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牛がつないでくれた縁

★<東日本大震災3年>牛がつないでくれた縁「いつかお礼を」

「瀕死(ひんし)の牛に『ごめん』 最後の世話 1日分の餌」--。忘れられない取材がある。2011年4月21日、福島県楢葉町の蛭田(ひるた)牧場。干し草を積むトラックが着くと130頭の牛が鳴き出し、我先にと餌を食べ始めた。牛舎で栄養不足の子牛が息絶えようとしていた。「何もしてやれなくてごめんな」。牧場主の蛭田博章さん(45)は涙を浮かべ、牛の背をなでた。

【震災直後と今を写真で振り返る】

 東京電力福島第1原発事故を受け、原発の半径20キロ圏内は翌22日から立ち入り禁止の警戒区域になることが決まった。牧場は原発から19キロ。事故以降、蛭田さんはいわき市の避難先から3日おきに餌やりへ通っていた。「最後の世話」の見出しがついた記事は22日朝刊(東京本社発行紙面)に掲載された。

 だが、それは「最後」にはならなかった。

 蛭田さんはその後も抜け道を車で2時間走って牧場に通った。「どうしても見殺しにはできない」。すぐ後に異変は起きた。

 5月上旬、牧場へ着くと、牛50頭が牛舎から外に出ていた。誰かが牛舎の柵をこじ開けていた。半分は牛舎に戻せたが、残り半分はぬかるみにはまって動けなくなり、助け出せずに死んだ。その後、牧場に「牛を殺すな」との張り紙がされた。

 自分が書いた記事のせいではないか--。電話で蛭田さんから事情を聴き、申し訳ない気持ちになった。

    □

 今年3月、蛭田さんと再会した。ずっと気になっていた牛の最期を聞かせてもらった。

 3日おきの餌やりにもかかわらず、栄養不足や夏の熱中症で次第に数は減り、11年末に10頭になった。研究機関から、警戒区域の動物の残留放射線量を調べる検体にする提案を受けた。「牛の命が世の中の役に立てるなら」と承諾した。

 11年12月27日。穏やかな青空が広がっていた。横たわってかすかな息をしている牛に注射をし、安楽死させる作業が粛々と進んだ。最後の1頭は、4歳の雌牛だった。骨と皮だけで辛うじて立っている。暴れないよう固定具を付ける際、元気な牛なら逃げ回る。だが、その時は向こうから近づいてきた。蛭田さんが固定具を付けると、牛の大きな目から涙がこぼれた。

 蛭田さんは今、楢葉町の農業復興組合で除染後の農地の保全活動に携わっている。祖父(93)が創業した牧場は、震災前は県内有数の規模だったが、再開は見通せない。

 蛭田さんは一時、自殺も考えた。だが「支えてくれているものがある」という。あの記事が出た際、全国から激励の手紙が寄せられた。数人と今も文通を続け、「お体に気をつけてください」などのささいな言葉にいつも励まされる。

 「牛がつないでくれた縁。まだ会ったことのない方々ですが、いつか直接お礼を言いたいんです」。はにかむような笑顔だった。【袴田貴行】

*****「毎日新聞 4月28日(月)12時2分配信」より転載
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