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6月の唄:織江の唄

★織江の唄

作詞 五木寛之
作曲・歌唱 山崎ハコ

遠賀川 土手の向こうにボタ山の
三つ並んで見えとらす
信ちゃん 信介しゃん 
うちはあんたに会いとうて 烏峠ば越えてきた
そうやけん 会うてくれんね 信介しゃん 
すぐに田川へ帰るけん
織江も大人になりました

月見草 いいえそげんな花じゃなか
あれはセイタカアワダチソウ
信ちゃん 信介しゃん 
うちは一人になりました 明日は小倉の夜の蝶
そうやけん 抱いてくれんね 信介しゃん 
どうせ汚れてしまうけん
織江も大人になりました

香春岳 バスの窓から 中学の
屋根も 涙でぼやけとる
信ちゃん 信介しゃん 
うちはあんたが好きやった
ばってん お金にゃ勝てんもん
そうやけん 手紙くれんね 信介しゃん 
何時か何処かで会えるけん
織江も大人になりました
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対米従属を通じて「戦争ができる国」へ

★対米従属を通じて「戦争ができる国」へ***「内田樹の研究室 2015-6/22」より転載

ある月刊誌のインタビューで安倍政権の進める安保法制についての所見を求められた。 「戦争ができる国」になることが安倍首相にとって「主権国家」と等値されているというところに現政権の倒錯があるということを縷々述べた。いつもの話ではあるけれど、あまり目に触れる機会のない媒体なので、ここに再録。

── 「安倍政権は対米従属を深めている」という批判があります。

内田 先日、ある新聞社から安倍政権と日米同盟と村山談話のそれぞれについて、100点満点で点をつけてくれという依頼がありました。私は「日米同盟に関する評点はつけられない」と回答しました。
日米同盟は日本の政治にとって所与の自然環境にようなものです。私たちはその「枠内」で思考することをつねに強いられている。
「井の中の蛙」に向かって「お前の住んでいる井戸の適否について評点をつけろ」と言われても無理です。「大海」がどんなものだか誰も知らないんですから。
そもそも日米が「同盟関係」にあるというのは不正確な言い方です。誰が何を言おうが、日本はアメリカの従属国です。日米関係は双務的な関係ではなく、宗主国と従属国の関係です。
現に、日本政府は、外交についても国防についても、エネルギーや食糧や医療についてさえ重要政策を自己決定する権限を持たされていない。年次改革要望書や日米合同委員会やアーミテージ・ナイ・レポートなどを通じてアメリカが要求してくる政策を日本の統治者たちはひたすら忠実に実行してきた。
その速度と効率が日本国内におけるキャリア形成と同期している。
つまり、アメリカの要求をできる限り迅速かつ忠実に物質化できる政治家、官僚、学者、企業人、ジャーナリストたちだけが国内の位階制の上位に就ける、そういう構造が70年かけて出来上がってしまった。アメリカの国益を最優先的に配慮できる人間しか日本の統治システムの管理運営にかかわれない。そこまでわが国の統治構造は硬直化してしまった。
アメリカの許諾を得なければ日本は重要政策を決定できない。しかし、日本の指導層はアメリカから命じられて実施している政策を、あたかも自分の発意で、自己決定しているかのように見せかけようとする。アメリカの国益増大のために命じられた政策をあたかも日本の国益のために自ら採択したものであるかのように取り繕っている。そのせいで、彼らの言うことは支離滅裂になる。
国として一種の人格解離を病んでいるのが今の日本です。

── いま、日本のナショナリズムは近隣諸国との対立を煽る方向にだけ向かい、対米批判には向かいません。

内田 世界のどこの国でも、国内に駐留している外国軍基地に対する反基地闘争の先頭に立っているのはナショナリストです。ナショナリストが反基地闘争をしないで、基地奪還闘争を妨害しているのは日本だけです。ですから、そういう人々を「ナショナリスト」と呼ぶのは言葉の誤用です。彼らは対米従属システムの補完勢力に過ぎません。

── どうすれば、対米従属構造から脱却できるのでしょうか。
内田 まず私たちは、「日本は主権国家でなく、政策決定のフリーハンドを持っていない従属国だ」という現実をストレートに認識するところから始めなければなりません。
国家主権を回復するためには「今は主権がない」という事実を認めるところから始めるしかない。病気を治すには、しっかりと病識を持つ必要があるのと同じです。「日本は主権国家であり、すべての政策を自己決定している」という妄想からまず覚める必要がある。
戦後70年、日本の国家戦略は「対米従属を通じての対米自立」というものでした。これは敗戦国、日占領国としては必至の選択でした。ことの良否をあげつらっても始まらない。それしか生きる道がなかったのです。
でも、対米従属はあくまで一時的な迂回であって、最終目標は対米自立であるということは統治にかかわる全員が了解していた。「面従腹背」を演じていたのです。
けれども、70年にわたって「一時的迂回としての対米従属」を続けてるうちに、「対米従属技術に長けた人間たち」だけがエリート層を形成するようになってしまった。
彼らにとっては「対米自立」という長期的な国家目標はすでにどうでもよいものになっている。それよりも、「対米従属」技術を洗練させることで、国内的なヒエラルヒーの上位を占めて、権力や威信や資産を増大させることの方が優先的に配慮されるようになった。
「対米従属を通じて自己利益を増大させようとする」人たちが現代日本の統治システムを制御している。
安倍首相が採択をめざす安保法制が「アメリカの戦争に日本が全面的にコミットすることを通じて対米自立を果すための戦術的迂回である」というのなら、その理路はわからないではありません。アメリカ兵士の代わりに自衛隊員の命を差し出す。その代わりにアメリカは日本に対する支配を緩和しろ、日本の政策決定権を認めろ、基地を返還して国土を返せというのなら、良否は別として話の筋目は通っている。
でも、安倍首相はそんなことを要求する気はまったくありません。
彼の最終ゴールは「戦争ができる国になる」というところです。それが最終目標です。「国家主権の回復」という戦後日本の悲願は彼においては「戦争ができる国になること」にまで矮小化されてしまっている。「戦争ができる国=主権国家」という等式しか彼らの脳内にはない。
アメリカの軍事行動に無批判に追随してゆくという誓約さえすればアメリカは日本が「戦争ができる国」になることを認めてくれる。
それが政府の言う「安全保障環境の変化」という言葉の実質的な意味です。そこまでアメリカは国力が低下しているということです。もう「世界の警察官」を続けてゆくだけの体力もモチベーションもない。けれども、産軍複合体という巨大なマシンがアメリカ経済のエンジンの不可欠の一部である以上、戦争は止められない。でも、アメリカの青年たちをグローバル企業の収益を高めるために戦場に送り出すことには国民の厭戦気分が臨界点を超えつつある今はもう無理である。だから、アメリカは「戦争はしたけど、兵士は出したくない」という「食べたいけど、痩せたい」的ジレンマのうちに引き裂かれている。
そこに出て来たのが安倍政権である。アメリカがこれまで受け持っていた軍事関係の「汚れ仕事」をうちが引き受けよう、と自分から手を挙げてきた。アメリカの「下請け仕事」を引き受けるから、それと引き替えに「戦争ができる国」になることを許可して欲しい。
安倍政権はアメリカにそういう取り引きを持ちかけたのです。
もちろん、アメリカは日本に軍事的フリーハンドを与える気はありません。アメリカの許諾の下での武力行使しか認めない。それはアメリカにとっては当然のことです。
日本がこれまでの対米従属に加えて、軍事的にも対米追随する「完全な従属国」になった場合に限り、日本が「戦争ができる国」になることを許す。そういう条件です。
しかし、安倍首相の脳内では「戦争ができる国こそが主権国家だ」「戦争ができる国になれば国家主権は回復されたと同じである」という奇怪な命題が成立している。自民党の政治家たちの相当数も同じ妄想を脳内で育んでいる。
そして、彼らは「戦争ができる国」になることをアメリカに許可してもらうために「これまで以上に徹底的な対米従属」を誓約したのです。
かつての日本の国家戦略は「対米従属を通じて、対米自立を達成する」というものでしたが、戦後70年後にいたって、ついに日本人は「対米従属を徹底させることによって、対米従属を達成する」という倒錯的な無限ループの中にはまりこんでしまったのです。
これは「対米自立」を悲願としてきた戦後70年間の日本の国家目標を放棄したに等しいことだと思います。

── どうして、これほどまでに対米従属が深まったのでしょうか。

内田 吉田茂以来、歴代の自民党政権は「短期的な対米従属」と「長期的な対米自立」という二つの政策目標を同時に追求していました。
そして、短期的対米従属という「一時の方便」はたしかに効果的だった。
敗戦後6年間、徹底的に対米従属をしたこと見返りに、1951年に日本はサンフランシスコ講和条約で国際法上の主権を回復しました。その後さらに20年間アメリカの世界戦略を支持し続けた結果、1972年には沖縄の施政権が返還されました。
少なくともこの時期までは、対米従属には主権の(部分的)回復、国土の(部分的)返還という「見返り」がたしかに与えられた。その限りでは「対米従属を通じての対米自立」という戦略は実効的だったのです。
ところが、それ以降の対米従属はまったく日本に実利をもたらしませんでした。
沖縄返還以後43年間、日本はアメリカの変わることなく衛星国、従属国でした。けれども、それに対する見返りは何もありません。ゼロです。
沖縄の基地はもちろん本土の横田、厚木などの米軍基地も返還される気配もない。そもそも「在留外国軍に撤収してもらって、国土を回復する」というアイディアそのものがもう日本の指導層にはありません。
アメリカと実際に戦った世代が政治家だった時代は、やむなく戦勝国アメリカに従属しはするが、一日も早く主権を回復したいという切実な意志があった。けれども、主権回復が遅れるにつれて「主権のない国」で暮らすことが苦にならなくなってしまった。その世代の人たちが今の日本の指導層を形成しているということです。

── 日本が自立志向を持っていたのは、田中角栄首相までということですね。

内田 田中角栄は1972年に、ニクソン・キッシンジャーの頭越しに日中共同声明を発表しました。これが、日本政府がアメリカの許諾を得ないで独自に重要な外交政策を決定した最後の事例だと思います。
この田中の独断について、キッシンジャー国務長官は「絶対に許さない」と断言しました。その結果はご存じの通りです。アメリカはそのとき日本の政府が独自判断で外交政策を決定した場合にどういうペナルティを受けることになるかについて、はっきりとしたメッセージを送ったのです。

── 田中の失脚を見て、政治家たちはアメリカの虎の尾を踏むことを恐れるようになってしまったということですか。

内田 田中事件は、アメリカの逆鱗に触れると今の日本でも事実上の「公職追放」が行われるという教訓を日本の政治家や官僚に叩き込んだと思います。それ以後では、小沢一郎と鳩山由紀夫が相次いで「準・公職追放」的な処遇を受けました。二人とも「対米自立」を改めて国家目標に掲げようとしたことを咎められたのです。このときには政治家や官僚だけでなく、検察もメディアも一体となって、アメリカの意向を「忖度」して、彼らを引きずり下ろす統一行動に加担しました。

── 内田さんは、1960年代に高まった日本の反米気運が衰退した背景にアメリカの巧みな文化戦略があったと指摘しています。

内田 占領時代にアメリカは、日本国民に対してきわめて効果的な情報宣伝工作を展開し、みごとに日本の言論をコントロールしました。しかし、親米気運が醸成されたのは、単なる検閲や情報工作の成果とは言い切れないと思います。アメリカ文化の中には、そのハードな政治的スタイルとは別にある種の「風通しのよさ」があります。それに日本人は惹きつけられたのだと思います。
戦後まず日本に入ってきたのはハリウッド映画であり、ジャズであり、ロックンロールであり、レイバンやジッポやキャデラックでしたけれど、これはまったく政治イデオロギーとは関係がない生活文化です。その魅力は日本人の身体にも感性にも直接触れました。そういうアメリカの生活文化への「あこがれ」は政治的に操作されたものではなく、自発的なものだったと思います。
同じことは1970年代にも起こりました。大義なきベトナム戦争によって、アメリカの国際社会における評価は最低レベルにまで低下していました。日本でもベトナム反戦闘争によって反米気運は亢進していた。けれども、70年代はじめには反米気運は潮を引くように消滅しました。それをもたらしたのはアメリカ国内における「カウンター・カルチャー」の力だったと思います。
アメリカの若者たちはヒッピー・ムーブメントや「ラブ・アンド・ピース」といった反権力的価値を掲げて、政府の政策にはっきりと異を唱えました。アメリカの若者たちのこの「反権力の戦い」は映画や音楽やファッションを通じて世界中に広まりました。そして、結果的に世界各地の反米の戦いの戦闘性は、アメリカの若者たちの発信するアメリカの「カウンター・カルチャー」の波によっていくぶんかは緩和されてしまったと思います。というのは、そのときに世界の人々は「アメリカほど反権力的な文化が受容され、国民的支持を得ている国はない」という認識を抱くようになったからです。「ソ連に比べたらずっとましだ」という評価を無言のうちに誰しもが抱いた。ですから東西冷戦が最終的にアメリカの勝利で終わったのは、科学力や軍事力や外交力の差ではなく、「アメリカにはカウンター・カルチャーが棲息できるが、ソ連にはできない」という文化的許容度の差ゆえだったと思います。
統治者の不道徳や無能を告発するメッセージを「文化商品」として絶えず生産し、自由に流通させ、娯楽として消費できるような社会は今のところ世界広しといえどもアメリカしかありません。
アメリカが世界各地であれほどひどいことをしていたにもかかわらず、反米感情が臨界点に達することを防いでいるのは、ハリウッドが大統領やCIA長官を「悪役」にした映画を大量生産しているからだと私は思っています。アメリカの反権力文化ほど自国の統治者に対して辛辣なものは他国にありません。右手がした悪事を左手が告発するというこのアメリカの「一人芝居的復元力」は世界に類を見ないものです。
アメリカの国力の本質はここにあると私は思っています。
これはアメリカ政府が意図的・政策的に実施している「文化政策」ではありません。国民全体が無意識的にコミットしている壮大な「文化戦略」なのだと思います。

── 長期的にアメリカの国力が低下しつつあるにもかかわらず、親米派はアメリカにしがみつこうとしています。

内田 アメリカが覇権国のポジションから降りる時期がいずれ来るでしょう。その可能性は直視すべきです。
直近の例としてイギリスがあります。20世紀の半ばまで、イギリスは7つの海を支配する大帝国でしたが、1950年代から60年代にかけて、極めて短期間に一気に縮小してゆきました。植民地や委任統治領を次々と手放し、独立するに任せました。その結果、大英帝国はなくなりましたが、その後もイギリスは国際社会における大国として生き延びることには成功しました。いまだにイギリスは国連安保理の常任理事国であり、核保有国であり、政治的にも経済的にも文化的にも世界的影響力を維持しています。
60年代に「英国病」ということがよく言われましたが、世界帝国が一島国に縮減したことの影響を、経済活動が低迷し、社会に活気がなくなったという程度のことで済ませたイギリス人の手際に私たちはむしろ驚嘆すべきでしょう。
大英帝国の縮小はアングロ・サクソンにはおそらく成功例として記憶されています。ですから、次にアメリカが「パックス・アメリカーナ」体制を放棄するときには、イギリスの前例に倣うだろうと私は思っています。
帝国がその覇権を自ら放棄することなんかありえないと思い込んでいる人がいますが、ローマ帝国以来すべての帝国はピークを迎えた後は、必ず衰退してゆきました。そして、衰退するときの「手際の良さ」がそれから後のその国の運命を決定したのです。
ですから、「どうやって最小の被害、最少のコストで帝国のサイズを縮減するか?」をアメリカのエリートたちは今真剣に考えていると私は思います。
それと同時に、中国の台頭は避けられない趨勢です。この流れは止めようがありません。これから10年は、中国の政治的、経済的な影響力は右肩上がりで拡大し続けるでしょう。
つまり、東アジア諸国は「縮んで行くアメリカ」と「拡大する中国」という二人のプレイヤーを軸に、そのバランスの中でどう舵取りをするか、むずかしい外交を迫られることになります。
フィリピンはかつてクラーク、スービックという巨大な米軍基地を国内に置いていましたが、その後外国軍の国内駐留を認めないという憲法を制定して米軍を撤収させました。けれども、その後中国が南シナ海に進出してくると、再び米軍に戻ってくるように要請しています。
韓国も国内の米軍基地の縮小や撤退を求めながら、米軍司令官の戦時統制権については返還を延期しています。つまり、北朝鮮と戦争が始まったときは自動的にアメリカを戦闘に巻き込む仕組みを温存しているということです。
どちらも中国とアメリカの両方を横目で睨みながら、ときに天秤にかけて、利用できるものは利用するというしたたかな外交を展開しています。これからの東アジア諸国に求められるのはそのようなクールでリアルな「合従連衡」型の外交技術でしょう。
残念ながら、今の日本の指導層には、そのような能力を備えた政治家も官僚もいないし、そのような実践知がなくてはならないと思っている人さえいない。そもそも現実に何が起きているのか、日本という国のシステムがどのように構造化されていて、どう管理運営されているのかについてさえ主題的には意識していない。それもこれも、「日本は主権国家ではない」という基本的な現実認識を日本人自身が忌避しているからです。自分が何ものであるのかを知らない国民に適切な外交を展開することなどできるはずがありません。
私たちはまず「日本はまだ主権国家ではない。だから、主権を回復し、国土を回復するための気長な、多様な、忍耐づよい努力を続けるしかない」という基本的な認識を国民的に共有するところから始めるしかないでしょう。

「カフカの階段」から転落する高齢者

★高齢者の9割が貧困化 「下流老人」に陥る5つのパターン
***「週刊朝日 2015年7月3日号」より抜粋・転載

高齢者の貧困が問題になっている。内閣府調査の<世帯の高齢期への経済的備え>で、60~64歳で貯蓄が「十分だと思う」と答えた人は3.6%。「かなり足りないと思う」と答えた人はその10倍、35.5%だった。

「老後の貧困は、ひとごとではないのです」

 そう警鐘を鳴らすのは、生活困窮者支援のNPO法人「ほっとプラス」の代表理事で社会福祉士の藤田孝典さんだ。6月半ばに出版した新刊『下流老人』(朝日新書)で、「このままだと高齢者の9割が貧困化し、貧困に苦しむ若者も増える」と書く。

 藤田さんは貧困高齢者を下流老人と名付けた。普通に暮らすことができず下流の生活を強いられる老人という意味で、日本社会の実情を伝える造語だという。

「年収が400万円の人でも、将来、生活保護レベルの生活になる恐れがあります」(藤田さん)

 実際に生活保護を受給する高齢者は増加中で、今年3月時点で65歳以上の78万6634世帯(受給世帯の約48%)が生活保護を受けている。昔なら子ども夫婦に扶助してもらうことが当たり前だったが、今は核家族が多い。頼りの子どもは派遣切りやニート。高齢で大病して貯蓄も尽きたら……。

 藤田さんは、『下流老人』の中で高齢者が貧困に陥るパターンを五つに大別した。
【1】本人の病気や事故により高額な医療費がかかる
【2】高齢者介護施設に入居できない
【3】子どもがワーキングプアや引きこもりで親に寄りかかる
【4】熟年離婚
【5】認知症でも周りに頼れる家族がいない

 本人の病気と家族の介護をダブルで抱える人もいれば、60歳を過ぎて妻と別れ、途方にくれる男性もいる。

「1部上場企業で働いてきた男性が、離婚してから食事や趣味にかけるお金を節約できず貧困になる人もいます」(同)

 こんな例もある。藤田さんが警察で保護した60代の男性は、不動産会社社長で、バブル期は資産が2億円あった。だが土地が転売できず破綻。それでも社長っ気が抜けなかったらしい。

「6年前に彼がお弁当とお茶をスーパーで盗んで捕まったとき、所持金が100円なのに、スーツを着込んでいました」(同)

 この元不動産会社社長は「食いっぱぐれるはずがない」「老後の心配無用」と年金も払っていなかったという。

 80歳の老母と45歳の息子のこんな生活苦もある。福祉施設に勤める息子の給与は手取り23万円。亡き夫の会社が傾いたときに息子が借金を被り、返済が毎月数万円ある。築40年の賃貸マンションの家賃を息子が払い、母親が光熱費と食費を払う。母親は病院通いをしながら、息子の大学時代の奨学金も年金から返し続ける。

「奨学金は息子名義だが、何年か払えない時期があり、親の私に支払い通知が来た。額は多くはないが息子からも頼むと言われて、この先十何年は私が払わないと」

 母は息子がいないと年金だけでは住めず、その息子が母に寄りかかる。

 関西で生活困窮者の支援をする生田武志さんは、貧困から人が落ちていく様子を、「カフカの階段」として図式化した。

 労働、家族、住居を失い、金銭を失い、ついには野宿という究極の貧困状態に。生田さんによれば、落ちるときは一段、一段落ちるが、最下段まで落ちると、簡単には上に上がれない。住所がないとハローワークで職も得にくく、生活保護を受けるのに時間がかかることも。

「生活保護の申請をしなかったり、申請しても追い返されて野宿になる高齢の方にもたびたび出会います」(生田さん)

・・・・・・・・・・・・・

★増え続ける「下流老人」とは!?ー年収400万円サラリーマンも老後は下流化する!?ー
***「YAHOOニュース 個人 *藤田孝典  2015-5/11」 より転載

日本には下流老人が大量に生まれ続けている。

下流老人とは、わたしが作った造語であり、「生活保護基準相当で暮らす高齢者およびその恐れがある高齢者」と定義している(藤田孝典『下流老人ー一億総老後崩壊の衝撃ー』朝日新聞出版 2015)。

下流老人とは文字通り、普通に暮らすことができない下流の生活を強いられている老人を意味する。

しかし、そのような老人をバカにしたり、見下すつもりはない。

むしろ、そのような老人の生活から多くの示唆をいただき、日本社会の実情を伝える言葉として、創造したものだとご理解いただきたい。

その下流老人は、いまや至るところに存在している。

スーパーマーケットでは、見切り品の惣菜や食品を中心にしか買えずに、その商品を数点だけ持って、レジに並ぶ老人。

そのスーパーマーケットで、生活の苦しさから万引きをしてしまい、店員や警察官に叱責されている老人。

あるいは、医療費が払えないため、病気があるにも関わらず、治療できずに自宅で市販薬を飲みながら痛みをごまかして暮らす老人。

夏場に暑い中、電気代を気にして、室内でエアコンもつけずに熱中症を起こしてしまう人。

家族や友人がいないため、日中は何もすることがなく、年中室内でひとりテレビを見ている状態にある人。

収入が少ないため、食事がインスタントラーメンや卵かけご飯などを繰り返すような著しく粗末であり、3食まともに取れない状態にある人。

ボロボロの築年数40年の持ち家に住んでおり、住宅の補修が出来ないため、すきま風や害虫、健康被害に苦しんでいる人。

わたしたちのもとに相談に来られる高齢者はこのように後を絶たない。

内閣府「平成22年版男女共同参画白書」によれば、65歳以上の相対的貧困率は22,0%である。

さらに、単身高齢男性のみの世帯では38,3%、単身高齢女性のみの世帯では、52,3%である。

単身高齢者の相対的貧困は極めて高く、高齢者の単身女性に至っては半分以上が貧困下で暮らしている。

現在すでに約600万人が一人暮らしをしており、うち半数近くはこのように生活保護レベルの暮らしをしている。

公的な相対的貧困率の指標を用いて、少なく見ても、一般世帯よりも高齢者世帯の方が貧困状態にある人々が多い。

年金の受給金額が低いことや、働いて得られる賃金が少ないこと、家族からの仕送りも期待できないなど、収入が低い理由は多岐にわたる。

そして、深刻なのは、下流老人の問題は現役で働く世代も将来陥る問題であるということだ。

現在65歳の人で20歳から60歳まで厚生年金に加入していて、40年間(480か月)保険料を払ったとする。

年収が400万円を超えていた場合を想定し、平均月給与が38万円とする。

その場合、厚生年金部分は、年間約120万円支給される。国民年金部分は、年間約78万円支給される。

だから、合計金額は約198万円で、月に直すと約16万5千円が支給される年金ということになる。

あるいは、そこまでの収入がない場合もある。そもそも実質賃金も下がっているわけだから、平均月収が38万円もないという場合も多い。

40年間の平均給与が月25万円で計算してみる。そうすると、現在65歳の人は、厚生年金部分は約79万となり、国民年金部分は78万となる。

合計しても157万であり、月額 約13万円しか支給されない(日本年金機構の水準により計算)。

国民年金のみの場合では、年間の支給額は約78万円だけであり、月額は約6万5千円だ。

そして、これから年金支給額は下がることが予想されている。この支給水準を保つことも難しい。

要するに、実際に年収400万円程度だと、「老後にもらえる年金額は月20万円を下回る」ということが分かる。

そして、非正規雇用や不安定雇用が拡大し続けているなかで、それ以下の年収であれば、生活保護基準を割り込んだ年金支給額しか受け取ることができない場合も多く想定される。

さらに、忘れてはいけないのは、年金受給者には課税や保険料徴収がある。実質の手取り金額は、ここからさらに数万円減少する。

高齢期は病気や介護など予期せぬ出費が増える時期でもある。

それまでに、個人的にも政策的にも、相当な準備をしておかなければ、下流になってしまう。

「あなたの老後は下流ですか?」と聞けば、残念ながら多くの人が「YES」と答えざるを得ない時代が間もなくやってくるだろう。

高齢者の貧困は、とても自己責任などといって本人を責めていられるような悠長な状況にない。

過去に『「NHKスペシャル 老後破産」を防ぐためには』というYahoo!記事を配信した。こちらも参照いただきたい。

大きな反響があり、引き続き、多くの人に高齢者の貧困や下流老人の存在を知ってほしいと思っている。

間もなく、この「下流老人」に関するまとまった拙著を刊行する予定である。

それに先立って、今回は「下流老人の実態の一部」、「高齢者の貧困率の高さ」と「年金支給水準の低さ」について、簡単な短い記事として配信しておきたい。


*藤田孝典 :NPOほっとプラス代表理事、聖学院大学客員准教授。1982年生まれ。埼玉県越谷市在住。社会福祉士。首都圏で生活困窮者支援を行うソーシャルワーカー。生活保護や生活困窮者支援の在り方に関する活動と提言を行う。NPO法人ほっとプラス代表理事。聖学院大学客員准教授(公的扶助論・相談援助技術論など)。反貧困ネットワーク埼玉代表。ブラック企業対策プロジェクト共同代表。厚生労働省社会保障審議会特別部会委員。著書に『下流老人 一億総老後崩壊の衝撃』(朝日新聞出版 2015)『ひとりも殺させない』(堀之内出版 2013)共著に『知りたい!ソーシャルワーカーの仕事』(岩波書店 2015)など多数。

【安倍政権の矛盾】『砂川最高裁判決』と『72年政府見解』で揺れる

【安保法制】砂川最高裁判決と72年政府見解で揺れる安倍政権の矛盾
***「YAHOOニュース 個人 /渡辺輝人(弁護士) 2015-6/10」より転載

一昨日、安倍首相がドイツ・ミュンヘンで、今国会に提出されている「安保法制」の合憲性の根拠を1959年の砂川事件の最高裁判決に求めたかと思えば、昨日は「安保法制」の合憲性の根拠を1972年の政府見解に求める政府の答弁が出され、同法案の合憲性根拠に関する政府の立場が揺れています。

@砂川事件最高裁判決を根拠とすることの無理

砂川事件最高裁判決は、在日駐留米軍の合憲性が争点になったものです。最高裁判所のホームページに判決のPDFと判決要旨が載っていますので、興味のある方は直接ご覧下さい。確かに判決要旨の四には「憲法第九条はわが国が主権国として有する固有の自衛権を何ら否定してはいない。」と書いてありますが、これは個別的自衛権に関するものだとされています。

例えば、最近何かと話題の長谷部恭男・早大教授は以下のように述べています。

「素直に読めば個別的自衛権の話と分かる。判決から集団的自衛権の行使が基礎付けられるとする学者は、知る限りではいない」。3月末、 長谷部恭男 (はせべ・やすお) 東大教授(現早稲田大大学院教授、憲法学)は日本記者クラブでの講演でこう皮肉った。: 出典 共同通信

砂川事件の最高裁判決に集団的自衛権を読み込むことについては、そもそも与党の政治家からして批判的だったはずです。

公明党の山口那津男代表は1日午前の記者会見で、自民党の高村正彦副総裁が昭和34年の砂川事件の最高裁判決を、集団的自衛権の行使容認の根拠としていることについて、「砂川判決は個別的自衛権を認めたものと理解してきた」と述べ、同判決は集団的自衛権の行使容認を視野に入れたものではないとの認識を示した。: 出典 2014-4/1産経新聞

自民党の谷垣幹事長に至っては、安倍首相のミュンヘンでの記者会見の直前の6月5日の記者会見で以下のように述べています。

基本的な最高裁の砂川判決の論理がわが国の平和と安全に本当に問題が生じて、わが国民の生存と国の存立が危うくなる場合に何もできないはずはないという基本的な考えに立っているわけでして、砂川判決自体は、集団的自衛権というようなことには言及していない。つまりそういう基本的な論理の中に立っているのだと私は理解しております。: 出典 2015-6/5自民党HP

谷垣幹事長はその後、同判決と「安保法制」が矛盾しないと述べますが、これを言った後だといかにも苦しい発言に見えます。実際、6月9日の自民党の総務会では木村義雄参院議員が、砂川事件の最高裁判決を根拠に集団的自衛権の行使を認めるという憲法解釈に対して「短絡的すぎる。そういう主張をしていると傷口を広げるので、これ以上言わない方がいい」と述べたようです: 出展 2015-6/9東京新聞

安倍首相のミュンヘンでの見解(元々のアイデアは高村正彦副総裁のようですが)は、過去や現在の与党議員の見解とすら齟齬を来しているように見えます。

@1972年の政府見解も個別的自衛権に関するもの

1972年(昭和47年)の政府見解の原文は長いので、以下に引用します。終りから3行目「したがって」以下部分を読めば分かりますが、集団的自衛権を明文に否定しています。

「憲法は、第9条において、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているが、前文において「全世界の国民が・・・平和のうちに生存する権利を有する」ことを確認し、また、第13条において「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、・・・国政の上で、最大の尊重を必要とする」旨を定めていることからも、わが国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らかであって、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない。しかしながら、だからといって、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであって、それは、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものである。そうだとすれば、わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫。不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。」 : 出展  「集団的自衛権と憲法との関係に関する政府資料」(1972-10/14参議院決算委員会提出資料)


そして、この政府見解を出したときの内閣法制局長官だった吉國一郎氏は、同じ1972年9月14日の参議院決算委員会で次のように述べています。長いですが重要なので直接引用します。

わが国は憲法第九条の戦争放棄の規定によって、他国の防衛までをやるということは、どうしても憲法九条をいかに読んでも読み切れないということ、平たく申せばそういうことだろうと思います。憲法九条は戦争放棄の規定ではございますけれども、その規定から言って、先ほど来何回も同じような答弁を繰り返して恐縮でございますけれども、わが国が侵略をされてわが国民の生命、自由及び幸福追求の権利が侵されるというときに、この自国を防衛するために必要な措置をとるというのは、憲法九条でかろうじて認められる自衛のための行動だということでございまして、他国の侵略を自国に対する侵略と同じように考えて、それに対して、その他国が侵略されたのに対して、その侵略を排除するための措置をとるというところは、憲法第九条では容認してはおらないという考え方でございます。 : 出典 1972年9月14日参議院決算委員会議事録

また、この集団的自衛権を行使できないとする政府見解については、1983年2月22日の衆議院予算委員会でも、内閣法制局長官が、憲法改正をしなければできない、と明確に答弁しています。これまた重要なので長文ですが直接引用します。ここで「市川委員」と記載されているのは公明党衆議院議員のだった市川雄一氏、「法制局長官の述べたとおりであります。」と言った「安倍国務大臣」はなんと安倍晋三首相の父親である当時外務大臣だった安倍晋太郎氏です。

○市川委員 ちょっと私の質問に答えていないのではないかと思うのですが、要するに、いまの憲法では集団自衛権は行使できない、これは政府の解釈である、こうおっしゃっておるわけでしょう。その解釈を集団自衛権は行使できるという解釈に変えるには、これは憲法の改正という手続を経なければその解釈は変えられませんねといま聞いているのです。どうですか、その点は。
○角田(禮)政府委員 私は、憲法の改正というものを前提として答弁申し上げることを差し控えたいと思いまして、実は先ほどあのような答弁をいたしましたけれども、それでは、全く誤解のないようにお聞き届けいただきたいと思いますけれども、ある規定について解釈にいろいろ議論があるときに、それをいわゆる立法的な解決ということで、その法律を改正してある種の解釈をはっきりするということはあるわけでございます。そういう意味では、仮に、全く仮に、集団的自衛権の行使を憲法上認めたいという考え方があり、それを明確にしたいということであれば、憲法改正という手段を当然とらざるを得ないと思います。したがって、そういう手段をとらない限りできないということになると思います。
○市川委員 いまの法制局長官の、わが国の憲法では集団的自衛権の行使はできない、これは政府の解釈である、解釈であるけれども、この解釈をできるという解釈に変えるためには、憲法改正という手段をとらない限りできない。この見解は、外務大臣、防衛庁長官、一致ですか。
○安倍国務大臣 法制局長官の述べたとおりであります。: 出典 1983年2月22日衆議院予算委員会議事録

安倍晋三首相の父親が政府を代表して「憲法9条の下で集団的自衛権は行使できない。行使のためには憲法改正が必要」としていたんですね。もはや、時代を超えた親子論争の感すらあります。

@中谷防衛大臣もそう考えていたんじゃ・・

これだけ(ではなく本当はもっと沢山あります)の政府見解の上に今日の国政があるわけです。今の内閣でも、中谷元・防衛大臣は過去、以下のように述べています。今の内閣の一員がこういうことを言うとおかしな感じがしますが、つい1年前までの政府見解を踏まえれば、中谷氏の発言はむしろオーソドックスなものであることが分かりますね。

〈私は、現在の憲法の解釈変更はすべきでないと考えている。解釈の変更は、もう限界に来ており、これ以上、解釈の幅を広げてしまうと、これまでの国会での議論は何だったのか、ということになり、憲法の信頼性が問われることになる〉
〈政治家として解釈のテクニックで騙したくない。自分が閣僚として「集団的自衛権は行使できない」と言った以上は、「本当はできる」とは言えません。そこは条文を変えないと……〉 出典:2015-6/6日刊ゲンダイ

今の政府見解は、内閣の内部ですら、本来的には意見統一ができていないようです。

@まとめ

結局、現在の政府見解は、過去の与党議員の発言とも、閣僚の過去の発言とも、つい1年前の政府見解とも、首相の父親の大臣としての見解とも一致しないのです。このように、つい昨日発表された政府答弁がこのような激しい矛盾を来しているのです。筆者は憲法9条改憲には反対ですが、仮にそのようなことをするのであれば、憲法9条の改憲が必要だ、というのは当然すぎることでしょう。法治主義は言葉の一貫性によって担保されるものです。これを、単なる法改正で済まそうとする安倍政権の憲法観は余りに軽い、許されない、といわざるを得ません。

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渡辺輝人 (京都弁護士会所属):1978年生。日本労働弁護団常任幹事、自由法曹団常任幹事、京都脱原発弁護団事務局長。労働者側の労働事件・労災・過労死事件、行政相手の行政事件を手がけています。残業代計算用エクセル「給与第一」開発者。基本はマチ弁なの何でもこなせるゼネラリストを目指しています。残業代を軸に社会と会社を分析する『ワタミの初任給はなぜ日銀より高いのか? ナベテル弁護士が教える残業代のカラクリ』(旬報社)発売中。

原発大量再稼働を前提:「温暖化ガス削減目標」

★原発大量稼働を前提とした「温暖化ガス削減目標」。国民は納得できるか
***「現代ビジネス:町田徹『ニュースの深層』2015-6/9」より転載

安倍晋三首相は、ドイツで6月7、8の両日に開かれた主要7カ国首脳会議(G7サミット)で、温暖化ガスの排出を2030年度までに2013年度比で26%削減するという目標をお披露目したはずだ。

この新しい目標は、いきなり外交交渉で決まった過去の目標とは異なり、国内でそれなりの議論を経て策定された経緯がある。それだけに、首相はサミット前に、「無責任な、根拠なき『数字』ではなく、具体的な対策や技術の裏付けを伴うもの」であり、そのレベルも「国際的に遜色のない野心的な目標」だと自画自賛してみせた。

しかし、首相の言葉とは裏腹に、3つの大きな疑問が解消されていない。

@鳩山政権のトラウマ

その第1は、目標の達成には相当数の原発を稼働期間の原則(40年間)が過ぎても運転する必要があり、そこに国民的なコンセンサスがないことから、目標そのものの実現性に疑問符を付けざるを得ない点だ。第2は、国内の稼働原発がゼロになり、温暖化ガスの排出量が跳ね上がった2013年度を基準年とすることによって、2030年度までの削減率を大きく見せる手法がとられており、諸外国の理解と信頼を得られるか疑わしい点である。そして第3が、新しい目標が世界規模で見て実効性のある温暖化ガスの排出削減に繋がるのかという疑問だ。

国策としてみた場合、日本の温暖化ガス削減目標には、決定過程に大きな問題があったケースが2つある。最初は、「2008年度から2012年度までの期間中に1990年度比で6%削減する」という目標だ。1997年12月に京都で開かれたCOP3(第3回気候変動枠組条約締約国会議)の外交交渉の場で、議長国として取りまとめのために大幅な譲歩を余儀なくされ、国内での議論と検証作業のないまま、いきなり決まったものだった。この目標は、リーマンショックに伴う経済の停滞のお蔭で、かろうじて達成された。

2つ目は、「2020年度までに1990年度比で25%削減する」という目標だ。こちらは、首相就任を目前に控えていた鳩山由紀夫氏が2009年9月の都内の講演で突然表明したものである。やはり国家としての実現可能性の検証が抜け落ちていただけでなく、対外的なアピールが下手で諸外国から不当に低い評価しか得られなかった。鳩山氏は首相就任後、同案を正式に政府目標に格上げしたものの、東日本大震災の影響もあって、同じ民主党の野田政権時代に事実上撤回されるという論外の結果に終わっている。

これら2例に比べれば、今回の目標の策定過程は、かなりまともなものだった。今春の統一地方選で原発依存政策の復活という争点をクローズアップさせないために、策定スケジュールを大幅に遅らせた点を除けば、経済産業、環境両省が合同の審議会という議論の場を設けて7回の審議を行うなど、政府としてそれなりに誠実に各方面の意見を集約する努力をした格好となっている。

今回の目標は、サミットでお披露目した後、国内でパブリックコメントに付し、国策として正式に決定する予定だ。そのうえで、今年末にパリで開かれるCOP21で合意を目指す新たな温暖化ガスの国際的な削減目標の国別施策として、国連の事務局に7月にもファイルされる見通しという。

@原発再稼働だけでは足りない。となれば……

とはいえ、冒頭でも記したように、大きな疑問が残っているのも事実だ。

安倍政権はドイツ・サミットの直前になって、2段階で今回の目標をとりまとめた。6月1日に決めた「2030年度の望ましい電源構成(ベストミックス)」と、これを前提に翌2日に決めた「温暖化ガスの排出削減目標」である。

このうちベストミックスで見逃せないのは、2030年度の電源構成で原発が占める割合を20~22%と高めに設定したことだ。現在、原発の稼働年数は原則40年となっており、この原則通りに運用すると、建設中の島根原発3号機(中国電力)と大間原発(電源開発)を加えても、原発で発電できる電力は、政府がベストとしたキャパシティの(10650億kWh)の約15%にしかならない。

つまり、政府のベストミックスは、今なお国民的なコンセンサスを得られていない各地の原発の再稼働はもちろんのこと、さらにかなりの数の原発を稼働から40年という原発の原則運転期間を大きく超えて運転していくことが前提になっているのである。

一方、政府はベストミックスの算出の前提として、2030年度までに日本全体で本来必要な量の17%に相当する電力を省エネできると見込んでいる。この実現は、企業や家庭が厳しい省エネに取り込まなければならないものだ。

人口減少の影響次第だが、仮に原発の再稼働・運転延長と大幅な省エネのいずれか一方でも画餅に終わるようなことになり、ベストミックスが実現できなければ、温暖化ガスの排出削減目標の実現も不可能になる可能性は大きい。CO2などの温室効果ガスを大量に排出する石油や石炭の火力発電の追加活用が必要になるからである。

もう一つの疑問は、諸外国の理解と信頼を得られるのか、という問題だ。実は、今回の目標を、EUが基準年としている京都議定書と同じ1990年度基準に置き換えると、EUの2030年度に40%削減、米国の2025年度に14~16%削減に対し、日本は18%の削減にしかならない。米国が採用方針を打ち出している2005年度基準に置き換えても、EUの2030年度に35%削減、米国の2025年度に26~28%削減に対して、日本は2030年度に25.4%削減と欧米に見劣りする削減目標なのだ。

@官僚お得意の「数字のトリック」がここにも

そこで、安倍首相の指示を受けて、頭のよい官僚たちがひねり出したのが、2013年度を基準年にするという苦肉の策だ。これだと、EUの2030年度に24%削減、米国の2025年度に18~21%削減に対し、日本は2030年度に26%削減と意欲的な目標に見せかけられるというのである。

タネ明かしをすれば、2013年度は、東京電力福島第一原発事故を受けて、全国各地の原発が運転停止に追い込まれ、年間を通じて1基も原発が動かなかった年だからである。原発の代わりに、老朽化してエネルギー効率が悪く温暖化ガスの排出が多い石炭火力発電をフル稼働させたため、

日本の温暖化ガスの排出量が14億800万トンと前年度比で1.2%増、2005年度比で0.8%増、1990年度比で10.8%増加した年だった。

これでは、諸外国、特に途上国からみれば、日本の目標は「削減努力の水増し」とか「羊頭狗肉の削減目標」といった批判を浴びてもおかしくないだろう。

そして最後が、安倍政権がまさにそうしたように、COP21で採択される世界的な削減目標は、各国が自国の事情に合わせて自主的に策定する目標の総和にしかならない問題だ。様々な利害のある国々をCOPの枠組みから離脱させることなく、国際的な枠組みをまとめあげるための仕組みだったとはいえ、それぞれが勝手な目標を掲げるだけでは地球規模での温暖化ガスの排出削減に繋がる保証がない。

離脱した京都議定書の時とは違い、今のところ、意欲的な取り組みをみせている米国などは、その典型例だろう。1人当たりの温暖化ガスの排出量を見ると、2012年度に20.4トンと、日本(10.5トン)を大きく上回っているからだ。しかも、米国は総量の削減目標を対外的に表明したものの、国内では具体的な削減策をほとんど詰めていない。唯一の具体策は、CO2の排出の多い石炭火力発電を減らしていく構えをみせていることだが、それさえ、炭鉱労働者や電力会社労働者が強硬に反対しており、実現が危ぶまれている。

実効のある温暖化ガス排出削減には、ある程度の裁量を各国に与えざるを得ないとしても、予め一人当たりの排出量の国際的なガイドラインを定めて、何年以内に達成するといった、わかり易い共通の基準の下での目標が必要なはずである。

国立大学での「国旗掲揚・国歌斉唱」について

★国旗国歌について***「内田樹の研究室 2015-5/28」より転載

国立大学での国旗掲揚国歌斉唱を求める文科省の要請に対して、大学人として反対している。その理由が「わからない」という人が散見される(散見どころじゃないけど)。

同じことを何度もいうのも面倒なので、国旗国歌についての私の基本的な見解をまた掲げておく。今から16年前、1999年に書かれたものである。私の意見はそのときと変わっていない。



国旗国歌法案が参院を通過した。

このような法的規制によって現代の若者たちに決定的に欠落している公共心を再建できるとは私はまったく思わない。すでに繰り返し指摘しているように、「公」という観念こそは戦後日本社会が半世紀かけて全力を尽くして破壊してきたものである。半世紀かけて国全体が壊してきたものをいまさら一編の法律条文でどうにかしようとするのはどだい無理なことだ。

ともあれ、遠からず、この立法化で勢いを得て騒ぎ出すお調子者が出てくるだろう。式典などで君が代に唱和しないものを指さして「出ていけ」とよばわったり、「声が小さい」と会衆をどなりつけたり、国旗への礼の角度が浅いと小学生をいたぶったりする愚か者が続々と出てくるだろう。こういう頭の悪い人間に「他人をどなりつける大義名分」を与えるという一点で、私はこの法案は希代の悪法になる可能性があると思う。 

一世代上の人々ならよく覚えているだろうが、戦時中にまわりの人間の「愛国心」の度合いを自分勝手なものさしで計測して、おのれの意に添わない隣人を「非国民」よばわりしていたひとたちは、8月15日を境にして、一転「民主主義」の旗持ちになって、こんどはまわりの人間の「民主化」の度合いをあれこれを言い立てて、おのれの意に添わない隣人を「軍国主義者」よばわりした。こういうひとたちのやることは昔も今も変わらない。

私たちの世代には全共闘の「マルクス主義者」がいた。私はその渦中にいたのでよく覚えているが、他人の「革命的忠誠心」やら「革命的戦闘性」についてがたがたうるさいことを言って、自分勝手なものさしでひとを「プチブル急進主義者」よばわりしてこづきまわしたひとたちは、だいたいが中学高校生のころは生徒会長などしていて、校則違反の同級生をつかまえて「髪が肩に掛かっている」だの「ハイソックスの折り返しが少ない」だのとがたがた言っていた連中であった。その連中の多くは卒業前になると、彼らの恫喝に屈してこつこつと「プロレタリア的人格改造」に励んでいたうすのろの学友を置き去りにして、きれいに髪を切りそろえて、雪崩打つように官庁や大企業に就職してしまった。バブル経済のころ、やぐらの上で踊り回っていたのはこの世代のひとたちである。こういうひとたちのやることはいつでも変わらない。

いつでもなんらかの大義名分をかかげてひとを査定し、論争をふきかけ、こづきまわし、怒鳴りつけることが好きなひとたちがいる。彼らがいちばん好きなのは「公共性」という大義名分である。「公共性」という大義名分を掲げて騒ぐ人たちが(おそらくは本人たちも知らぬままに)ほんとうにしたがっているのは他人に対して圧倒的優位に立ち、反論のできない立場にいる人間に恫喝を加えることである。ねずみをいたぶる猫の立場になりたいのである。

私は絶対王政も軍国主義もスターリン主義もフェミニズムも全部嫌いだが、それはその「イズム」そのものの論理的不整合をとがめてそう言うのではない。それらの「イズム」が、その構造的必然として、小ずるい人間であればあるほど権力にアクセスしやすい体制を生み出すことが嫌いなのである。

正直に言って、日本が中国や太平洋で戦争をしたことについて、私はそれなりの歴史的必然があったと思う。その当時の国際関係のなかで、他に効果的な外交的なオプションがあったかどうか、私には分からない。たぶん生まれたばかりの近代国民国家が生き延びるためには戦争という手だてしかなかったのだろう。

しかし、それでも戦争遂行の過程で、国論を統一するために、国威を高めるために、お調子者のイデオローグたちが「滅私奉公」のイデオロギーをふりまわして、静かに暮らしているひとびとの私的領域に踏み込んで騒ぎ回ったことに対しては、私は嫌悪感以外のものを感じない。

小津安二郎の『秋刀魚の味』の中に、戦時中駆逐艦の艦長だった初老のサラリーマン(笠智衆)が、街で昔の乗組員だった修理工(加東大介)に出会って、トリスバーで一献傾ける場面がある。元水兵はバーの女の子に「軍艦マーチ」をリクエストして、雄壮なマーチをBGMに昔を懐かしむ。そして「あの戦争に勝っていたら、いまごろ艦長も私もニューヨークですよ」という酔客のSF的想像を語る。すると元艦長はにこやかに微笑みながら「いやあ、あれは負けてよかったよ」とつぶやく。それを聞いてきょとんとした元水兵はこう言う。「そうですかね。そういやそうですね。くだらない奴がえばらなくなっただけでも負けてよかったか。」

私はこの映画をはじめてみたとき、この言葉に衝撃を覚えた。戦争はときに不可避である。戦わなければ座して死ぬだけというときもあるだろう。それは、こどもにも分かる。けれども、その不可避の戦いの時運に乗じて、愛国の旗印を振り回し、国難の急なるを口実に、他人をどなりつけ、脅し、いたぶった人間がいたということ、それも非常にたくさんいたということ、その害悪は「敗戦」の悲惨よりもさらに大きいものだったという一人の戦中派のつぶやきは少年の私には意外だった。その後、半世紀生きてきて、私はこの言葉の正しさを骨身にしみて知った。

国難に直面した国家のためであれ、搾取された階級のためであれ、踏みにじられた民族の誇りのためであれ、抑圧されたジェンダーの解放のためであれ、それらの戦いのすべては、それを口実に他人をどなりつけ、脅し、いたぶる人間を大量に生み出した。そしてそのことがもたらす人心の荒廃は、国難そのもの、搾取そのもの、抑圧そのものよりもときに有害である。

現代の若い人たちに「公」への配慮が欠如していることを私は認める。彼らに公共性の重要であることを教えるのは急務であるとも思う。しかし、おのれの私的な欲望充足のために、「公」の旗を振り回す者たち(戦後日本社会で声高に発言してきたのはほぼ全員がその種類の人間たちである)から若者たちが学ぶのは、そういう小ずるい生き方をすれば、他人をどなりつける側に回れるという最悪の教訓だけだと私は思う。

国旗国歌法によって日本社会はより悪くなるだろうと私は思う。だが、それは国旗や国歌のせいではない。

「『琉球』独立」の本気度

★追い詰められた沖縄「独立カードの本気度」
***「プレジデント 2015-6/2 14:15 配信」より転載

■法律面での対抗策を徹底的に検討

 戦後日本で、地方自治体が中央政府にここまで激しく対立し、両者一歩も譲らず対峙した光景は記憶にない。4月5日、菅義偉官房長官と翁長雄志沖縄県知事が「粛々と」の言い回しについて問答を交わした普天間基地(宜野湾市)移設問題である。

 日米両政府は在日米軍の再編計画で、普天間基地の移設先を日本政府が計画する「名護市辺野古」で合意しているが、新基地建設への地元沖縄の反対世論が沸騰する中、いま再び県外の国民の議論参加と判断が求められている。

 4月28日、日米外務・防衛担当閣僚による安全保障協議委員会(2+2)は共同文書で、「辺野古が唯一の解決策」であることを改めて確認した。政府が仲井眞弘多前沖縄県知事と約束した「普天間基地の5年以内の運用停止」は同文書に盛り込まれていない。

 安倍晋三内閣が5月14日に閣議決定した「安保法制案」は、集団的自衛権行使を可能とする内容だ。防衛大綱には自衛隊が米軍傘下に組み込まれかねない「米軍・自衛隊の施設・区域の共同使用の拡大」が明記されているため、在沖米軍基地からオスプレイで佐世保の強襲揚陸艦へと運ばれる米海兵隊とともに自衛隊が海外へと出撃するイメージは、決して絵空事ではない。

 「昔の沖縄は米国領の立場で復帰前の日米安保を支え、復帰後は日本の自治体として支えてきました。これ以上悪くはならないだろうと思っていたら、今度は我々の子どもたちを最前線に置くというのか」(元沖縄県職員)

 「安倍首相や菅官房長官はどこまで沖縄を愚弄するつもりなのか。いまの官邸の人たちの無責任さは絶対に許せない。県内で盛り上がっている『琉球独立論』の本気度を見せてやりたい」(在京の沖縄出身大学生)

 普天間基地移設を「最低でも沖縄県外」と打ち出した鳩山政権の挫折(2010年)以降、従来から囁かれてきた「独立」が少しずつ県民の口にのぼり始めた。かつては少数派にすぎなかったが、仲井眞前知事の“裏切り”と安倍内閣による露骨な仕打ち、辺野古沖の埋め立て強行などで再燃した。

 「自民党出身で共産党の支持を受ける翁長知事の登場で、県民のアイデンティティが一本に束ねられた。ただ、独立がありうるとしても、その前にやることはたくさんある」(前出の元県職員)

 埋め立てにまつわる経過の詳細は溢れるほど報じられているので省略する。作業続行となったいま、次なる舞台は法廷だ。もちろん、県も官邸もこれらの流れは織り込み済みだろう。

 「翁長知事は『あらゆる手段を駆使して辺野古の新基地建設を阻止する』と宣言しました。沖縄県だけではなく県下の市町村でも、法律面での対抗策を徹底的に検討しているところです」(沖縄県内の某市職員)

 漁港漁場整備法。廃棄物処理法。補助金等に係る予算の執行の適正化に関する法律。水道法。さらには“ジュゴン訴訟”の再開。埋め立て土砂による侵略的外来種の侵入を阻止するための生物多様性条約――。工事を差し止める法的手段は枚挙にいとまがない。

 ただし、沖縄側が要求する聴聞・調査を政府がことごとく拒絶して法廷闘争となれば、米軍と安保条約が絡むため、裁判の行方は見通せない。

■「独立の選択肢もありえます」

 1972年の沖縄返還で施政権は日本に戻されたが、日米安保条約を根拠に基地を含む施設の使用はいまも駐留米軍に許されている。軍政はいまだ米国の手にあり、ということだ。そのため、基地問題で日本政府が何かを判断する場合は常に米側の意向に依存する。

 国内外の辺野古推進派はその力関係を利用して「米側の意向」を喧伝し、“黒船”を押し立てて反対世論を押さえ込む。従って、情報が操作される仕組みに目を凝らせば、問題の所在と「やるべきこと」の道筋も見えてくる。

 「まずは既存法で政府に対抗する。並行して、基地の当事者である米側に在沖米軍基地の実情を伝えなければなりません。民主主義国家・日本で、地元の民意が基地新設に断固反対であることを伝えておきたい。翁長知事の訪米もその一環です」

 そう語るのは、沖縄選出の玉城デニー衆院議員。4月20日から4日間、米軍再編計画の進捗状況を確認するために渡米し、上下両院議員やCSIS(戦略国際問題研究所)幹部研究員ら複数の要人と直接接触した。CSISは日米両国の政府や議会を繋ぐ超党派シンクタンク。基地問題でも日米間の情報回路を握っている。

 「もちろん、独立の選択もありえます。県はいろいろな場合を想定して準備しているはずです」(同前)

 昨年9月のスコットランド独立投票の例もあるように、独立への手続きじたいは単純だ。国連への登録や住民投票、国連審査など、条件を踏まえて規定の手順と結果が得られれば、独立国家が誕生する。原則として日本国はその審決に関与できない。だが、独立の「実現」には、審査や聴聞で納得させうる根拠を必要とし、不当性・差別の存在証明も問われる。

 とはいえ、悪名高い「日米地位協定」をはじめとして、日本における過去と現在の沖縄には、それらの要件を満たす実態があるように見える。海外でも、中東の衛星TVアルジャジーラが「日本対沖縄」の構図を現地中継。仏紙ル・モンドも「沖縄の孤独な闘い」が独立の要求を高めていると報じた。


■琉球王国と米・仏・蘭との国家間条約

 日米「2+2」が合意確認した4月28日は、52年に日本が独立したサンフランシスコ講和条約の発効日だ。沖縄では「屈辱の日」とされる。沖縄や奄美などが切り離され、日米安保で基地が固定化された日でもあるからだ。

 この日の朝、米ワシントンのど真ん中に「沖縄県事務所」(平安山英雄所長)が開設された。米軍の辺野古新基地建設に地元住民が反対し続けている事実を国際世論に訴え、日米両政府に建設を断念させるためだ。ホワイトハウスから徒歩10分。米国内の有力シンクタンクやロビイング事務所が密集する場所にある。5月27日に訪米する翁長知事も、滞米中はここが拠点となる。

 米国で在外基地を所管するのは米上院軍事委員会だ。今年1月、同委員会の委員長に就任したジョン・マケイン議員は、「辺野古は知事レベルではなく政府の決定」「30年後に辺野古施設は必要か? 」「普天間の5年後停止はありえない」「中東・ホルムズ海峡での機雷掃海活動、南シナ海での哨戒活動への自衛隊参加に強く期待する」といった発言でも注目された。安倍内閣の「安保法制案」閣議決定も、こうした米側の声に呼応したものだ。

 4年前に当時の米上院軍事委員長らが見直しを求めた「辺野古案」が今回見直されなかったのは、仲井眞前知事の「埋め立て承認」以降、現地沖縄の情報が滞ったからだとの見方もある。米議会に情勢を伝える知日派が、沖縄の紛糾や翁長県政の抜本的な方針転換を外した可能性が高い。沖縄県が拠点を置いた地域には、前述のように米側中枢と意思疎通できるそうした手強い能力を備えた面々がひしめいている。

 沖縄がこの独自“外交”に行き詰まれば「独立カード」を切る可能性が浮上する。その布石と取れる動きもある。

 かつて、琉球政府や米軍は「琉球」の呼称をことさら使っていた。民族意識を煽って本土と沖縄の分断を醸成し、沖縄を統治しやすくするためだ。2月に浦添市は19世紀半ば以降の琉球王国と米・仏・蘭との個別国家間条約(文書原本)を一般公開した。他方、アジアインフラ投資銀行(AIIB)の立ち上げと急伸が注目される中国も沖縄問題の動向を注視している。

 「本当に沖縄の視野に独立があるのであれば、進展・成就のいかんを問わず、安倍政権にとっての致命傷となりかねません。ないとは思いますが(笑)」(元外務省外郭団体幹部)

 官邸と沖縄の戦いは、まるで映画『仁義なき戦い』の組長・山守と子分・広能の理不尽なそれだが、官邸も外務・防衛官僚も、大国の狭間でしたたかに生き延びてきた“琉球王国の外交力”を少し甘く見ているのではないか。法的対抗策と独自“外交”の経過と記録は、そのまま「独立カード」を手にするための痕跡=証拠ともなる。いまは表だって口にしなくても、地固めは“粛々と”進んでいることになる。

 「辺野古を勝手に他国へ売り飛ばさないでくれ」と現地で訴えた直後に亡くなった俳優・菅原文太さんが生きていたら、「安倍さん、カードはまだ1枚、残っとるがよぉ」と言う場面だ。
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ジャーナリスト 藤野光太郎=文 

歴史の多面性を伝える「明治日本の産業革命遺産」に

★光強ければ影も濃い~歴史の多面性を伝える世界遺産に
***「YAHOOニュース 【個人】 / 江川紹子: 2015年6月1日」より転載

またもや、「歴史認識」を巡る対立である。日本が、ユネスコの世界遺産登録をめざす「明治日本の産業革命遺産」(福岡、長崎など8県の23施設)について、中国と韓国が戦時中の強制連行・強制労働を理由に”待った”をかけようとしている。

1、〈中韓は強制労働を理由に反対、日本は「時期が違う」と…〉

ユネスコの諮問機関ICOMOSが世界遺産登録を勧告すると、韓国は猛反発。「このうち7施設では、日本が植民地支配していた時代に朝鮮人5万7900人が強制徴用された。強制労働の事実から目をそらし、単なる産業革命の施設として美化することは歴史をゆがめる」として、強い口調で反対意見を表明した。朴槿恵大統領も訪韓したユネスコの事務局長に、反対の意思を伝えた。中国もこれに同調。これらの施設で戦時中に強制連行された中国人らが苛酷な労働を強いられたことについて、日本が責任ある対応をしていないとして、反対を表明した。

これに対し日本側は、「非西洋国家に初めて産業化の波及が成功したことを示すもの」と文化的価値を強調し、遺産の対象時期は1850年代から1910年にかけてであり、戦時中の強制労働問題とは時期が違う、と主張。先月22日に行われた日韓の事務レベルでの協議も平行線に終わった。実際に遺産登録されるかどうかは、7月初めにユネスコ世界遺産委員会の審査で決まる。 

この日韓協議が行われた直後、私は、韓国や中国が問題にしている「遺産」の一つ、三井三池炭鉱の遺構を訪ねてみた。戦時中の労働力不足を補うため、日本は国策として朝鮮人や中国人を強制的に動員し働かせた。この炭鉱では朝鮮人2376人が働かされ、そのうち15人が死亡。中国人労働者は2481人で、635人が亡くなった、という。中国人は4人に1人が死亡したことになる。このすさまじい死亡率の高さからも、彼らが消耗品として扱われていたことがうかがわれる。

2、〈三池炭鉱の遺構を訪ねてみた〉

福岡県大牟田市から熊本県荒尾市にかけて、5つの施設が世界遺産登録対象になっている。宮原坑と万田坑では、往事の設備がよく保存されていて、今にも働く人たちが現れてきそうな雰囲気だ。どちらも、ボランティアのガイドが、施設の詳細を解説しようと、観光客を待ち構えていた。ただ、その話には戦時中の強制労働のことは出てこない。施設内に掲げてある案内板にも、強制労働に関する説明を見いだすことはできなかった。万田坑では、私の方からガイドの男性に「ここでは戦時中に中国人や朝鮮人の強制労働があったそうですね」と水を向けてみた。ガイドは「そういう時期もあったようですね」と否定はしなかったものの、すぐに「(巨人軍の)原監督のお父さんが監督をやって、甲子園に優勝した時のパレードはですね…」と、50年前に地元の三池工業高校が夏の高校野球大会で初優勝した時のことに、話題を移されてしまった。

政府も地元も、日本側は戦時中の負の歴史にはできるだけ触れず、日本の近代化を牽引した、輝かしい歴史のみを伝えていきたいようである。そんな中でも、現地では、負の歴史を語り継ぐ努力も、細々とではあるが、なされている。

3、〈中国人・朝鮮人犠牲者の供養を続ける赤星住職に聞く〉

その一つに、熊本県荒尾市の正法寺で、日本で労働を強いられ亡くなった中国人と朝鮮人のために続けられている法要がある。赤星善弘住職が3年余りを要し、熊本県内をくまなく托鉢して回って集めた浄財で「中国人殉難者供養塔」を建立したのが、1972年4月。同年10月には、朝鮮人殉難者のために「不二之塔」を作った。毎年4月12日に合同慰霊祭を開く。今年も、44回目の慰霊祭を行った。

赤星住職が名誉住職を務める金剛寺(荒尾市)にて、話を聞いた。住職は、開口一番こう言った。

「私はね、真実を語り伝えてこそ歴史だと思うんですよ。日本が侵略を行ったのは事実ですから、それは素直に認め、詫びるべきは詫びて、許しを請うという姿勢が大事だと思うんです。仏教の思想からすれば、まず懺悔をすること。そしてお許しをえて、初めて湯真の友好親善が生まれる。懺悔の気持ちを形にするために、供養塔を建てようと思ったのです」

@飢える中国人労働者

原点は、子どもの頃にあった。三池炭鉱で中国人労働者たちらの管理を担当している人の中に、父親の友人で、宇都宮さんという男性がいた。彼が、仕事が休みの時に、配下の中国人労働者らを浜辺に連れてきて、貝掘りをさせていた、という。ろくな食事も与えられず、やせ細った彼らは、懸命に浜辺をあさって貝を採った。

「採った貝は、五右衛門風呂の釜で海の水を沸かして炊くんですよ。ろくに洗ってもいないし、砂をだいぶ含んでおったでしょう。それでも、煮たって貝が開くやいなや、中国人たちが手を出してむさぼり食う様子を見ていて、子ども心に、かわいそうだな、と。のどが渇くもんだから、うちのお袋が井戸水で冷やしておいたハブ茶を飲ませたら、それは喜んでね。

宇都宮さんは、うちの親父と将棋を指して待っていました。でも、一人の脱走者もいなかった。人間っていうのは、相互信頼がいかに大切か、ということですよね。こういう配慮をしていたので、宇都宮班では一人の餓死者も出なかった。でも、他の班では、餓死者がずいぶん出ています。たとえば四山坑では492名の中国人が亡くなっているんですが、その大半は餓死者です」

日本人も食糧難の時代だが、労働を強いられた中国人や朝鮮人、戦争捕虜たちの食生活はさらに苛酷だったらしい。赤星住職の妻、英子さんは、大牟田市の出身。宮浦坑の社宅の一角に、中国人労働者らが寝泊まりする、華工寮と言われる施設があった。逃走防止だろう、高い塀の上に、鉄条網が張ってあった。英子さんが塀の隙間から覗くと、中の地面には草一本生えていなかった。飢えた彼らが食べ尽くしてしまったからだった。

英子さんは、冬の寒い時期に、ナッパ服一枚で連行される彼らの姿が忘れられない。少しでも寒さをしのごうと、手を反対側の袖の中に入れて、震えていた。

戦後は、立場が逆転。解放された中国人らが、近所の農家の家畜を勝手にさばいて、肉を食べるようなこともあった、という。彼らや捕虜のために、米軍機が食料などの物資を落として行った。赤星住職の家には、中国人らがそうした食料を届けてくれた。

「言葉は通じなくても、情はちゃんと通じるんだな、と子どもながらに感じたものでした」

@嫌がらせも…

供養を思い立ったのは、1968年頃。熊本出身の僧、月輪大師(がちりんだいし)俊●(しゅんじょう、●は「花」の「ヒ」が「乃」)が鎌倉時代に建て、すでに消失していた正法寺の復興を考えて、準備をしている時期だった。月輪大師は、宋時代の中国で学んだ後、京都に皇室の菩提寺となる泉涌寺を開山したことで知られる。

「お大師様、つまり空海も月輪大師も、いずれも中国に留学し、中国で学んで日本の仏教を発展させました。お大師様や月輪大師が現世の方でありせば、当然、そういった(日本で労働を強いられて亡くなった)人達の供養をされるだろう、と気づいて、これは私に課せられた一つの使命だな、と」

供養塔の建立費用は、托鉢で集めることにした。ただ、寄せられるのは、5円玉、10円玉などの小銭が多い。見かねて、「三井に揺さぶりをかけて、金を出させれば…」と言う人もいたが、赤星住職はきっぱり断った。人々の供養の気持ちを集めることが大切だと考えたからだ。

嫌がらせもされた。

「当時、大牟田や荒尾は、三井鉱山の城下町と言われていました。町工場に至るまで、三井鉱山とは何らかの関わりがあって、『三井さんににらまれたら、おまんまが食えない』なんて言われていましたから。托鉢をしている時に、石を投げられて、頭にかぶった笠に穴を空けられたこともありました」

当時、日本は中華人民共和国との国交はなかった。その中国の人たちの供養塔が気に入らないらしく、右翼からの攻撃もあった。「貴様は共産党か」「三井鉱山の古傷を暴くようなことをするな」などの街宣活動をされた。

それでも、3年余りかかって、35万円が集まった。中国人殉難者供養塔の除幕は、1972年4月12日。碑の前で、中華人民共和国の国旗「五星紅旗」が翻った。当時は、市販されておらず、わざわざ染物屋に注文して作ったものだった。

それから5ヶ月余、田中角栄首相が訪中し、日中共同声明を発して国交を正常化させた。上野動物園にパンダが贈られるなど、日本でにわかに中国ブームが起きる。

「そうなると、手のひらを返したようにね、それまでぼろくそに言いよった連中が、『赤星さんは、先見の明があった』と言ってくるわけですよ。そんな気持ちで、(供養塔を)作ったわけじゃないんですけどね(笑)」

@南北対立の影響を受ける

本当は、二つの供養塔を同時に除幕するつもりだったが、朝鮮人犠牲者の供養塔が遅れたのは、碑名を巡って、話がなかなかまとまらなかったからだ。

「南北朝鮮人殉難の碑としようとしたら、朝鮮総連と民団の両方からクレームがついたんです。総連からは『朝鮮人殉難の碑』としてくれ、と要望があり、民団は『韓国人殉難の碑』として建てて欲しいと言う。しかも、同席して話し合うことをしないので、私はそれぞれの事務所を訪ねては話をする。これを、それぞれ15回やりました。それでも平行線。どちらも妥協しようとしないんです。当時は、私も30代でしたから、『もういいです』と開き直ったんですね(笑)。

総連と民団が言うことは、それぞれ違うんですが、やがては統一されるべき民族だ、という点だけは、同じだったんです。仏教では、『不二』という言葉がある。『本来は一つ。二つにあらず』という意味で、『不二之塔』と決めて、双方に納得してもらったんです」

その年の10月29日に不二之塔を除幕。除幕式には、総連、民団双方が参加した。ところが翌年からの慰霊祭には、韓国側が北朝鮮と一緒では同席しない、と言う。赤星住職は、中国と北朝鮮の人ための慰霊祭と、韓国人のための慰霊祭の毎年2回の慰霊祭を行った。

(1989年に)ベルリンの壁が崩壊した後、総連と民団双方の事務所に通い、「東西ドイツも統一するじゃないか。あなた方も、一緒に供養してあげたらどうか」と声をかけた。供養塔ができて20周年になる時に、「供養塔も成人式をしてもいいんじゃないか。強制連行をされた時には、二つの国ではなかったでしょう?」と説得。双方が応じて、やっと、中国、南北朝鮮の合同慰霊祭が行えるようになった。以後、それは続いている。

年一回の慰霊祭のほか、赤星住職は毎月8日、月輪大師の命日に、中国人・朝鮮人犠牲者のための法要を行っている。その回数は、優に500回を超えている。

@真実を伝えてこそ

「私は、過去の過ちは認めるべきだと思うんですよ。懺悔に始まり、誓願に至る。このようなことは、二度とすまいと約束する、誓うわけです。そのために、供養は大事だと思うんです。その都度、強制連行で日本に連れてこられた人が、どういう思いで亡くなっていったのかを考えますから」

しかし、日本では、「いつまで過去のことを謝れと言うんだ」「すでに解決済みの話」と不満を持つ人たちもいる。

「そういう論調の人もあるやもしれません。しかし、我々は加害者の側で、加害者が忘れてはならないのは、懺悔の心ですよ。そして、被害者の方には、許してやるという寛大さが必要でしょう。そこで初めて真の友好親善が生まれる。これが平和の原則じゃないでしょうか」

赤星住職は、強制労働の中国人・朝鮮人を供養するだけでなく、毎年10月に、韓国・ソウルを訪れ、日本統治時代に政治犯が収容され、拷問や処刑で多くの死者を出した西大門刑務所跡で法要を行う。南京や西安など中国各地、ミャンマーなどアジア各地の戦跡での法要も重ねてきた。フィリピン・マババカットで、かつて特攻隊の一番機が飛び立った未明の時間帯に法要を行った時には、地元の警察が君が代を演奏してくれた、という。ポーランドのアウシュビッツやイスラエルの嘆きの壁なども訪問し、宗教や国籍の違いを超えて、戦争犠牲者を弔ってきた。

長く、戦争の犠牲者の供養を続け、とりわけ強制連行の犠牲者と向き合ってきた赤星住職にとって、世界遺産登録を巡る対立は、どう見えるのだろうか。

まずは、登録に反対する韓国や中国に対して。

「反対するより、世界遺産にして、自分たちの先輩が強制連行され、ここで労働を強いられたということを付け加えさせるように、とした方がいいような気がする。それによって、強制連行を語り継ぐ方が大切ではないか。歴史とは、真実を語り伝えることですから」

そして、今回の登録は明治時代の近代化に関してであって、時期が異なる強制連行の問題は関係ない、という日本の主張に対しては――。

「関係はありますよ。明治から、いきなり平成になったわけじゃないんですから。(一時代だけを切り取れるものではなく)明治、大正、昭和、平成と時代はつながっている。そこであった真実を伝えるからこそ、歴史の遺産ではありませんか」

歴史には、光の部分もあれば、影の部分もある。日本側は光の部分だけを残そうとし、韓国や中国は影の部分ばかりをクローズアップする。そうではなく、光も影も、事実をどちらも伝えてこそ、歴史を伝えることになる、と赤星住職は力説する。

「(光が強く)明るい所ほど、影も濃ゆいんですよ」

4、〈他にも様々な碑が…〉

正法寺の他にも、三池炭鉱の周辺には、中国人や朝鮮人犠牲者のための慰霊碑がいくつかある。新しいものでは、2013年、大牟田市の宮浦坑跡に、同坑で亡くなった中国人の慰霊碑が建てられた。日中友好協会大牟田支部などが建てたもので、中国から運んだ白と黒の御影石が使われた。碑には、宮浦坑で亡くなった44人の中国人おうち、詳細が分かった41人の使命、出身地、死亡日、年齢が刻まれている。最年少が20歳、最年長が50歳。全員が河北省の出身だ。碑文には日本語と中国語で、殉難者に対する「心からの謝罪」と「永久不戦、恒久平和の誓いと日本と中国の友好を進めること」などが記されている。

また、大牟田市北部の甘木公園内には、民団が建立した「徴用犠牲者慰霊碑」があり、毎年慰霊祭が行われている。今年は4月5日に行われたことを示す表示が添えられていた。

三池炭鉱を巡る、負の歴史は、戦時中の強制連行だけではない。世界遺産の対象にもなっている宮原坑は、囚人労働で支えられていた。西日本の囚人たちが三池集治監(現在の刑務所)に集められ、苛酷な採炭作業に従事した。その劣悪な環境から、「修羅坑」とも呼ばれた。三池集治監の医師が、「獄舎・食物・作業条件などが過酷にすぎ、死者・疾病が余りにも多く、人道上許せないので、直ちに囚徒の採炭使役を中止せよ」との意見書まで出したが、無視された。死者のために明治時代に建立された「解脱塔」のほか、1996年に集治監墓地跡地の公園造成工事中に、積み重ねられた70数人の遺骨が発見され、新たに「合葬之碑」が建てられた。

集治監があった場所は、県立三池工業高校となっているが、その外壁として、集治監の壁が遺されている。

さらに、明治時代に台風被害と飢饉の被害を受けた与論島の人々が、大牟田に移住し、炭鉱や港湾での労働に従事した。言葉や生活習慣の違いから、与論の人々は差別を受け、賃金も地元労働者の7割に抑えられるなど、労働条件も居住環境も劣悪な状況に置かれた。この与論の人たちの「三池移住記念碑」や墓所である「與洲奥都城(おくつき)」が、大牟田市の延命公園のそばに建てられている。

戦時中に徴用された朝鮮人たちは、与論出身者やその二世の下の存在として扱われていた、という。死亡率の違いを見れば、当時は「日本人」であった朝鮮人と中国人では、どちらの命が粗末にされていたのかも想像できる。三池炭鉱を舞台に、差別の重層構造が存在していたのだろう。

そして、戦後も大きな事故があり、たくさんの人々が亡くなり、後遺症に苦しむ人もいる。大がかりな労働争議があり、それまで一緒に働いてきた労働者と労働者が対立する構図も作られた。

戦後の問題も含め、炭鉱を支えてきた人々の犠牲については、石炭科学産業館の「こえの博物館」事業として、熊谷博子監督のドキュメンタリー作品が、毎日4,5回、館内で上映されている。

5、〈歴史の光と影を伝える文化遺産に〉

三池炭鉱は、日本の近代化をエネルギーの面で支え、産業化を牽引した。採炭だけでなく、関連工業の工場が次々に作られ、日本最初のコンビナートが形成された。そうした光輝く歴史には、多くの犠牲や差別などの影の部分があった。その両面を伝えてこそ、歴史を後世に語り継ぐことになるのではないか。

世界遺産の登録は、文化遺産や自然遺産を「人類全体のための世界の遺産」(世界遺産保護条約より)として保護し、後世に伝えていくためことを目的としている。 「日本のため」ではなく、「人類全体」の財産とするからには、なおさら歴史の多面性を伝える工夫が必要だろう。

ところが、集治監関連を除くと、こうした影の歴史を示す史跡や碑の多くは、場所が非常に分かりにくい。当局や関連団体が作るパンフレットやネットのサイトでは、そもそもそうした碑の存在すら書かれていない。遺構のある案内板は日本語英語のほか、中国語やハングルの説明もあるのに、中国人や朝鮮人の受難には触れられていない。

こうした点を改め、パンフレットには様々な碑の場所を分かりやすく記載して紹介し、遺産に登録された遺構では朝鮮人・中国人・捕虜らの強制労働の事実も含めて、その施設の今に至る歴史的経緯を説明するなど、歴史の光と影を総合的かつ立体的に伝える場としての世界文化遺産にしたら、どうか。それは、韓国や中国の理解を得るためというより、日本の人々に歴史の多面性を伝えるとともに、歴史に誠実な日本の姿勢を世界に示すためには、ぜひ必要なことのように思う。

旅からの帰路、そんなことを考えながら、もう一度、赤星住職の言葉をかみしめた。

「歴史とは真実を語り継ぐこと」
「明るい所ほど、影も濃ゆいんですよ」

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*江川紹子 :神奈川新聞記者を経てフリーランス。司法、政治、災害、教育、カルト、音楽など関心分野は様々です。
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