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29.帰省

 例年にくらべ、今年は梅雨明けが異常に遅かった。夏の気分を味わいたくなって、八月はじめ、海の中道の東側にある奈多の浜へ出かけた。JR博多から香椎を経由し、すぐに奈多駅到着、料金は片道270円。駅からしばらく北へ歩き、ハマユウの咲く防風林を抜けると、奈多の船溜に着く。ここから西側は、延々と志賀島まで続く砂浜で、途中まで、なんどか歩いたことがある。海風に吹き上げられた砂がうずたかく積もり、砂丘の蔭がシュールで面白い。今回は、船溜のすぐ東側の浜に入った。白波が立つほどの風があったが、砂浜は意外と海水浴客でにぎわっていた。二人の若者が、カイトサーフィンを操って、波の上を疾走している。人だかりから離れた処で着替え、海に入ると、ちょうどいい水温だ。つぎつぎと波が打ち寄せるので、浅い汀で横になってみると、気持ちがよい。一応、泳げるが、その日は泳がずに松林を眺める姿勢で、海水に浸って一時間ほど、のんびりした。海水浴はもともと、保養や療養を目的としていたと聞く。疲れない程度に波と戯れるのも、決して悪くはないのだった。
 盆の初日、急ぎの仕事を片付け、翌日、久留米へ帰省。お寺での読経が夕刻なので、時間つぶしに石橋文化センターへ寄ってみた。ブリヂストンの創始者である石橋正二郎氏が、昭和31年4月、久留米市に寄贈、オープンした複合文化施設で、全国でも珍しいものだった。久留米大学医学部付近にあったブリヂストンの社宅は、石橋正二郎氏が昔、訪欧したときに見たバルビゾン村などの風景を参考にしたらしいと、聞いたことがある。レンガの舗道に沿って、敷地をゆったりとり、大木になるケヤキが植えられた。民有地の緑が公有の街路空間に潤いを与えている。話を戻す。石橋文化センターは、幼いころからスケッチをしたり、遊んだりした想い出ふかい処である。現在の図書館は以前は体育館、美術館分館はプールだった。美術館本館はレンガ張りではなく、1階をピロテイにした軽快な打ち放しの建築で、設計をした菊竹清訓も久留米出身である。園内の樹々の蔭にはいると涼しい。パラソルのある屋外テーブルで、水彩の風景画を描いている三十がらみの女性を見かける。美術館の西にある花壇に、盆らしくモミジバアオイの朱い花が咲いていた。 
   紅蜀葵(こうしょくき) 肱(ひじ)まだとがり 乙女達  〈久保田万太郎〉
 西鉄久留米駅のほうへ戻り、アーケード街を歩くが、かつての賑わいも感じられず気が沈む。久留米市では毎年、八月三,四、五日と夏祭り(水の祭典)が行われている。いろいろな事情があるのかも知れないが、第一金,土,日曜日に催すほうが、経済効果はあるのでは、と思ってしまう。夕刻、寺町へ向う。江戸時代、久留米城護衛の一環としてここに寺が集められた。画家、青木繁の師だった森三美、久留米絣の創始者である井上伝、普請奉行だった丹羽頼母、高山彦九郎などの墓がある。供養をしてもらう寺で、墓参りをし、本堂へあがった。私とほぼ同年の住職と、住職の息子さんが読経をあげられたが、若住職はなかなかの声量であった。蝉時雨のなか、移り行く時代を想う。







 
 





28.声

 二ヶ月ほど前、ミツバチ関連の文献を借りるために、百道にある福岡市総合図書館に出かけた。その折り、ついでに借りた洋画のビデオが「いつも心に太陽を」(原題To Sir, with Love)だった。ジェームズ・クラベル監督、シドニー・ポワチエ主演の学園ドラマで、1968年の作。調子が少し甘い気もするが、ポワチエの地位を固めた映画である。映画にも出演していたルル(当時の女性歌手)のチャーミングな歌声や、当時の音楽、ファッション、サブカルチャーが懐かしい。シドニー・ポワチエ演じる先生が女学生と踊るシーンがある。手脚が長く、踊るときの振りも今に比べればずっと控えめである。このシーンを見ていて、レコードジャケットにあったオーテイス・レデイングのことを思った。
 高校三年の卒業まぢかの頃だった。クラスメートのM君の家に遊びに行って、聴かせてもらったのがオーテイス・レデイングの「ドッグ・オブ・ザ・ベイ」。その時の印象が忘れられず、大学に入ってまもなくヨーロッパでのライブ盤(LPレコード)を買った。「ソウルの王」と呼ばれたオーテイス・レデイング(Otis Redding)は1941年アメリカ南部のジョージア州ドーソンに生まれた。ジョージア州はレイ・チャールズが生まれ、ジェイムズ・ブラウンが育った場所でもある。ロックンローラーとしてステージをこなし、サム・クックら先輩たちの歌を聞き、影響を受けながら、腕を磨いた。1962年、メンフィス、同郷のミュージシャンのレコーデイングに運転手として同行したスタックスレコードで、彼は空き時間に歌わせて欲しいと申し出る。自作の「ジーズ・アームズ・オブ・マイン」はスタジオ中を驚かせ、80万枚のヒットとなった。〈…この私の腕が、君を求めている。この腕が寂しい。この腕が燃えている。…〉正面を向いて語りかけるその歌い口には、二十歳そこいらの青年とは思えない成熟したメッセージと情熱があった。ドラマチックなラブ・バラード「この強き愛」(64年)、苦渋に満ちた愛の告白「愛しすぎて」(65年)といったスロウ・ナンバーは現在の音楽のように、小細工がなく、歌に気持ちが充分に乗っている。オーテイスは1967年12月飛行機事故で、26年の短い生涯を終える。「ドッグ・オブ・ザ・ベイ」は、彼のラストソング。熱唱型からガラリと姿を変えたこの歌は、死後、最大のヒットとなった。日永、海を見つめる男の歌だが、難解な問いがあるようだ。
 最近、オーテイス・レデイングを深く敬愛する、日本のソウル・ミュージシャン、忌野清志郎が亡くなった。「スロー・バラード」やいくつかの曲を聴いていると、影響を受けつつも、自身の音楽を刻んできたことがよくわかる。一週間ほど前だった。めずらしく人の少ない雨の天神を歩いていると、ビルに取付けられた巨大ビジョンから、聞いたことのある声が流れてきた。忌野清志郎の遺作となった「オー、ラデイオ」の詞とメロデイ―が、メッセージのように都会のビルに響いた。












27.傘日和

 福岡地方が梅雨入りした日の翌日(十日)は、久しぶりの雨となった。近所にある渡辺邸の森〈福岡市の保全緑地となっている〉の横を通っていると、付近の人が植えていた紫陽花が、淡い色にほんのり染まって、雨にうたれていた。行橋のほうではダムの水が大幅に減っているらしい。木々にも人間にも恵みの雨となってほしいものである。さて、雨といえば思い浮ぶのは傘だ。一時期、お洒落な洋傘に凝っていたことがあるが、たびたび紛失し、結局は、安物の折りたたみ傘やコンビニにあるようなビニール傘に落着いた。長い間、粋で美しいなあと思っていて、ずっと憧れている傘がある。和傘だ。昭和三十年代の中頃、筑後の某所だったと思うが、ヘルニアで入院していた兄を見舞いに行くバスの車窓から、たくさんの和傘が干してある田園風景を見た憶えがある。それから、どこかの旅館で借りたことはあるが、今日まで和傘を買ったり使ったことは無く、ふだん目にすることもなかった。ところが、去年二月、城島の酒蔵祭りの会場で和傘を目にした。城島町では、和傘つくりが四百年以上も続いているという。保存会の努力で蛇の目傘や日傘、番傘などが現在も作られており、久留米の地場産センターで、展示販売されているらしい。あの美しい和傘はどのようにして作られるのだろう。最近、「Dash村」というテレビ番組で、そのプロセスが紹介されていた。和傘は竹、和紙、糊、柿渋、油といった自然素材だけで作られ、百を超える行程を踏むという。少し長くなるが、主要な作業の流れを記してみたい。まず、骨組みを作る。まっすぐな真竹を選んで伐採し、必要な長さに切って、加工しやすいように水につけておく。一週間後、竹が柔らかくなってから、骨づくりにとりかかる。和傘は長短二種類の竹の骨(親骨、小骨)をつないで作られている。番傘の場合、それぞれ48本で、計96本の骨が必要だ。和紙を貼る部分は糊が付くように竹の皮を削る。親骨は全面に和紙を貼るため、専用のカンナで、皮の部分をすべて削る。次に削った竹に傷をつける。それから竹を細く割って骨にするのだが、あとで傘を閉じた時、元の竹のようにきれいな筒となるように親骨の配列を決めるためである。印をつけた竹をナタで割り、細かく削る。親骨の幅は3ミリ、小骨はもっと細い。このように、骨づくりだけでも骨の折れるデリケートな作業だ。行程は、骨を放射状につなぐ「ロクロ」と呼ばれる部品づくりに移る。ロクロには通常、エゴノキが用いられ、頭と手元に2個必要になる。ロクロに骨を入れる溝を作り、糸を通すための穴を空けるのだが、とても難しい作業だ。次に、和紙の紙漉き→傘を開いたときにロクロを柄に固定する「ハジキ」づくり→ロクロと骨をつなぐ作業→親骨と小骨をつないで骨組みが完成する。骨組みのゆがみを直し、広げて丸みを帯びたきれいなラインを確かめると、「張り」の行程に入る。親骨の間隔を整え、軒紙張り、補強の中置き紙張りを行った後、本体の天井張りとなる。紙張りの糊には、わらび粉を炊いたものなどが用いられる。最後に手元紙というものを張り、乾燥させる。きれいなたたみ癖をつける「たたみ」の行程を経て、骨頂部を強化し、渋引き、油引きを行って、一週間、天日干しをするとやっと完成だ。熟練の技術を要する和傘、いつか手にしたいものだ。民俗研究にも造詣のある遠藤ケイさんは、著書「日本の知恵」の中で、次のように記している。〈…和傘は雨の古い家並みに似合う。暗く沈んだ通りに大輪の花が咲いた艶やかさがある。油をひいた傘を打つ雨音を聞きながらの一人傘もよし。肩が触れ合う相合傘とくれば、雨よ止まずにいておくれと祈りたくなる。男女の別なく、傘を差しかける姿のよさ、畳んだ傘の頭を持ち、一振り、二振りして水を払う仕草には色気がある。…〉

26.おとなの遠足

 大阪で地域計画関係の仕事をしているO君が福岡に帰省したというので、五月四日、共通の友人M君と三人、能古島へ出かけた。二人とも大学時代のクラスメートで、O君の実家は姪浜にある。建築設計の仕事をしているM君は山梨出身だが、ずっと筑紫野市に住んでいる。M君とはずいぶん前、宝満山に登ったことがあり、今回も彼は宝満登山を提案していたが、O君の希望にそって能古島行となった。能古島へは姪浜の渡船場から十分たらず、船を利用しての通勤、通学など、島と陸(福岡市域)相互の利便性は高い。不景気な時勢のせいか、安・近・短と三拍子そろった行楽地へ向う家族連れや若者で、フェリーはすぐに満杯となった。たいていの行楽客は島へ渡ると、北端の高台にあるアイランドパークへ送迎バスで直行するのだが、自然探索派の我々のコースは異なる。港の売店でアサリめし弁当(タケノコめしも入って七百円)とお茶を買い、周回道路を東へ向ってスタート。すぐに左手の郵便局を指してO君が、「(井上)陽水の〈心もよう〉のプロモーションビデオに使われていたよ」と教えてくれる。そういえば、「能古島の片想い」というのがあったなあ。海岸沿いのゆるい坂道を進んでいくと、背丈ほどの藪の切れ間から薄曇りの博多湾と福岡の市街地が見えた。「どんたくには雨が降る」ジンクスどおり?雨になるけはいがある。そのせいか、蜜柑やトベラの花の匂いも濃厚な気がする。能古島の夏みかんは甘くてみずみずしく、よく知られているが、海へ下る斜面の蜜柑畑は放置され、蔓がからまっていた。さらに進むと、崖下がキャンプ場となっている見晴らしのよい場所に、洒落たウッドデッキと四畳半ほどの広さの小屋があった。食っていければ、島にこのような小さな小屋を建てて住むのもいいなあ、と三人。キャンプ場に植えられたヤシの木の間から島では数少ない砂浜が見える。海水浴場になっているらしい。ただ、バンガローのような施設がものすごく高密度に建っていて興醒めである。八月、ここを会場にして国内最大級のラテンフェステイバルが行われているらしい。しかし、普段はひとけの無い浜に建つ施設の群れは異様でさえある。M君が、ぼそっと呟いた。「ハワイの収容所だな」、同感。このあたりから島の北側へ廻り込むのだが、雨がぱらつき始める。アイランドパーク直下の道をのぼって行くと、そのゲートの前に出た。ちょうど正午、一時間あまり歩いたことになる。防風生垣のすきまから見えるアイランドパークの花壇が、きわめて単調に思える。ゲート近くの明るい園地に行くと、広くて立派な休憩所があり、ここで昼食。アサリもタケノコも旬でなかなかの味だった。雨はしばらく上がりそうもない。園地の木立の向こうに、南側へ伸びる起伏が見える。白く煙っているためか、遠く感じる。三人とも、久しぶりの再会だからといって、ベラベラ喋りはしない。長くつきあっていると、自然とそうなる。午後は港まで二時間ほどの行程と思われる。タブやシイの林の中にある檀一雄の歌碑に寄る。西にひろがる海原と糸島半島が見える。晴れた日なら、波光きらめく、といった形容がピッタリだが、雨の半島はミルクの中に浮いているようだった。引き返して、周回路を南へ歩く。鬱蒼とした樹林の林床に、マムシグサが群生し、次第に、マダケが目立ちはじめた。樹林保全の立場からは、竹の侵入は実にやっかいであるが、やはり温暖化によるものだろう。タブの大木の周りに、すきまなくマダケが繁っているのを見たときは、唖然となった。3kmほど歩いたろうか、まもなく樹林を抜け、海岸線が見えた。O君が、能古島には学生時代に講義を受けた先生の設計した住宅が三戸ある、と教えてくれる。その先生は亡くなられたが、しばらく歩くとその一つである先生の自邸が見えた。博多湾を望むように建てられた家の庭にロープの長いブランコがあり、小学生の女の子が空へ飛び出すみたいに漕いでいるのがわかった。海岸沿いの道へ出ると、コナラの林と別荘らしき建物があった。以前、建築雑誌に掲載された写真家の別荘らしい。能古島を訪れ、島の自然や食材、住民、利便性などに惹かれてのことだろう。でも、なぜコナラの林なのだろうか、読者にはおわかりだろう。我々は渡船場の店に入り、生ビールとたこ焼きで乾杯した。姪浜港へ着き、O君の実家へ寄ることになった。埋立て・移転に伴って建てられた地元漁師たちの新居が建つエリアの奥に、昔の漁港が残っている。昭和三十年代、姪浜港には鯨や海豚が入ってきて捕獲したらしく、その海豚碑が建っていた。O君は最近、ものがたり観光行動学会設立に向けて、忙しい。これについては、また機会を見つけて書いてみたい。


 




25.相島

 年が巡って四月となりました。あいも変わらぬ拙文ですが、また一年よろしくお付き合いください。

 アメリカハナミズキの花が先週(六日の週)あたりから咲き始め、このごろは、春というより初夏の感がある。青く晴れわたった十二日の日曜、久しぶりに相島(あいのしま)へ行ってみた。福岡近郊では特に気に入っている島なので、出かけることも多く、本欄でも何度か紹介したことがある。二年前に宮地岳線が短縮され、終点となった西鉄新宮駅から浜へ出て、港まで歩く。新宮浜の砂は粒子がきめ細かく、掌に掬うと砂時計のように流れ落ちる。十分ほど歩いて新宮港へ着く。船溜りや突堤では、たくさんの太公望が糸を垂らしている。海は凪いでいたが、出航すると甲板に気持ちのいい風が流れはじめた。赤潮が発生しているのか、海面のところどころにピンク色の帯が漂っている。島に近づき、寄り集まった漁村集落の瓦屋根が見えてくる。(小学校以外の建物のほとんどが瓦屋根である。)渡船はフェリーではなく、島民以外の車が入らないので、いたって静かである。正午近くなので食堂に入ると、大きな舟盛が三つテーブルに置かれていた。どこかの家で、法事が執り行われるらしい。娘さん、そのお母さん、お祖母さんのように見える三人で食堂を切り盛りしているようだ。旬の魚の刺身も手ごろな値段で、サザエ飯といっしょに注文した(観光で訪ねる者にはありがたい食事処ではあるけれど、港近くの民宿や旅館にとってはどうなのだろうか)。江戸時代、鎖国政策をとる中で唯一国交を結んでいた朝鮮からの「朝鮮通信使」を接待し、文化交流の舞台となったのが、相島である。クロワッサンの形をした相島には5.4kmの周回道路がまわっている。いつものように時計と逆廻りに歩くことにする。漁協近くの自販機で飲物を買っていると、横の舟溜に漁を終えた船が入ってきた。まだ若い漁師が、船底の生簀から甲イカとタコを掬って海中の魚篭に移し始め、手際よく作業を終えると陸へあがった。若い後継者がいるのが、うれしく思えた。ゆるい坂を上って行くと、相島小学校だ。数年前から埋立造成をしていた校庭もだいぶ落ち着いたようで、周囲に植えた樹木が育っていた。休日の校庭に子供たちの姿は無く、島の人とも思えぬ中年男がゴルフの練習をしていて、場違いな印象を受けた。樹林の繁る傾斜地を削って作られた畑の一角に、カンナがはやばやと朱い花を咲かせている。すぐ近くに島の水瓶となっている貯水池があった(島内には、二箇所の貯水池がある)。周回道路から外れて、東に突き出た半島の方へ進むと、磯浜に出る。近年になって相島では真珠の養殖が始められ、この磯浜の近い海上に養殖の筏が組まれていた。そういえば、島へのアコヤ貝の持ちこみを厳しく禁じる立札が港のあたりに立っていたようだ。南の磯浜からはすぐに北側の長井浜に出ることができる。古墳時代の積石塚が一帯に広がり、平成十三年に国指定史跡となっているらしいが、曇った日に訪ねるとちょっと不気味である。あたりにはハマウドが群生していて、セロリに似た切ない匂いが漂っていた。周回道路に引き返したところで、大仰なカメラを抱えた男性グループとすれ違った。相島は渡り鳥の中継地や野鳥の宝庫らしく、この一行もバードウォッチングに来たのかも知れない。周回道路はここから西へ折れ、島の北側を歩くことになる。右手は断崖が連なっていて、樹林の切れ間から磯まで降りて行くことが出きるのだが、今回は見送ることにした。照葉樹に混じる落葉樹の新芽が、陽を浴びてきらきらと光っている。アケビに似た植物に薄い紫の花が咲いている。ムベだ。芳しい匂いにあたりを見ると、はたして青紫色の山藤が樹に絡んでいた。断崖に沿った道を歩いていると、向こうの路上に烏がいる。近づくと、さっと飛び立ったが、道の上に何か散乱している。よく見ると、カタツムリの殻である。フランス料理のエスカルゴは、僕は食べたことは無いが、よほど美味しいとみえて、すごい数の残骸だった。バードウォッチングのグループとすれ違ってから、誰にも会わない。ウグイスのさえずりを真似て西へ進むと、小さな火葬場のそばを通った。港に近づいたようだ。色の薄れた漁師小屋の辺りに、たくさんの猫たちが寛いでいる。栄養が行き届いているのか、毛並みがよく穏やかな表情をしている。帰りの船の時刻が気になりだし、裏路地に目をやりながら少し早足で歩く。若宮神社の鳥居のそばで、歳の違う四、五人の女の子たちが遊んでいるのが見えた。船に乗り、初夏の陽射しで火照った顔と腕を、海の風で冷ましながら、福岡空港のことを改めて考えてみたのだった。











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