FC2ブログ

原発の2015年:20年目の曲がり角を迎えて

★2015年:20年目の曲がり角を迎えて***『原子力資料情報室通信』第487号より転載

 「原子力規制委員会と経済産業大臣が『廃炉か40年超運転か』の判断を急ぐよう電力各社に求め、大きな曲がり角を迎えている」――と、あるところに書いた。「いや、そうだろうか。福島原発事故が起こった時、これでもう日本の原発はすべて永久に止まると多くの人が思っただろう。それからすれば、こんな曲がり角でよいのか」と。



 昨2014年12月6日、福井県敦賀市で開かれた「’14もんじゅを廃炉に!全国集会」で、原子力発電に反対する福井県民会議の中嶌哲演さんは、原子力発電を巡る時代の変化は、福島原発事故を待つまでもなく、1995年に始まっていたと語った。曲がり角というか分かれ道というか、それは20年前にすでに見えていた。
 1995年1月17日に起きた阪神・淡路大震災は、原発に限らず、あらゆる「安全神話」を白日の下にさらけ出した。4月14日には電気事業法の改正が成立し、卸発電と特定地域内の電力小売りが自由化されて、いわゆる「電力自由化」の第一歩が踏み出された。7月11日、電気事業連合会が、新型転換炉の実証炉をつくる計画の見直しを事業主体の国策会社「電源開発」(のち完全民営化)や国に申し入れ、8月25日の原子力委員会で建設は正式に中止された。電力業界が公然と国策に反旗を翻したのは、初めてのことである。
 そして12月8日、高速増殖原型炉もんじゅでナトリウム噴出・火災事故が発生する。事故を受けて翌1996年1月23日、福井・福島・新潟3県の知事が、「今後の原子力政策の進め方について」の内閣総理大臣への提言をとりまとめた。「陳情」でも「要請」でもなく「提言」は、まさに画期的なものだった。
 新潟県巻町(現・新潟市)議会では1995年6月26日、原発建設賛否の住民投票条例案を可決、96年8月4日の投票実施(有効投票の61%、全有権者の54%が反対)につながる。



 20年後の今年2015年こそ、原発廃止へのより大きな曲がり角であり、廃止か延命・再推進かの、おそらく決定的な分かれ道である。
 川内原発に始まる再稼働は、何としても食い止めたい。止める力も残っている。それでも力ずくで強行されてしまうかもしれない。しかしなお「原発はほぼゼロ」の状況に変わりはなく、ここでがんばっただけ、その後の動きに歯止めがかかる。そして、原発廃止への分かれ道を確かなものにできる。

 2012年6月20日に原子力規制委員会設置法が成立、付則で原子炉等規制法が改正されて、原発の運転期間は原則40年とされた。特別点検と経年劣化評価を実施して保守・管理方針を策定し、1年3ヵ月~1年前に委員会に認可を申請して、認可を得られれば1回だけ、最長20年の延長ができる。ただし13年7月8日の施行時点で40年を超えているものがあり、超えていなくても審査中に超えてしまうものもありうる。
 敦賀1号、美浜1、2号は2013年7月8日には40年を超えていた。14年末には島根1号、高浜1号も超えた。玄海1号、高浜2号は15年末までに超えることになる。そんな7基については、施行3年後の16年7月7日で40年と見なすこととされた。運転期間の延長を望む場合は、その1年3ヵ月~1年前、すなわち15年4月から7月の間に原子力規制委員会に延長認可の申請をしなくてはならない。
 延長認可とは別に、新規制基準にも適合していなければ、そもそも再稼働することができない。老朽炉にとって許認可のハードルは高く、不許可ならもちろん、2016年7月7日の時点でまだ審査中だった時には、再稼働も40年超運転も、自動的に認められないことになる。遅くとも15年早々には適合性審査の申請をしなくては間に合わない。原子力規制委員会と経済産業大臣が求めたのは、そういうことだ。
 7基のうち高浜1、2号について関西電力は2014年12月1日、特別点検に着手したと発表した。原子炉容器の中性子照射脆化や各機器の腐食、コンクリート強度などを調べるものだ。特別点検着手は、40年超運転の意思表示である。他の5基は廃止の見込みが高いので、高浜1、2号の申請が無ければ「運転延長ゼロ」という実績がつくられてしまう。東京電力没落後の電気事業者のリーダーとしては、何が何でも申請するしかないのだろう。
 老朽炉を新規制基準に適合させることが可能と判断しても、そのためには大規模な改修が必要となり、多額の費用を要する。高浜1、2号以外は出力が小さいことを考えると、延長期間のうちに投資の回収はとてもおぼつかない。また、延長をすれば、事故=莫大な出費のリスクは高まり、使用済み燃料や各種放射性廃棄物の後始末の費用が増える。電力需要も低減しているし、それなら廃炉にと考えるのが自然だろう。
 とはいえ、その時には、損失を一気に計上しなければならない。「不良債権」のツケが回ってくる。そこで2013年10月、会計ルールの原則をあえて踏み外し、運転終了後も主要設備の減価償却や廃炉費用の積み立てができるようにされた。それでも電力会社の側は、負担がなお大きいとしていっそうの対策を求め、総合資源エネルギー調査会電力・ガス事業分科会電気料金審査専門小委員会の廃炉に係る会計制度検証ワーキンググループで再び検討されている。
 そうした対策によって原発の廃止が加速されるならと歓迎する考えもあるが、それならば、早く廃炉にするほど優遇されるとか、同上分科会の原子力小委員会への意見書で吉岡斉委員が提案するように「原発の全廃へ舵を切る会社については、それを応援するための特別の支援を検討」するとか、もっと効果的に廃止を促すしくみにすべきだろう。そうでないと、この対策は、目先の老朽炉のためだけでなく、新増設炉の投資額回収を容易にする策ともなりうる。原子力小委員会では、何人もの委員・専門委員から、老朽炉の廃炉と抱き合わせで新増設をと声高に語られているのだ。
 原子力小委員会事務局の資源エネルギー庁の最大の狙いは、電力自由化の進展下でも電力業界が原子力事業から逃げ出さないよう、福島原発事故の「『事故前政策』よりもはるかに手厚い支援・優遇」(吉岡斉委員意見書)を与えることである。廃炉会計の見直しは、その1つにすぎない。文部科学、経済産業などの副大臣らにより、原子力損害賠償制度の見直しも別途進められている。
 再稼働が、原発をいま動かすかどうかではなく、投下した資金を回収できるまで原発を長く動かすことであるのと同様に、原子力小委員会での議論は、老朽原発の廃炉を奇貨とし、新増設によって一定規模の原発を維持することを意味している。
 電力需要の動向を見ても、原発廃止は必然である。問題は、廃止か延長かではなく、老朽原発の廃止を原発延命への隠れ蓑にするか全原発の廃止に向けた第一歩とするかだ。私たちのなすべきことは自明だろう。

(西尾漠 原子力資料情報室共同代表)

緊急シンポジウム「川内原発再稼働の是非を問う」

★緊急シンポジウム「川内原発再稼働の是非を問う」

原子力規制委員会は,去る9月に九州電力の川内原子力発電所1・2号機の安全対策の基本方針が新規制基準を満たすとする審査書を決定しました.しかし,それには多くの問題点があります.それらの川内原発再稼働の問題点を考えるために以下のような緊急シンポジウムを企画しました.興味のある方はご参加ください.

日 時:2015年1月18日(日曜日) 14:00~17:00 (開場13:30)
場 所:久留米大学 福岡サテライト (大丸東館エルガーラ・オフィス棟6F)
    (入口は、エルガーラ・ホール側ではなく、国体道路側です)
会 費:無料

報 告:「川内原発再稼働をめぐる状況」14:00~16:00
(1)「原子力規制委員会に対する異議申立について」30分
 北岡逸人(異議申立人・総代,元柏崎市議会議員)
(2)「再稼働を認めた規制基準の技術的問題点について」30分
 中西正之(元燃焼炉設計技術者)
(3)「『世界最高水準の規制基準』なる虚言について」20分
 岡本良治(九州工業大学名誉教授)
(4)「原子力規制委員会の審議内容について」20分
 森田満希子(九州大学大学院博士課程)
(5)「福島原発事故と小児甲状腺ガンおよび鼻出血の関連」20分
 森永 徹(元純真短期大学講師)
休 憩:16:00~16:10
討 論:16:10~17:00 司会:豊島耕一 (佐賀大学名誉教授)

主 催:福岡核問題研究会
問合先:三好 (電話:092-522-8401,メール:eisaku.miyoshi@kyudai.jp)

内田樹の「2015の年頭予言」

★2015年の年頭予言***「内田樹の研究室 2015-1/1」より転載

あけましておめでとうございます。年末には「十大ニュース」、年頭には「今年の予測」をすることにしている(ような気がする)。ときどき忘れているかもしれないが、今年はやります。今年の日本はどうなるのか。

「いいこと」はたぶん何も起こらない。 「悪いこと」はたくさん起こる。
だから、私たちが願うべきは、「悪いこと」がもたらす災禍を最少化することである。

平田オリザさんから大晦日に届いたメールにこう書いてあった。
「私は大学の卒業生たちには、『日本は滅びつつあるが、今回の滅びに関しては、できる限り他国に迷惑をかけずに滅んで欲しい』と毎年伝えています。来年一年が、少しでも豊かな後退戦になるように祈るばかりです。」これから私たちが長期にわたる後退戦を戦うことになるという見通しを私は平田さんはじめ多くの友人たちと共有している。

私たちの国はいま「滅びる」方向に向かっている。
国が滅びることまでは望んでいないが、国民資源を個人資産に付け替えることに夢中な人たちが国政の決定機構に蟠踞している以上、彼らがこのまま国を支配し続ける以上、この先わが国が「栄える」可能性はない。多くの国民がそれを拱手傍観しているのは、彼らもまた無意識のうちに「こんな国、一度滅びてしまえばいい」と思っているからである。

私はどちらに対しても同意しない。

国破れて山河あり。
統治システムが瓦解しようと、経済恐慌が来ようと、通貨が暴落しようと、天変地異やパンデミックに襲われようと、「国破れて」も、山河さえ残っていれば、私たちは国を再興することができる。私たちがいますべき最優先の仕事は「日本の山河」を守ることである。私が「山河」というときには指しているのは海洋や土壌や大気や森林や河川のような自然環境のことだけではない。日本の言語、学術、宗教、技芸、文学、芸能、商習慣、生活文化、さらに具体的には治安のよさや上下水道や交通や通信の安定的な運転やクラフトマンシップや接客サービスや・・・そういったものも含まれる。日本語の語彙や音韻から、「当たり前のように定時に電車が来る」ことまで含めて、私たち日本人の身体のうちに内面化した文化資源と制度資本の全体を含めて私は「山河」と呼んでいる。

外形的なものが崩れ去っても、「山河」さえ残っていれば、国は生き延びることができる。
山河が失われれば、統治システムや経済システムだけが瓦礫の中に存続しても、そんなものには何の意味もない。今私たちの国は滅びのプロセスをしだいに加速しながら転がり落ちている。滅びを加速しようとしている人たちがこの国の「エリート」であり、その人たちの導きによってとにかく「何かが大きく変わるかもしれない」と期待して、あまり気のない喝采を送っている人たちがこの国の「大衆」である。

上から下までが、あるものは意識的に、あるものは無意識的に、あるものは積極的に、あるものは勢いに負けて、「滅びる」ことを願っている。そうである以上、蟷螂の斧を以てはこの趨勢は止められない。自分の手元にあって「守れる限りの山河」を守る。それがこれからの「後退戦」で私たちがまずしなければならないことである。

それが「できることのすべて」だとは思わない。
統治機構や経済界の要路にも「目先の権力や威信や財貨よりも百年先の『民の安寧』」を優先的に配慮しなければならないと考えている人が少しはいるだろう。彼らがつよい危機感をもって動いてくれれば、この「後退戦」を別の流れに転轍を切り替えることはあるいは可能かも知れない。

けれども、今の日本のプロモーションシステムは「イエスマンしか出世できない」仕組みになっているから、現在の統治機構やビジネスのトップに「長期にわたる後退戦を戦う覚悟」のある人間が残っている可能性は限りなくゼロに近い。だから、期待しない方がいい。とりあえず私は期待しない。この後退戦に「起死回生」や「捲土重来」の秘策はない。

私たちにできるとりあえず最良のことは、「滅びる速度」を緩和させることだけである。多くの人たちは「加速」を望んでいる。それが「いいこと」なのか「悪いこと」なのかはどうでもいいのだ。早く今のプロセスの最終結果を見たいのである。その結果を見て、「ダメ」だとわかったら、「リセット」してまた「リプレイ」できると思っているのである。でも、今のような調子ではリセットも、リプレイもできないだろう。

リプレイのためには、その上に立つべき「足場」が要る。その足場のことを私は「山河」と呼んでいるのである。せめて、「ゲームオーバー」の後にも、「リプレイ」できるだけのものを残しておきたい。それが今年の願いである。

霞む原発、オスプレイ : 佐賀県知事選

★霞む原発、オスプレイ ― 佐賀県知事選における大手メディアの歪んだ報道
***「HUNTER 2015年1月 6日 08:45配信」より転載

佐賀2.jpg異例の「年またぎ」となった知事選挙を巡り、大手メディアの歪んだ報道が相次いでいる。
 
 任期途中で県政を放り出し、衆院議員に転身した古川康前知事の辞任を受けた佐賀県知事選挙。12月25日に告示され、正月をはさんで1月11日に投開票されるという、有権者無視の日程だ。
 県政トップの座を争っているのは、届け出順に飯盛良隆(44)、樋渡啓祐(45)、山口祥義(49)、島谷幸宏(59)の4氏。同県には、県民の将来を左右する重要な県政課題があるはずだが、大手メディアはことさら「政権VS農協」の構図を浮き立たせ、争点ぼかしに精を出している。

@大手メディア主導で「政権VS農協」の構図に
 
 知事選の告示以来、新聞各紙がこぞって書きたてているのは、首相官邸と農協による対立の図式。古川氏が後継指名した前武雄市長の樋渡氏を官邸サイドが、元総務官僚の山口氏を、農協の政治組織「佐賀県農政協議会」(県農政協)が支援しているからだ。農協は、安倍政権が進める農協改革に反対の立場であり、自公推薦の樋渡氏を知事にするわけにはいかない。加えて樋渡氏に批判的な佐賀市をはじめとする県内自治体の首長の多くが山口氏支持でまとまっており、一騎打ちの構図が出来上がってしまった。大手メディア主導で知事選の構図が定まった形だが、こうした報道の在り方には嫌悪感を覚える。

 佐賀県政が抱える重要課題といえば、どう見ても玄海原発(佐賀県玄海町)再稼働と新型輸送機オスプレイの佐賀空港配備。古川前知事が任期途中で国政転身を図ったため積み残されてしまったが、いずれも県民の生命・財産に直結する問題だ。農協が勝つか、政権側が勝つかなどという次元の低い話とは訳が違う。しかし、告示以来の新聞報道は、どれも冒頭や下の写真にある通り、「政権VS農協」に焦点を絞って、有権者を煽り立てている。

 11日の投開票を前に、その傾向はエスカレート。6日の朝日新聞朝刊の記事には「原発」「オスプレイ」は1回も登場せず、西日本新聞朝刊の記事(同)では立候補している島谷氏の主張として申し訳程度に「原発再稼働反対」と書いてあるだけ。オスプレイは影も形も見えない。どちらが勝っても、原発は動き、オスプレイは佐賀空港に配備されるが……。

 樋渡氏も山口氏もしょせんは元総務官僚。当然、原発再稼働やオスプレイ配備には賛成の立場で、この二つの重要課題については、多くを語っていない。原発やオスプレイに慎重な意見が多数を占めるなか、マスコミ報道が偏ったため、官邸と農協の代理戦争ばかりが目立った格好だ。有権者が望んでいるはずの論戦は、すっかり霞んでしまった。佐賀県にとっての最大の争点を葬り去ったのは、大手メディアの報道姿勢だと言っても過言ではあるまい。

@報ずべきは……
 
 報道が県民に対して提起すべき問題は、ほかにもあったはずだ。古川、樋渡、山口――知事選に絡む人物はすべて総務省の官僚あがり。樋渡氏が任期を3年半の残して辞任したため5日に告示された武雄市長選には、これまた総務省出身の新人が、樋渡氏の後継指名を受けて立候補している。地方の時代と言われて久しいが、佐賀は明らかに逆行。県内の自治体トップを、総務省の役人がたらい回ししている現状について、疑問を呈するべきであろう。

 年またぎの知事選となったのは、6か月の任期を残していた古川氏が国政転出を図ったことが原因だ。古川後継となった樋渡氏に至っては、3年半もの任期を残して武雄市政を放り出している。官僚出身首長の無責任さについても厳しい批判を行うべきだったが、識者らの声を拾うばかりで、独自に論陣を張ったメディアは皆無。佐賀にはジャーナリストが不在ということらしい。

 報道は“面白ければいい”というものではあるまい。「政権VS農協」といった勝負の帰趨が、佐賀県民にとってそれほど重要とも思えない。原発やオスプレイについての論戦が低調になったのは、明らかに報道機関の責任。大手メディアの歪んだ報道が、佐賀の民意を踏みにじろうとしている。

菅原文太が鳴らした警鐘

★日テレとNHKが菅原文太の反戦・脱原発発言を自主規制で封殺!?
***「2014-12/6 LITERA」から転載

高倉健と菅原文太。相次いでこの世を去った二人の映画スターが自分の死を伝えるテレビニュ―スを見ていたら、いったいどんな感想を抱いただろう。もしかすると健さんは自分のイメージが守られたことに安堵したかもしれない。だが、文太兄ぃのほうは対照的に、相当な不満を感じたのではないか。

 なぜなら、多くのテレビ局が故人のプロフィールについて自主規制をかけ、彼のもっとも伝えたいことを伝えなかったからだ。

 菅原文太といえば、後年は俳優というより、むしろ市民運動に精力的に取り組んでいた。メインテーマは反戦、憲法改正阻止、反原発。集団的自衛権や特定秘密保護法、原発再稼働にもきっぱりと反対の姿勢を見せ、安倍政権を徹底批判していた。その情熱は、死の1ヶ月前に病身をおして沖縄県知事選の翁長候補(新知事)の総決起集会にかけつけ、演説で戦争反対を語ったことからもうかがいしれる。

 ところが訃報当日、こうした姿勢をきちんと伝えたのは『報道ステーション』(テレビ朝日系)と『NEWS23』(TBS系)のみだった。フジ系の『ニュースJAPAN』は夫人のコメントを紹介して、反戦への思いは伝えたものの、脱原発や集団的自衛権反対など、具体的な問題にはふみこまなかった。

 さらに、日本テレビの『NEWS ZERO』にいたっては、映画俳優としての功績を紹介しただけで、政治的な発言について一切紹介なし。最後にキャスターの村尾信尚が「晩年、社会に対して発言し続けた」と語っただけだった。

 また、NHKは沖縄県知事選での演説を一部流して、社会活動に関心をもっていたことはふれたものの、なぜか夫人のコメントを一部割愛・編集していた。

 実際の夫人のコメントは以下のようなものだった。

〈七年前に膀胱がんを発症して以来、以前の人生とは違う学びの時間を持ち「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」の心境で日々を過ごしてきたと察しております。
 「落花は枝に還らず」と申しますが、小さな種を蒔いて去りました。一つは、先進諸国に比べて格段に生産量の少ない無農薬有機農業を広めること。もう一粒の種は、日本が再び戦争をしないという願いが立ち枯れ、荒野に戻ってしまわないよう、共に声を上げることでした。すでに祖霊の一人となった今も、生者とともにあって、これらを願い続けているだろうと思います。
 恩義ある方々に、何の別れも告げずに旅立ちましたことを、ここにお詫び申し上げます。〉

 ところが、NHKはこのコメントから「無農薬有機農業を広める」というくだりと「日本が再び戦争しないよう声を上げる」というくだりを丸々カットし、以下のように縮めて放映したのだ。

〈「落花は枝に還らず」と申しますが、小さな種を蒔いて去りました。今も、生者とともにあって、これらを願い続けているだろうと思います。〉

 これでは、どんな種を蒔き、何を願ったのか、まったくわからない。いやそれどころか、「これら」が「落花は枝に還らず」という言葉をさしているように解釈されてしまう。少し前、川内原発再稼働の報道をめぐって、原子力規制委員会の田中正一委員長の発言を編集した『報道ステーション』がBPOの審議対象になったが、もし、あれがBPO入りするなら、このNHKの菅原夫人コメント編集も明らかにBPOの対象だろう。

 いったいなぜこういうことが起きてしまったのか。

「例の自民党からの通達の影響です。公示期間中なので、選挙の争点に関わるような政治的な主張を取り上げると、後で何を言われるかわからないと、各局、びびってしまったんでしょう。ただ、日テレの場合はそれを利用した感じもしますね。読売はグループをあげて、安倍首相を応援していますから、通達を大義名分にして、自民党に不利になるような報道をやめさせたということでしょう」(民放関係者)

 しかも、この自主規制は翌日のワイドショーをみると、さらにひどいことになっていた。日本テレビ系の『スッキリ!!』や『情報ライブ ミヤネ屋!』が一切触れないのは予想していたが、TBS系の『ひるおび!』でも映画俳優としての足跡のみを特集し、政治活動については全く報道しなかったのだ。

「前日の夜に『NEWS23』と『報ステ』が『菅原文太の死を政治利用している』『反戦プロパガンダだ』と大炎上したんです。抗議も殺到したらしい。それでTBSはビビったのかもしれません」(前出・民放関係者)

 驚いたことに、テレビの世界では「護憲」「反戦」がタブーになっているらしい。いっておくが現時点では日本国憲法が日本の最高法規であり、戦争に反対するというのは大多数の国民の願いでもある。ところが、それを軽視することがタブーになるならまだしも、逆に尊重することがタブーになってしまっているのである。

 おそらく、こうした状況に一番、無念な思いをしているのは当の菅原だろう。強いものにすり寄ることしかしないこの国のヘタレマスコミによって、命をすり減らしながら叫んだ言葉が葬り去られてしまったのだから。

 だったら、その無念の何百分の一でも晴らすために、最後に菅原が雑誌の対談やインタビューで語った発言を紹介しておこう。

「憲法は変えたらダメだと思っている。戦後68年間、日本がどこの国とも戦争をしないで経済を発展してこれたのは。憲法九条のおかげだよ。九条は世界に誇れる日本だけが持っている宝ですよ。」(カタログハウス「通販生活」)

「戦争を知らないバカどもが『軍備をぴっちり整えなくちゃダメだ』とか言いはじめている。そういう国情って、まったく危ういですよね。それを防ぐためにはやっぱり、筋金入りの反戦家が増えてこないといけないし、それが大きな力になると思うんです。」(小学館「本の窓」2012年9・10月号)

「安倍さんの本当の狙いも集団的自衛権というより、その上の憲法を変えることにあるのかと思うのだけど(中略)拳を振り上げ、憲法改正を煽りたてる人たちは、いざとなったとき戦場には行かない人たちじゃないですか。
 出て行くのは無辜の民衆だけで、その結果、沖縄戦で二〇万人。広島と長崎で三〇万人、戦地では何百万人とも言われる有為の青年たちが命を落とした。それを繰り返すのではあまりに情けない。」(「本の窓」2013年6月号)

「安倍首相が『日本人は中国で何も悪いことをしていない』というようなことを言ってるんだから。(中略)日本はドイツと違ってすぐに過去を忘れて、ニワカ民主主義者が反省もなく生まれて、戦後ずっと来てしまったじゃないですか。上がそうだから、若い連中まで『虐殺はなかった』なんて言ってる。なぜ謝罪をしないのだろうか?」(「本の窓」2013年7月号)

「まさに戦争を知らない安倍、麻生、石破の内閣トリオは異様な顔ぶれだね。この異様さに、国民も、マスコミも、もっと敏感になってほしいよ」(「本の窓」2013年12月号)

「平和憲法によって国民の生命を守ってきた日本はいま、道を誤るかどうかの瀬戸際にあるのです。真珠湾攻撃に猛進したころと大差ありません。」(「日刊ゲンダイ」2013年8月29日号)

 おそらく、これから先、日本は菅原が危惧した方向にどんどん向かっていくだろう。国民がそれに抗することができるかどうかはわからないが、少なくとも菅原文太という俳優が最後まで警鐘を鳴らし続けたことは心に刻んでおきたい。

2014 映画トップ10

あけましておめでとうございます。
僕は人生最後の『厄』が大当たりで、「前厄」「本厄」と2年にわたり最凶だったので、今年の「後厄」は運気を上げて捲土重来といきたい。

★2014 映画トップ10(邦洋混成)

【A】、*ここのみにて光輝く(日本)

B、ダラスバイヤーズクラブ
C、ジャジーボーイズ
D、闇金ウシジマくん Part2(日本)
E、舞妓はレディ(日本)
F、チョコレートドーナツ
G、ブルージャスミン
H、ぼくたちの家族(日本)
I、 ウッドジョブ! 神去なあなあ日常(日本)
J、猿の惑星・新世紀
次点、 グランドブタペストホテル

@新人監督賞   *家路(日本:久保田直監督)

*コメント

Aが圧倒的な印象を残している。その他の順番はあまり意味はない。Bの主人公のシタタカサには目を見張った。Cはイーストウッドのミュージカルで、心が躍った。Fのラストは「アイシャルビーリリースト」の歌唱で(「ラストワルツ」のそれも感動的だったが)心から泣けた。2014-12/31現在、「ゴーンガール」「インターステラー」「滝を見にゆく」「0.5ミリ」は未見。

いずれにせよ、現実に起きる事件(2014で挙げれば、佐世保女子高生殺害解剖事件や筑後市連続殺人事件)の方が、虚構である『映画』を凌駕している。佐世保女子高生殺害解剖事件などは、25年前の宮崎勤事件をトレースしているかのような既視感を感じる。

・・・・・・・・・・・・・

*映画評『そこのみにて光輝く』・再録

呉美保監督の『そこのみにて光輝く』を、日田市の「リベルタ」で観てきた。原作は、1990年に41歳で自死した、村上春樹と同世代の作家、佐藤泰志が遺した唯一の長篇小説である。僕はその小説は未読だが、映画『そこのみにて光輝く』は、1970年代の日活ロマンポルノやそれにまつわる記憶を呼び起こさせる不思議な作品だ。

ある過去の事故の記憶にさいなまれ、無為な日々を送る達夫(綾野剛)は、バラックのような拓児(菅田将暉)の家で、姉の千夏(池脇千鶴)と出会い、心を動かされる。千夏は売春で貧しい家の家計を支え、母親のかずこ(伊佐山ひろ子)は、脳梗塞で寝たきりの父親の性欲処理を黙々とこなしている。この荒みきった悲惨な家族の光景は、大阪・西成区釜ヶ崎で生きる売春婦親娘(花柳幻舟と芹明香!)と白痴の弟(夢村四郎)とのよるべない生活を活写した『色情メス市場』(田中登監督)を彷彿とさせる。この原題が『受胎告知』という映画は、近親相姦と近親憎悪という『酷愛の軌跡』を、ドキュメンタリータッチで描かれた、ある意味で、「美しく」昇華されたファンタジーだと言える。

自転車をくねくねと乗り回す拓児や、互いに惹かれあう達夫と千夏が人の気配がない寒々とした砂浜を歩くシーンは、『恋人たちは濡れた』(神代辰巳監督)の大江徹や中川梨絵の抱えていた白々とした虚脱感、『アフリカの光』(同監督・東宝)のショーケンと田中邦衛がアフリカ遠洋漁船を根室で待つ日々の閉塞感とだぶって見えて仕方がなかった。達夫が鼻歌を口ずさみながらふらふらと歩いている姿は、さながら『青春の蹉跌』(同監督・東宝)のショーケンそっくりだ。

絶えず煙草を吸い、とりとめのない怒りや焦燥をもてあます綾野剛。絶望の淵からなんとか外の世界へと視線を投げかけようと身悶える池脇千鶴。ノンシャランな存在感がリアルに迫ってくる菅田将暉。それぞれの演技者がいい仕事をしている。そして、千鶴への身勝手な執着を止められない造園会社の社長役の高橋和也は「浅ましさ」や「女々しさ」を見事に表現していた。

『そこのみにて光輝く』は、2008年の秋葉原殺傷事件以降の酷薄な格差社会の実相をリアルに映し出している。同じ原作者の『海炭市叙景』(2010:熊切和嘉監督)では地方都市に生きる若者の屈折した青春の姿、一筋の光を求めて暮らす家族の再生を描き出していた。しかし、この作品では閉塞感はさらに内向していて、外部からの救いは訪れない。一度人生にしくじったり事故に遭ったりすると、セイフティネットにも引っかからず滑り台の真下までマッサカサマに落ちてしまう。プライドや夢まで、金に置き換えられ押しつぶされてしまう・・・。「出口なし」の状況なのだが、自分たちの意志でもがく達夫と千夏を呉美保監督は掬い上げようとする。画面からにじむような橙色の光が氾濫する海辺のラストシーンに、僕たちはかすかな曙光にも似た希望のようなものを見た。

この達夫と千夏のささやかな「愛の灯火」を、時代の風よ、消さないでおくれ!

***

*映画評『家路』・再録

長年TVのドキュメンタリーを撮ってきた久保田直監督、初の劇映画作品。

3.11後の福島原発事故の放射能汚染で立ち入り禁止になった故郷の農村に、ある事件をきっかけに東京に行き一度も戻ってこなかった、次郎{松山ケンイチ}が、20年ぶりに戻ってくる。そして、誰もいない田んぼで、たった一人で苗を植え始める。一方、次郎の兄の総一{内野聖陽}は、亡くなった父の後妻登美子{田中裕子}と妻{安藤サクラ}と子供の4人で、仮設住宅で、鬱屈して暮らしている。

総一と次郎は腹違いの兄弟で、この物語では「カインとアベル」の翻案のように、裏『エデンの東』のように、彼らの関係が展開されるいる。

早春の風にゆれる田んぼの緑がとても美しい。無人の立ち入り禁止地区を、ただ淡々とずーと映す次郎のシークエンスは、観ていて、心が痛くなってくる。放射能には色も匂いもなく目にも見えないし体にも感じないというが、その美しい光景に溶け込んでいる実際の現実がとても怖い。

次郎は、小学校の時授業中「自然を守るためには、どうしたらいいか?」という問いに、「人間がいなくなればいい」と答えて、クラスを沈黙させる。人間の「業の深さ」、科学の「自走性」という事を考えてみると「放射能によって被曝したのは、人間だけではない。植物や、動物達も、生きとし生けるものすべてが被曝したのだ」と理会できる。荒廃した商店街をウロウロする家畜たちの姿から、そのような思いに至る。

放射能を撒き散らしたものを処罰する法律はなく、警戒区域にある自分の家に行こうとすると罰される。こんな理不尽なことがあっていいのか!加害事業者の処罰を訴える総一に警官が、言う。「何人いるの?」家族一人につき月10万円の精神的賠償のことだ。総一家族は4人だから月額40万円。確かに暮らせないことはない金額だ。でも金じゃないと総一は言う。奪われた生活は金で補償されるものではない。農業を営み、ふるさとの自然の中で心豊かに生きてきた生活は、経済的には決して裕福とはいえなくても生きがいのあるものだったろう。

いくら生活費を補償されても、あの狭い仮設住宅の暮らしは耐え難いであろう。仮設住宅は本当に狭くて(2DK≒12坪?)、4人家族で住むのはプライバシーの問題もあり大変だと思う。総一の妻がデリヘルに出る(設定としては唐突で伏線がないので不親切だが)のも、感覚的に、うなずけてしまう。彼女の場合、金銭的な理由からだけではなく、精神的な空虚感からなのだと思える。その妻の職業を認めていて、お金を出して妻を買おうとする総一の姿は悲しくてやるせない。この夫婦の関係が「仮設住宅の生活」のざらざらした日常を表している。

画一的な仮設住宅で、認知症気味な母親が自分の家がわからなくなって、パニックになるシーンがある。そこに表象されるのは仮設住宅に住む人々の心象風景だろう。嫁は母親を見つけて、店先で並んで魚肉ソーセイジでビールを飲むシーンはホットさせる場面だ。

母親と次郎が田植えをする美しいシークエンスでエンディングになる。警戒中の警官があらわれて声を掛けようとするが、冒頭のシーンとは異なり、声を掛けずに立ち去る。見ていてちょっといい気分になる。母親と次郎にとって田園は『エデンの園』なのだろうが、「フクシマの『エデンの園』はセシウムに汚染されている」と考えると複雑な気持ちになる。

松山ケンイチは、素朴な農村の青年を自然に演じ、青森県出身らしい純朴さが感じられて、とても良かった!田中裕子も、認知症を患う母を演じきり、素晴らしい! 内野聖陽の熱演、安藤サクラの気だるい空気感。アクチュアルなカメラワーク、加古隆の静かなピアノ曲。。。キャスト・スタッフのみなさん、いい仕事をしている。

無人の地区に流れる、ドヴォルザークの{家路}は、物悲しく、心に染み入ってくる。
プロフィール

としとんどん

Author:としとんどん
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード