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12月の唄:折鶴&前科者のクリスマス

★折鶴

作詞:安井かずみ
作曲:浜 圭介
歌唱:千葉紘子

1 誰が教えて くれたのか
  忘れたけれど 折鶴を
  無邪気だったあの頃 今は願いごと
  折ってたたんで 裏がえし
  まだおぼえてた 折鶴を
  今あの人の胸に とばす夕暮れどき
  「わたしは待っています」と伝えて
  いつでも きれいな夢を
  いろんなことが あるけれど
  それは誰でも そうだけど
  悔いのない青春を 詩(うた)って歩きたい

2 誰に教ったわけじゃなく
  忘れられない面影を
  これが恋と気づいた そよ風の季節
  会って別れて 会いたくて
  白い指先 折鶴に
  人に言えない想い 託す夕暮れどき
  「わたしは大好きです」と伝えて
  小さな夢が 燃えてる
  泣いて笑って 明日(あした)また
  それはいつでも そうだけど
  青い空の心で あなたを愛したい


★前科者のクリスマス
作詞:寺山修司
作曲:山木幸三郎/編曲:山木幸三郎
歌唱:淺川マキ

古いソフト 伊達にかぶり 笑いながら 出ていった
何も言わず 手だけ振って 帰るうちも ないくせに
今頃どこに いるのかな 同じ刑務所を 出たあいつ 
クリスマスに ひとりぼっち 思い出せば 雪が降る

おれも同じ ひとりぼっち 酒場の隅の ろくでなし
酒癖 女 からかって あとはひとり寝 橋の下
さよならだけの 人生も しみじみ奴が 懐かしい 
賛美歌なんか 歌ってみても 聞いてくれるは 雪ばかり

・・・・・・・・・・・・・

*12月のエントリーはこれが最終です。
左手首を複雑骨折して、明日=2014-12/15より手術のため入院いたします。
トホホ・・・な年末となりそうですが、『本厄』なので仕方ありません。
来年早々、厄をはらってもらい、捲土重来の運気を取り戻そう!

トイッタトコロデ(少し早い気がするけど)みなさん、良いお年をお迎え下さい。
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総選挙に寄せて:なぜナチスを阻止できなかったのか

「大義なき解散・総選挙」が始まって、ほぼ10日が経過した。「選挙は終わってみないとどうなるか最後まで分からない」けれども、大手マスコミによれば、目を疑いたくなるような結果となりそうだ。「暗黒社会」へ向かって「迷走」する日本、といったところだろうか。安倍晋三政権の暴走を止めなければ、やがてこの国は取り返しのつかない事態に陥るだろう。

内田樹氏のコラムを四篇連続でアップし、今回の総選挙に於ける問題点のオサライをしてみました。最後に残されたカードを「安倍政権にNOと言う候補」に投じてみよう!

かつて1930年代に、ドイツはワイマール憲法下にナチスによってワイマール体制が急速に骨抜きにされてゆく苦い経験をした。この屈辱に対して嘆き悔やんだマルチン・ニーメラー牧師の言葉を下記に記しておきたい。

・・・・・・・・・なぜナチスを阻止できなかったのか~*マルチン・ニーメラー牧師の告白~

ナチスが共産主義者を攻撃したとき、自分はすこし不安であったが、とにかく自分は共産主義者でなかった。だからなにも行動にでなかった。次にナチスは社会主義者を攻撃した。自分はさらに不安を感じたが、社会主義者でなかったから何も行動にでなかった。

それからナチスは学校、新聞、ユダヤ人等をどんどん攻撃し、自分はそのたびにいつも不安を感じましたが、それでもなお行動にでることはなかった。それからナチスは教会を攻撃した。自分は牧師であった。だからたって行動にでたが、そのときはすでにおそかった。

・・・・・・・・・( 丸山真男 『現代政治の思想と行動』 未来社 )

*マルチン・ニーメラー:ドイツのルター派神学者。第1次世界大戦に従軍し,潜水艦長として活躍。ウェストファリアのミュンスター大学で神学を修め,1924~30年同大学学内伝道にたずさわり,31~39年ベルリン・ダーレムのルター派教会牧師となる。ヒトラーの教会支配に対する抵抗運動の指導者として活躍し,牧師緊急同盟の結成を呼びかけ,告白教会の形成,バルメン宣言の成立にあずかって力があったが,逮捕されて,ダハウの強制収容所に送られる (1937) 。第2次世界大戦後解放されて,平和運動,ドイツ統一運動に尽力。ドイツ福音主義教会評議員,同外務局長。世界教会協議会会員。主著『Uボートから講壇へ』 ,『イエス・キリストは主なり』 。

内田樹:週刊PBインタビュー『街場の戦争論』

★週刊プレイボーイインタビュー***「内田樹の研究室 2014-12/10」より転載

“本”人襲撃でも以前取り上げた白井聡氏の『永続敗戦論』や赤坂真理氏の『愛と暴力の戦後とその後』、そして矢部宏治氏の『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』など、ここ最近、日本の戦後史を再検証する本が数多く出版され、大きな注目を集めている。
今回紹介する内田樹氏の最新刊『街場の戦争論』もまた、「日本の戦後史」や日本人の「戦争観」に、独自の角度から切り込んだ、話題の一冊だ。
現代フランス哲学の研究者でありながら武道家としての顔も持つ内田氏は、昨年末から今秋にかけて10冊以上という驚異的なペースで著書を刊行するが、なぜ今、「戦争論」をテーマに選んだのか? 神戸にある自宅兼道場「凱風館」で話を聞いた。

@黙して語らぬ戦中派と断絶された歴史の罠

――『街場の……』シリーズや、憲法論など、このところ立て続けに新刊を出されている内田さんですが、今回はなぜ「戦争論」なのでしょう?

内田 僕たちが今いるのは、ふたつの戦争、「日本が負けた先の戦争」と「これから起こる次の戦争」に挟まれた「戦争間期」なのではないかという気がなんとなくしています。実際に、近年に僕よりずっと若い書き手たち、例えば白井聡、赤坂真理、中島岳志、片山杜秀といった方たちが申し合わせたように「先の戦争の負け方」について独自の論考を展開している。現代日本の本質的な弱さを「戦争の負け方」の総括が間違っていたからではないかというのが彼らの問いかけだと思いますが、僕自身もそれを共有しています。
1950年生まれの僕は戦争を経験していませんが、戦争を経験してきたばかりの父親たち世代のたたずまいを記憶しています。「証人」として、戦争についての語る世代的な責務も感じています。

――世代的な責務とは?

内田 父親たちの世代、「戦中派」には「戦争経験について語らない」という一種「暗黙の了解」のようなものがあったように思います。戦地で実際に行なわれたことや見たことについては子どもたちには語らない。もとは「善意」から出たことだと思います。「戦争がどれほど醜悪で過酷なものか、自分たちがどれほど残酷で非情だったか、そういうことは子供たちには伝えまい。無言で墓場まで持って行こう。子供たちは無垢な戦後民主主義の申し子として未来の日本を担って欲しい」そういう思いだったのではないかと思います。だから「黙して語らず」を貫いたのだと思います。
しかし、そのせいで「戦争の記憶」は次世代に語り継がず、僕たち世代は戦争を「済んだこと、早く忘れるべきこと」として、戦争について深く踏み込んで総括する機会を逸してしまった。そのことの負の側面が、現代日本の足腰を致命的に劣化させている、そう感じます。
なぜ「戦中派」は戦争を語らなかったのか? あるいは語れなかったのか? そしてそれが戦後70年にどんな影響を与えたのか?世の中から「戦中派」がどんどんといなくなっている今、少なくとも「沈黙を貫いた父親世代」の屈託した表情だけは記憶している僕たちの世代が証人として、その〝沈黙の意味〟を再構成しなければならない、そう思ったのです。

――「戦争」が語り継がれなかったことによる歴史の断絶によって表面化した「負の側面」とは、具体的にどういうことですか?

内田 最も顕著なのは「歴史修正主義」の登場でしょう。これは日本に限らず、ドイツやフランスでも同じなのですが、戦争経験者世代が社会の第一線から退場しはじめると、どこでも「歴史修正主義者」が現れます。
彼らは歴史の「生き証人」がいなくなった頃を見計らって登場します。「戦中派の沈黙」ゆえに戦争の記憶が伝えられなかった戦後日本では、とりわけ歴史修正主義は暴威をふるいました。現場を見た生身の人間がいなくなった頃になって、断片的な文書だけに基づいて、戦争について言いたい放題の「事実」を語り出した。
従軍慰安婦の問題にしても、実際に戦地で慰安所に通っていた兵隊たちが生きていた間は「強制性はなかった」「軍は関与していない」などということをうるさく言い立てる人間はいなかった。慰安婦がどういう制度であるかを誰でも知っていたからです。証人たちがいなくなった頃になってはじめて「慰安婦問題は捏造だ」と言い出した。ヨーロッパにも「極右」の政治家はいますけれど、安倍晋三のような極右が総理大臣になれたのは世界で日本だけでしょう。

――なぜそうなってしまったでしょう?

もともとの自民党はイデオロギー政党ではありません。党内に極右からリベラルまで含んだ「国民政党」でした。国民の生活実感を汲み上げることで長期政権を保ってきた。
そして外交戦略は「対米従属を通じての対米自立」一本槍だった。従属することで主権を回復するというトリッキーな戦略ですが、それが戦後日本の戦略として最も合理的で現実的だったわけです。現に、その戦略のおかげで日本は敗戦から6年後にはサンフランシスコ講和条約で主権を回復し、1972年には沖縄返還で国土を回復した。対米従属は「引き合う」というのは自民政権の歴史的成功体験だったわけです。しかし、この成功体験への固執がそれから後の日本外交の劣化をもたらした。
沖縄返還後の42年間、日本はひたすら対米従属を続けましたが、何一つ回復できていない。世界中から「アメリカの属国」だと思われているけれど、その見返りに「対米自立」としてポイントを獲得できた外交的成果は一つもない。ゼロです。米軍基地は縮小も返還もされない。年次改革要望書を通じてアメリカは日本の政策全般についても細かい指示を続けている。
対米従属は本来は主権回復のための手段だったはずですが、それが三世代にわたって受け継がれているうちに「自己目的化」してしまった。対米従属を手際よく効率的にこなすことのできる人たちが政治家としても官僚としても学者としても「出世できる」システムが出来上がってしまった。
自民党が国民政党からイデオロギー政党に変質したことは、この「対米従属の自己目的化」の帰結だと僕は見ています。安倍首相はじめ対米従属路線の主導者たちがその見返りに求めているのは日本の国益の増大ではなく、彼らの私的な野心の達成や、個人資産の増大です。
今回の解散・総選挙はどのような国益にもかかわりがありません。政権の延命が最優先している。かつての自民党政権は列島住民の雇用を確保し、飯を食わせることを主務とする「国民政党」たらんとしていましたけれど、現在の自民党は限定された支配層の既得権益を維持するための政治装置に変質してしまいました。

――実際、日中関係や日韓関係はこじれたままですし、集団的自衛権の行使容認や秘密保護法の制定などで、日本が「戦争の出来る国」になろうとしているという声があります。近い将来、この国が「戦争」に巻き込まれる可能性はあるのでしょうか?

内田 現実的にはあり得ないと思います。安倍さんや石破さんは日本を「戦争の出来る国」にしようとしていますけれど、本気で戦争になるとは思っていません。一体どこと戦争するんです?
韓国には米韓相互防衛条約があります。今も韓国軍の戦時作戦統制権を持っているのは在韓米軍司令官です。日本と韓国が戦争するということはアメリカと戦争するということです。そんな覚悟がある人がいますか?
日中が戦争することをアメリカは全く望んでいません。
日本と中国が例えば尖閣問題で軍事衝突を起した場合、日本人は安保条約に基づく米軍の出動を期待しますが、アメリカは中国と戦争する気なんかない。だから、調停は試みるでしょうけれど、同盟軍として中国と戦うことはない。だから、何としても軍事的衝突そのものを事前に抑え込もうとする。
日本で対中国で好戦的な発言をしている人たちは、うしろから羽交い締めにされている酔っ払いが怒号しているようなものです。止めてもらえると思って安心しているので、威勢の良いことを言っていられるのです。
そもそも、安倍さんも石破さんも、今の日本の政治家に実際の戦争を指揮できるだけの基礎的な能力がありません。
戦争というのは国の根幹に関わる死活問題ですから50年後、100年後のこの国をどうするのかという長期的なヴィジョンがなくてはすまされない。ところが「領土」や「国威」にこだわるナショナリストたちの発想は、市場でのシェアを競争しているビジネスマンと同一の発想しかしていない。自分たちの「シェア」が増えたか減ったか、そういう二次元的な、空間的な数値の変化しか見ていない。経済戦争とほんとうの戦争を同じものだと思っている。株式会社の経営者の発想です。ビジネスマンに戦争ができるはずがない。

――つまり、本気で戦争をする気も、またその能力もない人たちが、この国を「戦争ができる国」にしようとしていると? 

彼らは戦争の生き証人である「戦中派」の退場を狙って、あるいは「語られなかった歴史」の断絶を利用して、知りもしない戦争を語り、自己都合で書き換えた歴史を信じさせようとしている。そして、その目的が国益の増大ではなく、私的利益の増大であることが問題なのです。
安倍さんたちが目指しているのは、北朝鮮とシンガポールを合わせたような国だと思います。
政治的には北朝鮮がモデルです。市民に政治的自由がなく、強権的な支配体制で、自前の核戦力があって国際社会に対して強面ができる国になりたいと思っている。
経済的な理想はシンガポールでしょう。国家目標が経済成長で、あらゆる社会制度が金儲けしやすいように設計されている国にしたい。
万が一、日中が戦争状態になったときに米軍が出動しなければ、日本はこれまでの対米従属の反動で、間違いなく極端な「反米」路線に走るでしょう。安保条約即時廃棄、米軍基地即時撤去となれば、日本はアメリカ、中国、韓国、ロシア、すべてを仮想敵国とみなすハリネズミのように好戦的な「先軍主義」の国になるしかない。先の世界大戦前と同じです。そういう北朝鮮のような国になることを無意識的に願っている日本人は少なくないと僕は思っています。

@現実には「強い現実」と「弱い現実」がある

――一方、内田さんは今回の著書で、「もし、日本の敗戦が決定的となったミッドウェー海戦の直後にアメリカと講和を結んでいたら……」という仮定の下に、今とはまるで異なる「日本の戦後」があり得たと書かれています。そして「現実」には、この「もし」で大きく変わり得た「弱い現実」と、「何があっても、結局はこうなっただろう」という「強い現実」があるという視点を示されています。

内田 ミッドウェー海戦に敗れて太平洋戦争の帰趨がほぼ決した直後に、すでに吉田茂や木戸幸一は対米講和を考えていました。でも、ずるずるしているうちに機会を失した。
 もし44年までに対米講和が成っていれば、本土への空襲も、玉砕も、特攻もなく、広島や長崎への原爆の投下もなかったはずです。そう考えると今、我々が直面している現実も、過去の小さな「もし」によって、大きく違っていたかもしれない「弱い現実」だということがわかります。

――それが「弱い現実」である以上、我々の行動次第で変えることもできるということですか?

内田 歴史のなかに「もし」という視点を置くことで、少なくとも、「結局、日本はこうなるしかなかったんだ……」という宿命論からは逃がれられます。何かの要素がほんの少し違っていただけで「もっとましな今になっていたチャンスはあった」と考えることで、少しは希望が持てる。
もちろん、先の戦争が証明しているように、いくつかの「偶然」がもたらした「弱い現実」によって、国が壊滅的な危機に直面するということもあります。たとえそれが「弱い現実」であっても、ものを破壊することはできるからです。
安倍政権もそうです。歴史的必然性があって誕生したわけではない政権ですが、それでも日本社会の根幹部分を破壊するだけの力はある。でも、この痛ましい現実も、所詮は偶然が重なって生じた「弱い現実」に過ぎませんから、わずかの入力変化で大きく変化するでしょう。
目の前に迫った衆議院選もひとつの「分岐点」です。これが日本の歴史を大きく変える「節目」になる可能性はあると僕は思っています。

内田樹:共同通信のインタビュー

★共同通信のインタビュー***「内田樹の研究室 2014-12/5」より転載

共同通信のインタビューがあり、配信が始まった。地方紙が主なので、お読みになれない方もいると思うので、こちらに再録。選挙を前にして政治状況を俯瞰する「いつもの話」であるが、今回は「脱市場」という点にすこし軸足を置いて話している。
どぞ。


―景気の足踏みを理由に消費税引き上げが先送りされた。

個人消費が冷え込んでいるが、その背後には「生活に必要なすべての財を、市場で商品として購入する」という私たちが知っている以外の経済活動、「非市場的交易」が広まりつつあるという事実がある。
メディアはほとんど報じないが、原発事故以降「帰農」が大きなムーブメントになっている。それと並行して生産者と消費者が市場を介さないで、「顔と顔」のネットワークの中で財やサービスを交易するという動きが広まっている。
貨幣を介さない経済活動が広まることを政府は嫌う。それは政府のコントロールを離れた経済活動であり、経済指標にも捕捉されないし、課税することもできないからだ。政府がここに来て慌てて「地方創生」を言い始めたのは、地方の経済的てこ入れという目的以外に、政府・自治体・企業主導で地方の経済活動を抑え、個人や中間共同体主導の「顔と顔の」交易活動の広がりを許さないという狙いもあると私は見ている。
けれども、生きるために必要なすべての財は賃労働で得た貨幣をもって市場で購入しなければならないという仕組みの不合理性に都市部の若い労働者は気づき始めた。都市部で労働力を売ることではもう食えない、家族も持てないというところまで雇用条件が劣化したのである。帰農する人たちは、より人間的な生活を求めて都市部から地方へ「押し出され」ているのである。

―アベノミクス効果は届かないか。

安倍政権はグローバル企業の収益増大のことしか考えていない。そのためには「国家は株式会社のように運営されるべきだ」と信じている。特定秘密保護法の制定も解釈改憲もその文脈で理解されると思う。経済活動にとって、民主制は意思決定を遅らせる足かせでしかない。だから、株式会社のCEOがトップダウンで決定を下すような、トップが専決する仕組みをめざしている。表現の自由を制約する特定秘密保護法も、行政府による解釈改憲で「戦争ができる」道を開いたことも、「行政府への権限集中」という大きな流れの中で起きている。
国家の株式会社化に国民が反対しないのは、人口の過半が株式会社の従業員となり、彼ら自身、組織モデルとして株式会社しか知らないからである。株式会社には民主主義も合意形成もない。トップがすべてを決めて、経営判断の適否は従業員ではなく市場が決める。株式会社従業員マインドが日本国民の「常識」となった時点で、国民は国家もまた株式会社のように管理運営されるのが「当然」だと思うようになった。彼らが安倍政権を支持している。
農村人口が50%を超えていた時代なら「国家の株式会社化」などという構想に共感する人はほとんどいなかっただろう。なぜなら村落共同体では集団の目的は「成長する」ことではなく「存続する」ことだったからである。政策判断の適否は「この共同体が100年後も存続していること」という事実によって事後的に判断された。単年度の成長率やGDPの前年比などでは、自分たちの下した決断の正否は判定できなかったのである。
政策の適否を決定する「マーケット」は株式会社にはあるが、国家にはない。国家は50年100年なり後になって「健全に機能している」ときに、「今から50年前、100年前に選択された政策は適切だった」と事後的に確認しうるのみである。国家には入力した瞬間に、タイムラグなしにその適否判断を下すような便利な「マーケット」は存在しない。

―集団的自衛権の行使は防衛、つまり国家の存続のためではないのか。

そうではない。日本はアメリカの許可なしに独自の軍事行動を行うことができない以上、関連立法の狙いはむしろ「非常事態を宣言し、行政府が立法府の権限を停止して、超憲法的にふるまうことができる」仕組みを整備することにある。
安倍首相の憲法改正への動きに、米国は2013年春の段階ではっきりと「NO」という意思表示をした。やむなく安倍政権は正面突破による改憲をあきらめ、代案として「アメリカの軍機漏洩を防ぐため」と称して特定秘密保護法を採択し、「アメリカの海外派兵を支援する」ために集団的自衛権の行使を容認した。明文改憲という「名」を捨てて憲法9条、憲法13条、憲法21条を実質空洞化するという「実」を取ったのである。
だが、この二つの対米「譲歩」によって日本が得る国益はなにもない。ただ民主制の土台が崩され、70年の平和主義の蓄積が失われだけである。それと引き替えに、政治家たちは権力と財貨を、官僚たちは行政府への権限集中を、財界人たちは企業の収益増大を手に入れた。彼らはそれぞれ日本の国益をアメリカに安値で売り払った代償に、個人の利益を手に入れようとしたのである。それはかつて植民地において宗主国におもねって、自国の国益を犠牲に供して、自己利益をはかった「買弁」のふるまいに酷似してきている。

「対米従属を通じて対米自立を目指す」という戦後日本の外交戦略は、戦後しばらくは合理的な選択であった。だが、72年の沖縄返還以降、「主権の回復」、「国土の回復」という点では何一つ見るべき成果を上げていない。42年間二世代にわたって「対米従属はしたが、何一つ国益は増大していない」という状態が続いているうちに、対米従属というポーズそのものが自己目的化してしまった。
現代日本社会では「対米従属的である人間の方がそうでない人間よりも政官財メディアどの世界でも出世できる仕組み」が完成してしまった。だから、おのれ一身の立身出世をめざす人間は、ほとんど自動的に対米従属のしかたを身につけ、「買弁」的メンタリティを内面化してゆく。

米国の映画監督オリバー・ストーンが昨年、広島で行った講演で「日本はアメリカの衛星国であり、従属国である。日本の政治家はいかなる立場も代表していない」と語った。これがおそらくは米国のリベラル派知識人の常識である。だが、日本のメディアはその発言を報道しなかったし、反論もしなかった。従属国的マインドは完成してしまったのだと思う。

―戦後の日本のいびつさを、日本人も気づき始めているのではないか。

今の日本で、わが国が米国の従属国だということをリアルに認識しているのは沖縄だけだと思う。その沖縄知事選で、基地反対を掲げて勝った事実は大きい。今回の選挙の真の争点は「対米従属を通じての対米自立」という国家戦略をこれからもまだ続けてゆくのか、それともそれとは別の道を探るのか、という外交戦略の選択であり、「国家の株式会社化」という独裁制の進行をこのまま手をつかねて許すのかという政体の選択である。「アベノミクス選挙」などというのは問題の本質を隠蔽するための偽りの争点設定でしかない。

内田樹:資本主義末期の国民国家のかたち

★資本主義末期の国民国家のかたち***「内田樹の研究室 2014-11/26」より転載

ご紹介いただきました内田でございます。肩書、ごらんのとおり、凱風館館長という誰も知らないような任意団体の名前の長を名乗っておりますので、こんなきちんとした学術的な集まりに呼ばれると、いたたまれない気持ちになります。
私は、基本的に全ての問題に関して素人でございまして、ですから、おまえのしゃべることには厳密性がないとか、エビデンスがないとか言われても、それはそうだよとしか言いようがありません。ただ、素人には素人の強みがありまして、何を言っても学内的な、学会内部的なバッシングを受けることはない、いくら言ったって素人なんだからいいじゃないかで全部済ませられる。
大学の教師というのは誤答を恐れる傾向がありまして、大風呂敷を広げることについては強い抑制が働く。私はその点で抑制のない人間でございまして、ほんとうは私のような野放図な人間がもう少しいたほうが、世の中、風通しがよくなってよいと思うんです。
それに意外なことに、この素人の直感が侮れない。
思い出しても愉快なことがあるんですけれども、今からもう十年近く前でしょうか、私が『街場の中国論』という本を出した後に公安調査庁の人が尋ねてまいりました。「公安調査庁です」と言って名刺を出して、「あなたのファンなんです」と言うんです。公安調査庁がファンのわけがない。(笑)
いろいろと話をしていたら、「あなたの中国論なんですけれども、この中国の共産党内部の情報をあなたはどうやって手に入れられたのか」と訊いてきた。「毎日新聞からです」とお答えしたら、随分驚いていらした。「だって、新聞で書いている情報だけだって、断片をつなぎ合わせていくと大体何が起きているくらいは想像がつきますでしょ」と申し上げたら、なかなか片づかない顔でお帰りになりました。

先般も、ちょっと自慢話になりますが、中国共産党に中央紀律委員会というものがありまして、そこが党幹部に推薦図書を指示しました。党幹部が読むべき本を五十六冊挙げて、これを読んでおくようにと、夏休みの課題図書みたいに挙げたリストの中に私の『日本辺境論』も入っておりました。日本人が書いたものは僕の本だけだったそうです。中国人の友達から聞きました。「内田さん、あなたの本、出てたよ。紀律委員長は習近平だから、習近平も認めた本だよ!」と言われました。けっこう愉快な話だと思うんですけれど、日本のメディアはあまり報道してくれなかったですね。

ことほどさように素人の直感は侮れないということで、本日は資本主義末期の国民国家の行方について一席お話しさせて頂きます。
こんなことをしゃべる資格が君にあるのかというような大ぶりの演題ですけれども、錚々たるそうそうたる政治学者の先生がたの前でしゃべらせて頂きます。先生方はやはり学問的厳密性ということを重んじられる立場にありますから、軽々なことは言えないと思うんですけれども、私は素人ですから、そういう気づかいが要らない。今日は限られた時間ではありますけれども、勝手なことを言って帰っていきたいと思います。私に期待されているのも、そういうことだと思うんです。とりあえず風呂敷だけ広げておいてください、穴はいくらあいても構いませんというのが講演依頼の趣旨だと思います。

それに、今日、実は時差ぼけなんですよね。昨日の夜、ローマから帰ってきたところで、これから時差ぼけ絶好調になってくるところなので、舌がうまく回らないんです。私、ふだん、滑舌もっといいんですけれども、今日はいつもの七割ぐらいのテンションなので、中身も七割ぐらいのクオリティーになる可能性がありますので、その点もご容赦ください。

まず、今日のテーマですが、安倍政権、なぜこのような政権が存在していて、誰が支持しているのか。戦後日本の民主主義社会からなぜこのような政体が生み出され、それに対して政官財メディアがそれなりの支持を与えているのかという、非常にわかりにくい現状を解読してみたいと思います。

現政権のありようを制度の劣化、制度の崩壊というように、先ほど山口先生がおっしゃいましたけれども、崩壊したり劣化する側にも主観的には合理性があるわけです。正しいことをしている、いいことをしている、日本の国民のためにやっているんだと、本人たちはそういうつもりでいるわけです。初めから日本を劣化させてやろうというよう悪心をもってやっているわけじゃない。我々の側から見ると、日本の制度をぶちこわしにしているようにしか見えないんですけれども、先方には主観的な合理性がある。主観的には首尾一貫性がある。たぶん正しいことをしているつもりでいる。僕としては、自分の判断をいったんかっこに入れて、彼らの側の主観的な首尾一貫性が何かということを見てゆきたいと考えています。

特に海外から見た場合に非常にわかりにくいと思いますが、日本の国家戦略が戦後一貫して「対米従属を通じての対米自立」というものです。これが戦後日本の基本的な国家戦略です。
でも、この「対米従属を通じての対米自立」ということは日本人にはわかるけれど、他国からはその理路が見えにくい。

僕は、個人的に勝手にこれを「のれん分け戦略」と呼んでいます。
日本人の場合、のれん分けというのは、わりとわかりやすいキャリアパスです。丁稚で奉公に上がって、手代になって、番頭になって、大番頭になって、ある日、大旦那さんから呼ばれて、「おまえも長いことよく忠義を尽くしてくれたね。これからは一本立ちしてよろしい。うちののれんを分けてやるから、これからは自分の差配でやりなさい」と、肩をぽんとたたかれて、独立を認められて、自分の店の主になる。そういうようなキャリアパスというか、プロモーション・システムというのは日本社会には伝統的に存在していました。
 だから、日本人にとっては、「徹底的に忠義を尽くし、徹底的に従属することによって、ある日、天賦のごとく自立の道が開ける」という構図には少しも違和感がないと思うんです。戦後日本人が「対米従属を通じての対米自立」という国家戦略に比較的簡単に飛びつけたのは、そして、そのことの「異常さ」にいまだに気がつかないでいることの一つの理由はこの「のれん分け戦略」というものが日本人の社会意識の中にかなり深く根を下ろしていたからではないかと思います。一種の伝統文化です。

対米従属を通じての対米自立というのは、敗戦直後の占領期日本においては、それなりに合理的な選択だったと思います。というよりそれ以外に選択肢がなかった。軍事的に決定的な敗北を喫して、GHQの指令に従うしかなかったわけですから。
この状態から、屈辱的な非占領状態から脱却するためには、とりあえずこの国にはもうアメリカに対して抵抗するような勢力は存在しない、レジスタンスもないし、パルチザンもないし、ソ連や中国の国際共産主義の運動と連動する勢力もないということを強く訴える必要があった。我々は、このあと軍事的な直接的占領体制から脱したとしても、決してアメリカに反発したり、アメリカに対抗する敵対勢力と同盟したりすることはありませんという誓約をなし、確証を与えないと、主権が回復できなかった。そういう切羽詰まった事情があったわけです。

その時期において、実際には面従腹背であったわけですけれども、対米従属という戦略を選んだことは、客観的にも主観的も合理的な選択だったと思います。それ以外の選択肢は事実上日本にはなかった。
ですから、吉田茂、岸信介、佐藤栄作あたりまで、一九七〇年代なかばまでの戦後政治家たちは、対米従属を通じてアメリカの信頼を獲得して、それによってアメリカに直接統治されている属国状態から、次第にフリーハンドを回復して、最終的に米軍基地がすべて撤去された後、憲法を改定して主権国家としての体面を回復する、そういうロードマップを描いていたのだと思います。アメリカから「のれん分け」してもらった後、外交についても、国防についても日本独自の戦略を展開してゆく。半世紀くらいかけてじわじわと独立を回復していく、そういう気長なスケジュールを組んでいたんだろうと思います。

そのスケジュールの選択というのは、当時の日本においては必至のものであったし、十分な合理性もあったと思います。そして、この戦略の合理性を確信させたのは、何よりも成功体験があったからです。対米従属したら、うまくいった。その成功体験があった。

一つは、一九五一年、サンフランシスコ講和条約です。戦後六年目にして、日本は形の上では独立を回復するわけですけれども、当時の国際社会の常識に照らしても、これほど敗戦国に対して寛容で融和的な講和条約というのは歴史上なかなか見い出しがたいと言われたほどに、寛大な講和条約が結ばれた。
これは、やはりそれまでの6年間の日本の対米従属の果実とみなすべきでしょう。ですから、日本の為政者たちは「対米従属戦略は正しかった」と確信することになった。対米従属によって主権の回復という大きな国益を獲得した。そういう成功体験として、サンフランシスコ講和条約は記憶されたのだろうと思います。
当分これでいこう、これだけ大きな譲歩をアメリカから得られたということは、これからさらに対米従属を続けていけばいくほど、日本の主権の回復は進んでゆくという楽観的な見通しをそのとき日本人たちは深く刻み込んだ。

あまりこういうことを言う人はいませんが、対米従属路線の二度目の成功体験は七二年の沖縄返還です。佐藤栄作首相はアメリカのベトナム戦争に対して全面的な後方支援体制をとりました。国際社会からはアメリカの帝国主義的な世界戦略に無批判に従属する日本の態度はきびしいまなざしに曝されました。僕自身も学生でしたから、なぜ佐藤栄作はこのような明らかに義のない戦争についてまで対米従属するのか、怒りを禁じ得なかったわけです。でも、イノセントな学生の目から見ると犯罪的な対米従属である佐藤栄作のふるまいも、長期的な国益という点で見ると、それなりの合理性があったわけです。義のない戦争に加担した代償として、日本は沖縄返還という外交的果実を獲得できたんですから。 

この二つの成功体験が日本人の「対米従属路線」への確信を決定づけたのだと僕は思います。少なくとも一九七二年、戦後二十七年までは「対米従属を通じての対米自立」という戦略は絵に描いた餅ではなくて、一定の現実性を持っていた。けれども、その現実性がしだいに希薄になってゆく。

人間は一度有効だった戦略に固着する傾向があります。
「待ちぼうけ」という童謡がありますね。元ネタは韓非子の「守株待兎」という逸話です。畑の隅の切り株にたまたま兎がぶつかって首の骨を折って死んだ。兎を持ち帰った農夫はそれに味をしめ、次の日からは耕作を止めて終日兎の来るのを待ち続けた。ついに兎は二度と切り株にぶつからず、畑は荒れ果てて、農夫は国中の笑いものになった。
「小成は大成を妨げる」と言いますけれども、日本はこの農夫に似ている。戦後の二つの成功体験によって、この成功体験、この戦略に居着いてしまった。国力をじっくり蓄え、文化を豊かにし、国際社会における信認を高めて、独立国、主権国家として国際社会に承認されるという迂遠な道を避け、ただ対米従属していさえすればよいという「待兎」戦略に切り替えた。

それまでの戦後政治家たちは、かなり複雑なマヌーバーを駆使して日米関係をコントロールしていたと思うんです。政治家ばかりでなく、官僚も学者や知識人も、日米関係というのは非常に複雑なゲームだということがわかっていた。それを巧みにコントロールして、できるだけ従属度を減らして、できるだけ主権的にふるまうというパワーゲームのためにそれなりの知恵を絞っていた。なにしろ、アメリカは日本にとって直近の戦争の敵国ですから、さまざまな点で国益が対立している。それを調整して、アメリカの国益増大を支援しつつ、日本の国益を増大させるというトリッキーなゲームですから、かなりの知的緊張が要求された。

ところが、僕の印象では、八〇年代から後、そういう緊張感が政治家たちに見えなくなくなってしまった。日米両国が、それぞれの国益をかけて、非常に厳しい水面下のバトルを展開しているという感じがなくなってしまった。ただ単純に対米従属してさえいればいいことがあるという思い込みに日本のエスタブリッシュメント全体が領されるようになった。対米従属をすると、「いいこと」があるという、シンプルな入力出力相関システム、いわゆる「ペニー=ガム・メカニズム」のようなものとして日米関係を構想する人たちがしだいに増えてきて、気がつけば多数派を形成するようになった。日米関係が一種の「ブラックボックス」になってしまって、「対米従属」という「ペニー銅貨」を放り込むと、「なにかいいこと」という「ガム」が出てくるという単純なメカニズム幻想が定着してしまった。そんなふうに日米関係が現実から遊離して、幻想の領域に浮き上がってしまったのが、だいたい80年代なかばから後ではないかと思います。

どうしてこんなことになったのかというと、結局は「時間の問題」だったと思います。
「対米従属を通じての対米自立」という発想そのものの合理性は、確かに論ずるまでもない。でも、時間がたってくると、その装置を管理運営する人間が入れ替わる。敗戦直後のとき、日本の外交戦略のフロントラインにいた人たちは、日米の国益の間には齟齬がある。両国の国益が一致するということは原理的にはありえないということを骨身にしみて知っていた。当たり前です、殺し合いをしてきたばかりなんですから。国益が相反するということがわかった上で、「面従腹背」のマヌーバーを展開していた。表面的にはアメリカに追随するが、本心では早くアメリカを厄介払いしたいと思っていた。
でも、面従腹背のポーズもそれが二世代三世代にわたって続くうちに変質してしまう。「面従」だけが残って、「腹背」が消えてしまう。対米従属がそのまま日本の国益増大であると頭から信じ込む人たちが増えてきた。増えてきたどころではなく、政界、財界、メディア、学会、どこでも、対米従属・日米同盟機軸以外の選択肢を考えたことがある人がいなくなってしまった。
以前、あるアメリカ政治の専門家に「日米同盟以外の安全保障の選択肢」について質問したことがありましたが、質問に驚いて絶句してしまいました。対米従属以外の政治的選択肢があるかどうかを吟味したことがなかったようでした。でも、例えば、イギリスの政治学者に「対米同盟以外の安全保障の選択肢」を訊いても、ドイツの政治学者に「EU以外の安全保障の選択肢」を訊いても、「考えたことがない」と答えることはありえないと思います。ふつうは「いまある仕組み以外の可能性」を、蓋然性がどれほど低くても、一応は考えておく。日本人だけが外交戦略において「日米同盟基軸」、つまり対米従属以外のいかなる選択肢についてもその可能性や合理性について考えない。これはあきらかに病的な症候です。

対米従属が国家戦略ではなく、ある種の病的固着となっていることがわかったのは、鳩山さんの普天間基地移転についての発言をめぐる騒ぎのときです。僕は、あのとき、報道を注視していて、ほんとうにびっくりした。あのときが、日本の大きな転換点ではなかったか思います。

鳩山首相は、普天間基地をできたら国外、せめて県外に移転したいと言ったわけです。国内における米軍基地の負担を軽減したい。できたら国外に移って欲しい、そう言った。外国の軍隊が恒常的に国内に駐留しているというのは、どの主権国家にとっても恥ずかしいことです。ふつうはそう感じます。外国の基地が常時駐留するのは誰が見ても軍事的従属国のポジションだからです。
フィリピンはアメリカの軍事的属国的なポジションの国でしたけれど、憲法を改正して外国軍の駐留を認めないことにしました。そのせいで米軍はクラーク、スーヴィックというアメリカ最大の海外基地からの撤収を余儀なくされました。韓国でも、激しい反基地運動を展開した結果、在韓米軍基地は大幅に縮小されました。ソウル市内にあった龍山基地も移転させられた。
でも、日本のメディアは、韓国やフィリピンにおける反基地運動をほとんど報道しませんでした。僕はまったく知らなかった。以前、海外特派員協会というところに呼ばれて講演したときに、司会をしていたイギリス人ジャーナリストから「韓国の反基地運動についてはどう思いますか」と質問されて、「その話を知りません」と答えたら、驚かれたことがあります。「安全保障や外交のことを話している人間が、隣国の基地問題を知らないのか?」と。でも、日本のメディアで、そんな話を聴いたことがなかった。
韓国では、長期にわたる反基地運動の結果、在韓米軍基地は縮小されています。日本では、相変わらず「半島有事に備えて」という理由で沖縄の軍事的重要性は変わらないというようなことを新聞の社説は書いている。でも、「半島有事の備え」がそれほど喫緊であるというのなら、朝鮮半島の米軍基地が縮小されている理由が説明できない。それほど北朝鮮の軍事リスクが高いなら、むしろ米軍を増強すべきでしょう。だから、そこを衝かれたくないので、日本では東アジアでの米軍基地縮小の事実そのものが報道されない。
さらにややこしいのは、韓国の場合は、そうやって米軍基地は縮小するけれども、戦時作戦統制権はまだアメリカに持っていてもらっているということです。つまり、米軍基地は邪魔だから出て行ってもらいたいけれど、北朝鮮と一戦構えるときには米軍に出動して欲しいので、戦時作戦統制権だけはアメリカに押しつけている。そうやってアメリカをステークホルダーに巻き込むという、かなりトリッキーな米韓関係を展開しています。
でも、これは主権国家としては当然のことなのです。米軍は平時はいると邪魔だが、非常時には必要になる。韓国側の自己都合でそういう勝手なことを言っている。主権国家というのは「そういうもの」です。自国の国益を優先して勝手なことを言うことのできる国のことです。韓国はその点で主権国家です。

フィリピンもそうです。一旦は米軍基地を邪魔だから出て行けと追い出しておきながら、南シナ海で中国との領土問題が起きてくると、やはり戻ってこいと言い始めた。言っていることは首尾一貫していないようですが、首尾一貫している。自国の国益を最優先している。

その中にあって、日本だけが違う。それぞれの国が自国の国益を追求していって、他国の国益との間ですり合わせをしていって、落としどころを探していく。これが本来の主権国家同士の外交交渉のはずですが、日本だけはアメリカ相手にそういうゲームをしていない。アジア諸国がアメリカと五分でシビアな折衝をしている中で、日本だけがアメリカに何も要求しないで、ただ唯々諾々とその指示に従っている。それどころか、近隣の国がアメリカ相手に堂々とパワーゲームを展開しているというニュース自体が、日本ではほとんど報道されない。

その鳩山さんの件ですけれども、鳩山さんは、国内に米軍基地、外国軍の基地があるということは望ましいことではないと言ったわけです。当たり前ですよね。主権国家としては、当然、そう発言すべきである。沖縄の場合は、日本国土の0.6%の面積に、国内の七五%の米軍基地が集中している。これは異常という他ない。この事態に対して、基地を縮小して欲しい、できたら国外に撤去していただきたいということを要求するのは主権国家としては当然のことなわけです。けれども、この発言に対しては集中的なバッシングがありました。特に外務省と防衛省は、首相の足を引っ張り、結果的に首相の退陣の流れをつくった。
アメリカから「鳩山というのはどうもアメリカにとって役に立たない人間だから、首相の座から落とすように」という指示があったと僕は思っていません。そんな内政干渉になるような指示をしなくても、鳩山が首相でいると、アメリカの国益が損なわれるリスクがあるから、引きずり下ろそうということを考える政治家や官僚がいくらも日本国内にいるからです。メディアも連日、「アメリカの信頼を失った鳩山は辞めるべきだ」という報道をしていました。なぜ、日本の首相が米軍基地の縮小や移転を求めたことが日本の国益を損なうことになるのか、僕には理由がわかりませんでした。
この事件は「アメリカの国益を最大化することが、すなわち日本の国益を最大化することなのである」という信憑を日本の指導層が深く内面化してしまった、彼らの知的頽廃の典型的な症状だったと思っております。
 
映画監督のオリバー・ストーンが、2013年に日本に来て、広島で講演をしたことがありました。これも日本のメディアは講演内容についてはほとんど報道しませんでした。オリバー・ストーンが講演で言ったのはこういうことです。
日本にはすばらしい文化がある、日本の映画もすばらしい、音楽も美術もすばらしいし、食文化もすばらしい。けれども、日本の政治には見るべきものが何もない。あなた方は実に多くのものを世界にもたらしたけれども、日本のこれまでの総理大臣の中で、世界がどうあるべきかについて何ごとかを語った人はいない。一人もいない。Don’t stand for anything 彼らは何一つ代表していない。いかなる大義も掲げたことがない。日本は政治的にはアメリカの属国(client state)であり、衛星国(satellite state)である、と。これは日本の本質をずばりと衝いた言葉だったと思います。アメリカのリベラル派の人たちのこれが正直な見解でしょう。

日本はたしかにさまざまな力を持っている。経済力も文化力もある。平和憲法を維持して、戦争にコミットせずに来た。けれども、国際社会に向けて発信するようなメッセージは何にも持っていない。アメリカに追随するという以外の独自の政治的方向性を持っていない。これは、アメリカ人のみならず、国際社会から見たときの日本に対する典型的な印象ではないかと思います。
そのとき、オリバー・ストーンは「そういえば、先般、オバマに逆らって首にされた総理大臣が一人いたが」と言っておりましたけれども、これはもちろんオリバー・ストーンの勘違いであります。別にオバマに逆らったから、オバマによって首にされたわけではなくて、彼を首にしたのは日本人だったからです。
首相が日本の国益を代表して、素直に国土を回復したい、主権を回復したいということをアメリカに伝えたら、寄ってたかって日本人がそれを潰したという事実そのものが日本の罹患した病の徴候だったと僕は思います。アプローチは拙劣だったかも知れないが、首相の主張は正しいという擁護の論陣を張ったメディアは僕の知る限りありませんでした。アメリカの信頼を裏切るような政治家に国政は託せないというのがほとんどすべてのメディアの論調でした。「ちょっと、それはおかしいんじゃないか」と言う人がほとんどいなかったことを僕は「おかしい」と思いました。
主権国家が配慮するのは、まず国土の保全、国民の安寧、通貨の安定、外交や国防についての最適政策の選択、そういったことだと思います。主権の第一条件である「国土の回復」を要求した従属国の首相が、国土を占領している宗主国によってではなくて、占領されている側の自国の官僚や政治家やジャーナリストによって攻撃を受ける。これは倒錯的という他ありません。

なぜこのような病的傾向が生じたのか。それは「対米従属を通じての対米自立」という敗戦直後に採用された経験則を、その有効性についてそのつど吟味することなく、機械的にいまだに適用し続けているせいだと思います。でも、考えてもみてください。1972年の沖縄返還から後は、もう42年経っている。その間、アメリカから日本が奪還したものは何一つないわけです。42年間、日本は対米従属を通じて何一つ主権を回復していないんです。対米従属は日本にこの42年間、何一つ見るべき果実をもたらしていないという現実を「対米従属論者」はどう評価しているのか。このままさらにもう50年、100年この「守株待兎」戦略を継続すべきだという判断の根拠は何なのか。これを続ければ、いつ沖縄の基地は撤去されるのか、横田基地は戻って来るのか。それを何も問わないままに、前例を踏襲するという前例主義によって対米従属が続いている。

アメリカから見ると、日本側のプレイヤーの質が変わったということは、もうある段階で見切られていると思うんです。それまで日本は、それなりにタフなネゴシエーターであった。対米従属のカードを切った場合には、それに対する見返りを要求してきた。しかし、ある段階から、対米従属が制度化し、対米従属的なマインドを持っている人間だけしか日本国内のヒエラルキーの中で出世できないような仕組みになった。それから、相手にするプレイヤーが変わったということに、アメリカはもう気づいていると思います。
かつてのプレイヤーは対米従属を通じて、日本の国益を引き出そうとしていたわけですけれど、いまのプレイヤーたちは違う。アメリカの国益と日本の国益という本来相反するはずのものを「すり合わせる」ことではなく、アメリカの国益を増大させると「わが身によいことが起こる」というふうに考える人たちが政策決定の要路に立っている。
現に、これまで対米従属路線を疑うことなくひた走ってきたせいで「今日の地位」を得た人たちがそこにいるわけですから、彼らがこれからも対米従属路線をひた走ることはとどめがたい。彼らにおいては、いつのまに国益追求と自己利益の追求がオーバーラップしてしまっている。何のための対米従属かというと、とりあえず、そうすると「わが身にはよいことが起こる」のが確実だからです。
植民地において、植民地原住民であるにもかかわらず、宗主国民にすりよって、その便宜をはかる代わりに、政治的経済的な見返りを要求するものは清朝末期に「買弁」と呼ばれました。今の日本の指導層は、宗主国への従属的ポーズを通じて、自己利益を増大させようとしている点において、すでに「買弁的」であると言わざるを得ないと僕は思っています。

では、この後、日本は一体どうやって主権回復への道を歩んでいったらいいのか。
今、アメリカから見て、日本というのは非常に不可解な国に見えていると思います。
かつての吉田茂以来の日本のカウンターパートは、基本的に日本の国益を守るためにアメリカと交渉してきた。その動機は明確だった。けれども、ある段階から、そうでなくなってきてしまった。対米従属戦略が面従腹背の複雑なタクティクスであることを止めて、疑い得ない「国是」となってしまった。それによって日本の国益が少しも増大しないにもかかわらず、対米従属することに誰も反対できない。そういう仕組みが四十年間続いている。
そうすると、アメリカは日本の政治家をどう見るか。交渉する場合、日本の代表者が自国の国益を増大しようと思っているのであるならば、そこで展開するゲームには合理性があるわけです。アメリカの国益と日本の国益というのは、利害が相反する点があり、一致する点がある。そのすりあわせをするのが外交だった。ところが、いつのまにか、あきらかに日本の国益を害することが確実な要求に対しても、日本側が抵抗しなくなってきた。そのふるまいは彼らが日本の国益を代表していると考えると理解できない。日本を統治している人たちが、自国の国益の増大に関心がないように見えるわけですから。

例えば、特定秘密保護法です。特定秘密保護法というものは、要するに民主国家である日本が、国民に与えられている基本的な人権である言論の自由を制約しようとする法律です。国民にとっては何の利もない。なぜ、そのような反民主的な法律の制定を強行採決をしてまで急ぐのか。
理由は「このような法律がなければアメリカの軍機が漏れて、日米の共同的な軍事作戦の支障になる」ということでした。アメリカの国益を守るためにであれば、日本国民の言論の自由などは抑圧しても構わない、と。安倍政権はそういう意思表示をしたわけです。そして、アメリカの軍機を守るために日本国民の基本的人権を制約しましたとアメリカに申し出たわけです。日本の国民全体の利益を損なうことを通じて、アメリカの軍機を守りたい、と。言われたアメリカからしてみたら、「ああ、そうですか。そりゃ、どうも」という以外に言葉がないでしょう。たしかにそうおっしゃって頂けるのはまことにありがたいことではあるえれど、一体何で日本政府がそんなことを言ってくるのか、実はよくわからない。なぜ日本は国民の基本的人権の制約というような「犠牲」をアメリカのために捧げるのか。

『街場の戦争論』(ミシマ社刊)にも書きましたけれども、そもそも国家機密というのは、政府のトップレベルから漏洩するから危険なわけです。ご存じのとおり、イギリスのキム・フィルビー事件というのがありました。MI6の対ソ連諜報部の部長だったキム・フィルビーが、ずっとソ連のスパイであって、イギリスとアメリカの対ソ連情報はすべてソ連に筒抜けだったという戦後最大のスパイ事件です。それ以来、諜報機関の中枢からの機密漏洩はどうすれば防げるかというのが、インテリジェンスについて考える場合の最大の課題なわけです。
その前にも、イギリスではプロヒューモ事件というものがありました。陸軍大臣が売春婦にいろいろと軍機を漏らしてしまった。でも、ピロートークで漏れる秘密と、諜報機関のトップから漏れる秘密では機密の質が違います。ですから、ほんとうに真剣に諜報問題、防諜の問題を考えるとすれば、どうやって国家の中枢に入り込んでしまった「モグラ」からの情報漏洩を防ぐかということが緊急の課題になるはずです。
けれども、今回の特定秘密保護法は、世界が経験した史上最悪のスパイ事件については全く配慮していない。キム・フィルビー事件のようなかたちでの機密漏洩をどうやって防ぐかということに関しては誰も一秒も頭を使っていない。そういうことは「ない」ということを前提に法律が起案されている。つまり、今現に、日本で「キム・フィルビー型の諜報活動」を行っている人間については、「そのようなものは存在しない」とされているわけです。彼らは未来永劫にフリーハンドを保証されたことになる。いないものは探索しようもないですから。
現に国家権力の中枢から国家機密が漏洩しているということは、日本ではもう既に日常的に行われていると僕は思っています。どこに流れているか。もちろんアメリカに流れている。政治家でも官僚でもジャーナリストでも、知る限りの機密をアメリカとの間に取り結んだそれぞれの「パイプ」に流し込んでいる。それがアメリカの国益を増大させるタイプの情報であれば、その見返りは彼らに個人的な報奨としてリターンされてくる。結果的に政府部内や業界内における彼らの地位は上昇する。そして、彼らがアメリカに流す機密はますます質の高いものになる。そういう「ウィン・ウィン」の仕組みがもう出来上がっている、僕はそう確信しています。特定秘密保護法は、「機密漏洩防止」ではなく、彼らの「機密漏洩」システムをより堅牢なものとするための法律です。アメリカの国益増大のために制定された法律なんですから、その法律がアメリカの国益増大のための機密漏洩を処罰できるはずがない。
特定秘密保護法にアメリカが反対しなかったというのは、自国民の基本的人権を制約してまでアメリカの軍機を守るという法律制定の趣旨と、権力中枢からの情報漏洩については「そのようなものは存在しない」という前提に立つ法整備に好感を抱いたからです。これから先、日本政府の中枢からどのようなかたちで国家機密がアメリカに漏洩しようとも、いったん「特定秘密」に指定された情報については、それが何であるか、誰がそれをどう取り扱ったか、すべてが隠蔽されてしまう。どれほど秘密が漏洩しても、もう誰にもわからない。

もし、僕がアメリカの国務省の役人だったら、日本人は頭がおかしくなったのかと思ったはずです。たしかにアメリカにとってはありがたいお申し出であるが、何でこんなことをするのかがわからない。どう考えてみても日本の国益に全く資するところがない。そもそも防諜のための法律として機能しそうもない。そのようなザル法を制定する代償として、自国民の基本的人権を抑圧しようという。言論の自由を制約してまで、アメリカに対してサービスをする。たしかにアメリカ側としては断るロジックがありません。わが国益よりも民主主義の理想の方が大切だから、そんな法律は作るのを止めなさいというようなきれいごとはアメリカ政府が言えるはずがない。日本からの申し出を断るロジックはないけれど、それでも日本人が何を考えているかはわからない。いったい、特定秘密保護法で日本人の誰がどういう利益を得るのか?
日本政府が日本の国益を損なうような法律を「アメリカのために」整備したのだとすれば、それは国益以外の「見返り」を求めてなされたということになる。国益でないとすれば何か。現政権の延命とか、政治家や官僚個人の自己利益の増大といったものを求めてなされたとみなすしかない。
現に、米国務省はそう判断していると思います。日本政府からの「サービス」はありがたく受け取るけれど、そのようにしてまでアメリカにおもねってくる政治家や官僚を「日本国益の代表者」として遇することはしない、と。

集団的自衛権もそうです。集団的自衛権というのは、何度も言っていますけれども、平たく言えば「他人の喧嘩を買う権利」のことです。少なくともこれまでの発動例を見る限りは、ハンガリー動乱、チェコスロバキア動乱、ベトナム戦争、アフガニスタン侵攻など、ソ連とアメリカという二大超大国が、自分の「シマ内」にある傀儡政権が反対勢力によって倒されそうになったときに、「てこ入れ」するために自軍を投入するときの法的根拠として使った事例しかない。
何で日本が集団的自衛権なんか行使したがるのかが、ですから僕にはさっぱりわからない。いったいどこに日本の「衛星国」や「従属国」があるのか。海外のどこかに日本の傀儡政権があるというのであれば、話はわかる。その親日政権が民主化運動で倒れかけている。しようがないから、ちょっと軍隊を出して反対勢力を武力で弾圧して、政権のてこ入れをしてこようというのであれば、ひどい話ではあるけれども、話の筋目は通っている。でも、日本にはそんな「シマうち」の国なんかありません。
結局、集団的自衛権の行使というのは、現実的にはアメリカが自分の「シマうち」を締めるときにその海外派兵に日本もくっついていって、アメリカの下請で軍事行動をとるというかたちしかありえない。アメリカの場合、自国の若者が中東や西アジアやアフリカで死ぬということにもう耐えられなくなっている。意味がわからないから。でも、海外の紛争には介入しなければならない。しかたがないから、何とかして「死者の外部化」をはかっている。無人飛行機を飛ばしたり、ミサイルを飛ばしたりしているというのは、基本的には生身の人間の血を流したくないということです。攻撃はしたいけれども、血は流したくない。だから、民間の警備会社への戦闘のアウトソーシングをしています。これはまさに「死者の外部化」に他なりません。たしかに、これによって戦死者は軽減した。でも、その代わり莫大な財政上の負荷が生じた。警備会社、要するに傭兵会社ですけれど、めちゃくちゃな値段を要求してきますから。アメリカは、その経済的な負担に耐えることができなくなってきている。
そこに日本が集団的自衛権の行使容認を閣議決定しましたと言ったら、アメリカ側からしてみると大歓迎なわけです。これまで民間の警備会社にアウトソーシングして、莫大な料金を請求されている仕事を、これから自衛隊が無料でやってくれるわけですから。願ってもない話なわけですよね。「やあ、ありがとう」と言う以外に言葉がない。
ただ、「やあ、ありがとう」とは言いながら、何で日本がこんなことをしてくれるのか、その動機についてはやっぱり理解不可能である。
アメリカが金を払って雇っている傭兵の代わりに無料の自衛隊員を使っていいですというオファーを日本政府はしてきているわけで、それがどうして日本の国益増大に資することになるのか、アメリカ人が考えてもわからない。
つまり、確かに日本政府がやっていることはアメリカにとってはありがたいことであり、アメリカの国益を増すことではあるんだけれども、それは少しも日本の国益を増すようには見えない。これから自衛隊が海外に出ていって、自衛隊員がそこで死傷する。あるいは、現地人を殺し、町を焼いたりして、結果的に日本そのものがテロリストの標的になるという大きなリスクを抱えることになるわけです。戦争にコミットして、結果的にテロの標的になることによって生じる「カウンターテロのコスト」は巨大な額にのぼります。今の日本はテロ対策のための社会的コストをほとんど負担していないで済ませている。それをいきなり全部かぶろうというわけですから、アメリカとしては「やあ、ありがとう」以外の言葉はないけれど、「君、何を考えてそんなことするんだ」という疑念は払拭できない。

僕はいつも自分がアメリカ国務省の小役人だったらという想定で物を考えるんですけれども、上司から「内田君、日本は特定秘密保護法といい、集団的自衛権行使容認といい、アメリカのためにいろいろしてくれているんだけれど、どちらも日本の国益に資する選択とは思われない。いったい日本政府は何でこんな不条理な決断を下したのか、君に説明できるかね」と問われたら、どう答えるか。
たしかに、国益の増大のためではないですね。沖縄返還までの対米従属路線であれば、日本が犠牲を払うことによってアメリカから譲歩を引き出すというやりとりはあったわけですけれども、この間の対米従属をみていると、何をめざしてそんなことをしているのか、それがよく見えない。たぶん、彼らは国益の増大を求めているのではないんじゃないかです、と。そう答申すると思います。
今、日本で政策決定している人たちというのは、国益の増大のためにやっているのではなくて、ドメスチックなヒエラルキーの中で出世と自己利益の拡大のためにそうしているように見えます。つまり、「国民資源をアメリカに売って、その一部を自己利益に付け替えている」というふうに見立てるのが適切ではないかと思います、と。 

国民資源というのは、日本がこれから百年、二百年続くためのストックのことです。それは手を着けてはいけないものです。民主制という仕組みもそうだし、国土もそうだし、国民の健康もそうだし、伝統文化もそうです。でも、今の日本政府はストックとして保持すべき国民資源を次々と商品化して市場に流している。それを世界中のグローバル企業が食いたい放題に食い荒らすことができるような仕組みを作ろうとしている。そんなことをすれば、日本全体としての国民資源は損なわれ、長期の国益は逓減してゆくわけですけれども、政官財はそれを主導している。彼らのそういう気違いじみた行動を動機づけているものは何かと言ったら、それが国益の増大に結びつく回路が存在しない以上、私利私欲の追求でしかないわけです。
自傷的、自滅的な対米従属政策の合理的な根拠を求めようとすれば、それは、対米従属派の人たち自身がそこから個人的に利益を得られる仕組みになっているからという以外に「国務省の役人になったと想像してみた内田」のレポートの結論はありません。

対米従属すればするほど、社会的格付けが上がり、出世し、議席を得、大学のポストにありつき、政府委員に選ばれ、メディアへの露出が増え、個人資産が増える、そういう仕組みがこの42年間の間に日本にはできてしまった。この「ポスト72年体制」に居着いた人々が現代日本では指導層を形成しており、政策を起案し、ビジネスモデルを創り出し、メディアの論調を決定している。

ふつう「こういうこと」は主権国家では起こりません。これは典型的な「買弁」的な行動様式だからです。植民地でしか起こらない。買弁というのは、自分の国なんかどうだって構わない、自分さえよければそれでいいという考え方をする人たちのことです。日本で「グローバル人材」と呼ばれているのは、そういう人たちのことです。日本的文脈では「グローバル」という言葉をすべて「買弁」という言葉に置き換えても意味が通るような気がします。文科省の「グローバル人材育成」戦略などは「買弁人材育成」と書き換えた方がよほどすっきりします。

安倍さんという人は、一応、戦後日本政治家のDNAを少しは引き継いでいますから、さすがにべったりの対米従属ではありません。内心としては、どこかで対米自立を果さなければならないと思ってはいる。けれども、それを「国益の増大」というかたちではもう考えられないんです。そういう複雑なゲームができるだけの知力がない。
だから、安倍さんは非常にシンプルなゲームをアメリカに仕掛けている。アメリカに対して一つ従属的な政策を実施した後には、一つアメリカが嫌がることをする。
ご存じのとおり、集団的自衛権成立の後に、北朝鮮への経済制裁を一部解除しました。沖縄の仲井真知事を説得して辺野古の埋め立て申請の承認を取り付けた後はすぐに靖国神社に参拝しました。つまり、「アメリカが喜ぶこと」を一つやった後は、「アメリカが嫌がること」を一つやる。おもねった後に足を踏む。これが安倍晋三の中での「面従腹背」なのです。日米の国益のやりとりではなく、アメリカの国益を増大させた代償に、「彼が個人的にしたいことで、アメリカが厭がりそうなこと」をやってみせる。主観的には「これで五分五分の交渉をしている」と彼は満足しているのだろうと思いますけれど、靖国参拝や北朝鮮への譲歩がなぜ日本国益の増大に結びつくのかについての検証はしない。彼にとっては「自分がしたいことで、アメリカが厭がりそうなこと」ではあるのでしょうけれど、それが日本の国益増に資する政策判断であるかどうかは吟味することさえしていない。
「対米従属を通じての対米自立」という戦後日本の国家戦略はここに至って、ほとんど戯画のレベルにまで矮小化されてしまったと思います。
だから、これから後も彼は同じパターンを繰り返すと思います。対米譲歩した後に、アメリカが厭がりそうなことをする。彼から見たら、五ポイント譲歩したので、五ポイント獲得した。これが外交だ、と。彼自身は、それによって、アメリカとイーブンパートナーとして対等な外交交渉をしているつもりでいると思うんです。

時間がもうあと十分しかないので、では一体これから我々はどうやって主権国家として、主権国家への道を歩んだらいいかということを述べたいと思います。

国というものを、皆さんはたぶん水平的に表象していると思います。
ビジネスマンはそうです。今期の収益とか、株価ということばかり考えている人は、それと同じように国のことも考える。ですから、世界を水平的に、二次元的に「地図」として表象して、その中での自分たちの取り分はどれぐらいか、パイのどれぐらいを取っているか。そういうような形で国威や国力を格付けしてようとしている。けれども、本来の国というのは空間的に表象するものではない、僕はそう思っています。地図の上の半島の広さとか、勢力圏というものを二次元的に表象して、これが国力であると考えるのは、間違っていると思う。

国というのはそういうものではなくて、実際には垂直方向、時間の中でも生きているものです。我々がこの国を共有している、日本なら日本という国の構成メンバーというのは、同時代に生きている人間だけではない。そこには死者も含まれているし、これから生まれてくる子供たちも含まれている。その人たちと、一つの多細胞性物のような共生体を私たちは形づくっている。そこに、国というもののほんとうの強みがあると思います。

鶴見俊輔さんは、開戦直前にハーバード大学を卒業するわけですけれども、そのときにアメリカに残るか、交換船で日本に帰るかという選択のときに、日本に帰るという選択をします。自分は随分長くアメリカにいて、英語で物を考えるようになってしまったし、日本語もおぼつかなくなっている。そもそも日本の政治家がどの程度の人物かよくわかっているし、多分、日本はこれから戦争をやったら負けるだろう。そこまでわかっていたけれども、日本に帰る、そう決意する。そのときの理由として鶴見さんが書いているのは、負けるときには自分の「くに」にいたい、ということでした。

「くに」とともに生き死にしたいというのは、これは、やはりすごく重たいことだと思うんです。この感覚というのは、なかなか政治学の用語ではうまく語り切ることができないんですけれども、簡単に想像の共同体だ、共同幻想だとか言い切られてしまっては困る。というのは、実際に、我々日本人は、現在列島に居住する一億三千万人だけでなく、死者たちも、これから生まれてくる子供たちも、同じ日本人のフルメンバーであるからです。ですから、過去の死者たちに対しては、彼らが犯した負債に関しては、我々は受け継がなければいけない。そして、できたら完済して、できなければ、できるだけ軽減して、次世代に送り出さなければいけない。その仕事が僕らに課されているだろうと思っています。

今の日本ではグローバリズムとナショナリズムが混交しています。グローバリストはしばしば同時に暴力的な排外主義者でもある。僕はそれは別に不思議だとは思わない。それは彼らがまさに世界を二次元的に捉えていることの結果だと思うんです。グローバルな陣地取りゲームで、自分たちの「取り分」「シェア」を増やそうとしている。その点ではグローバル資本主義者と排外的ナショナリストはまったく同型的な思考をしている。
そして、排外主義ナショナリストというのは、伝統文化に関して全く関心を示しません。死者に対して関心がないからです。彼らにとって死者というのは、自説の傍証として便利なときに呼び出して、使役させるだけの存在です。都合のいいときだけ都合のよい文脈で使って、用事がなければ忘れてしまう。自分に役立つ死者は重用するけれど、自説を覆す死者や、自説に適合しない死者たちは「存在しないこと」にして平気です。それはかれらが「くに」を考えているときに、そこには死者もこれから生まれてくる人たちも含まれていないからです。

でも、僕たちが最終的に「くに」を立て直す、ほんとうに「立て直す」ところまで追い詰められていると思うんですけれども、立て直すときに僕らが求める資源というのは、結局、二つしかないわけです。
一つは山河です。国破れて山河あり。政体が滅びても、経済システムが瓦解しても、山河は残ります。そこに足場を求めるしかない。もう一つは死者です。死者たちから遺贈されたものです。それを僕たちの代で断絶させてはならない。未来の世代に伝えなければならないという責務の感覚です。

山河というのは言語であり、宗教であり、生活習慣であり、食文化であり、儀礼祭祀であり、あるいは山紫水明の景観です。我々自身を養って、我々自身を生み、今も支えているような、人工的なものと自然資源が絡み合ってつくられた、一つの非常に複雑な培養器のようなもの、僕はそれを山河と呼びたいと思っています。山河とは何かということを、これから先、僕はきちんと言葉にしていきたいと思っています。

もう一つは死者たちです。死者たちも、未来の世代も、今はまだ存在しない者も、我々のこの国の正規のフルメンバーであって、彼らの権利、彼らの義務に対しても配慮しなければいけない。

僕は合気道をやっているわけですけれども、経験的にわかることの一つというのは、例えば体を動かすと、自分の体の筋肉、骨格筋とか、関節とか、そういうものを操作しようと思って、具体的に、今、存在するものをいじくっていっても体は整わないということです。
しかし、例えば今、手の内に刀を持っている。ここに柄があって、刃筋があって、切っ先がそこにある。手に持っていないものをイメージして体を使うと、全身が整う。
これは長く稽古してよくわかったことなんですけれども、実際には、我々は今、存在するもの、そこに具体的に物としてあるものを積み上げていって、一つの組織や集団をつくっているのではなくて、むしろ「そこにないもの」を手がかりにして、組織や身体、共同体というものを整えている。これは、僕は実感としてわかるんです。

今、日本人に求められているものというのは、日本人がその心身を整えるときのよりどころとなるような「存在しないもの」だと思います。存在しないのだけれど、ありありと思い浮かべることができるもの、それを手にしたと感じたときに、強い力が発動するもの、自分の体が全部整っていて、いるべきときに、いるべきところにいるという実感を与えてくれるもの。太刀というのは手を延長した刃物ではなくて、それを握ることによって体が整って、これを「依代」として巨大な自然の力が体に流れ込んでくる、そういう一つの装置なわけです。それは、手の内にあってもいいし、なくてもいい。むしろ、ないほうがいいのかも知れない。

今、日本が主権国家として再生するために、僕らに必要なものもそれに近いような気がします。存在しないもの、存在しないにもかかわらず、日本という国を整えて、それをいるべきときに、いるべきところに立たせ、なすべきことを教えてくれるようなもの。そのような指南力のある「存在しないもの」を手がかりにして国を作って行く。
日本国憲法はそのようなものの一つだと思います。理想主義的な憲法ですから、この憲法が求めている「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去する」ことはたぶん未来永劫実現しない。地上では実現するはずがない。でも、そのような理想を掲げるということは国のかたちを整える上で非常に有効なわけです。何のためにこの国があるのか、自分の国家は何を実現するために存在するのかということを知るためには、我々が向かっている、ついにたどりつくことのない無限消失点なるものをしっかりとつかまなければいけない。それなしではどのような組織も立ちゆきません。

これからどうやって日本という国を立て直していくのか考えるときには、つねに死者たちと、未だ生まれてこざる者たちと、生きている自分たちが一つの同胞として結ばれている、そういう考え方をするしかないのかなと思っております。
これから日本は一体どうなっていくのか。実は、僕はあまり悲観していないんです。ここまでひどい政権だと、いくら何でも長くは保たないと思うんです。特に、隣国や国際社会の諸国から、もうちょっと合理的な思考をする政治家に統治してもらいたいという強い要請があると思うんです。そうでないと外交がゲームにならないから。

現在の日本の安倍政権というのは、アメリカとも、中国とも、韓国とも、北朝鮮とも、ロシアとも、近隣の国、どこともが外交交渉ができない状態ですね。ほとんど「来なくていい」と言われているわけです。安倍さんが隣国のどことも実質的な首脳会談ができないのは、彼の国家戦略に対して、ほかの国々に異論がある、受け入れらないということではないと思います。日本の国家戦略がわからないからですよね。それでは、交渉しようがない。

安倍さんが選択している政策は、あるいは単なる政治的延命のためのものなのかと思ったら、外国は怖くて、こんな人とは外交交渉はできないでしょう。個人的な政治的延命のために国政を左右するような人間とは誰だって交渉したくない。あまりに不安定ですから。国と国との約束は、そこで約束したことが五年、十年後もずっと継続する、国民の意思を踏まえていないと意味がない。でも、安倍さんの外交はどう見ても国民の総意を代表しているものとは思われない。日本国民が「代表してもらっていない」と思っているというのではなく、諸国の首脳が「この人の言葉は国の約束として重んじることができるのか」どうか疑問に思っているからです。ですから、これから先、安倍政権である限り、対米、対中、対韓、対ロシアのどの外交関係もはかばかしい進展はないと思います。どの国も「次の首相」としてもう少しもののわかった人間が出てくることを待っていて、それまでは未来を縛るような約束は交わさないつもりでいると思います。
安倍政権に関しては、僕はそれほど長くは保たないと思います。既に自民党の中でも、次を狙っている人たちが動き出している。ただ、先ほど話したように、対米従属を通じて自己利益を増すという「買弁マインド」を持った人たちが、現在の日本のエスタブリッシュメントを構築しているという仕組み自体には変化がない以上、安倍さんが退場しても、次に出てくる政治家もやはり別種の「買弁政治家」であることに変わりはない。看板は変わっても、本質は変わらないと思います。

どうやったらこのような政治体制を批判できるのか。僕が学術というものを最終的に信じているのはそこなんです。為政者に向かって、あなた方はこういうロジックに従ってこのような政策判断をして、あなた方はこういう動機でこの政策を採用し、こういう利益を確保しようとしている、そいうことをはっきり告げるということです。理非はともかく、事実として、彼ら政治家たちがどういうメカニズムで動いているものなのかをはっきりと開示する。本人にも、国民全体にも開示する。別に彼らが際立って邪悪であるとか、愚鈍であるとか言う必要はない。彼らの中に走っている主観的な首尾一貫性、合理性をあらわにしてゆく。その作業が最も強い批評性を持っているだろうと僕は思います。
 

僕は、知恵と言葉が持っている力というのはとても大きいと思うんです。面と向かって、「おまえは間違っている」とか、「おまえは嫌いだ」とか言ってもだめなんです。そうではなくて、「あなたはこう考えているでしょう。だから、次、こうするでしょう。あなたの内的ロジックはこうだから、あなたがすることが私には予見できる」と。民話に出てくる「サトリ」ではないですけれど、他人におのれ思考の内的構造を言い当てられると、人間はフリーズしてしまって、やろうと思っていたことができなくなってしまう。人の暴走を止めようと思ったら、その人が次にやりそうなことをずばずば言い当てて、そのときにどういう大義名分を立てるか、どういう言い訳をするか、全部先回りして言い当ててしまえばいい。それをされると、言われた方はすごく嫌な気分になると思うんです。言い当てられたら不愉快だから、それは止めて、じゃあ違うことをやろうということになったりもする。そういうかたちであれば、口説の徒でも政治過程に関与することができる。僕はそういうふうに考えています。

立憲デモクラシーの会には多くの知性が集合しているわけですが、僕はこういうネットワークを政治的な運動として展開するということには実はあまり興味がないんです。その政治的有効性に対しても、わりと懐疑的なんです。真に政治的なものは実は知性の働きだと思っているからです。
今、何が起きているのか、今、現実に日本で国政の舵をとっている人たちが何を考えているのか、どういう欲望を持っているのか、どういう無意識的な衝動に駆動されているのか、それを白日のもとにさらしていくという作業が、実際にはデモをしたり署名を集めたりするよりも、時によっては何百倍何千倍も効果的な政治的な力になるだろうと僕は信じております。

これからもこういう厭みな話をあちこちで語り続ける所存でございます。何とかこの言葉が安倍さんに届いて、彼がすごく不愉快な気分になってくれることを、そして俺はこんなことを考えているのかと知って、ちょっと愕然とするという日が来ることを期待して、言論活動を続けてまいりたいと思っております。皆さん方のご健闘を祈っております。ご清聴、どうもありがとうございました。

内田樹:川内原発再稼働について

★川内原発再稼働について***「内田樹の研究室 2014-11/15」より転載

2014年11月13日の朝日新聞に掲載された「川内原発再稼働について」の寄稿のロングヴァージョンです(紙面では行数が少し減りました)。

・・・・・・・・・・・・・

九州電力川内原発の再稼働に同意した鹿児島県の伊藤祐一郎知事は7日の記者会見で自信ありげに再稼働の必要性を論じていました。
私は「事態は『3・11』以前より悪くなってしまった」と感じました。

原発で万が一の事故があれば、電力会社も国の原理力行政も根底から崩れてしまう。「福島以前」には原子力を推進している当の政府と電力会社の側にもそのような一抹の「おびえ」がありました。でも、東京電力福島第一原発の事故は、その「おびえ」が不要だったということを彼らに教えました。
これまでのところ、原発事故について関係者の誰ひとり刑事責任を問われていません。事故処理に要する天文学的コストは一民間企業が負担するには大きすぎるという理由で税金でまかなわれている。政府と東電が事故がもたらした損失や健康被害や汚染状況をどれほど過小評価しても、それに反証できるだけのエビデンスを国民の側には示すことができない。
彼らは原発事故でそのことを「学習」しました。
鹿児島県知事は「たとえこのあと川内原発で事故が起きても、前例にかんがみて、「何が起きても自分が政治責任を問われることはない」ということを確信した上で政治決定を下したのです。

僕も彼らが利己心や邪悪な念によって原発再稼働を進めているとは思いません。彼らは彼らなりに「善意」で行動している。主観的には首尾一貫しているんです。それは、せいぜい五年程度のスパンの中での経済的利益を確かなものにすることです。経営者としては当然のことです。しかし、1億人以上の人が、限られた国土で、限られた国民資源を分かち合いながら暮らし続けることを運命づけられた国民国家を運営するには、百年単位でものごとを考えなければならない。株式会社なら、四半期の収支が悪化すれば、株価が下がり、倒産のリスクに瀕します。だから、「百年先」のことなんか考えていられないし、考えることを求められてもいない。目先の利益確保があらゆることに最優先する。でも、国民国家の最優先課題は「いま」収益を上げることじゃない。これから何百年も安定的に継続することです。株式会社の経営と国家経営はまったく別のことです。原発推進派はそれを混同してしまっている。

社会が成熟すれば経済活動は必ず停滞する。生身の身体の欲求に基づいて経済活動がある限り、「衣食足り」れば消費は頭打ちになる。成熟社会では人口が減り、消費活動は不活発になる。成長しない社会において、どうやって国民資源をフェアに分配するか、この問いに答えるためにはそのための知恵が要ります。でも、わが国の政治家も官僚も財界人も学者もメディアも、誰一人「経済成長が終ったあとに健康で文化的な国民生活を維持する戦略」については考えてこなかった。
「パイ」が増え続けている限り、分配の不公平に人はあまり文句を言いません。でも、「パイ」が縮み出すと、人々は分配が公正かどうか血眼になる。そういうものです。資源の公正な再分配にはそのための知恵が要ります。しかし、今の日本にはその知恵を持っている人も、そのような知恵が必要だと思っている人もいない。相変わらず「パイが膨らんでいる限り、パイの分配方法に国民は文句をつけない」という経験則にしがみついている。
原発再稼働は「パイのフェアな分配」については何のアイディアもなく、ただ「パイを増やすこと」以外に国家戦略を持たない人たちの必至の結論です。
     
福島の事故は、放射能汚染で国土の一部を半永久的に失う事態を招きました。でも、尖閣諸島では「国土を守れ!」と熱する人々も原発事故で国土が失われるリスクにまったく関心を示さない。それはナショナリストたちも「パイが大きくなる」こと以外に何の目標も持っていないからです。
領土問題で隣国と競り合うのは、彼らの眼には領土もまた「パイ」に見えているからです。
中国や韓国の「取り分」が増える分だけ、日本の「割り前」は減る。そういうゼロサムゲームで彼らは国際関係を捉えている。だから、国内における国土の喪失には特段の意味を感じないのです。
原発を稼働すれば経済戦争で隣国に対するアドバンテージが得られると訊けば、この「ナショナリスト」たちは国土の汚染や国民の健康被害など「無視していい」と平然と結論するでしょうし、現にそうしている。

日本が誇れる国民資源は何よりも豊かなこの「山河」です。国破れて山河あり。戦争に負けても、恐慌が来ても、天変地異やパンデミックで傷ついても、この山河がある限り、国民は再生できます。日本の森林率は67%で世界トップクラス。温帯モンスーンの肥沃な土壌のおかげで主食のコメはなんとか自給できます。豊富な水、清浄な大気。これらがほとんど無償で享受できる。こんな豊かな山河に恵まれた国は世界でも例外的です。国民が知恵を出し合ってフェアに分配し、活用すれば何世紀も生きているだけの「ストック」がある。なぜ、国土を汚染し、人間が住めない土地を作るリスクを冒してまで目先の金を欲しがるのか。それは原発推進派の人たちには「長いスパンで国益を考える」という習慣がないということでしか説明できません。
     
原子力発電から手を引くのは文明の退化だ。そんな主張をなす人もいます。でも、原子力発電と人類の文明の成熟の間に相関はありません。
20世紀初頭に米・テキサスで大油田が見つかり、「ただ同然」のエネルギー源を利用した内燃機関文明と今日に至るアメリカの覇権体制が基礎づけられました。でももしあのときテキサスで油田が見つかっていなければ、20世紀のテクノロジーはおそらくまったく別のかたちを取っていたでしょう。石油エネルギーは人類がある時点で「たまたま」選んだ選択肢の一つに過ぎません。
原子力もそれと同じです。原子力がなければ、それに代わる何かを私たちは見出す。文明というのは人間の知性のそのような可塑性と自由度のことです。原子力がなければ滅んでしまうような文明は文明の名に値しません。
 
多くの国民は国土の汚染や健康被害のリスクを受け入れてまでけ経済成長することよりも、あるいはテクノロジーの劇的な進化よりも、日本列島が長期的に居住可能であり、安定した生活ができることを望んでいます。
成長なき社会では、「顔の見える共同体」が基礎単位となることでしょう。地域に根を下ろした中間共同体、目的も機能もサイズも異なるさまざまな集団が幾重にも重なり合い、市民たちは複数の共同体に同時に帰属する。生きてゆくためにほんとうに必要なもの(医療や教育や介護やモラルサポート)は市場で商品として購入するのではなく、むしろ共同体内部で貨幣を媒介させずに交換される。そのような相互支援・相互扶助の共同体がポスト・グローバル資本主義の基本的な集団のかたちになるだろうと私は予測しています。百年単位の経済合理性を考えれば、それが最も賢いソリューションだからです。

紹介本:日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか      

★日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか / 矢部宏治・著

@概要

日本の戦後史に隠された「最大の秘密」とは何か?
その謎を解き、進むべき未来を提示する。

*なぜ、日本の首相は絶対に公約を守れないのか?
*なぜ、人類史上最悪の原発事故を起こした日本が、
  いままた再稼働に踏みきろうとしているのか?
*なぜイラクから戦後8年で撤退した米軍が、2014年の今、
  沖縄で新たな基地を建設し始めているのか?

不思議なことばかり起こる現在の日本。しかし、あきらめてはいけません。
過去の歴史、なかでも敗戦から独立までの6年半の占領期を見直せば、そうした矛盾を生みだす原因が、あっけないほど簡単に理解できるのです。
秘密を解くカギは、「昭和天皇」「日本国憲法」「国連憲章」の3つ。
さあ、あなたもこの本と一緒に「戦後70年の謎」を解くための旅に出て、日本人の手に輝ける未来をとりもどしましょう。

大ヒットシリーズ「〈戦後再発見〉双書」の企画&編集総責任者が放つ、「戦後日本」の真実の歴史。公文書によって次々と明らかになる、驚くべき日本の歪んだ現状。精緻な構造分析によって、その原因を探り、解決策を明らかにする!

@目次

PART1 沖縄の謎――基地と憲法
PART2 福島の謎――日本はなぜ、原発を止められないのか
PART3 安保村の謎①――昭和天皇と日本国憲法
PART4 安保村の謎②――国連憲章と第2次大戦後の世界
PART5 最後の謎――自発的隷従とその歴史的起源

@著者プロフィール

矢部宏治(やべ・こうじ)  1960年、兵庫県生まれ。慶応大学文学部卒業後、(株)博報堂マーケティング部を経て、1987年より書籍情報社代表。著書に『本土の人間は知らないが、沖縄の人はみんな知っていること―沖縄・米軍基地観光ガイド』(書籍情報社)。共著書に『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』(創元社)。企画編集シリーズに「〈知の再発見〉双書(既刊165冊)」「J.M.ロバーツ 世界の歴史(全10巻)」「〈戦後再発見〉双書(既刊3冊)」(いずれも創元社刊)。

@その他

定価:¥1,200(本体)+税  発行:集英社インターナショナル  

菅原文太インタビュー「異端者でいいじゃないか」

★菅原文太インタビュー【ポスト震災を生き抜く】:『異端者でいいじゃないか』
***「日刊ゲンダイ 2012年1月1日号」より転載

 あれだけの大震災と原発事故を経て、日本人の意識が違う流れに変わるかな、と期待したけど、変わらないな。何も変わらないと言っていいほど。戦後の日本はすべてがモノとカネに結びついてきた。そこが変わらないとな。

 農業もそうだ。本来、人の命を養うための営みが、利益や効率を追い求めて、いつの間にか商業や工業のようになってしまった。JA全農のガラス張りビルが経団連の隣にあるのが象徴だ。おかしな話だよな。

 俺は09年から有機栽培に取り組んできた。在来種を扱うタネ屋は数えるほどで、売られている野菜は「F1」といって一代限りで、タネを残せない一代交配種で作られている。農薬もハッキリ言って毒だよ。米軍がベトナム戦争で散布した枯れ葉剤のお仲間さ。極論すれば農薬と化学肥料とF1種で成り立っているのが、今の日本の農業じゃないのか。

 その構図は原発とイコールだ。日本は高度成長に入る頃から、アメリカに「農薬を買え」「化学肥料を入れろ」と突き上げられ、ハイハイと従ってきた。農協が「大丈夫、安全だ」と農民にどんどん売って、60年代には、ヨーロッパの6倍、アメリカの7倍の農薬を農地に投入してきた。今や日本の有機栽培率は、たったの0・16%。中国以下なんて情けないよな。

■農業も原発もアメリカの実験場だ

 農薬の怖さはそれこそ放射能とおんなじさ。人体への影響は目に見えない。農民は危ないから子どもたちを農地に入れないよ。儲からない上に危険だしじゃあ、後継者不足も当たり前だ。原発に農薬にと、日本はアメリカの実験場にされてきたんだ。

 農薬いっぱいの土壌からできたコメや野菜でいいのか。化学肥料と農薬を使わない本当の土壌にタネをまけば、よく根を張って力強くおいしい作物ができる。

「農」が「商」だけになってはダメだ。「工」にもあらずだ。このトシになって、今さら夢はないけどな、農業を安全な本来の姿に戻したい。それが最後の望みだね。

 戦後の日本人は「世界一勤勉な国民だ」とシリを叩かれ、働いてきた。集団就職列車に乗って、大都会の東京や大阪の大企業や工場に送り込まれてきた。日本人総出で稼ぎに稼いで、豆粒みたいな島国が一時は世界一の金満国家になったけど、今じゃあ1000兆円もの借金大国だ。

 国はカネがない、増税しかないと言うけど、ぜひ聞いてみたい。日本人が汗水流して稼いだカネはどこへ消えたんですか、と。何兆円と稼いだカネが雲散霧消したのなら、この国にはどんなハイエナやハゲタカが群がっているんだ。

 近頃は「清潔さ」ばかりを求め、政界でも異端者やアウトロー、変わり者を受け入れない風潮がある。けど、スネに傷を持たない人間なんていないじゃないか。どこかで間違いのひとつやふたつ犯している。真っ白な無謬な人間なんていない。アナタ方はシャツの裏側まで清潔だって、言い切れるかい。

今の世の中は人間をテレビ画面くらいの小さな枠に収めようとする。俺たちが生きてきた映画の枠は大きなスクリーンだったから、誰でも受け入れた。

 世の中の方がネジ曲がっているんだ。ヘンクツや異端者と呼ばれてもいいじゃないか。変わり者の生き方の方が面白いよ。昔は新聞記者も変わり種がいて、良い記事書いてたぞ。日刊現代の会長も相当な変わり者だぞ(笑い)。

 なにより2012年こそ被災地に生きる人々にとって良い一年になって欲しい。本当に祈っているよ。

総選挙を棄権するつもりの人へ

★総選挙を棄権するつもりの人へ
***「『週刊現代』2014年12月6日号 BY 古賀 茂明」より転載

アベノミクスが失敗し、安倍政権は追い詰められたと先週号に書いたが、7~9月期GDPマイナスショックはこれを決定的なものにした。

 ただでさえ、集団的自衛権行使容認、特定秘密保護法、武器輸出解禁、原発再稼働などに反対の有権者は多数を占める。それに加えて、看板政策であるアベノミクスが失敗となれば、安倍政権の致命傷になってもおかしくない。しかし今、安倍氏は、この劣勢からの大逆転を夢見ている。野党の選挙態勢が全く整わないうちに、奇襲解散総選挙で寝首をかこうというのだ。今のところ、その戦略は当たっている。

 自民党がダメだとしても、一体、誰に投票したら良いのか見当がつかず、やはり自民党しかないのか、と途方に暮れる有権者が多いのだ。

 そこで、選挙に向けて、政党ごとに評価をし直してみよう。

 日本経済がここまで低迷したのは、'90年代からの自民党政治のせいだ。官僚主導政治で、農協、医師会、電力会社などの既得権と癒着して、成長のために必要な思い切った改革ができず、失われた20年を作ってしまった。

 返り咲いた安倍政権は、いかにも変わったように見えた。しかし、アベノミクス第三の矢と言われる成長戦略は全く出てこなかった。理由は、昔の自民党と全く同じ。これから先も変われる見込みはない。となれば、タカ派政策の賛否以前に安倍自民党は選択肢から外れる。これを助ける公明党も同様だ。

 一方、政権にあった3年間、何の改革もできなかった民主党も信用できない。経済政策以外でも、電力総連の圧力で大飯原発を再稼働させ、原発ゼロの閣議決定もできなかった。連合に迎合して公務員改革も逆行。安保政策でも党内はバラバラで、安倍総理と同じくらいのタカ派も多い。

 野党第二党の維新の党には改革派が多い。しかし、タカ派が多数派で、安倍政権の暴走の歯止め役にはなりにくい。結いの党出身のメンバーにはハト派が多いが、圧倒的少数派だ。党内の旧大阪維新の会メンバーは、大飯原発再稼働を叫んで橋下徹大阪市長を再稼働容認に転向させた実績があり、脱原発政策も大いに不安だ。

 共産党は、ハト派としては最も安心できそうだが、同党に日本経済を任せるとバラマキ政策で日本が破綻してしまう不安がある。

 そして、これら以外の野党は、存在感が全くなく、みんなの党は解党の運命だ。

 今回は棄権したいと思う人も多いだろう。しかし、棄権が増えれば、組織票中心の自民党勝利に手を貸すことになる。その結果、原発再稼働、集団的自衛権行使、特定秘密保護法施行、武器輸出と原発輸出、残業代ゼロ、派遣拡大などの安倍政権の不人気政策全てにお墨付きを与えてしまう。「全部国民の承認を得た」と胸を張る安倍総理の姿を想像するとぞっとする。棄権は絶対にダメだ。

 安倍政権の暴走を止めると同時に、日本経済の成長を実現してくれる政治を夢見る有権者は、まさに「八方ふさがり」の状況だ。では、どうすれば良いのか。

 政党で選ぶのは諦めた方が良い。一方、野党の中に少数だが、「改革はするけど戦争はしない」と思える政治家を探すことは可能だ。原発再稼働に無条件で反対と言えるか。ペルシャ湾での機雷掃海もダメと言えるか。抽象的文言ではなく具体的な踏み絵を踏ませよう。

 最悪納得できなくても今回は仕方ない。ダメな順に消去して、最後に残った候補者に目をつぶって投票する。「我慢の選挙」だ。

 そして、選挙の後に彼らを集めて新たな形の野党再編につなげる。道は長いが、諦めてはいけない。

・・・・・・・・・・・・・

★自民党が負けるはずがない! 選挙興味は野党の再編くらい
***「現代ビジネス 11月29日(土)6時2分配信」より転載

もしかしたら「怒り」が煮えたぎり、国民の審判に大きく影響を与え、面白い選挙になるかもしれないと期待していた。だが、その期待はほぼ間違いなく裏切られそうである。

@自民党が負けないことが見えている

 12月2日の公示を前に第47回衆議院議員選挙は、早くも結果が見えてきたことで、投票率も50%を下回るのは確実であり、白け切ったものになりそうだ。

 先週発売の週刊誌各誌は、自民党が現有議席295を50~60議席減らすとの予測を大々的に紹介、多くの有権者は「安倍1強」に変化が生じる面白い選挙になるかかもしれないと思ったに違いない。

 だが、現実はそうではない。まずはお浚い。衆院の定数は、「0増5減」が実現したことで小選挙区300と比例代表180の合計480議席から475議席となった。従って、衆院過半数は238、安定多数が249、そして絶対安定多数は266である。

 安定多数を制すれば、衆院議長を確保し常任委員会委員長を独占、かつ全常任委員会で与党委員が半数を占める。絶対安定多数となれば、常任委員会委員長を独占し委員も過半数を占める。因みに、衆院の3分の2である317を獲得すれば、参院で否決された法案を再可決できる。国会での力関係は、数の勝負なのだ。

 11月21日の衆院解散前、与党は自民党295、公明党31の合計346議席を有していた。だからこそ、安倍晋三首相が強く拘った特定秘密保護法案は衆院本会議で強行採決によって成立できたのである。

 では、12月14日投開票総選挙の見通しは、どのようなものなのか。選挙は魔物である。「風」が吹き嵐になれば、事前の選挙予測などいっぺんに覆る。が、今回はそうではない。自民党が負けないということが見えているのだ。

 現有議席から30以上落とせば、党内政局は必至となる。来年9月の自民党総裁選で安倍首相(総裁)に挑む者が出てくる。しかし、現状は275議席を基数としてプラス15、マイナス10というのが相場観である。このマイナス10というのは、自民党が政権復帰した2012年12月総選挙で初当選を果たした「安倍チルドレン」114人のうち相当数が民主党とのガチンコ勝負で敗退することを見込んだ数字である。

 一方、前回総選挙の比例代表は自民党が約1600万票獲得して57議席だった。そして約1200万票集めて40議席獲得した維新の党は半減すると見られ、大幅な議席減が必至である。自民党は小選挙区で民主党に競り負けて取りこぼしたとしても、その分、維新の党から奪取できるので、トータルでの議席減は10~20になるのではないか。

@興味は野党再編の動き

 つまり、自民党に飽き足らず維新の党に向かった「右」志向保守層の一部が戻ってくるということである。結果、維新の党を含めた民主党主導の野党再編の動きが加速する。民主党の馬淵澄夫選対委員長と維新の党の江田憲司共同代表の間で両党合流についての協議が進んでいる。所謂“橋下(徹共同代表)抜き”の合流話である。

 民主党の議席増は間違いないので海江田万里代表の続投は決定的である。来春の統一地方選で民主党が伸び悩むことになれば、その後、代表は岡田克也代表代行に引き継がれ、維新の党との合流話が表面化するだろう。そう、今や永田町では野党再編に関心は移っているのが現状なのだ。野党と言えば、共産党の飛躍は間違いない。先の「怒り」を抱えた有権者、特に団塊の世代の無党派層が民主党を通り過ぎて共産党に1票を投じるからだ。

 自民党に戻る。「安倍1強」がさらに強化される。注目すべきは、10月下旬段階ですでに安倍首相から11月下旬解散・12月中旬総選挙をいち早く伝えられていた谷垣禎一幹事長の存在感が高まることだ。

 恐らく、クリスマスに第3次安倍改造内閣が発足するはずだ。ここに来ての関心は、江渡聰徳防衛・安保法制相、西川公也農水相(当選した場合)の他、どの閣僚が交代するのかである。後任防衛・安保法制相の最有力候補は小野寺五典政調会長代理の復帰である。そして、後任農水相は江藤拓衆院農水委員長ではないか。12月15日の新聞各紙の一面トップには「自民 絶対安定多数確保」か「信任されたアベノミクス」の大見出しが躍ることになりそうだ。
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