いが多いですね!」
中條さん 「まあな!この仕事は顔で食ってく仕事やからな!顔が効かんとどうにもならん。足は洗っても、こうゆう付き合いは大事なんや!」
僕「それにしても、多すぎですよw」
中條さん 「にいちゃん、何人かから会釈されとったやろ。あれな、みんなお前のことを、俺の若い衆だと思ってんねん! 」
僕「えええ!」
中條さん 「ガハハ!! 」

なんだか不思議と心地良い気がした。

参拝が終わったあとでラーメンをご馳走してくれることになり、車で京橋に向かった。
京橋の駅からそう遠くない、カウンターとテーブル席がいくつかあるだけの小さな麺屋だ。

中條さんは昔からこのラーメン屋にお世話になっているらしく、ここが成功している経営上の理由や原価や利益や、まるで店の中の人のような情報をいろいろ教えてくれた。おやっさんが、「中條さん、勘弁して下さいよ」と笑っていた。僕は久しぶりにあたたかいものを食べた気がした。そのとき僕は貧乏の極地で、外食はもちろん、外でラーメンを食べるなんてもっての他だったのだ。ラーメン、うまかったなあ。

ラーメンを食べて外にでると、正月のキンと冷えた夜風が気持よかった。

「なんだか、自分の仕事なんて、ホントに小さいなーって思いますよ」

これまで、中條さんの仕事の話や、色々なビジネスの裏話を聞いてきた。

それは刺激的だったけど、いつも思っていたのは、「それに比べて、俺はなんて小さい仕事をしているんだろう」ということだった。

僕は、23歳のとき鬱病になって会社を逃げ出した。人と接するのが怖くなり、でも生きていかなくてはならなかったから、一人でもできるビジネスとしてWEBをつくる仕事を選んだ。

別にヤクザに憧れるわけでは全くないし、自分の仕事が嫌になったわけでもない。自分にはこの道しかないと思っていたし、自分の仕事を誇りに思っている。

それでも、人と触れ合う、人とぶつかり会う中で仕事をする人間の話を聞くと、羨ましくて仕方がなくなる時があった。僕はそれを、投げ出してしまったから。世の中には本当に、たくさんの選択肢があるということを、良くも悪くも中條さんに思い知らされてしまった。まだ、僕は満足にお金を稼ぐことができなかったから、余計に、そうゆう世界への劣等感があったのだと思う。

僕「なんだか、自分の仕事なんて、ホントに小さいなーって思いますよ。」

ぼそっと、本音が漏れた。「どうしたんや、急に?」 と中條さんが言った。僕は素直に、感じていることを中條さんに話した。

中條さんは笑わなかった。そういえばいつも、僕の話を笑い飛ばしていた中條さんが、そのときだけは、真面目な、優しい顔をしていた。

「にいちゃん、あのな」、

「俺はな、金なら死ぬほど稼いできた。豪遊もした、女も、もういらんくらいに抱いてきた。」

「だからこそわかった。仕事は金やない。仕事は充実感を感じるかどうかや。」

「どんな仕事を選んでもええ。ただ、充実がない仕事だけはしたらあかんで。それだけは、金じゃ絶対に買えん。」

「にいちゃん、今の仕事に充実感、感じとる?」

「はい」と僕は答えた。
即答だった。
中條さんはガハハ!と笑った。

「そんならそれでええ!気張れや。」

@三畳一間のアパートからの卒業。

今思い返すと、僕が自分の仕事に疑問を持たなくなったのは、この時からだったと思う。

24時間仕事のことを考え、自分の夢を考え、周りの雑音を気にせず仕事に向き合うことができた。その成果か、僕は正月を超えてから急に報酬が上がるようになり、月10万、月15万と報酬がどんどん増えていった。そして気がつくと、昔企業で働いていたときの給料の、2倍3倍を稼げるようになっていた。

2012年4月、僕は三畳一間のアパートを卒業した。

中條さんに最後の挨拶に伺うと、素直に喜んでくれた。中條さんのほうも、もうしばらくしたら別の仕事でここを離れるらしく、「まあ、何かあったら連絡せい」と連絡先を書いた紙を渡してくれた。その連絡先をコールする機会は、幸いなことに、まだない。
.
充実感のある仕事を続けてきて。

その年の7月、僕は日本を出国し、夢の第一歩を踏み出すことができた。

旅をしながら異国の街で仕事をすること。旅そのものを仕事にするライフスタイルを叶えること。

アパートを借りて暮らしたり、語学学校に通ったり、現地で恋人を作ったりすること。たった一人でも、企業や組織に属さなくても世界を飛び回るライフスタイルを実現できるのだと証明すること。そんな、三畳一間のアパートで暮らしている時に思い描いていた生活を、この1年半でだんだん叶えることができてきた。

でも、時には仕事に迷ったり、行き詰まったりする。勇気が出ずに足踏みしてしまったりする。そんなとき、僕は中條さんのあの言葉を思い出す。中條さんの腹に響く力強い声と、全てを吹き飛ばすような笑い声を思い出す。

「今の仕事に充実感、感じとる?」

あなたは、どう答えますか?

--本文転載〆--


一つの出会いと言葉が、彼の人生を変えた。

※このストーリーは「鬱病で半年間寝たきりだった僕が、PC1台で世界を飛び回るようになった話。」というタイトルで出版された書籍の一部に掲載されています。

「フーテンの寅」:幻の『下町の人情劇』

『下町』はもともと「日本橋」から「上野広小路」あたりまでをいい、もう少し広くとっても「谷中」「根岸」「千駄木」あたりぐらいまでを、ソウ呼ぶらしい。関東大震災・東京大空襲を経る度に、いわゆる『下町』と呼ばれる領域は拡大していったそうな。。。いまでは都電荒川線沿線は言うに及ばず、謂う所のリバーフロントはすべては『下町』と呼んでいる。

山田洋次の巧みさは、東京でも『田舎』と言っていいような葛飾・柴又を『下町』として、寅さんのホームグランドにしたことだ。寅さんの作者たちは、東京人でもイメージできないほど手垢のついていない、葛飾・柴又の帝釈天を中心にした門前町をエルドラドに変えていった。旅先で繰り広げられる寅さんの『建前としての片恋』とホームグランドに帰ってきた寅さんが巻き起こす『本音のドタバタ劇』。旅先であれ柴又であれ、寅さんを囲む人々は皆『善人』である。やさしい日本人はそういう寅さん映画の「善人による下町の人情劇」のムードに浸り、微笑んで、あたたかい涙を流す。

【適度な田舎で、下町の人情が残っているように思ってしまう葛飾・柴又のような、普遍的ローカリズム。そして、実はどこかありそうでどこにもありはしない「日本的な内閉ヒューマニズム」みたいなものが日本人の間に、蔓延し、はびこってしまっていることこそが、大問題なのではないのでしょうか?】
【「男はつらいよ」シリーズ映画を、自分にとってはイヤなもの、ユーウツなものであっても、あえて「寅さん的なるもの」と正視し、それを自分なりに論理的に解体し、その正体を見きわめようとすることこそが、真の意味での主体的日本人が、とるべき態度ではないのだろうか?】
と、かって1996年に、映画評論家・白井佳夫氏は「杉並映画村通信」で、僕たちに問いかけた。

安易な馴れあいのヒューマニズムが蔓延する世の中は、総てのことにちゃんとした論理的な結着をつけようとせず、人間の闘争心を骨抜きにし、あらゆることをナアナア主義のアイマイさの中にとりこんで腐らせます。現代日本の秘密保護法・TPPを巡る動きやフクシマ・東日本大震災を奇貨とする『ショックドクトリン』の危ういムードにも、そのままつながってくるようなものでもある。

1996年は僕は42歳の中年真只中で、アングリー・ヤングメンならぬアングリー・ミドルエイジドメンであった。いや、1年ちょっと前まで、原発に怒るオッチャンだったのだ。しかし、衆院・参院選で大敗北を喫して、『ザセツ』みたいな気分に今はなっている。・・・それではだめだ・・・カラ元気をだしてみるものの・・・。この1年持病とのツキアイがママナラズ、塞いでいる時間が続いています。

そんな*ヤッセンボになっている西村君は、『寅さん』映画を観て、やさしい日本人のようにあたたかな涙を流す、トホホな『大衆』になってきています・・・。

*ヤッセンボ:鹿児島弁。「やっせんぼ」と言えば、だめな子ども(主に度量が小さく弱虫な子ども)を指す。

高濃度汚染地の農業実験で分かったこと

★高濃度汚染地の農業実験で分かったこと~飯舘村に残って計測を続ける伊藤さん
    *****「JBpress 『ウオッチングメディア』-2014.05.29 by 烏賀陽 弘道」より転載

フクシマからの報告を続ける。今回は、2011年4月、村人約6200人が全村避難という悲劇に見舞われた福島県飯舘村の再訪記だ。今も村人の大半は村の外の仮設住宅や借り上げ住宅で避難生活を強いられている。

 私は、拙著『福島飯舘村の四季』(双葉社)で村の四季の自然を紹介してから、今も春夏秋冬の自然の美しさを写真で記録するために村を訪ねている。今春も5月初旬にサクラの咲く風景を撮影した。そのとき、伊藤延由さん(70)を再訪した。同書の中で取り上げた、村に残って空間や土壌・植物の放射線量を計測し「自分で自分を人体実験する」と話していた人だ。それから3年が経って、伊藤さんはどうしているのだろうか。村の自然はどうなったのだろうか。

@汚染地で農業をするとどうなるのか

 車は細い山道をうねうねと登った。舗装路が尽きて砂利道になった。伊藤さんの「農場」は阿武隈山地の真ん中、標高628メートルの野手上山の山麓にある。行政区分では「小宮」と呼ばれる地区である。高濃度の汚染で地区が封鎖された「長泥」地区のすぐ北隣だ。今でも「居住制限区域」として「立ち入りはできるが、住んではいけない」ことになっている。高濃度の汚染地帯である(注:5月27日現在、小宮コミュニティセンター前のモニタリングポストの計測値は毎時1.79マイクロシーベルト。「福島民報」より)。

 「いいたてファーム」の看板がある門をくぐる。3年前に訪ねたログキャビンの入り口で伊藤さんが出迎えてくれた。しばらくでしたね、ご無沙汰失礼しました、と私たちは挨拶を交わした。

 「低線量被曝は体にいい、なんて言う学者もいたでしょう? なら、人体実験してやろうじゃないかと。もうトシもトシですしね」

 テーブルに座った伊藤さんはそう言って笑った。

 もともとは飯舘村の出身ではない。新潟で高校まで育った。ずっと東京でサラリーマン生活を送った。2009年、勤めていたソフトウエア会社の経営者から「研修施設の管理人にならないか」と誘われた。それが「いいたてファーム」だった。長年農業に憧れていたので、すぐにオーケーした。

 原発事故のちょうど1年前、2010年3月に開所した。社員だけではなく、心身にハンディのある子どもたちも合宿に来た。2ヘクタールの水田がある。農作業を体験し、山や渓流で遊んだ。合間に伊藤さんは畑や田んぼを耕した。玄関先に鹿がやって来る深山の懐に抱かれた暮らしは、伊藤さんには夢見た生活そのままだった。

 そんな夢のような生活は、福島第一原発事故とその放射能汚染で、ある日突然終わってしまった。汚染のため、コメの作付けも制限された。以来ずっと「居住制限」地域である。家に帰ってもいいが、泊まってはだめだという。避難住宅を申請し、福島市で見つけた4畳半と3畳の小さな仮設住宅に移った。

 よその場所に移って農業をやり直すことも考えた。長野や山梨、千葉などあちこちの候補地を見に行った。しかし、まったく一からよその土地でやり直すには年を取りすぎたと思う。

 伊藤さんは考えた。

 「これだけ汚れたフィールド(土地)で農業やると、どうなるんだろう? 植物はどうなるんだろう? ある意味、これはチャンスではないか?」

 あちこちの農業大学に「ここで実験しませんか」と声をかけてみた。しかしどこも断った。

 「そんな激しい汚染地に学生を連れていけない」

 そう言うのだ。

 「放射能汚染研究をしても、文科省が予算をくれない」

 そんな理由もあった。

 それなら自分でやってしまおう、と土壌や水、食品の放射性物質を計測するシンチレーションカウンターを調達した。週に1~2回福島市から通ってきては、サンプルを採取して計測している。

@土壌、農作物、樹木などの汚染状況

 貴重な記録なので、伊藤さんが小宮地区で計測したデータを報告しよう。

・表面の腐葉土    1キログラムあたり11万ベクレル
・深さ5センチの表土  1キログラムあたり1万7000ベクレル
・深さ10センチ    1キログラムあたり1080ベクレル

腐葉土には、地面の表面に降り積もった放射性物質だけでなく、放射性物質を帯びて落葉した樹木の葉のものも含まれている。やはりここが一番汚染されていた。山の腐葉土を田畑に肥料として入れることができないのは痛い。

 原発事故の年、コメを作って収穫してみた。土壌を計測してみると1キログラムあたり2万8000ベクレルという高濃度汚染だった。すると

・もみ付きのコメ 1キログラムあたり157ベクレル
・精製した白米  1キログラムあたり30ベクレル

 当時の一般食品のセシウム含有基準値1キログラムあたり500ベクレル(現在は100)を下回っていた(参考:食品中の放射性物質の基準値について解説する「政府広報オンライン」)。これなら食える。

 国や県の実験栽培でも、コメは表面から深さ5センチの土を入れ替えると作物にセシウムが出ないことが分かっていた。どうやら、2.5~5センチの深さで土の成分とくっつくらしい。

 こうした土壌から作物にどれくらいセシウムが吸い上げられるか、という数値は植物によって全部違うということが分かってきた。汚染がひどいのはキノコだった。

・マツタケ    1キログラムあたり 3023ベクレル
・モミタケ    1キログラムあたり 1万919ベクレル
・イノハナタケ  1キログラムあたり 2万ベクレル
・シイタケ    1キログラムあたり 9万8000ベクレル
(2013年秋)

 また、土壌とキノコの汚染濃度の大小も、キノコの方が高いのか、土壌の方が高いのかがキノコの種類によって違った。シメジはキノコのほうが低かった。土壌からセシウムを吸い上げないようだった。

 山菜はどうか。

・フキノトウ      1キログラムあたり 319ベクレル
・シドキ(モミジガサ) 1キログラムあたり 158ベクレル
・タラノメ       1キログラムあたり 320ベクレル

 山菜を茹でるとセシウムは減るのか実験してみた。5分茹でるとシドキが44ベクレルに、タラノメは219ベクレルに減った。しかし歯触りがなくなって、あまりおいしくない。

 いろいろ貴重なデータなので、そのまま紹介しよう。同じ土壌で栽培しても、植物によって数値が違うことに注目してほしい。

【山の実】

・ナツハゼ  1キログラムあたり 132ベクレル
・カリン   1キログラムあたり 67ベクレル
・アケビ   1キログラムあたり 126ベクレル

【そのほか作物】

・ブルーベリー  1キログラムあたり 36ベクレル
・ナシ      1キログラムあたり 54ベクレル
・カボチャ    1キログラムあたり 111ベクレル
・トマト     1キログラムあたり 101ベクレル
・マルナス    1キログラムあたり 83ベクレル
・カラシナ    1キログラムあたり 24ベクレル
(土壌は1キログラムあたり 4万ベクレル)

・ハチミツ    1キログラムあたり 1707ベクレル
・イノシシ 肉  1キログラムあたり 3120ベクレル
(20%食塩水で24時間漬けると2274ベクレルに減少した)

【樹木】

・モミジの葉 1キログラムあたり 3638ベクレル
・カシワの葉 1キログラムあたり 8780ベクレル

 国が除染の対象にしていない竹林も汚染がひどいことが分かった。

・土壌  1キログラムあたり 8万9000ベクレル
・落ち葉 1キログラムあたり 4万4000ベクレル
・葉   1キログラムあたり 3800ベクレル

@原発事故が切り裂いたコミュニティ

 日が傾いてきた。伊藤さんと共にキャビンの裏の斜面を上がった。

 山や丘の斜面という斜面が掘り返され、土がむき出しになっている。庭石や切り株がごろりと転がされている。村人が絶え、イノシシが増えたため、好物のミミズを探して掘り返して回るのだという。

 しばらくすると、ゲコゲコとカエルの合唱が聞こえてきた。あっと思って見上げると、村ではしばらく見なかった水田が広がっていた。伊藤さんの田んぼだった。水が引かれていた。

 そういえば、ずっと村ではカエルの声が聞こえなかった。村人が避難して、田んぼに水を入れることも絶えたため、カエルたちも姿を消したのだ。

 伊藤さんは戻って水田に水を引いた。カエルたちは居場所を見つけた。去年は珍しいモリアオガエルが来てタマゴを生んだ。

 福島市の避難住宅にいることができる限りは、村に通って計測をしようと思う。今のところ政府は2015年3月まで、と言っている。延長されるかもしれないし、されないかもしれない。

 村の取材で私は知っていた。表向きは全村避難が決まったあとも、村に残って計測を続け、ネットなどで情報発信を続けている伊藤さんをけむたがる村人もいることを。伊藤さんが村役場の方針に直言を続けていることも、万事控えめ、遠慮がちな村人の感覚には合わないらしい。

 「汚染を言いふらしている」

 「あいつは村の生まれじゃないから」

 「突飛な人」

 そんな言葉が飛び交っていた。

 そんなふうに、原発事故がコミュニティを切り裂いているありさまに、心が痛んだ。争いごとの少ない平穏な山村が、放射能汚染という歴史的にもまれな災厄に襲われて、ズタズタにされていた。健康や財産の被害を云々する以前に、原発事故は「平穏な暮らし」そのものを破壊していた。

@健康被害と原発事故の因果関係

 お体に異常はありませんか、と私は聞いてみた。

 「白内障は原発事故の前に手術をしましたしね。まあ、70歳にもなると、あちこち体にガタが出ますよ」
(注:白内障も被曝障害の1つとしてチェルノブイリ原発周辺の住民で発症が報告されている)

 伊藤さんはまたからからと笑い飛ばした。

 曖昧な物の言い方に少し心配になった。やはり、なにかおかしな点がありますか、と私は重ねて聞いた。

 「まあ、何かあっても(原発事故の被曝の影響だと)証明できないでしょう? 急性(放射線)障害を起こすほどの線量じゃないから。『後は自己責任ってことで、よろしく』。そこで止まってしまうんですよ」

 まったくその通りだった。1979年にメルトダウン事故を起こしたスリーマイル島原発事故の現地取材で、私は知っていた。健康被害と原発事故の因果関係の立証は至難の業であり、住民が勝った訴訟はなかったこと。長年の裁判で疲れ果てた住民は、因果関係を認めないまま和解金を受け取る「和解」で裁判を降りていったことを。

 伊藤さんもそのことを知っているのだろう。

 西の稜線に日が沈み始めた。押し黙ったまま、私たちは薄闇のあぜ道をたどった。

 カエルの声だけが山肌に響いていた。

細川護熙元首相インタビュー

★脱原発へ、うねり広げる -自然エネ大国目指す =細川護熙元首相インタビュー=
             ・・・・・・・・・・・・・ 【時事通信社】 (聞き手=時事通信編集委員・芳賀隆夫)

2月の東京都知事選で敗退した細川護熙元首相(76)が動きだした。小泉純一郎元首相(72)と再びタッグを組み、「脱原発」の社団法人を結成し、原発推進の安倍政権に対抗する。運動はどこまで広がるのか。細川氏に、今後の展望と意気込みを聞いた。

-安倍政権が原発回帰の「エネルギー基本計画」を閣議決定したが。

 東京電力福島第1原発事故は全く収束できていないし、放射能の土壌汚染・海洋汚染が広がる危機的状況が続いている。そうした中で、原発を基本的エネルギーに据えるのはいかがなものか。避難を強いられている十数万人の痛みを無視したものだ。福島の事故は、日本人の生き方、文明の在り方を考え直すいい機会になると思っていたが、その機会を失し、旧に復してしまった。

-日本のエネルギー政策の考え方は。

 日本の自動車産業は、排ガス規制にもかかわらず、むしろそれをバネにして技術革新で競争力を強化し、雇用も飛躍的に増やした。その例からも、原発ゼロを目指すことこそが、日本経済の成長の鍵になると思っている。トップ(首相)が今後は自然エネルギーでいくという大方針を打ち出せば、関連する企業が一斉にそれに乗っかる構図ができ上がる。日本は自然エネルギー大国に生まれ変わるべきです。

-都知事選出馬は、政界引退以来16年ぶりの政治の表舞台だった。

 25歳以下の人は私の名前を知らないわけです。街頭演説に集まった人から『小泉さんは過去の人、細川さんは歴史上の人』と言われてね。それで教科書を見たら、確かに私のことが載っていた。時代はかなり先に進んでしまっているなあと。街頭ではむちゃくちゃ人が集まったから、ひょっとしたらとも思ったが、どこまで追い込めるか正直全く分からなかった。

-脱原発で小泉氏と再びタッグ。知事選後は、晴耕雨読の生活に戻ると思ったが。

 知事選であれだけの方々にサポートしてもらい、全国からも多くの声が寄せられたので、引き続き大きなうねりが全国に広がる運動をしないといけないなと。それで、小泉さんと何回か会って準備してきました。

-どんな活動をするのか。

 「自然エネルギー推進会議」を立ち上げて、全国、特に福島、新潟、青森などの原発立地地域でタウンミーティングをやっていく。そういう活動を通じて(脱原発の)核をつくっていかなければと。ただ、第一義的には選挙には直接関わらない。政治的なコミットはできるだけ避けようと思っています。

 原発のない社会の実現に向けて、太陽光・水力・風力発電などを目指す中小企業・団体を大きな企業と結び付けたり、原発に代わる地域振興策を考えたりする。今の大規模発電・電力供給システムをどう変えていくかの政策提言もするし、国内外の学者、自然エネルギー組織とのシンポジウムなど連携、交流も考えている。

-今秋の福島県知事選で候補者の擁立・支援の可能性は。

 それは考えていません。例えば、頑張っている泉田裕彦知事の役に立つよう、新潟県でタウンミーティングなどはやるでしょう。でも、(選挙では)推進会議としては、ぎりぎり推薦状を出せるかどうかでしょう。

-小泉氏とはすっかり「同志」になった感じだ。

 面白い関係です。共通するのは、二人とも直感的に動くところ。そこが奇妙に一致する。私が(1993年に)首相指名を受けた最初の記者会見で「先の大戦は侵略戦争だった」と発言したとき、最初にやってきて「良かった」と言ったのは誰だと思います?小泉さんなんですよ。まさか小泉さんにそう言われるとは思わなかった。

 集団的自衛権の問題では、彼は正攻法で、「解釈改憲なんて、そんな姑息(こそく)なことはいかん。やるなら、堂々と真っ正面から憲法を改正してやるべきだ」と。彼の言っていることは筋が通っているし、ほとんど私と同意見です。

-推進会議の活動で二人の露出が増え、政治家としてのイメージがすり減る懸念はないか。

 二人とも本当に露出するのは嫌いですからね。だから、必要に応じて(政治的に)インパクトの強い、ここぞというときに出て行って、物を言うのがいいと思っているんですが…。

-細川氏の弟子も多い民主党は、原発や集団的自衛権の問題などで音なしの構えだが。

 反対すべきところで反対しないし、音なしよりなお悪い。いつの間にか(原発輸出を可能にする)原子力協定に賛成して、どうかしてるんじゃないか。民主党にはもっとしっかりしてもらいたいね。

 野田さん(佳彦前首相)はしっかりしているけど、原発事故で収束宣言を出したのは間違いだった。原発輸出の件では、彼はブレーキをかけなかったのかな。

-70台後半で政治的になお現役。人生のシナリオとして想定内だったか。

 全く想定外ですね。(この状態から)早く逃げたいと思っています(笑)。

「フーテンの寅」:昭和の風景が消えていく

BS3で3年前から始まった、火野正平の「日本縦断・こころ旅」が好きで、ほとんど観ている。サイクリングの旅が続くのだが、主要道路であれ堤防上部道路であれ、地域の特徴が反映されず標準化された風景が開けて行く。云うならば、バイパス沿いの退屈な風景と似ている。近世以前から残る木橋・石橋や道端に咲き誇る名もなき花々や人々の手によるアノニマスな構築物に心惹かれても、大部分はドコカで見たような既視感のある平成の風景だ。

山田洋次監督は、自身の著作「映画の中の風景」(1995年)で、こう述べている。
・・・・・寅さんシリーズが始まってもう二十七年(1995年現在)になる。寅さんと共に日本中を旅して歩いて、数だけは随分沢山日本の風景を写してきた。そしてこの国の姿がすさまじい勢いで変わってゆくのを、まるで恐ろしいものを見るように眺め続けてきた。そして今、写したい風景が本当にこの国から消えようとしている。・・・・・

第28作 (1981年12月28日公開)の 『男はつらいよ・寅次郎紙風船』は、マドンナ役が音無美紀子で、 久留米水天宮・秋月・夜明・朝倉・田主丸など地元がロケ地に選ばれている。封切当時、「よくこんな、あばら屋、見つけてきたなー」と小沢昭一が音無美紀子と暮らす秋月の家を見て、僕が独り言を漏らすぐらい「昭和(それも戦前の・・・)」なカンジでした。観光地の朝倉・三連水車は画面に映っていました。しかし、寅さんと岸本加代子が絡むシーンの背景が田主丸のシャッター通りとは、ハテ、如何に?凡庸な監督なら隣町の吉井を使うでしょうが、渋い山田洋次監督には、白壁がギラギラしている吉井の街並は粋ではなかったようです。

封切から33年経過した2014年。久留米水天宮や朝倉・三連水車の風景はあまり変わっていませんが、バブルとデフレの嵐が吹き荒れて昭和の風景や家並は、イナカの田主丸も秋月も夜明も言うに及ばず久留米マチナカも、変わってしまいました。バブルで過大になった装飾的街並がデフレで素寒貧の限界集落と化して。.。。

そんな風景の中で、僕はどんな形で老いさらばえてゆくのだろうか・・・。映画の中の寅さんの姿に己の加齢を重ねて観る時、無邪気に映画の時間を楽しめない。リアルで恐ろしい時間になってくる。渥美清は若い時分『結核』を患い、健康に留意し自分の体を労わりながら、俳優の仕事を丁寧に果たされてきた。その彼も68歳で『肺がん』にて召された。

今年還暦を迎えた僕には、その歳まで10年も残されていない。

「フーテンの寅」:兄妹(けいまい)心中

持病が思わしくないので、PM2.5や黄砂が猛威を振るってる時には「ひきこもり」となってしまう。このところ「土曜日は寅さん」と銘打って、BSジャパンで全作品が放送されている。テレビ東京系・BS2に続いて三度目らしいが、今回はハマッテしまい、毎土曜日が楽しみになってきている。毎週観る事で、新作公開の時には気付かなかった思わぬ事が浮かんでくる。

とにかく毎回感心するのは、さくらの寅に「捧げる」、山より高く海より深い『愛情』である。

この設定に似た映画は『やくざ絶唱』(1970・増村保造監督)という日本映画がある。黒岩重吾の原作小説『崖の花』の映画化で、女子高生の妹・あかね(大谷直子)と彼女に異常な愛情を注ぐヤクザの兄・実(勝新太郎)の愛憎劇である。

ヤクザの兄・実は妹のあかねを溺愛するあまり、男が近づいただけでも相手を半殺しにしてしまう超シスターコンプレックスの持ち主。父親だろうが舎弟だろうがおかまいなしで、妹を完全に自分の支配下に置いてしまっている。あかねはそんな兄から解放されたいばかりに、担任教師や義理の兄とやりまくって兄に反発する。

だが、実の一方的な偏愛物語なのかと思っていると、段々そうでもない事がわかってくる。あれほど実と離れたがっておきながら、実が投獄されると「待つわ」などと言いだす。職場の上司にやられそうになると「兄ちゃんに言うから!」と言ったり、田村正和にプロポーズされると「じゃあ兄に会って」と駄々をこねる。

あかねだって結局は実が好きなのだ。しかも性的な意味で・・・。潔癖なあかねはそれが許せない。しかし、遂に気持ちを認めてしまう。抱き合う兄妹だが、その直後、なぜか実はふらっと敵ヤクザのタマ取りに向かってしまう。無表情の棒立ちで敵ヤクザに銃を連発する実。その直後に壮絶に死ぬが、非常に満足そうだった。互いの情愛を貫いたなら、例え死んでも構わないのだ。

『やくざ絶唱』は実の兄妹の劇であるが、『フーテンの寅シリーズ』では寅とさくらは異母兄妹にしている。原作の山田洋次の巧みな作劇で、ファミリーむけの松竹映画となっている。寅とさくらのなにげない情愛の間から「兄妹心中」のどすぐろい世界が垣間見えることもある。

・・・・・・・・・以下は「五十雀俗謡集」より転載

@兄妹心中:けいまいしんじゅう (伝承俗謡)

此処は京都か大阪町か 大阪町なら兄妹心中
兄は三十一その名は順三 妹十九でその名はお清
兄の順三は妹に恋し 恋し恋しで病いとなりぬ

ある日妹が見舞いに上る あれさ兄さんはお病気は如何
お医者呼ぼうかお薬買おうか 医者もいらない薬もいらぬ
私の病いは訳ある程に 一夜そいたいそなたが肌に

何を言やらすこれ兄さんよ 人が聞いたら畜生と思い
親が聞いたら勘当なさる 私しゃ定めし虚無僧がござる
その人殺してくださるならば 一夜二夜でも三夜が四夜も
妻となりますこれ兄さんよ

そこで妹が我が家に帰り お化粧するやら髪結い直し
上に着るのが黒羽二重で 下に着るのが白ちりめんで
恋の丸橋 それを見つけた兄さん順三
日本刀にてぶつりと突いて 月の灯りで死骸を見れば
哀れ死骸は妹のお清 世にも哀れな兄妹心中

@きょうだい心中

1)中上健次『枯木灘』バージョン

国は京都の西陣町で 兄は二十一その名はモンテン
妹十九でその名はオキヨ 兄のモンテン妹に惚れて
 
それがつもりて御病気となりて 三度の食事も二度となり
二度の食事も一度となりて 一度の食事も咽喉越しかねる
 
オキヨオキヨと二声三声 呼べばオキヨはハイハイと
これさ母さん何用でござる 兄の見舞いじゃ見舞いにあがれ
 
言われてオキヨは見舞いにあがる あいの唐紙さらりと開けて
三足歩いて一足もどり 両手つかえて頭を下げて
 
これさ兄さま御病気はいかが 医者を呼ぼうか介抱しよか
そこでモンテン申すには 医者もいらなきゃ介抱もいらぬ
 
わしの病気は一夜でなおる 二つ枕に三つぶとん
一夜寝たなら御病気がなおる 一夜たのむぞ妹のオキヨ
 
言われてオキヨは仰天いたし 何を言いやんすこれ兄さまよ
わしとあなたは兄妹の仲 人に知られりゃ畜生と言わる
 
親に聞かれりゃ殺そと言わる 友だちなんかに恥ずかしござる
あなたに似合いし女房もござる わしに似合いの夫もござる

としは十九で虚無僧なさる 虚無僧殺してくれたなら
一夜二夜でもさん三夜でも 末は女房となりまする
 
言うてオキヨはひとまず下がり 髪を結うたりお化粧したり
親ゆずりの箪笥を開けて 下に着るのは白羽二重よ
 
上に着るのは黒羽二重で 当世はやりの丸つけ帯を
三重にまわしてはびこと結び ぽんと叩いて後にまわし
 
当世はやりの糸かけわらじ 二尺あまりの尺八持ちて
深い編笠面体かくし 瀬田の唐橋笛吹いて通る
 
そこでモンテンの目にとまる あれは妹の夫であろう
これを殺せばオキヨはままと 狙いこめたる六発玉を
 
放てばキャーと啼く女の声で どこのどなたかお許しなされ
言うてモンテンそばにと寄りて 編笠とりてよく見れば
 
思いこんだる妹のオキヨ 妹のオキヨにだまされた
ここで死ぬれば兄妹心中
兄は京都の 西陣町で 哀れなるかよ きょうだい心中 

2)久世光彦『花迷宮』バージョン

浪華町なら大阪町よ 大阪町なら兄妹心中
兄は十郎で妹はお菊 お菊十八兄さははたち
 
兄の十郎が妹に惚れて いとし恋しの病の床に
ある日お菊が見舞いに見えて これさ兄上病いはいかに
 
わしの病はわけある病い 医者もいらねば薬もいらぬ
せめてお前のお腹の上に 乗れば病いはぴたりと治る
 
お菊兄さのためだとあらば 肌身合わすも死もいとやせぬ
お菊痛かろ兄さはよかろ お菊泣くなら兄さも涙
 
兄と妹じゃ夫婦になれぬ 世間悪いか二人の罪か
雪の降り積む浪華の町に 紅が散る散る兄妹心中

3)*山崎ハコ バージョン 

国は京都の 西陣町で 兄は二十一 その名はモンテン
妹十九で その名はオキヨ 兄のモンテン 妹に惚れて
 
これさ兄さま 御病気はいかが 医者を呼ぼうか 介抱しようか
そこでモンテン 申すには 医者も要らなきゃ 介抱もいらぬ
 
わしの病気は 一夜でなおる 二つ枕に 三つぶとん
一夜寝たなら 病気がなおる 一夜頼むぞ 妹のオキヨ
 
言われてオキヨは 仰天いたし 何を言いやんす これ兄さまへ
わしとあなたは 兄妹の仲 人に知られりゃ 畜生と言われる
 
実は私にゃ 男がござる 年は十九で 虚無僧なさる
虚無僧殺して くれたなら 一夜二夜でも さん三夜でも
末は女房と なりまする
 
兄のモンテン 虚無僧殺す 深い編笠 その下に
哀れなるかや 妹のオキヨ かねて覚悟の 妹のオキヨ
兄のモンテン 妹を殺す
 
思いこんだる 妹のオキヨ 妹のオキヨに だまされた
ここで死ねば きょうだい心中
兄は京都の 西陣町で 哀れなるかよ きょうだい心中

*きょうだい心中は、1979年公開の映画「地獄」(神代辰巳監督)で山崎ハコによる、挿入歌として発表された。この映画の主題曲「心だけ愛して」と併せてシングル版『地獄「心だけ愛して」』として発売されている。「ベスト コレクション」のライナーノーツには、「作詞:不詳(「江州音頭」より)、作曲:山崎ハコ」とある。
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