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「自衛」を大義にして、人は人を殺し、戦争を起こしてきた

★「自衛」を大義にして、人は人を殺し、戦争を起こしてきた:森 達也 [映画監督、作家他]

@「テロとの戦い」で何十万もの市民が犠牲になった

 テレビのニュースを見ていた。イラク情勢だ。スンニ派の過激武装組織「イラク・シリア・イスラム国(ISIS)」と政府軍との戦闘は激化する一方で、拘束された政府軍兵士の多くが処刑されたという。とても憂慮すべき事態ですとコメンテーターが言う。今のイラクは国家崩壊の危機にある。そしてもしもそんな事態になったら、スンニ派とシーア派の争いはアラブ全域に連鎖する。

 イラクからの支援要請を受けたアメリカでは、空爆など具体的な手を打てないオバマ政権を、共和党が激しく批判している。ニュースを見ながらあきれる。そもそもこんな混乱をイラクにもたらした責任は誰にあるのか。共和党のブッシュ政権がイラクに武力進攻してフセイン政権を瓦解させたからじゃないか。

 このときブッシュ政権は武力侵攻の大義を、フセイン政権が大量破壊兵器を隠し持っているからと説明したが、その確たる証拠がまだないとして、ロシアと中国、フランスやドイツは激しく反対した。

 でもアメリカは武力侵攻に踏み切った。国連の場では多くの国が反対したけれど、テロとの戦いを支持する国もあったからだ。特に強く賛同を示したのはイギリス、オーストラリアとスペイン、そして日本だ。特に日本は態度を決めかねていた複数の非常任理事国に、アメリカ支持に回るようにとの裏工作まで行っている(結局はすべてに拒絶されているが)。

 時代は小泉政権。このときに北朝鮮の脅威を理由に、アメリカを支持することが日本の国益などと訴えた識者や大学教授の多くは、今は安倍首相の私的諮問機関である安保法制懇の主要メンバーとなって、集団的自衛権の導入を強く主張している。その理由として彼らが提示した仮想の状況は朝鮮半島有事で、日本のパートナーはアメリカ。論旨の骨格は11年前にブッシュ政権を支持したときと何も変わっていない。テロとの闘いを支持した帰結として、イラクでは何十万人もの市民が犠牲となり、現在の国家崩壊に近い悲惨な状況があるのに。嘆息するほどに同じことを繰り返している。

そんなことを考えながらニュース映像を見る僕に、横でテレビを見ていた娘が、「泣いているかもね」とふいに言った。
「誰が?」
「コーランを書いた人。誰だっけ。ムハンマド」
「正確には彼が書いたわけじゃないけどね。ムハンマドは読み書きができなかった。だから彼が受けたとする神の啓示を、その後に信徒たちが書き留めた」
「コーランは戦いを勧めているの?」
「微妙だけど勧めてはいない。異教徒との戦いの記述は何カ所かあるけれど、その後にはほぼ必ず、相手を寛容に扱えと書いてある。そもそもスンニ派にとってシーア派は異教徒じゃない。コーランには平和についての記述のほうが圧倒的に多い。例えばジハードを『聖戦』と訳す人は多いけれど、本来の意味は『神のもとで努力する』だよ。人を殺戮する意味じゃない」

 少し考えてから、「じゃあやっぱり解釈の問題ね」と娘は言った。なるほどと僕はうなずく。問題は解釈。確かにそうだ。それがすべての根源だ。

 これはイスラムだけの問題じゃない。たとえば十字軍や異端審問や魔女狩りの時代、きっとイエスは天空で、おまえたちは何をやっているんだと地団太踏んでいたはずだ。聖書を手にしたブッシュが悪を討つと宣言しながらイラクへの武力侵攻を決めたとき、ちゃんと聖書を読めよと泣いていたかもしれない。悲しいけれど言葉は万能じゃない。ニーチェは「事実などは存在しない。ただ解釈だけが存在する」と言った。赤という文字を目にしても、それによって思い浮かべるイメージは人によって違う。世界には人の数だけ赤がある。解釈によって意味はまったく変わる。

 でもだからこそ考えねばならない。この言葉はどんな意味で記されたのか。どんな思いを込められたのか。

@なぜこの世界には軍隊が存在するのか

 人から殴られそうになったら身を守る。腕などで顔や頭を防御する。これは当たり前のこと。誰もそこで「自衛権」などとは考えない。使う言葉は「自衛」で事足りる。「権」がつくからややこしい。しかもそこに「集団的」や「個別的」がつくから、さらにわからなくなる。

 つまり解釈の余地が大きくなる。その結果として過ちを起こす。

@考えねばならない。自衛の意識の弊害とそのメカニズムを

 アメリカで2012年に起きたコネティカット州の小学校乱射事件では、20人の児童と六人の教員が殺害された。その場で自害した犯人は、自宅で銃の持ち主だった自分の母親も殺していた。犠牲者追悼集会に参加したオバマ大統領は、再発防止に全力を挙げると決意を表明した。つまり銃規制だ。その後もアメリカでは、ほぼ毎週のように学校で銃の事件が起きているけれど、銃規制はいまだに実現していない。

 その大きな要因は、銃規制に反対する全米ライフル協会の存在だ。コネティカット州の銃乱射事件のあと、全米ライフル協会副会長は、「銃を持った悪人に対抗できるのは銃を持った善人だけだ」と発言した。全米の学校に銃装備した警察官を配置せよとも。多くのアメリカ国民はこの発言を支持して、事件後には銃を購買する人が急激に増加している。

「銃を持った悪人に対抗できるのは銃を持った善人だけだ」に同意する日本人は少ないはずだ。バカじゃないかと思う人が大半だろう。でもこの思想は実のところ、世界的なスタンダードでもある。

 軍隊の存在理由だ。

 我が国は他国に侵略などしない。でも世界には悪い国もある。その悪い国の軍隊が攻めてきたときのために、我が国は軍隊を常備する。兵器を所有する。

 つまり抑止力。自衛を理由にガザへの攻撃を続けるイスラエル軍隊の正式名称は国家防衛軍だ。アメリカはペンタゴン(国防総省)でイラクも国防軍。中国は人民解放軍で北朝鮮は人民軍。要するに世界中の軍隊は専守防衛だ。他国への侵略を目的とした軍など存在しない。でも誤射や乱射は起きる。その結果として戦争が起きる。だから考えねばならない。自衛の意識の弊害とメカニズムを。

この8月9日、米ミズーリ州で18歳の黒人少年が警官に射殺された。彼は武器など持っていなかった。両手を挙げていたのに撃たれたという目撃証言もある。しかし警察は過ちを認めず、「黒人に対する差別だ」と反発するデモ隊と警官隊との衝突が続いている。

 2013年に米南部サンフォードの住宅街で、17歳の黒人少年が買いもの帰りに街の自警団団長に射殺された。動きが不審だったとの理由だけで。しかし裁判では自警団団長の正当防衛が認められて無罪判決が下された。ちなみにこのときも少年は武器など持っていない。

 1992年にはルイジアナ州で、留学していた日本人高校生がハロウィンのパーティに出かけて射殺され、日本国内でも大きなニュースになった。射殺された理由は、訪問する家を間違えて、さらにフリーズ(動くな)の意味がわからなかったから。書くまでもないが日本人高校生は武器など所持していない。しかしこれも加害者は無罪になっている。

 銃社会アメリカでは、正当防衛の概念がとても広い。現在30州で適用されている正当防衛法では、生命の危険を感じたならば、(それが衝突を回避できる場合だったとしても)武器を使用することが許されている。つまり身の危険を感じたというだけで相手を殺害することが、社会の合意として認められていることになる。

@自衛の意識は簡単に肥大する

 自衛の意識は簡単に肥大する。解釈次第でどうにでもなる。かつて日本が戦争の大義にしたのは、欧米列強からのアジアの解放だ。ナチスドイツでさえ、最初の侵略であるポーランドへの侵攻を、祖国防衛のためと見なしていた。ユダヤ人虐殺はゲルマン民族を守るため。ベトナム戦争に介入するときアメリカは、共産主義の脅威から自由主義社会を守るためと宣言した。アメリカ同時多発テロを行ったアルカイダは、アラブ世界を欧米から守るためと犯行後に声明を発表した。そしてブッシュ政権のイラク侵攻も、大量破壊兵器を持つテロリストとアルカイダから世界の平和を守ることが大義だった。

 人の自衛意識はこれほどに強い。DNAに刷り込まれた本能なのだから、これを中和することは不可能だ。でも手段を抑制することはできる。武器を持っていては過剰防衛になりやすい。ならば武器を捨てよう。この国は70年前にそう決意した。ご近所はほとんど銃を持っている。だからこそ我が家は銃を捨てる。きっといつかはご近所も銃を捨てる。怖いけれどその先陣となる。だって現実には、誤射や乱射や過剰防衛のほうが、銃で脅されることよりはるかに多いのだから。

しかし解釈は時代と共に変わる。一度捨てたはずの武器を、この国はまた持ってしまった。でも過剰な防衛だけはしない。家には置いてあるけれど、外出するときは持ち歩かない。それは絶対に譲れない一線だ。そう決めていたはずなのに、さらに解釈が変えられようとしている。

@この国は加害の記憶に被害の記憶を上書きした

 昨年夏、ベルリン自由大学の学生たちと話す機会があった。話題が首相の靖国参拝に及んだとき、一人の学生から「8月15日は日本のメモリアル・デーなのですか」と質問された。

「その日は終戦記念日だから、メモリアル・デーといえると思います。ドイツのメモリアル・デーはいつですか。確かベルリン陥落は5月ですよね」

 僕のこの問いかけに、学生たちは「その日はドイツにとって重要な日ではありません」と答えた。

 ならば重要な日はいつですかと訊ねれば、数人の学生が「1月27日」と答える。でもそれが何の日かわからない。首をかしげる僕に、彼らは、「アウシュビッツが連合国によって解放された日です」と説明した。「それと1月30日も。この日はヒトラーがヒンデンブルクから首相に任命されてナチス内閣が発足した日です」。

 学生たちの説明を聞きながら、僕は唖然としていたと思う。この違いは大きい。日本のメモリアルは被害の記憶と終わった日。そしてドイツでは加害の記憶と始まった日。どちらを記憶すべきなのか。どちらを起点に考えるべきなのか。

 結果としてこの国は、加害の記憶に被害の記憶を上書きし、さらに終わったことを起点に考えることを選択した。戦争の終わりはむしろ戦後の始まり。そこから日本の新たな歴史が始まる。戦後復興に高度経済成長。1968年のGNP(国民総生産)はドイツを抜いて世界第二位まで上りつめた。経済大国。ジャパン・アズ・ナンバーワン。強い国。豊かな国。脱亜入欧と富国強兵は、戦前も戦後も変わらない(ただし戦後は入欧ではなくて入米だけど)。

でもやがて、バブルがはじけて経済は停滞する。しかも中国や韓国が併走し始めている。2010年に中国はGDPで日本を抜いた。その翌年には、近代化や経済大国のシンボルだった原発が致命的な事故を起こす。右肩上がりの時代は終わったと誰もが思う。もはや急激な経済発展は望めない。これからはダウン・サイジングの時代なのだ。身の丈に合った成長。経済だけを指標にしない生活。ちょうどこのころ、ブータンの国王夫妻が来日した。貧しいけれどGNH(国民総幸福量)が世界で最も高い国。国王夫妻にこの国が熱狂した理由は、ブータンという国の在りかたに新しい道筋を感じたからではなかったのか。

 でも結局はそれも一過性。豊かさが恋しくなる。アジアのワンオブゼムになることを認めたくないとの気持ちが湧きあがる。やはり原発は必要だ。内心では中国や韓国の台頭も苦々しい。そんな思いが飽和しかけたときに領土問題が勃発し、自民党は「日本を、取り戻す」とのスローガンを打ち出した。

 誰からいつの時点の日本を取り戻すのか。そう質問したいところだけど、再び現れた強いリーダーに国民は熱狂する。週刊誌やタブロイド紙の多くには「舐めるな」と街場の喧嘩のようなフレーズが踊り、書店には嫌韓や反中の本が平積みとなる。

@何度でも書く。多くの戦争は自衛の意識から始まる

 何度でも書く。多くの戦争は自衛の意識から始まる。しかも国家は兵器を持っている。互いに過剰防衛になりやすい。守るつもりが害してしまう。こうして多くの人々が傷つき、焼かれ、キャタピラで踏みにじられ、殺害されてきた。

 その歴史を踏まえてこの国は、武器を持たないと宣言した。でもその解釈が、今変えられようとしている。多くの国民の賛同のもとに。一度変えたならもう戻らない。

 この流れに抵抗しようとする人の一部は、安倍首相や政権をヒトラーやナチス政権になぞらえながら、「彼らは日本を戦争ができる国に変えたいのだ」と激しく批判する。気持ちはわかる。でもそれは少し違う。安倍首相も現政権も、決して戦争を望んでいるわけではない。戦争の悲惨さはよくわかっている(と思いたい)。彼らは彼らなりに戦争を忌避しようとしている。

 ただし彼らの歴史認識は決定的に不十分だ。戦争のメカニズムがわかっていない。そして何よりも、「自衛を理由に殺し合いを続けてきた人類の歴史に対する絶望」が、まさしく絶望的なまでに欠落している。だから解釈を変えることに摩擦がない。目先の経済や支持率を優先する。この9月、経団連は5年ぶりに政治献金を再開する。その背景を思えば、この国の政治と経済に、やっぱり絶望したくなる。

帝國ノ存立 亦正ニ危殆ニ瀕セリ 事既ニ此ニ至ル帝國ハ今ヤ自存自衞ノ爲 蹶然起ツテ 一切ノ障礙ヲ破碎スルノ外ナキナリ 

 引用したのは、1941年12月8日に昭和天皇が発した「大東亜戦争の詔書」の一部だ。つまり開戦した理由。現代語に訳せば、「帝国の存立も、まさに危機に瀕している。事ここに至って帝国は、今や自存と自衛のために決然と立上がり、一切の障害を破砕する以外に道はない」ということになる。ちなみにこの詔書の最後は、「速ニ禍根ヲ芟除シテ 東亞永遠ノ平和ヲ確立シ 以テ帝國ノ光榮ヲ保全セムコトヲ期ス(速やかに禍根を排除して、東アジアに永遠の平和を確立し、それによって帝国の光栄が保全されることをを期待する)」と締められている。

 そして以下は、1948年12月22日夜、自らの死刑執行の数時間前に、教誨師の花山信勝師の前で東条英機が朗読した遺言の抜粋だ。

 私は、戦争を根絶するには、欲心を取り払わねばならぬと思う。現に世界各国はいずれも自国の存立や、自衛権の確保を説いている。これはお互いに欲心を放棄しておらぬ証拠である。国家から欲心を除くということは、不可能のことである。されば世界より戦争を除くということは不可能である。

『秘録 東京裁判』(中央公論新社)

 確かに自衛の意識をなくすことは不可能かもしれない。でも自衛の手段を制限することはできる。この国は戦後、身をもって世界から戦争を除くための理念を掲げた。不可能に挑戦した。不安と闘いながら世界に理念を示し続けたこの国に生まれたことを、僕は何よりも誇りに思っていた。

 ……とオリジナルでは、敢えて好きではない「誇り」という言葉を使いながら過去形で終わらせたけれど、今回ネットにアップするにあたり、(さんざん悩んだけれど)現在形に直すことにした。だってまだ、あきらめるのは早い。ぎりぎりではあるけれど、ここでギブアップはできない、だから今回の記述は以下で終わる。

 不安と闘いながら世界に理念を示し続けたこの国に生まれたことを、僕は今も、何よりも誇りに思っている。

****「ダイヤモンドオンライン 『リアル共同幻想論:2014-9/4」より転載
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