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四月の唄:上海帰りのリル

★上海帰りのリル

作詞:東条寿三郎
作曲:渡久地政信
歌唱:津村 謙


1 船を見つめていた
  ハマのキャバレーにいた
  風の噂はリル
  上海帰りのリル リル
  あまい切ない思い出だけを
  胸にたぐって探して歩く
  リル リル どこにいるのかリル
  だれかリルを知らないか

2 黒いドレスを見た
  泣いていたのを見た
  戻れこの手にリル
  上海帰りのリル リル
  夢の四馬路(スマロ)の霧降る中で
  なにもいわずに別れたひとみ
  リル リル 一人さまようリル
  だれかリルを知らないか

3 海を渡ってきた
  ひとりぼっちできた
  のぞみすてるなリル
  上海帰りのリル リル
  くらい運命(さだめ)は二人で分けて
  共に暮らそう 昔のままで
  リル リル 今日も逢えないリル
  だれかリルを知らないか

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村上春樹:『核発電所』を巡る『日本』の意思決定

★『核発電所』を巡る『日本』の意思決定

(質問)

拝啓村上春樹様
こんなタイミングを長年待ち望んでおりました。
が、昔に質問を書いたノートが見当たりません。
10年前、何を聞きたかったのかも思い出せませんが、今お聞きしたい事を書きます。

私の中で村上さんは正義がある。だけれど日本の一般的モラルには緩い(いい意味で)、そして偏見がないと感じられるとても稀なかたです。だからこそお聞きしたいのです。私は長野県のど田舎に生まれ育ち、高校から親元を離れ8年程県外におりましたが、やっぱり故郷がいいと、この歳まで独身ながら暮らしています。

東日本大震災の後全国各地の原発が止まり、火力、水力発電がフル活動で補っている現状なのはご存知かと思います。私の暮らす田舎は震災前から現在まで、100%自前の水力発電で補っています。震災後原発が止まり、近隣都市への電力供給のために更なる発電量をと河川をせき止め、水を抜き取り、せっせとクリーンエネルギーを作り出しているわけなんです。

私は釣り好きです。
地元の渓流を歩いてもう十数年経ちます。
地元の何本かの河川の状況だけですが、毎年歩いて見ています。
あきらかに発電のための取水口以下の水量が少なく、水温が高く、今まで見たことのない藻が川底の岩を覆い、川底の砂が増えるといった変化が著しい。

私は原発絶対反対、完全不必要論支持者です。
が、原発が動いていた時の方が私の大事な自然が守られる。
こんな矛盾にどう向き合えばいいのでしょう? 

ワイドショーでは太陽光発電でと言っていますが、この水力発電のフル稼働をどうにか出来るものではないでしょう。電力会社が違うし。ずーっとモヤモヤしています。

村上さんならどう考えますか? どういった行動を起こしますか? 

(見習い介護士、女性、36歳、認知症高齢者介護士)

・・・・・・・・・・・・・

(回答)

おっしゃっていることはとてもよくわかります。ただ単純に原発(核発)を止めて、自然エネルギーだけにしろといっても、そんなに簡単に目標が達成できるものではありませんよね。何かを変えようとすれば、いろんな矛盾や問題が次々に出てきます。ヨーロッパは風力発電が盛んですが、渡り鳥があのブレードに巻き込まれて大量に死ぬということもあるようです。それが問題になっています。時間をかけて、いろんな状況をうまく「こなれさせる」ことが必要になってきます。

ただ核発が潜在的に含んでいる圧倒的な(非人間的にまで圧倒的な)リスクに比べれば、そのような矛盾や問題は、人間の手で少しずつ解決していけるレベルの問題ではないかと僕は考えています。「みんなで知恵をしぼって詰めていけば、なんとか答えは出るんじゃないか」と。

僕自身は「何がなんでも核発をなくせ」とごりごりに主張しているわけではありません。もしそれが国民注視のもとに注意深く安全に運営されるなら、過渡的にある程度存在しても仕方ないとは思っているんです。しかし実際にはまったくそうではないから、国や電力会社の言うことなんてとても信用できたものではないし、今のこのような状況下で再稼働はもってのほかだと考えているのです。

どのように行動するか? 日本という国家がこれからどのような方向に舵をとっていくか、その意思決定をするのが先決ですよね。ドイツは意思決定を早々に下しました。目先の経済効率よりは、人間性の尊厳の方が国家にとって大事なことなのだと。日本にだってそのような決定はできるはずです。まず大筋を決める。そのためには、論点をひとつに絞り込んだ国民投票みたいなものが必要になってくると思います。そういう道筋がうまく開けるといいのですが。

村上春樹拝

***「村上さんのところ: 2015-4/26回答分」より転載

「わからない・わからない」じゃ、死ぬばかり。

★明治、大正の演歌師、添田唖然坊(そえだあぜんぼう)に倣って。
  鎌田慧 (ルポライター)

 あゝわからない、わからない。
安倍さんのやること、わからない。
アベノミクスというけれど、表面(うわべ)ばかりじゃわからない。
株価上がった、利益はふえた。ふえたふえたは貧乏人。
やることなすことアベコベだ。

 あゝわからない、わからない。
沖縄いじめはわからない。辺野古差し出し御用聞き。
粛々進めてアメリカ詣で。拍手受けたい夢がある。
あつかましさにも程がある。

 あゝわからない、わからない。
安全、安心、安価、安定、安倍さんトークがわからない。
日本の原発世界一、爆発、死の灰なんのその、あとは野となれ山となれ。
行方不明の燃料棒、どこへいったかわからない。
はやる心がわからない。

 あゝわからない、わからない。
戦争法は平和法、何がなんだかわからない。はやくやりたい戦争ごっこ。
いつでもどこでも駆けつける、日本軍の頼もしさ。
ポチはポチでもアメリカの、こんな危ないことはない。
こんなバカげたことはない。

 あゝわからない、わからない。
NHK、民放、大新聞、口をふさがれ黙っている。
安倍さんばかりが出ずっぱり、これはほんとにわからない。
日本の将来、わからない。頭隠して尻かくさず、解釈改憲わからない。

わからないじゃ、わからない。
わからないじゃ、死ぬばかり。 

(4月21日東京新聞「本音のコラム」より)

司法責務を放棄した鹿児島地裁の権力迎合の態度に抗議する

★司法機関の住民の安全を守る責務を放棄した鹿児島地方裁判所川内原発第1号機、2号機再稼働差止仮処分決定に強く抗議する

        脱原発弁護団全国連絡会 共同代表:河合 弘之・海渡 雄一
 
◎裁判所の権力迎合の態度に抗議する

4月14日の福井地裁の高浜原発差止決定に続き、川内原発の再稼働差止の決定が期待されていたが、4月22日、鹿児島地方裁判所は、川内原発1、2号機について再稼働の差止を求める仮処分申立てを却下した。私たちも、裁判所の審理の姿勢から良い決定が出されるのではないかと期待していたこともあり、却下決定は意外なものであった。
 人権の砦として国民の人格権を守るという司法の責務を負いながら、数々の電力会社と国の説明の不合理を認めながら、再稼働を認めないという当然の司法判断を示すことができなかった裁判官に対して、その行政への迎合と臆病な態度を、我々は強く非難しなければならない。
 本決定は、まず立証責任の分配において、「まずは電力会社の側で、新規制基準の内容及び原子力規制委員会による新規制基準への適合性判断に不合理な点のないことを相当の根拠を示し、かつ、必要な資料を提出して主張疎明する必要があり、債務者が主張疎明を尽くした場合、住民側で、原子炉施設の安全性に欠ける点があり、その生命、身体等の人格的利益の侵害又はそのおそれがあることについて、主張疎明をしなければならない。」としている。そして、これは行政の適合性審査の判断がなされた場合、これを否定し、過酷事故発生の蓋然性についてまで高度の立証を住民側に求めるものであって、批判の強かった浜岡原発訴訟の静岡地裁決定と同様の立場である。
 また、本件決定は、規制委員会の公式の決定ではない「安全目標」に依拠し、規制基準は、福島第一原発における事故の経験等をも考慮した最新の科学的知見及び「安全目標」に照らし、その内容に不合理な点は認められないとしている。
しかし、この安全目標に照らした定量的な論証などはなされていない。また、川内原発は安全目標を満たしているという決定内容は、証拠によって裏付けられていない。

◎平均像で地震想定することを認めた裁判所

 本決定の最大の欠陥は、福島第一原発事故のもたらした被害の現実を全く直視せず、耐震設計、とりわけ基準地震動の想定方法を改めなかった点である。本決定は、争いのない事実として、福島第1原発において、「過酷事故によって大量の放射性物質の拡散と汚染水の海洋流出という未曾有の災害を引き起こした」としているが、多くの生命が失われ、国土が奪われた福島原発事故の被害をどこまで理解して書かれたのか疑問である。そして、福島第一原発事故により、原発事故のもたらす甚大な人権侵害が明らかになったであるから、原発を再稼働するためには、極めて高い安全性が確保されなければならないことは自明のことであった。
 にもかかわらず、本決定は、「地震発生のメカニズムについての知見(その地域ごとに発生する地震の様式、規模、頻度等に一定の傾向が認められる)等に照らせば、このような地域的な傾向を考慮して平均像を用いた検討を行うことは相当であり、平均像の利用自体が新規制基準の不合理性を基礎付けることにはならない」「平均像を導くための基礎データの中に平均像から大きくかい離した既往地震が含まれるとしても、その地域的な特性(震源特性、伝播経路特性、敷地地盤の特性)が本件敷地と大きく異なるのであれば、その既往地震を考慮しなくても不合理とはいえない」としてしまった。
 本決定は、震源を特定せず策定する地震動について、九州電力が主張するように付加的・補完的なものと位置付けることはできず、新たな知見が得られた場合に、これらの観測記録に基づいて「震源を特定せず策定する地震動」の評価を実施すべきであると述べた(148-151頁)。この判示は、住民らの主張を一部容れたものであるが、最終的にはそれが最新の知見であるから合理的であるかのような結論を導いている。最新の知見であっても、現時点で安全上問題があることを認めながら、再稼働を許した決定は不当の極みである。

◎不十分な耐震設計を安全余裕やシビアアクシデント対策によって補完するのは間違い

また、決定は、耐震設計においては、評価基準値が実際に建物等が壊れる限界値との関係で十分な余裕が確保されている、設計段階でも評価基準値に対して上限とならないように工学的な判断に基づく余裕が確保されているなどとした(153-155頁)。
しかし、耐震設計に当たって、このような「余裕」に依拠することが誤っていることは、高浜原発差止決定が次のように述べているところからも明らかである。「一般的に設備の設計に当たって、様々な構造物の材質のばらつき、溶接や保守管理の良否等の不確定要素が絡むから、求められるべき基準をぎりぎり満たすのではなく同基準値の何倍かの.余裕を持たせた設計がなされることが認められる。このように設計した場合でも、基準を超えれば設備の安全は確保できない。この基準を超える負荷がかかっても設備が損傷しないことも当然あるが、それは単に上記の不確定要素が比較的安定していたことを意味するにすぎないのであって、安全が確保されていたからではない。」
また、本決定は、「新規制基準に従い、重大事故が発生し得ることを前提とする安全対策(シビアアクシデント対策)として、保安設備の追加配備等の対策を行っている。これらの安全対策によっても地震に起因する事故により放射性物質が外部環境に放出されることを相当程度防ぐことができるというべきである」として、この点も、耐震設計が厳密なものでなくても良い理由の一つとして援用している(155-156頁)。
これも、多重防護の考え方の自己否定である。この点についても、高浜原発差止決定が次のようにのべているのが正しい。「多重防護とは堅固な第1陣が突破されたとしてもなお第2陣、第3陣が控えているという備えの在り方を指すと解されるのであって、第1陣の備えが貧弱なため、いきなり背水の陣となるような備えの在り方は多重防護の意義からはずれるものと思われる。」

◎破局噴火のリスクを無視した決定

 南九州地方は、破局噴火を起こしたカルデラが数多く存在する地域であり、原発を設置する立地としては極めて不適切な場所である。
 九州電力は、①カルデラ噴火は定期的な周期で発生するが現在はその周期にない事②破局的噴火に先行して発生するプリニー式噴火ステージの兆候がみられない事③カルデラ火山の地下浅部には大規模なマグマ溜まりはないことから破局噴火が起こる可能性は十分に小さい事、から立地に問題はないと主張していた。
 本決定は、「原子力規制委員会は、本件原子炉施設に係る火山事象の影響評価についても、火山学の専門家の関与・協力を得ながら厳格かつ詳細な調査審議を行ったものと評価できるから・・・不合理な点は認められない」とするが、完全な事実誤認である。川内原発の火山影響の審査過程で、火山学者は誰も招聘されていない。火山影響評価ガイドをつくる段階で、一度だけ、火山学者が招聘されただけである。
 本決定は、住民側の主張を容れ、長岡の噴火ステージ論とドルイット論文が一般理論のように依拠していることには強い批判があることは認めた。しかし、この批判が妥当するとしてもマグマだまりの状況等の知見、調査結果と総合考慮されるので、不合理とはいえないとしてしまった。現時点では、マグマだまりの状況を的確に調査する手法は確立されておらず、決定は事実誤認である。

◎火山学会の大勢は破局的噴火の活動可能性を認めている

 また、本決定は、破局的噴火の活動可能性が十分に小さいといえないと考える火山学者が、一定数存在することを認めつつ、火山学会提言の中で、この点が特に言及されていないことから、火山学会の多数を占めるものではないなどと判示し、石原火山学会原子力問題委員会委員長が、適合性審査の判断に疑問が残ると述べたことを無視している。本決定は、他の箇所では「火山学者50人にアンケートを実施したところ、そのうち29人がカルデラ火山の破局的噴火によって本件原子炉施設が被害を受けるリスクがあると回答したとの報道がある」と認定しており、学会の多数が規制委員会の決定に疑問を呈していることは明らかである。
 決定後のNHK報道もこのことを裏付けている。火山噴火予知連絡会の会長で、東京大学の藤井敏嗣名誉教授は、「今回の決定では、火山による影響について、『国の新しい規制基準の内容に不合理な点は認められない』としている。しかし、現在の知見では破局的な噴火の発生は事前に把握することが難しいのに、新しい規制基準ではモニタリングを行うことでカルデラの破局的な噴火を予知できることを暗示するなど、不合理な点があることは火山学会の委員会でもすでに指摘しているとおりだ。
 また、火山活動による原発への影響の評価について、火山の専門家が詳細な検証や評価に関わったという話は聞いたことがない」「カルデラ火山の破局的な噴火については、いつ発生するかは分からないものの、火山学者の多くは、間違いなく発生すると考えており、『可能性が十分に小さいとは言えないと考える火山学者が火山学会の多数を占めるものとまでは認められない』とする決定の内容は実態とは逆で、決定では破局的噴火の可能性が十分低いと認定する基準も提示されていない。火山による影響については、今回の判断は、九州電力側の主張をそのまま受け止めた内容で、しっかりとした検討がされていないのではないか。」と述べたという。決定内容は、明らかな事実誤認であり、抗告審でこの誤りは必ず正さなければならない。

◎実効性のない避難計画を一応の合理性があるとした決定

 さらには、避難計画の不備についても、要支援者の避難計画は立てられておらず、鹿児島県知事自身も10㎞以遠の地域に関しては実効性のある避難計画を定めることは不可能であると自認しているレベルの避難計画であるにも拘わず、避難計画に問題はないとしたのである。住民の生命身体の安全という、人格権の根幹部分を軽視した極めて不当な判断というほかない。
 
◎決定は事故のリスクを認めつつ、行政に追随している

 このように、本決定は極めて不当なものである。福島原発事故後、昨年5月の大飯原発に関する福井地裁判決、11月の大飯・高浜原発に関する大津地裁仮処分(結論は却下であったが、実質的には新規制基準の不合理性を指摘している)、そして、今月14日に福井地裁で出された高浜原発3、4号機に関する福井地裁仮処分と、原発の危険性を指摘する良識的な司法判断の流れにも反する。本決定は、その結論において、不可解な判示を行っている。住民の訴えを却下する判断を示した後に、「地震や火山活動等の自然現象も十分に解明されているものではなく、債務者や原子力規制委員会が前提としている地震や火山活動に対する理解が実態とかい離している可能性が全くないとは言い切れないし、確率論的安全評価の手法にも不確定な要素が含まれていることは否定できないのであって、債権者らが主張するように更に厳しい基準で原子炉施設の安全性を審査すべきであるという考え方も成り立ち得ないものではない。したがって、今後、原子炉施設について更に厳しい安全性を求めるという社会的合意が形成されたと認められる場合においては、そうした安全性のレベルを基に周辺住民の人格的利益の侵害又はそのおそれの有無を判断すべきこととなるものと考えられる」としているのである。
自らの判断に対する自信のなさを、これほどあからさまに表現した決定があっただろうか。しかし、裁判所はこのような薄弱な根拠で川内原発の再稼働を認めてしまったのである。このような判示は裁判官の責任逃れのための言い訳と気休めというべきものであり、事故防止のためには何の役にも立たないだろう。川内原発の再稼働によって、次なる過酷事故が発生した場合には、電力会社や国だけでなく、裁判官もまた同罪であるといわなければならない。今月14日に発せられた高浜原発差止決定に対しては、報道によれば、支持する人が65.7%と、支持しない人の22.5%を大きく上回っている。してみれば、高浜原発差止決定こそが、あらたな「社会的合意」となっており、国民世論に反する本件決定は、既に自らの論理によって無効なものとなっているといわなければならない。

◎原発を止めるまで私たちの闘いは続く

脱原発弁護団全国連絡会は、今年7月にも迫っている川内原発の再稼働を阻止するため、本決定に対する即時抗告審の審理を全面的に支援するとともに、川内原発をはじめとするすべての原発の再稼働をさせないため、あらゆる法的手段を駆使して闘い続けることを宣言する。

2015(平成27)年4月22日

『みずから我が涙をぬぐいたまう日』

★田原総一朗 「天皇陛下のパラオ訪問ににじむ戦火への危機感」

 9日、天皇、皇后両陛下がパラオを慰霊のために訪問された。このことを通じて、ジャーナリストの田原総一朗氏は、天皇、皇后両陛下が今の日本に危機を感じているのだと分析する。

* * * * *
 
戦後70年の首相談話が話題になっている最中、天皇、皇后両陛下が太平洋戦争で激戦地となったパラオ共和国を訪ねた。「慰霊の旅」である。

 8日に羽田空港を出発した際、陛下は安倍晋三首相たちを前にして、「祖国を守るべく戦地に赴き、帰らぬ身となった人々のことが深く偲ばれます」と表明した。そして最大の激戦地となったペリリュー島のことにも触れた。

「日本軍は約1万人、米軍は約1700人の戦死者を出しています。太平洋に浮かぶ美しい島々で、このような悲しい歴史があったことを、私どもは決して忘れてはならないと思います」

 両陛下は、8日の夜は海上保安庁の巡視船で泊まり、9日の朝にヘリコプターに乗ってペリリュー島に向かった。陛下は80歳を超え、心臓病と闘ったお体での激務である。

 風化しがちな戦争の歴史と向き合わねばならないという、強い思いが込められているのであろう。

 ヘリコプターでペリリュー島の飛行場に到着した両陛下は、バスに乗り換えて島の南端に日本政府が1985年に設置した「西太平洋戦没者の碑」へ向かい、供花台に日本から持参した白菊の花束を供えて深く拝礼した。また、沖合に見えるやはり日米の激しい戦闘が行われたアンガウル島に向かって、再び拝礼した。

陛下は今年の新年のご感想で、「満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています」と記している。戦争の風化と集団的自衛権の行使容認などで戦火のにおいが濃くなる時代に、ある危機感を抱いておられるのではないだろうか。

 両陛下は戦後50年に当たる95年には、長崎、広島、そして沖縄の糸満市に「慰霊の旅」を行い、戦後60年にあたる2005年6月にはサイパン島を訪問して、民間人や兵士たちの多くが身を投じたバンザイクリフなどで深く黙祷(もくとう)をしている。そして、戦争から70年の今年、パラオ訪問となったのである。

 あの戦争とは、いったい何だったのか。敗戦のとき、私は小学校5年生であった。陛下は私より1歳年上で、小学校6年生だったわけだ。父親である昭和天皇は皇太子に、昭和の戦争についてどのような説明をしたのだろうか。

 私の父親は、太平洋戦争が勃発すると、原料が来なくなって工場を閉鎖せざるを得なくなり、本人は徴用によって名古屋の工場で働かされ、しかも空襲で危うく生命を失いそうになるなど、戦争に振り回された人生であった。

 昭和天皇は東京裁判にかけられることはなかったが、ご自身は戦争責任について強く感じておられたはずで、戦後はじめてのマッカーサー元帥との会見などでも、そのことを率直に述べておられる。それだけに、どんなことがあっても日本を再び戦争に巻き込むことがあってはならないと強く思い、そのことを皇太子にも託しておられたはずだ。

 陛下は父親の戦争責任を強く感じ、だからこそ、あえて激務の「慰霊の旅」を続けているのではないか。

 また、昭和天皇も現在の天皇陛下も、占領下にGHQによってつくられた平和憲法を、その事情も十分承知の上で、あくまで守るべきだという考えでおられるようだ。日本が再び戦争に巻き込まれることがないようにとの、強い思いからであろう。

***「週刊朝日 2015年4月24日号」より転載

「ベースロード議論」の幻は消えつつある  

★「ベースロード議論」の幻は消えつつある  トーマス・コーベリエル (自然エネルギー財団理事長)
***「自然エネルギー・アップデート 2014-2/28」より転載

自然エネルギーは、化石燃料火力や原子力よりも低コストである。風力はもちろん、最近では太陽光も、原子力発電所を新設するより低い投資額で建設できる。そして、いったん完成すると、太陽光や風力は、燃料費をかけずに発電し続ける。

にもかかわらず、なぜ原子力発電は政府に支援され続けるのだろうか。残された論拠は、それが重要な「ベースロード電源」だ、ということらしい。

もともと「ベースロード電源」とは、建設費用はややかかるが、燃料や運転コストが最も安い発電所を指していた。そのような発電所は、電力システムの中で「ベースロード」、つまり「最小限必要な消費電力量」をカバーするまで増設され、いったん稼働し始めたら、可能な限り動かし続けるものだった。

半世紀前は、大規模な石炭火力や原子力がその典型だった。そして、突然停止しては、送電網の安定性を脅かし、停電を引き起こすなど、送電網に問題をもたらしてきた。

今や、多くの国で「ベースロード電源」を、燃料費ゼロの太陽光や風力が担っている。発電量の変動は予測可能な範囲であり、多くの発電所が並行して稼働しているので、発電所が一箇所停止しても、技術的な問題を引き起こす危険がない。

更に、電力消費者は、電力供給の低コスト化の恩恵を受けている。欧米では、自然エネルギー容量が新規に増えているおかげで、電気の卸売市場価格が下がっている。

一方で、古い石炭火力や原子力を所有する旧来の電力会社が競争力を失っている。石炭火力や原子力による発電所の稼働率が下がり、稼働した時も、電力価格は低いままだ。したがって、旧来の電力会社が新しい電源の市場参入を止めたいと思うのも、驚くことではない。

自然エネルギーは、電力コストを下げて産業の競争力を高めるので、電力を購入する産業や家庭は恩恵を受ける。一方で、従来の電力会社にとっては収入減となるので、競争は嫌なのだ。

以前、日中の「ピークロード」をカバーするために使われていた調整電源は、現在は、低コストの自然エネルギーで電力需要を賄いきれない時に稼働する。しかし、電力需要が最も高い日中は、低コストの太陽光発電が電力を供給できるので、調整電源を必要としないことが多い。

もはや廃れてしまった「ベースロード」などの専門用語が、時代遅れの企業や官僚の思考を混乱させている間にも、近代的なシステムは加速的に発展している。そして、成功を収めた国々は、更に先へ進もうとしている。デンマークでは風力だけで電力の30%を越え、バイオマスのコジェネと合わせて、電力の50%を自然エネルギーで賄っている。デンマーク議会は更に目標をあげ、2020年までに風力だけで電力の50%達成を掲げている。そうなれば、従来の需要の数百%を発電してしまう供給過多も生じるだろう。その際は、風力は再生可能燃料の製造に使われたり、熱として蓄えられたりすることになるだろう。

日本の電力会社は、日本を原子力事故の危険にさらし続け、燃料を輸入し続けたがっている。そして政府は電力会社に忠実で、電力会社による風力の送電網接続拒否を許している。風力のほうが、低コストの電力を供給できるのにもかかわらず。

日本の産業界や消費者は、このような資源の浪費を、なぜ容認しているのだろうか。

「日本の厄介な歴史修正主義者たち」

★Japan Times(2015-4/14) の記事から「日本の厄介な歴史修正主義者たち」
***「内田樹の研究室 2015-4/15」より転載

海外メディアは連日安倍政権の歴史修正主義と国際的孤立について報道している。ドイツの新聞に対してフランクフルト総領事が「親中国プロパガンダン」と抗議したことが、世界のジャーナリストたちに与えた衝撃を日本の外務省も日本のメディアも過小評価しているのではないか。日本では「政治的主人たち」(political masters)に外交官もジャーナリストも学者も無批判に屈従しているのが、外から見るとどれほど異様な風景なのか、気づいていないのは日本人だけである。

・・・・・・・・・・・・・

@日本の厄介な歴史修正主義者たち  by Hugh Cortazzi(1980-84 英国駐日大使)

日本の右翼政治家たちは海外メディアの報道を意に介さないでいる。彼らが外国人の感情に対する配慮に乏しいのは、外国人を蔑んでいるからである。右翼政治家たちは日本をすべての面で称讃しない外国人、日本の歴史の中に暗黒面が存在することを指摘する外国人を「反日」(Japan basher)、日本の敵とみなしている。このような態度は日本の国益と評価を損なうものである。

Frankfuter Allgemaine Zeitungの特派員が東京を離れる際に寄稿した記事を海外特派員協会のジャーナルの最近刊で読んで、私はつよいショックを受けた。この新聞は職業上私も知っているが、センセーショナルな物語を掲載したことはないし、つねに事実の裏付けを取っていることでドイツでは高い評価を受けているまっとうな新聞である。

この新聞の特派員が以前安倍政権の歴史修正主義に対して批判的な記事を書いたときに、フランクフルトの日本総領事が、おそらくは東京からの指示に従って、同紙の外信部のシニア・エディターを訪れ、記事に対する抗議を行った。日本総領事は特派員の書いた記事が事実に反する証拠を示すことなく、この記事には金が「絡んでおり」、レポーターは中国行きのビザを手に入れるためにプロ中国的なプロパガンダを書いたとして記者と新聞を侮辱した。このような発言は単に不当であるのみならず、許すことのできないものである。

残念ながら、このケースは単独ではない。1月にはニューヨークの日本総領事がアメリカの評価の高い教育出版社であるMcGraw-Hillに対して、ふたりのアメリカ人学者が書いた「慰安婦」についての記述を削除するように要請した。出版社はこの要請を拒絶して、日本政府当局者に対して執筆者たちは事実を適切に確認していると答えた。具体的に何人の「慰安婦」が日本帝国軍兵士のために奉仕することを強制されたのか数字を確定することは不可能だろう。だが、この忌まわしい営みが広く行われていたことについては無数の証言が存在する。売春を強要されたのは韓国人女性だけに限られない。

日本の歴史修正主義者たちは南京虐殺についても事実を受け入れることを拒絶している。この場合も、現段階では被害者の数を確定することはできない。しかし、日本人自身を含むさまざまなソースからの証言は日本軍兵士によって南京のみならず中国各地において無数の残虐な行為が行われたことを確証している。この事実を指摘する者はただ事実をそのまま述べているだけで、中国のプロパガンダに与しているわけではない。

私自身数ヶ月前に尖閣列島については論争が存在するという記事を書いた。北京の反民主主義的態度に対する私の反感は周知のはずだが、にもかかわらず、私もまた中国のプロパガンダを繰り返し、中国を利しているとしてはげしい罵倒を浴びた。

日本の学校の歴史教科書について、英国メディアはそれが南京虐殺と「慰安婦」問題を控えめに記述しているという事実を伝えるに止めた。イギリス人戦時捕虜と強制労働者が泰緬鉄道建設において何千人死んだか、シンガポールと香港で、日本人がジュネーブ協定にも日本人自身の道徳律にも違背して、どんなふるまいをしたのかについて日本の歴史教科書に何が書いてあるか(あるいは何が書かれていないか)について、われわれイギリス人はこれまでコメントしたことがない。怨恨の思いを甦らせることで戦後の日英関係を損なうこと望まなかったからである。だが、もし日本人が歴史的事実を希釈したり記録から削除したりしようとするなら、それは両国の関係を傷つけることにしかならない。

日本の歴史修正主義者によって標的とされた学者やジャーナリストたちは、当然ながら歴史修正主義者たちが歴史資料から消し去ろうとしている事実をさらに掘り下げ、そこに耳目を集めるように努めるだろう。日本の歴史修正主義者たちのふるまいは私にはナチやソ連のコミュニストが駆使したオーウェル的な「ダブルスピーク」や「二重思考」を思い起こさせる。

英国の知日派の人々は「アベノミクス」と国防問題に見通しについては意見がそれぞれ違うが、日本の歴史修正主義者を擁護する人はひとりもいない。最近の曽野綾子によるアパルトヘイト擁護の論の愚劣さは英国の日本観察者に衝撃を与えた。日本ではこのような見解が真剣に受け止められ、活字になるということがわれわれにはほとんど信じがたいのである。安倍晋三首相がどうしてこのような意見の持ち主を教育政策のアドバイザーに任命することができたのか私たちには理解できない。

また、日本人の知的で教育もある人たちが『日本人論』家たちによって提出されている日本の独自性についての思想を流布しているのも、われわれ非日本人には理解しがたいことのひとつである。日本はたしかに独自な国だが、それを言えば世界中どこの国だってそれぞれに独自である。日本人は1億2千万人以上いる。全員が別の人間である。日本と日本人の性格についての一般化はせいぜい近似的なものにしかならない。

日本人論家たちは、歴史修正主義者と同じく、現実世界の外側にある泡の中で暮らしているように私には見える。明治時代の彼らの父祖たちと違って、彼らは日本の外にある世界をほんとうは知らない。彼らには現実の海外の友人がいない。彼らこそ経済的にも政治的にも急激にグローバル化している世界において日本がおのれの正当な地位を獲得するための努力を妨害しているのである。

バブル期において、ロンドンにはたくさんの日本人が行き来していた。だが、今では日本人の影は薄い。英国当局の学生に対する規制の厳しさも一因かもしれないが、やはり主な理由は日本人が海外に出かける気力を失っていることだろう。ロンドンに来る日本人たちはもう妻子を連れてこなくなった。子どもの教育や老いた親の介護が彼らに「単身赴任」を余儀なくさせているのだ。日本人ビジネスマンや外交官の中にはロンドン滞在を一種の一時的な苦役と見なしている人たちさえいる。

日本の外交官たちは彼らの政治的主人の要望を実行しなければならない。それゆえフランクフルトやニューヨークの総領事が本国からの指令に従って行動したということを私は理解している。しかし、それでも日本の外務省は外交官に指示を出す前に、まず彼らの政治的主人に対して、歴史的事実は恣意的に変更することはできないこと、ジャーナリストや学者に対する検閲は反対の効果をもたらしがちであることを理解させるべく努めることを私は希望するのである。

ある海外特派員の告白:安倍政権の歴史修正主義につよい抵抗を覚える

★ドイツのあるジャーナリストの日本論***「内田樹の研究室 2015-4/10」より転載

ドイツのある新聞の東京特派員が過去5年間の日本の政府と海外メディアの「対立」について記事を書いている。安倍政権の国際的評価がどのようなものかを知る上では貴重な情報である。でも、日本国民のほとんどは海外メディアが日本をどう見ているのかを知らない。日本のメディアがそれを報道しないからである。しかたがないので、私のような門外漢がドイツの新聞記者の書いたものをボランティアで日本語に訳して読まなければならない。このままでは「日本で何が起きているのかを知りたければ、海外のメディアの日本関連記事を読む」という傾向は止まらない。そんなことまで言われても日本のジャーナリストは平気なのか。

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@「ある海外特派員の告白 5年間東京にいた記者からドイツの読者へ」 Carsten Germis

さて、荷造りも終わった。ドイツの日刊紙Frankfurter Allgemeine Zeitungの特派員として東京で5年以上を過ごしたあと、私はもうすぐ東京から故国へ旅立つ。私が今離れてゆこうとしている国は、2010年1月に私が到着したときに見た国とはもう別の国になってしまった。表面的には同じように見える。けれども社会の空気は緩慢に、だがあらわに変化しつつある。その変化は過去1年間の私の書いた記事にしだいに色濃く反映するようになった。

日本の指導層が考えていることと海外メディアが伝えることの間のギャップは日々深まっている。それによって日本で働く海外ジャーナリストたちの仕事が困難になっていることを私は憂慮している。もちろん、日本は報道の自由が保障された民主国家であり、日本語スキルが貧しい特派員でも情報収集は可能である。それでもギャップは存在する。それは安倍晋三首相のリーダーシップの下で起きている歴史修正の動きによってもたらされた。この問題で日本の新しいエリートたちは対立する意見や批判をきびしく排除してきた。この点で、日本政府と海外メディアの対立は今後も続くだろう。

日本経済新聞は最近ドイツ首相アンゲラ・メルケルの2月の訪日についてベルリンの同社特派員のエッセイを掲載した。特派員はこう書いた。 「メルケルの訪日は日本との友情を深めるよりも日本との友情を傷つけるものになった。日本の専門家たちを相手に彼女はドイツの原発廃止政策について議論し、朝日新聞を訪問したときも安倍と会談したときも彼女は戦争をめぐる歴史認識について語った。野党第一党民主党の岡田克也代表とも対談した。彼女が友情を促進したのはドイツ企業が経営している工場を訪れて、ロボット・アシモと握手したときだけであった。」

これはドイツ人にとってはかなり気になる発言である。百歩譲ってこの言い分に耳を傾けるとして、彼の言う「友情」とは何のことなのか? 友情とはただ相手の言い分を鵜呑みにすることなのか? 友人が間違った道に踏み込みそうなときに自分の信念を告げるのは真の友情ではないというのか? それにメルケル訪日にはいくつかの目的があり、単に日本を批判するために訪日したわけではない。

私自身の立場を明らかにしておきたい。五年を過ごした日本に対する私の愛着と好意は依然として揺るぎないものである。出会った多くのすばらしい人々のおかげで、私の日本に対する思いはかつてより強いものになった。ドイツ在住の日本人の友人たち、日本人の読者たちは、私の書いた記事に、とりわけ2011年3月11日の出来事からあとの記事のうちに、私の日本に対する愛を感じると言ってくれた。

しかし、残念ながら、東京の外務省はそういう見方をしていないし、日本メディアの中にも彼らと同じように私をみなしている人たちがいる。彼らにとって私は、他のドイツメディアの同僚たち同様、日本に対して嫌がらせ的な記事を書くことしかできない厄介者らしい。日経のベルリン特派員の言葉を借りて言えば、日独両国の関係が「フレンドリーなものでなくなった」責任は私たちの側にあるようだ。

本紙は政治的には保守派であり、経済的にはリベラルで市場志向的なメディアである。しかしそれでも本紙は安倍の歴史修正主義はすでに危険なレベルに達しているとする立場に与する。これがドイツであれば、自由民主主義者が侵略戦争に対する責任を拒否するというようなことはありえない。もしドイツ国内にいる日本人が不快な思いをしているとしたら、それはメディアが煽っているからではなく、ドイツが歴史修正主義につよい抵抗を覚えているからである。

私の日本での仕事が始まった頃、事情は今とはまったく違っていた。2010年、私の赴任時点で政権党は民主党だった。私は鳩山、菅、野田の三代の内閣をカバーし、彼らの政策を海外メディアに伝えようした。私たちはしばしば政治家たちがこう言うのを聴いた。「まだまだなすべきことは多く、もっとうまく国政運営ができるようにならなければならない。」

例えば、海外ジャーナリストは頻繁に意見交換のために岡田克也副総理に招待された。首相官邸では毎週ミーティングが開かれ、当局者は程度の差はあれ直面する問題について私たちと議論することを歓迎していた。問題によっては私たちは政府の立場をきびしく批判することをためらわなかった。しかし、当局者たちは彼らの立場をなんとか理解させようと努力を続けた。

反動は2012年12月の選挙直後から始まった。新しい首相はフェイスブックのような新しいメディアにはご執心だったが、行政府はいかなるかたちでも公開性に対する好尚を示さなかった。財務大臣麻生太郎は海外ジャーナリストとはついに一度も話し合おうとしなかったし、巨大な財政赤字についての質問にも答えようとしなかった。海外特派員たちが官僚から聴きたいと思っていた論点はいくつもあった。

エネルギー政策、アベノミクスのリスク、改憲、若者への機会提供、地方の過疎化などなど。しかし、これらの問いについて海外メディアの取材を快く受けてくれた政府代表者はほとんど一人もいなかった。そして誰であれ首相の提唱する新しい構想を批判するものは「反日」(Japan basher)と呼ばれた。

五年前には想像もできなかったことは、外務省からの攻撃だった。それは私自身への直接的な攻撃だけでなく、ドイツの編集部にまで及んだ。安倍政権の歴史修正主義について私が書いた批判的な記事が掲載された直後に、本紙の海外政策のシニア・エディターのもとをフランクフルトの総領事が訪れ、「東京」からの抗議を手渡した。彼は中国がこの記事を反日プロパガンダに利用していると苦情を申し立てたのである。

冷ややかな90分にわたる会見ののちに、エディターは総領事にその記事のどの部分が間違っているのか教えて欲しいと求めた。返事はなかった。「金が絡んでいるというふうに疑わざるを得ない」と外交官は言った。これは私とエディターと本紙全体に対する侮辱である。

彼は私の書いた記事の切り抜きを取り出し、私が親中国プロパガンダ記事を書くのは、中国へのビザ申請を承認してもらうためではないかという解釈を述べた。私が? 北京のために金で雇われたスパイ? 私は中国なんて行ったこともないし、ビザ申請をしたこともない。もしこれが日本の新しい目標を世界に理解してもらうための新政府のアプローチであるとしたら、彼らの前途はかなり多難なものだと言わざるを得ない。当然ながら、親中国として私が告発されたことをエディターは意に介さず、私は今後も引続きレポートを送り続けるようにと指示された。そしてそれ以後、どちらかといえば私のレポートは前よりも紙面で目立つように扱われるようになった。

この二年、安倍政権の偏りはますます増大してきている。
2012年、民主党がまだ政権の座にあった頃、私は韓国旅行に招待され、元慰安婦を訪ね、問題になっている竹島(韓国では独島)を訪れた。もちろん韓国政府によるPR活動である。しかし、それは議論の核心部分に触れるための得がたい機会でもあった。私は外務省に呼ばれ、食事とディスカッションを供され、その島が日本領であることを証明する10頁ほどのレポートを受け取った。

2013年、すでに安倍政権になっていたが、三人の慰安婦へのインタビュー記事が掲載されたあと、私は再び召喚された。今回もランチ付きの招待だったし、今回も首相の見解を理解するための情報を受け取った。しかし、2014年に事態は一変した。外務省の役人たちは海外メディアによる政権批判記事を公然と攻撃し始めたのである。首相のナショナリズムが中国との貿易に及ぼす影響についての記事を書いたあとにまた私は召喚された。私は彼らにいくつかの政府統計を引用しただけだと言ったが、彼らはその数値は間違っていると反論した。

総領事と本紙エディターの歴史的会見の二週間前、私は外務省の役人たちとランチをしていた。その中で私が用いた「歴史をごまかす」(whitewash the history)という言葉と、安倍のナショナリスト的政策は東アジアだけでなく国際社会においても日本を孤立させるだろうとうアイディアに対してクレームがつけられた。口調はきわめて冷淡なもので、説明し説得するというよりは譴責するという態度だった。ドイツのメディアがなぜ歴史修正主義に対して特別にセンシティブであるのかについての私の説明には誰も耳を貸さなかった。

政府当局者から海外特派員へのランチ招待数が増えていること、第二次世界大戦についての日本の見解を広めるための予算が増額されていること、そして海外特派員のボスたちがしばしば招待されていること(もちろん飛行機はビジネスクラス)は私の耳に届いていた。たぶん彼らへの提案は慎重に行われたのだと思う。このエディターたちは最高レベルの政治的PRにさらされてきており、そういうものに慣れ切っているから、うかつなことをすると逆効果になるからである。私が中国から資金を受け取っているという総領事のコメントについて私が公式に抗議したときに、私が告げられたのは、それは「誤解」だということであった。



以下は私の離日に際してのメッセージである。

私の同僚たちの中には意見の違うものもいるけれど、私自身は日本において報道の自由が脅かされているとは思っていない。たしかに民主党政権下に比べると政府批判の声は低くなってはいるけれど、依然として報道されている。日本の政治的エリートたちの内向き姿勢と、海外メディアとオープンなディスカッションを避ける政府高官たちの無能はいまのところ報道の自由に影響を与えるほどには至っていない。それに、情報を集めるためにはそれ以外にいくらでも方法がある。それでも、民主制においては、政策を国民と国際社会に対して説明することが、どれほど重要であるのかを安倍政権がよく理解していないということはあきらかである。

海外特派員の同僚たちから自民党は広報セクションに英語を話せる職員を配置していないとか、外国人ジャーナリストには資料を提供しないとかいう話を聞いても、私はもう驚かなくなった。海外旅行が多いことを自慢している現在の首相が海外特派員協会で私たちを相手にスピーチするための短い旅についてはこれを固辞していると聞いてももう驚かなくなった。ただ、私の気持ちが沈むのは、この政府が海外メディアに対して秘密主義的であるだけでなく、自国民に対しても秘密主義的であるからである。

過去5年間、私は日本列島を東奔西走してきた。北海道から九州まで東京以外の土地では私が日本に対して敵対的な記事を書いているという非難を受けたことは一度もない。反対に、さまざまな興味深い話題を提供され、全国で気分のよい人々に出会ってきた。日本は今もまだ世界で最も豊かで、最も開放的な国の一つである。日本に暮らし、日本についてのレポートを送ることは海外特派員にとってまことに楽しい経験である。

私の望みは外国人ジャーナリストが、そしてそれ以上に日本国民が、自分の思いを語り続けることができることである。社会的調和が抑圧や無知から由来することはないということ、そして、真に開かれた健全な民主制こそが過去5年間私が住まっていたこの国にふさわしい目標であると私は信じている。

ル・モンド紙記事:「沖縄の孤独な戦い」

★「沖縄の孤独な戦い」ル・モンド

『ル・モンド』が3月25日に「沖縄の孤独な戦い」と題するレポートを掲載した。ヨーロッパから見た沖縄の状態についてのレポートである。ヨーロッパからは日本は「こういうふうに見えている」ということである。とくに、最後の方の「日本政府の無関心が沖縄独立気運を強めている」という観察はたぶん欧米の読者には腑に落ちる説明だろう(植民地においての無数の苦い経験が彼らにはある)。

なぜ日本政府がそのような愚かな選択に固執するのか、その理路が記者にはどうしても理解できないようだ。日本のメディアでは自明として扱われていることが、海外メディアからは理解不能であるという場合に、対応は二通りある。ひとつは海外メディアは「何も事情がわかっていない」と無視すること。ひとつは「事情がわかっていないのは自分たちかもしれない・・・」と疑ってかかること。知的負荷が大きいのは後者である。

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@ル・モンド 『沖縄の孤独な戦い』 BY フィリップ・ポンス

中央政府に抗って、沖縄知事は3月23日月曜日に大浦湾での新米軍基地建設の予備工事の停止を命じた。11月に選出された翁長雄志知事は彼の前任者によって許可を与えられた地域外への4トンのコンクリートブロック投下によって政府が珊瑚礁を傷つけたことを糾弾している。

反対派から歓呼で迎えられた知事の決定は来週からの工事許可を無効にする可能性がある。官房長官は「遺憾」の意を表し、工事を続行する意思を示している。これは沖縄タイムズの前編集長長元朝浩によると「県と政府の間の最初の公式な対決」である。沖縄タイムズはもう一つの地域紙琉球新報とともに沖縄県民の頑強な抵抗の声を伝えている。

知事の決定は大浦湾岸において21日土曜日に行われたデモの後になされた。このデモでは、カヤック、カヌー、小型船舶からなる小型船団は広大な軍基地建設予定地域を示すオレンジ色のブイの列にそって展開するゾディアックボートと海上保安庁の巡視艇の間をジグザグに進み、乗り込んだ4000人以上の人々が抗議の声を上げた。それぞれ2キロ長のV字型の滑走路を含むこのコンクリート製の「空母」は広さ200ヘクタールに達する。

米軍基地の運命は沖縄知事選の最大の争点であった。沖縄には在日米軍兵士47000人の半分以上が駐留しているからである。海兵隊が駐留しているキャンプシュワブの前では建築機材を搬入するトラックに対してデモ隊が24時間虚しい阻止行動を続けている。

警官隊とガードマンとデモ隊の間では衝突が繰り返されているが、ガードマンたちの一部はマスクで顔を隠しているが米軍基地に雇用されている。すでに複数の活動家たちが負傷している。「警官たちは数では私たちの五倍いますけれど、しだいに暴力的になってきています。ボートを転覆させたり、逮捕者を出したり」とカナイ・ハジメ牧師は語っている。彼は船に乗り込んで、沖縄諸島の中で最も海洋資源豊かなこの湾の生態系の破壊に抵抗している。ここには珊瑚礁があり、未知の貝類があり、絶滅に瀕している海生の哺乳類であるジュゴンがいる。

「世界の人々には、米国と日本が何をしているのかを見て欲しい。大浦湾を破壊させるがままにすることはできません」、デモ隊の掲げるプラカードにはそう書いてある。2013年に前知事によってこの工事計画に対して与えられた承認は沖縄住民によって裏切り行為と見なされている。そして去年、沖縄の人々は彼らの反対の意思を選挙で示した。名護市(大浦湾がある地)の反対派市長が再選され、同じく反対派の知事が選出された。

翁長沖縄県知事は3回にわたって上京したが、首相からは面談を拒否された。菅官房長官は沖縄住民の見解は工事計画の実施に関与しないと述べた。沖縄の人々は日本政府の沖縄の要請に対する無関心を侮辱として受け止めている。「これは差別です。たとえ核問題で日本の世論が二分されているとしても、沖縄は新基地建設に対してははっきりノーを告げました」と糸数慶子参院議員は述べている。

これまでのところ、日本の国内メディアは沖縄の緊張状態をほとんど伝えていない。讀賣新聞は知事の「妨害」を批判しており、朝日新聞は「住民の反対を押し切って建設される基地の国防上の貢献」についての問いを発するにとどまっている。地元紙は地域の問題について詳細な報道をしており、これを地方自治にかかわる問題としてとらえている。

沖縄では問題は19世紀末に独立王国であった琉球の日本への併合以来、二級の市民とみなされてきた住民たちの怨恨をかたちにしている。太平洋戦争における米軍との激戦地となり、戦後は沖縄は国土の0・6%であるにもかかわらず日本に展開する米兵47000人の3分の2を受け容れることを強要されてきたのである。なぜか?他の都道府県が望まなかったからであると中谷元防衛相はいささかシニカルに答えている。

結論:基地は沖縄にあり続けるだろう。住民たちはそれを受け容れなければならない。「私の身体には米軍の火炎放射器による火傷の跡が残っています。ですから、私は父祖の土地を譲る気はありません。」とシマブクロ・フミコは断言する。85歳のこの女性はすべてのデモに参加しており、最近も軽傷を負ったばかりである。

新基地の造営によって普天間基地は閉鎖されることになる。宜野湾市の市内にある普天間基地のせいで、近隣の学校の教員たちは飛行機の離陸時の耳をつんざくような騒音のために授業の中断を余儀なくされている。普天間基地の移転は1995年に三人の米兵による少女暴行事件の直後から計画されてきた。しかし、名護市の住民たちは彼らの市内への基地移転に抵抗している。

「私たちの活動は非暴力的なものです」と沖縄平和運動センターを率いる山城博治は言う。「しかし、日本政府はわれわれの要求に耳を貸さない。」「われわれの声に耳を傾けてもらうためには怒りが爆発する必要があるのでしょうか?」と名護市議会の東恩納琢磨は問う。東京の無関心はいずれにせよ沖縄のアイデンティティにかかわる要求を強めることになる。その予兆はすでにさきの知事戦に見られた(「イデオロギーにノー、沖縄のアイデンティティにイエス」)。東京の無関心はむしろ住民の側からの沖縄独立を求める声を高めている。

***「内田樹の研究室  2015-4/3」より転載

村上春樹も「『核発電所』はNO!」と言う

★【村上さんへの質問】 『原発NO!に疑問をもっています』

(質問)
早速ですが、村上さんは海外でのスピーチで原発反対を訴え、メディアもそれを伝えていました。ただ私自身は原発についてどう自分の中で消化してよいか未だにわかりません。親友を亡くしたり自分自身もけがをしたり他人にさせたりした車社会のほうが、身に迫る危険性でいえばよっぽどあります。(年間コンスタントに事故で5000人近くが亡くなっているわけですし)。文明と書かれたおもちゃ箱の様な物の中から、一つ原発を取り出して「これはNO!」と声高に叫ぶことが果たしてどこまでフェアなのかがよくわからないのです。もちろん原発なんてない方がいいとは思うのですが、世界を見渡せば増える傾向にしかないですし。原発反対=正義のような図式も違うと思うし……。

この先スーパーエネルギーが発見されて、原発よりも超効率がいいけど超危険、なんてエネルギーが出たら、それは止めてせめて原発にしようよなんて議論になりそうな、相対的な問題にしかどうしても思えないのですがどうでしょうか……。

(アジアンタム、男性、38歳、鍼灸師)

・・・・・・・・・・・・・

(回答)
たしかに年間の交通事故死が約5000人というのは問題ですよね。それについてはなんとか方策を講じなくてはと、もちろん僕も思います(最近は年々減少しているようですが)。しかし福島の原発(核発電所)の事故によって、故郷の地を立ち退かなくてはならなかった人々の数はおおよそ15万人です。桁が違います。それだけの数の人々が住んでいた土地から強制退去させられ、見知らぬ地に身を寄せて暮らしています。家族がばらばらになってしまったケースも数多くあります。その心労によって命を落とされている方もたくさんおられます。自死されたかたも多数に及んでいます。その人々の故郷はいつ戻れるかもわからない土地として、打ち捨てられています。

もしあなたのご家族が突然の政府の通達で「明日から家を捨ててよそに移ってください」と言われたらどうしますか? そのことを少し考えてみてください。原発(核発電所)を認めるか認めないかというのは、国家の基幹と人間性の尊厳に関わる包括的な問題なのです。基本的に単発性の交通事故とは少し話が違います。そして福島の悲劇は、核発の再稼働を止めなければ、またどこかで起こりかねない構造的な状況なのです。

効率っていったい何でしょう? 15万の人々の人生を踏みつけ、ないがしろにするような効率に、どのような意味があるのでしょうか? それを「相対的な問題」として切り捨ててしまえるものでしょうか? というのが僕の意見です。

それからちなみに、「年間の交通事故死者5000人に比べれば、福島の事故なんてたいしたことないじゃないか」というのは政府や電力会社の息のかかった「御用学者」あるいは「御用文化人」の愛用する常套句です。比べるべきではないものを比べる数字のトリックであり、論理のすり替えです。僕は何度もそれを耳にしてきましたが、耳にするたびにいささか心がさびしくなります。

村上春樹拝

***「村上さんのところ: 2015-4/9回答分」より転載
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