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心身ともにボロボロになった避難生活(1)【コピペ】

★心身ともにボロボロになった避難生活(1) by *烏賀陽 弘道氏

3月上旬、半年ぶりにフクシマを取材に訪れた。拙著『原発難民』(PHP新書)で書いた、福島県南相馬市から汚染を避けて避難生活を続ける人々を再訪するためである。福島第一原発事故からちょうど3年目の春を迎えようとしていた。

 気になる知らせがメールで来ていた。3.11の直後、話を聞いた6世帯の家族のうち、最後まで山形県に避難していた2家族が引っ越した、というのだ。「子供の健康を考えると、どうしても帰る気になれない」と言っていた2家族だ。会ってみると、どちらも避難生活のストレスや子供の学校でのことで精神的に消耗し切っていた。吐血や下血などの病気にも見舞われ、身体もボロボロだった。平穏な日常生活を無理矢理奪われた3年は、あまりにも過酷な毎日だった。

@福島駅前のモニタリングポストの数値

 3月1日は、福島県では高校で一斉に卒業式が行われる日だった。夕方だった。式が終わって帰る途中なのだろう。詰め襟やセーラー服姿の若者たちが駅前の通りにあふれていた。きらきらした笑い声がさざめいていた。

 私を乗せたタクシーは、若者たちの間をかき分けるように進んだ。

 「何か、もう、いつもと変わんねえな」

 白髪の運転手さんがひとりごちた。

 何かシュールな映画を見ているようだった。東北新幹線を降りて福島駅西口を出ると、そこに赤いデジタル数字のモニタリングポストがある。フクシマを訪ねるたびに、まずその数字を確かめ、デジカメに収めるのが私の取材の第一歩になっていた。

 さきほど駅から出たとき、赤いデジタル数字が「毎時0.22マイクロシーベルト」を指していた。しかし、そのすぐ前のドーナツ店では女子高生たちがおしゃべりに興じていた。居酒屋やコンビニに人が出入りしていた。線量計さえ見なければ、それはまったく普段どおりの人々の生活だった。

2011年、原発事故直後は、同じモニタリングポストが0.7~0.8マイクロシーベルトを指していた。それに比べると、数字はずいぶん下がった。「よかったなあ」という声と「それでも」という声が同時に心の中で聞こえた。3.11前の被曝許容量「年間1ミリシーベルト」を毎時に直すと「0.114マイクロシーベルト」である。まだずいぶん高い。原発事故前は、0.05~0.1マイクロシーベルトだったはずである。

 3年前、ここから50キロ離れた福島第一原発から噴き出した放射性物質は、まだその存在を消し去ってはいなかった。

@心身ともに疲弊して福島に舞い戻る

 駅から石谷貴弘さん(43)に電話を入れた。今からご自宅に行きます、と言った。

 「えーと、ここ、なんだっけ?」

 石谷さんは自宅の住所を言おうとして詰まった。2013年8月に山形県飯豊町の避難先から福島市のアパートに引っ越した。生まれてからずっと南相馬市で育った石谷さんには、引っ越しそのものが不慣れな体験なのだ。

 駅から15分くらい走っただろうか。カーナビがついていたが、タクシーは道に迷って同じ場所をぐるぐる回った。石谷さんの言った住所が間違っていたのだ。

 田んぼを造成した住宅地をウロウロしていると、2階建てのアパートの前で赤と青のサッカーのユニフォームを着た子供が手を振っていた。石谷さんの三男、流星くんだった。

 見違えた。最初に会ったときには「子ども」だったのに、もう「少年」と言うほうがいいくらい、たくましくなった。

 「あの時は小学校に上がるところだったのに、もう4年生だもんねえ」

 石谷さんはこたつに入るよう勧めてくれた。テレビではアニメ「夏目友人帳」をやっている。流星くんは妖怪ものがお気に入りのようだ。

次男は、地元の高校から避難で転校を強いられた。転入先を探すのに東奔西走した、という話を何度か聞いた。その次男は去年春に卒業して、横浜で働いているという。そういう話を聞くと、あっという間に思えても、確かに「3年」という時間が流れたのだなと実感する。

 石谷さんは南相馬市で鉄鋼材を運ぶトラックの運転手をしている。3年前、福島第一原発の水素爆発を知って家族をクルマに乗せて故郷を脱出した。峠を越えて福島市などの避難所をあちこち回ったが、どこも満員。さらに峠を越えて山形県に入り、空きのある避難所を探してさまよううちに、山間部の飯豊町にたどり着いた。初めて行く場所だった。もちろん知り合いは1人もいない。

 妻の優子さん(46)、次男と流星君と一緒に、仮暮らしの避難所を出て、家を借りた。子ども2人の身体への影響を考えると、心配で南相馬に戻る気になれない。

 しかし避難先では仕事が見つからなかった。あっても、地元に比べるとどうしても条件が下がる。40歳を過ぎ、ようやく運転手から管理職になったのに、また一からスタートするのがためらわれた。

 そうこうするうちに、再開した元の職場から「戻らないか」と言われ、戻ることにした。石谷さん1人南相馬に暮らして、金曜日夜になると片道2時間半運転して山形の家族の元へ行く。月曜日朝また戻る。そんな「単身残留」生活を続けるうちに、大量に吐血して倒れた(「『南相馬に単身残留』で引き裂かれる家族」)

 石谷さんの身体は限界だった。優子さんも心身ともに疲弊していた。山村を出て、山形県内で福島県に近い場所に移りたかった。しかし、南相馬市役所に転居の可能性を尋ねてみたら「借り換えは認められない」「福島県に戻るなら、家賃補助を続けて受け取れる」と言われた。

 (筆者が南相馬市役所に聞いてみると、これは本当だった。県外での避難住宅の転居は認められないと担当者が言った。市役所や県の判断ではなく『災害対策基本法』が避難先住宅を転居するような長期避難を想定していない、と説明した)

@線量計のスイッチを入れることがストレスに

 これまで私は、石谷さんを何度も訪問した。いつもニコニコと愛想が良いのだが、自分からしゃべる人ではない。会話も、いきなり本題には入らない。しばらく雑談をして、馴染んできたら、避難生活のことを聞く。

「こないだの雪はすごかったなあ」

 2月14日の豪雪の話になった。渋滞で、ふだん2時間のいわき市に行くのに片道10時間かかった。月曜日も1メートルの積雪で山道が閉鎖され、仕事に行けなかった。坂道で動けなくなったトラックを押してやった。そんな話が続いた。

 「でもさあ」

 会話が途切れた。石谷さんは何かを思いついたようだ。苦笑いをした。

 「それって、雪の下の(放射)線量とか考えてないよね」

 そういえばそうですね、と私は相づちを打った。

 「でも、なんだか、それどころじゃないって感じでね・・・」

 ここは放射性物質が降った土地なのだ。そちらの方がよほど重篤な災害に思えるのだが、目に見えるわけでも、匂いがするわけでも、誰かが病気になったりしたわけでもない。「今現在の生活」にとっては、豪雪の方がずっと大きな障害なのだ。

 だんだん放射能汚染という「異常」が「日常」になっている。豪雪のほうが「非日常」になっている。

 「もう諦めたというか・・・線量計も最近使っとらんなあ」

@家の外では線量計が警告音を発した

 あれ? 線量計どこだっけ? 優子さんとそんなやりとりがあって、黄色いウクライナ製の線量計を探し出してきた。

 「一度測ったら、くらーい気持ちになっちゃって。スイッチ切ってそのままにしてほっといた。いわゆる『見て見ないふり』だよね」

 スイッチを入れると、室内なのにデジタル数字が毎時0.17マイクロシーベルトを示した。

 外に出てみましょう、と優子さんが席を立った。玄関をあけてアパートの門の前に行くと、線量計がピーと警告音を発した。0.39マイクロシーベルトを指している。警告音は0.35で鳴る。

「あまりピーピー言うからストレスになっちゃって」

 だからスイッチを切りました。優子さんはため息をついた。

 「臭い物にフタをしているだけですよね」

@やっと見つけたアパートだったが・・・

 アパートの駐車場を横切ってみた。隣は果樹畑だ。露地である。どこかにホットスポットがあるらしい。駐車場を歩き回ってみると、場所によっては0.8マイクロシーベルトの数字が出ることもあるという。

 しかし、一番近い公設のモニタリングポストは0.2~0.3マイクロシーベルトを指す。公的には「この近辺の線量は下がった」ということになっている。しかし、アパートの周囲は除染が済んでいない。どこにホットスポットがあるのかもよく分からない。

 「最初引っ越してくるとき、0.6とか0.8とかの数字を見て、ほろほろと泣けてきました」

 原発に近い「浜通り」地方(福島県の太平洋沿岸部)から避難してきた人が集中しているため、福島市や近隣市町村は賃貸住宅が不足している。あちこち回ってやっとアパートを見つけて契約してから、線量が高いことを知ったのだ。がっくりと体から力が抜けた。

 家の前で子どもが水鉄砲をしながらしゃがんで遊んでいるのを見ると「ここ線量高いんだけどなあ。大丈夫かなあ」と思う。しかし叱りつける気にもなれない。

 「・・・じゃあ、山形にいた方がよかったじゃん、となるんですけど・・・」

 優子さんは自分に言い聞かせるように話し続けた。

 「・・・もうしょうがない・・・そんな感じなんです・・・」

 私は驚いた。子どもの被曝を考えるととても戻る気になれない」。かつて優子さんも貴弘さんもきっぱりそう言っていたからだ。

 一体、避難先で何があったのだろう。

 (つづく)

*****「JBpress【ウオッチング・メディア】2014.03.20」より転載

*烏賀陽 弘道(Hiromichi Ugaya):1963年、京都市生まれ。1986年京都大学経済学部卒業。同年、朝日新聞社に入社。三重県津支局、愛知県岡崎支局、名古屋本社社会部を経て91年から2001年まで『アエラ』編集部記者。92年にコロンビア大学修士課程に自費留学。国際安全保障論(核戦略)で修士課程を修了。2003年に退社しフリーランスに。主な著書に『「朝日」ともあろうものが。』『カラオケ秘史』『Jポップとは何か』『Jポップの心象風景』『報道の脳死』などがある。
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